小夜鳴鳥七

 


「そこにいたのですね、見つけましたよ。天童丸殿」
 佐為は、几帳の裏に回って童子を捕らえると、腕に抱き上げた。
「うわーい! たかーい! あはは」
 捕まえられて抱き上げられた童子はそう言ってはしゃぐと、佐為の首に抱きついて甘えた。
「ねぇ佐為、姉君と碁を打ってごらんよ。夕星の姉君はボクよりずっと上手だよ」
「そうですわ、佐為様に打って頂けばよろしいですわ。夕星様?」
 傍に居た女房もそう言った。
「わ、私などと!? 佐為様となど、私の腕前では恥ずかしくてとても・・・・」
「そうおっしゃらずに、さぁ、打ってご覧なさいまし。夕星姫様は碁がお上手です。佐為様と打って頂くのは願ってもない機会ではございませんか」
 また別の女房が言った。
「まぁ、何を言います、これ。私などでは佐為様に申し訳ありません」
「ねぇ佐為様、よろしいでしょう。姫様にもどうか碁を教えて差し上げてくださいませ。私達の誰一人、夕星様には勝てないのです」
「ああ、もうお止めなさい、そのように軽々しく! 佐為様、どうかお信じにならないでください」
 しかし、彼はそんな押し問答を聞いているのか、いないのか・・・・・・? 
「・・・・・・・いや」と小さく、呟いただけだった。
「何が『・・・いや』なの?佐為」
 童子は訝しげな顔をして訊ねた。
 当の本人の佐為は一向に周りの騒ぎを気にする様子もなく、ただ碁盤の上に並べられた打ち碁に視線を落としていたのだ。しばらくの間、彼の視線はただ盤上を彷徨っていた。
「そうですね・・・・。では、置石はすべてあなたの石に致しましょう。あるいは、さらにもう一子、いえもう二子置かれても構いません」
 信じられないことに、次の瞬間彼はそう言っていた。一旦、こうなった彼は、もう誰も留めようがない。彼自身にさえも。
「ああ、なんという・・・・」
 夕星姫は半ば観念したように囁いた。
 周りに押し切られたよう・・・・・に見えた。だが彼は女房の言葉など聞いてはいなかった。先ほど童子に教えた碁は遊びのような碁だった。彼はだから、今目の前にした盤面に見入っていた。その奥にあるものを確かめたかった。
「そ、それならば・・・・。ああ、でもどうか手加減くださいまし」
 姫は迷った。が、結局は事の流れに応じたのだった。打ち碁は一旦片づけられた。
 そんな風に打ち始めた碁だったので、初めは緊張して、姫は石を何処に置いてよいのやら、見当が付かなかった。普段よりもずいぶんとでたらめな布石になっしまった。
 だが一方、佐為は数手を打つと、盤面を見て考え込んだ。周りの女房達は心配気に見守っていた。姫君はいつもと少し違う。緊張しているのだ。それは侍女達にも伝わった。
 ところが佐為は、少し考えるともう布石は置かなかった。姫の石に迷わずつけた。そこからまた数手続けると、不思議なことが起こった。姫は迷わなくなった。女房達は安堵した。
 そして姫は碁を打ちながら、何かとても不思議な思いに駆られ始めた。
 こんなに碁が楽しいと思ったことはなかったのだ。どうしたことだろう? 
 自分はもちろん、年端のいかぬ弟よりは上手に違いなかったが、だが普通の家の姫君の嗜みの域を出るものだろうか? それすら知らなかった。
 ところがどうだろう。今まで打ったことのあるどんな碁よりも、この碁は楽しかった。そして、次に打つ手がどんどんと思い浮かんだ。まるで、舞を舞うような・・・・。いや、琴を奏でる時のような・・・? そんな心地がした。これを、心が躍る、というのだろうか。そう姫は思った。
 そして碁は半刻ほどで打ち終わった。姫君が僅かに勝っていた。数えれば、その差は六目ほどだった。最初に置いた夕星姫の置石の数と同じだった。だれもこのことに気づかなかったが、佐為は丁寧に礼を言った。
「突然、お邪魔してしまいましたのに、楽しいひと時をありがとうございました。
 あなたは素直な手を打たれますね。とても心地よい碁でした。やはり期待した通りの碁をお打ちになられた」
「なんだ、佐為ってやっぱり弱いんだね。夕星の姉君にも負けるなんて」
「ふふふ、夕星姫様はおっしゃる通り、天童丸殿よりずっとお強いようでした。そう、とてもお強いです」
「ふーん。で、どう。黒石と白石で会話が通じたの? ねぇ姉君?」
「会話とは何です?」
「さっき、佐為が教えてくれたんだ。碁は石でする会話なんだって」
「ああ、まさしく・・・。まさしくそのような碁でございました。佐為様は何もおっしゃらなかったけれど私の拙い手を汲み取られ、まるで打つ場所を教えていただいているかのようでしたもの」
「それは良かった。では、私の言葉を聞いてくださったのですね。私にはあなたの言葉も聞こえましたよ。天童丸殿、これが石で会話をするということなのです。しかしながら、貴女はまことに奥ゆかしいお方のようだ。ご覧なさい。この盤の上にも星があります。あなたもこの星の光のように輝いたお方なのに、いささかご謙遜が過ぎるかと・・・・・。きちんとした碁をお打ちになる。私には、最初に、それが分かりました。とても楽しかったです。ありがとうございました」
 佐為はにっこりと微笑み、優雅に礼を述べると、再び童子を胸に抱き上げ、姫君の前を辞した。
 姫君は、佐為が出て行った後も、しばし呆然としていた。彼が居たという証拠に、まだ彼の香りが其処には漂っていた。
「ああ・・・・・。なんて不思議な方なのでしょう? こんなに・・・・こんなに碁というものが、奥深いものだったとは・・・・・私は知りませんでした」
 この半刻余りの出来事があまりに姫の心に昂ぶりを与え続けたせいなのか、彼女はふらりとその場に倒れてしまった。侍女たちが慌てて、団扇で姫を扇いだ。  
「ああ、夕星様、よろしゅうございましたね。佐為様は姫様の美しさに見ほれてらっしゃったに違いありませんわ。だって、姫様に負けておしまいになられましたもの。うふふふ」
「まぁ、何を言っているのです。本当に分からなかったのですか? わざと負けてくださったのですよ。一目瞭然だったではありませんか」
「で、では、尚のこと、お優しい方かと・・・・」
「佐為様とご縁談が進むやもしれません」
「ああ、そのようなこと・・・・! もはや、私には叶わぬことだというのに・・・・」
 しかし姫は泣いていた。そして、これはある一つの不幸の始まりだった。
 なぜなら、その夜姫の許に一人の男が訪れた。男が来るのは初めてではなかった。だが、なぜか、巧みに手なずけたはずの女房がよそよそしい。 あんなに愛想が良かったはずなのに。今宵、姫は月の障りだという。仕方ないので独り帰っていった。
 女房は姫の許に戻ると言った。
「中納言様と姫様のこと、私だけしか知りません。他の侍女達には絶対に秘密に致しましょう。大丈夫、佐為様とのことには障りませんとも!」 
「ああ、そのようなこと軽々しく口に出してはいけません。父上・・・が、中納言様を差し置くとはとても思えぬのです。どうして、佐為様と逢う前に、あの方は私の処へ来てしまったのでしょう!」 
「佐為様は帝のご寵愛が深くてらっしゃいます。どうかご心配なさいますな。左大臣様とて、佐為の君のことはお迷いになられているのでは?」

 次の日、姫君の元に佐為から昨日のことへの侘びと礼がしたためられた文が届けられた。
 特に特別なことが書いてあるわけではなかったし、些細な内容ではあったが、彼らしい心配りが感じられた。そしてこの文を姫は宝物のように何度も読み返し、大事に胸にしまった。
 何日か過ぎた。が、待てど暮らせど、佐為が姫の許にそれ以上文を遣すことも、訪ねてくることもなかった。だが夕星姫は、佐為と打ったあの舞のような、音楽のような、あの碁が、あのひと時が、忘れられなかった。
 恋しい。ああ、人を恋しく思うという事はこういうことなのだろうか。
 姫はそれを初めて知った。それまでは憧れに過ぎなかった。だが、碁を打ったあの日を境に世界は変わってしまった。中納言の君が特に悪いわけではなかった。だが、夕星姫はあまりに深窓で育ちすぎた。無垢であるが故に、衝撃は大きかった。そして、ただ一つの道にあまりにも長けた風変わりな「彼」に、すっかり心が侵食されてしまった。姫は本当の恋を知ったのだった。本当の恋を知った後では、もはや他の男は受け入れ難かった。だから、あんなに切ないと思ったそれまでの日々よりも、今の方が何倍も何十倍も苦しかった。

「ああ、佐為の言ってたことって本当だったんだ」
 童子はふさぎこんだ夕星の傍に来ると、小さくつぶやいた。
「ごめんなさい、もうしないよ。ボク、あんなことしなきゃ良かった。夕星姫が可哀相・・・・」
 かの人の面影を抱いて、御帳台の中に臥せた姫には童子の声などもはや聞こえなかった。

 そんな姫の許へ、再び中納言の君が訪ねてきたのである。
 夕星姫の侍女は今度は、同じ理由で断る訳にもいかなかったし、きんすを掴まされては彼を姫君の閨に入れるより他なかった。
 「どうしたというのです? 貴女は私の夕べの星だというのに。私をお忘れですか? 何故そのように臥されておいでなのです。どうかお起きになって私を星明かりで照らしてください。あなたの星の光を奪ったのは何なのです。何か秘密がおありなのか!」 
 中納言の君は嫌がる姫君に無理やり迫った。すると姫の袿の下から、文がはらりと落ちた。男はそれを見逃さなかった。
 姫が取るよりも早く、文を掴むと、中身を読んでしまった。すっかり心を奪われていた姫君が変わってしまった原因を知ると、男の声は震えた。
 「あなたは・・・・、弟と? あの変わり者と?」
 中納言は今までついぞ、腹違いの弟のことを気に留めたことなどなかった。確かに、秀麗な容姿は人目を引いていたし、宮廷の女房達の人気を集めているのも知ってはいた。そして最近は、帝の寵愛が特別に篤いらしいという噂を耳にしたりはしていたが、しかし、自分は、あの碁にしかとりえのない、変わり者で父にも母にも嫌われていた弟のことなど気に留めてはいなかった。なにより自分ははるかに順風な出世を遂げていた。気にする必要などなかったのだ。
 今初めて、母が深く憎んでいた弟のことを意識した。ひとたび、意識するとそれはもう拭い去る方が困難になった。
 取るに足らないと思っていた変わり者に、女を寝取られたとあっては、自尊心はあまりに酷く傷ついた。自分の領域を土足で汚された。しかも、あのような低い身分の女の息子に。どうして怒りが治まるだろうか? 

 数日後に、運悪く宮廷で腹違いのあの弟の姿を見つけた。彼は呼び止めた。こんなことは縁の薄い兄弟の間で初めてのことである。
 そして詰め寄った。
「そなた、乞巧奠でそんなに私に負けたのが悔しかったのか?」
「なんのことでございましょう?」
「聞いたぞ。そなたは私が舞った時に、これ見よがしに居眠りをしていたというではないか」
「あ、あれは、・・・・申し訳ありません、兄上に失礼なことを致しました。しかし、決してわざとではございません!」 
「わざとでは無いだと? では、私の通う姫君に手を付けたのもわざとでは無いと言うのか?」
「な、何をおっしゃっているのか分かりません! このような場所にて、そのような言い掛かりはご遠慮願いたい!」 
 二人の押し問答は続いた。
 そして、さらに運悪く、この様子を盗み見ていた者が居たことに、二人とも気が付いては居なかった。


 数日後、佐為は再び左大臣邸を訪ねた。
「ねぇ佐為、どうしたの? なんだか、元気がないみたいだ」
「申し訳ありません。天童丸殿、訳あってもうここへは伺えないのです。今日は最後の囲碁指南です」
「そんなのやだよ、佐為。急に何言うんだ。ボク、そんなのやだからね」
 童子はいつものように、佐為のひざにちょこんと乗ると、ダダをこねた。
「ずっと・・・というわけではありません。何も、もう天童丸殿と逢えぬ訳ではないのです。そんなにダダをこねないで、さぁ、今日は碁の他にもたくさん遊びましょう、ね?」
 そう言って、童子をなんとかなだめすかすと、二人はこの前のように庭に出た。
 あんなにダダをこねた童子は、庭に出ると、すっかり元気になり、さっそく虫を追い回した。その様子を、佐為は切なげに見つめていた。
 しばらくすると、童子が佐為の元に戻ってきた。また手に何かを隠している。
「今度は何を捕まえました?」
「じゃん、ほら」
「これは・・・・?」
「ツクツクボウシだよ」
「ああ・・・・、これがツクツクボウシなのですね。そういえば、ついこの間までは「みーん、みーん」という声だったのが今日は、何時の間にやら「ツクツクボウシ」に変わっていますね。どうやら、秋がやってきたようです」
「ツクツクボウシは秋の声なの?」
「おや、素敵な表現をしますね。天童丸殿。その通り。この『ツクツクボウシ』という声が聞こえるともう秋だと、昔母が教えてくれました」
「佐為の母君が? あれ、そういえば佐為、逃げないね?」
「逃げたり・・・するものですか。私に・・・貸して御覧なさい」
 佐為は手を差し出した。
 童子は今までになく、彼が虫を見ても逃げないことに驚いたが、注意深く胴を持つと、そっとそれを彼に手渡した。
「いい、ここを持つんだよ」
「はい・・・・、こうで良いですか?」
 佐為は、慣れない手つきで虫の胴を掴み、眺めた。そして何か考え込んでいたようだったが、口を開いた。
「天童丸殿、この虫はね、本当はなんて鳴いているか知っていますか?」
「なんて鳴いている? だから『ツクツクボウシ、ツクツクボウシ』って鳴いているよ。違うの?」
「いえ、そうなのですが・・・。ただ、私にはね、また違う風にも聞こえるのですよ」
「違う風に?」
「ええ・・・・」
「それってどんな風に聞こえるの?」
「天童丸殿、・・・・あなたは筑紫という国を知っているでしょうか?」
「あ、『ツクシ』なら知ってる。こないだ習ったんだ。大宰府があるところだって」
「そうです。さすが天童丸殿ですね」
「そこがどうかしたの?」
「この虫はね、その筑紫が・・・・・、この京の都からはとても遠い遠い筑紫の国がね・・・・・。恋しい、恋しい・・・・と。そういう風に鳴いているのですよ。筑紫、恋し・・・と」
「ふう・・・・ん。そうなんだ。ツクシコイシ?・・・・・そういえば、そう鳴いているみたいにも聞こえるね。それは習わなかったよ、ボク。面白いね、佐為。それも、お母上が教えてくれたの、ねぇ佐為? それとも佐為が考えたの? ・・・・・あれ、どうしたの・・・・・・佐為?」
「・・・・いいえ、なんでもありません」
「うそだ、だってほら。佐為の目、涙で一杯だよ?」
 童子は彼の瞳を覗き込んだ。
「いえ、いいえ、天童丸殿・・・・。違うのです。違うのですよ」
 佐為は、かぶりを振るとまぶたを伏せ、まつげを震わせた。
 まるで、そう・・・・何かをかみ殺している・・・・・・? 
 あどけない瞳にもそれは映ってしまった。
「いいですか? 天童丸殿。時に、やるせない別れというものはどうしてもあるものなのです。あなたにはまだわからないでしょう。いえ、まだわからなくて良いことなのですよ・・・・・・」
 しかし、その言葉を聞くと、童子は突然泣き出した。
「・・・・う、うっ。え、ええん」 
「ああ泣かないで、天童丸殿。すみません。ごめんなさい、謝ります。私のせいですね。あなたに泣かれたら本当に辛い。ああどうしたらよいのでしょう。泣かないで、ほら、抱いていてあげます」
 彼は堪らなくなって、しゃくりあげる童子を強く抱きすくめた。そして、普段は元気いっぱいの背中をさすり、いつもは悪戯顔がよく似合う丸い幼い頬に、自らの頬を寄せると優しく囁いた。
「聞いてください。ずっと逢えなくなる訳ではないのです。私に逢いたかったら、今度は私の屋敷にいらっしゃい。でも父君にお許しを頂けたらです。いいですか、ね?」
 涼風は冷たく頬を掠めながら静かな庭園を通り抜けていった。そして蝉の鳴き声は童子の泣き声をかき消した。

 筑紫恋し、筑紫恋し・・・・・・筑紫恋し、筑紫・・・・・恋し・・・・・・筑紫が・・・・恋しい・・・・・ああ
 ・・・・・・・・・あなたが・・・恋しい・・・・・・・・・・・・・・・と。
 
 
 つづく

 

<後書き>
 掲示板にて雅景さんが詠んでくださった(筑紫を恋ふる)詩文の一節
 「響き渡る蝉時雨の中
   ふと見れば銀杏並木に ツクツクボウシ」
 からヒントを頂きました。ありがとうございました! 
 ツクツクボウシは、昔から、「筑紫恋し」と鳴いているとも云われ、またこの名で呼ばれてもいるのだそうです。(私は知りませんでした。)
 分かる方にはもうばれているかと思いますが、姫君の呼称「夕星(ゆうづつ)」は某書からそのまんま頂きました

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