いにしえの水盤
「へー。で、それが神通力を秘めた水盤ってやつ?」
光は物珍しげに、水の注がれた大きな杯を眺める。
「まて!、触れてはいけない」
明は光を制した。目元涼しげな美しい少年である。二人が居るのは明の住む屋敷だ。渡殿が廻らされた、そこは中庭のようなところだった。
しかし、この平安の都の貴族の屋敷の庭と呼べるものにはついぞ見ることのない、天にそびえるような高い高い樹・・・しかも相当な大木である・・・が一本生い茂っていて空からの光を遮っているせいか、薄暗い。普通、寝殿造りの庭にはこのような高い樹は植えない。というか、苗木を植えても、これだけの大木になるには、何百年も掛かるであろう。自然に生えていたその場所に屋敷を作ったのでなければ、在り得ない光景であった。
古来より、天文道と暦道に則り、朝廷の祭事をつかさどって来た賀茂家の屋敷は古く、何か言い知れぬ不気味な空気が漂っている。陰陽道のなせる業であろうか。
「近衛、キミは古より伝わる大和の国の神話を知っているか?」
「知るわけねーだろー。オレ、今の世の文籍(もんじゃく)だってままならねーんだぞ。昔のことなんか、知っててたまるか」
「威張って言うな・・・。仕方ない、では教えてやろう」
「ふん!オレだって剣ならおまえにいつでも教えてやるぜ。そのなまっちょろい腕じゃ無理かもしれねぇけどな」
「いいから黙って聞け!」
明とはすぐこうした喧嘩腰の会話になる。だが、不思議と後を引かない。お互い喧嘩とも思ってないのかもしれない。明にしてみれば、こうしてつっけんどんでづけづけした物言いができる同じ年ごろの少年と言えば、光くらいだったし、光は、光で、毎回どんなに喧嘩しても、別れてものの半刻も経たないうちに忘れてしまうのが常だった。不思議な組み合わせ・・・・とはこの二人についても、周りの者が感じるところである。
「これは、太古の昔、まだ、地上と天上の間に葦原之中津国と呼ばれる世界が存在したころの話だ。その世界で、天照髪女(あまてらすかみのおんな)と呼ばれた女主(おんなあるじ)がこの水盤を持っていた。天照髪水鏡(あまてらすかみのみずかがみ)だ。不思議なことに過去、現在、そして時にはこれから起こるであろうことまで映し出されることがある・・・。そして見ろ。これはその女主が持っていたという、指輪だ。金剛石の勾玉がついているだろう。この指輪には名が付けられていて『燃夜(ねんや)』というのだ」
「ふーーーん。変な名前。で、その天照髪女とやらはどうなったのさ」
「女主は、葦原之中津国での役割を終えた時に天上界に去っていってしまったんだ。この水盤と、指輪を下界に残してね。つまり、これは賀茂家に伝わる重宝だ」
「で、その指輪の方は何か秘密があるわけ?」
「ああ、この『燃夜』は嵌めると半径一里ほどの間に魔法帯をめぐらすことが出来る。悪の手勢から、身も、その思あ念も隠されるのだ」
「呪の影響を受けないで済むって訳か」
「そうだよ」
「こんな大事なことをキミに話したのは、何故だか分かってるだろうな」
「・・・・もしかして、また、佐為のこと・・か?」
「そうだよ」
「そういえば、この前おまえ言ってなかったか?『水盤を見た』って。それで『禍々しきことのしるし』・・?だかなんだかが見えたって」
「ああ、言った」
「この水鏡に何が映ったんだ!?」
「今はまだボクにもはっきり確信が持てない。水鏡が映し出すものは断片的で、過去、今、そして未来が、混沌と混じりあっている。それらをつなぎ合わすには時間と、・・そして少々の謎解きが必要だ」
光はごくりと唾を飲み込んだ。
また佐為に禍が降りかかるんだろうか。そんなことになったら、オレは、オレは・・・。
強くならなければ。今よりもずっと。こないだ、こいつに言われたことは、悔しいけど、当たっている。今のオレではダメだ。もっと強くならないと。あらゆる意味で・・・。
「一人じゃない」
「え?」
「キミは一人じゃないよ」
心が・・・・、見透かされたのだろうか。 陰陽師だから・・・?
「ボクがいる。ボクも佐為殿を守る。ボクがいるのを忘れるな、近衛。忘れたか、ボクらは一緒に戦ったはずだ」
「賀茂・・」
「いいか、水盤と指輪のことは絶対に口外するな。これは、賀茂家に伝わる秘宝中の秘宝。この平安京の陰陽師とあらば、古文書にしたためられたこの秘宝を皆喉から手が出るほど、欲しがっている。だが、目にした者はこの賀茂家の者とそしてキミ以外にはいない。いまだ、この神通力は隠され、行方知れずと信じられているのだ」
「わかった」
さすがの光も事の重さが飲み込めたらしく、身震いがした。
「賀茂」
「何だ?」
「おまえどうして、いつも佐為に味方してくれるんだ?」
味方してくれる・・・?何を言ってるんだ。キミは・・・。
光の言い方はまるで、佐為の身内か何かのようだ。
親族のような馴れ馴れしさで付き合っているので身内気取り・・・・か。こうした光の態度はいつも明の鼻につく。
なぜ、ボクはキミたちの側に居ない・・・・・・・んだ。
「ボクは、佐為殿のことはキミより先に知っていたし、行洋殿のご命令もあった。キミに不思議がられるのは心外だな。キミの方こそ、何時から佐為殿のお身内のような口をきくようになったのだ」
つい嫌味の篭った言い方になった。
「ああ、そっか。まあ、そうだけどな」
そう答えた光は明の気に一体何が障ったのか分からない。
明は一人、考えていた。
しかし・・・、ボクにもよく分からない・・・。佐為殿のことは確かに尊敬している。佐為殿は潔く、曲がったことが嫌いだ。ただ、純粋に碁の道を求めている以外には私欲とは無縁。我欲と修羅の魑魅魍魎がうようよする都では、だが、時にその純粋さが命取りになりかねない。だから、自分は行洋に命じられているのだ。「佐為を守れ」、と。
賀茂家へ入ったボクを待っていた、厳しい修行。肉親から離れた孤独な鍛錬。甘えは許されなかった。
そして、最年少にして、この地位を極めた。当代随一の陰陽師の名を。
ボクはあらゆる呪をこの歳にして使いこなす、天童と言われる。
師匠にして、養父である賀茂師は自分の持てる全てをボクに渡したと言い切った。
だから、ボクには見える。佐為殿とボクの不思議なえにし。おそらく、長久の未来世に繋がるえにしが。
・・・・そして、もうひとり繋がっている。キミだ。いや、おそらくキミの方にこそ強い因縁を感じる。キミとボクと、佐為殿の・・・・まだ謎に包まれた強いえにし。そして行洋の指令の真の意味。
一人考えをめぐらし沈黙している明にごうを煮やし、光は口を開いた。
「賀茂、で、その水鏡にさ、ちらっとでも映ったものって何なんだ。禍々しきことのしるしって、具体的にどんなものなんだよ」
「・・・碁盤が見えたんだ」
「碁盤!?盤面はどんな?」
「それが・・・盤の上に紅葉の葉が落ちていてよく見えないんだよ」
「紅葉?。まだ紅葉は早いよな」
「ああ、まだ今は初秋。都の紅葉はまだ早い。一月後、いや、一月半後か、あるいは、去年の紅葉なのか、来年の紅葉なのか、はたまた数年後の紅葉なのか。それは分からない。だが、水鏡が知らせるのは不吉の知らせだ」
「それは絶対当たるものなのか?」
「いや、そうとは限らない。水盤が見せるのは、可能性だ。防ぐことは出来る。絶対に」
光は明の気迫篭る眼差しに、またゴクリと唾を飲み込んだ。
「近衛、御神刀はいつでも貸してやるから、ここへは何時きても良いし、勝手に出入りしてもいい」
「ほんとに!?賀茂、ありがとう!!。感謝するよ」
光は真っ直ぐ明の目を見て、彼の手を握りしめた。
しかし、明は何故か、目をそらして、手を引っ込めてしまった。そしてこう言った。
「・・・・と、ところで、キミを呼んだのには、もうひとつあるんだ」
「何だ?」
「一局打とう」
「あ?」
光は気が抜けた。
「キミは佐為殿に相当、鍛えられているそうだね。今からボクと打たないか」
「ってことは賀茂も、碁やってるのか?」
とぼけた言い草である。
「ボクは、2歳の頃から碁を打っている。陰陽道に入らなければ碁打ちになっていたかもしれない。しかし、天文と暦を修めるこの道と、宇宙を表すといわれる碁盤には通じるものがる。ボクには碁の力も必要だ。常に精進してるよ」
「に、2歳ーーっ!!なんだよ、それ。じゃ、おまえもしかして滅茶苦茶強いんじゃ・・・・」
「いや、佐為殿に比べたら、ボクはただのひよっこだよ。その佐為殿に碁の指導を受けているキミはさぞ強かろう。ボクと手合わせ願いたい」
「わ、わかった。見てろよ!受けて立つぞ!」
光はこう言われては引き下がれない。佐為と毎日打って、自分が強くなってきているのは身を持って感じていたし、他ならぬ佐為も褒めてくれることがある。自分の力を試してもみたかった。
しかし、明の気迫に押される形で、有無を言わさずに盤の前に座らされた光はあっけなく明に負けてしまった。
「もう少し、ましかと思ったが・・。佐為どのはキミと打ってて楽しいのだろうか」
明は思いっきり、見下したようにそう言った。
「ふんっ!!!。すっげー、楽しそうだぜ!あいつ。いっつも『もう一局、もう一局!光〜っ!』ってうるさいのなんの。くそ、今に見てろ。おまえなんか、追い抜いてやるからな!」
光はそう吐き捨てると門を出て行った。
閉まっていた門は光が出て行くとき、一人でにぎいと音を立てて、開いた。光は真っ赤になって怒っていたので、そのことに気がつかなかったのだが・・・・。
光が去った、屋敷の庭で明は、しかし、こう呟いていた。
「・・・だが、キミの打ち筋には充分、魅せてもらったよ。さすが、藤原佐為の秘蔵っ子だな・・。もっと強くなれ、近衛光。ボクはここにいる」
つづく
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