みづら
「あの童子、名を何と言う?」
「どの童子でございますか?」
「あの一番端の方にいる愛くるしい子だ。みづらに結った髪がなんと艶やかな」
「ああ、あれは、関白殿が、美人で名を馳せた舞姫を召して、なしたお子にございますな。名はさて・・存じません」
「ほほう、まことに美しい子であるな」
白き上に透明な硝子の粉を振り掛けたような真珠の肌。黒曜石の愛らしい瞳。すっと通った鼻筋。桜花を思わせる唇。振り分た髪の艶やかなこと。月の上の天人もこのようには光を纏っていないであろう。
帝はしばし驚嘆し、眼に映った奇跡にそれ以上の言葉を失っていた。
傍にいた蔵人(くろうど)は、帝がいたく童に気を捕られているのを認めるとそっと囁く。
「あの童子は、聞くところによると、碁が非常に得意ということにございます」
「碁が?」
「はい、何でも並の大人は敵わぬと、聞き及びました。そういえば、先日などは、右大臣殿も年端の行かぬ童子に大差で負けたとコボサレておられました」
「関白の子なら、何故礼儀習いに伺候しておらぬ? あのような麗しき子、宮中で見かけたことがあるならば忘れはせぬはずだ」
「あの子は関白が子と言いましても妻君の中でも身分の低い女君の子でございますし、その母君はとうに亡くなっております。それで、童殿上によこさぬのでございましょう」
童殿上とは、上流貴族の男子の子弟が元服前に内裏に伺候し、宮中での作法を習う習慣のことである。関白の北の方や、他の主だった女君の子たちは皆、元服前にこうした参内を経験していたが、妻の中でも身分の低い女の子であり、母親の後見も無いこの童子には、こうした待遇は施されなかった。
「あのように見目麗しい上に囲碁の才長けた童子を・・。なんと惜しいこと」
「大君、噂によりますと、関白殿はあの子を疎んじておるのだとか・・」
「それはまた何故か?」
「さあ、理由はよくは解りませぬが。あの子の母君は関白殿の想いを一身に受けて、どうも他の女達、特に北の方には強い嫉妬を買ったという話でございます。都の陰陽師は呪詛を頼まれた者も居たとか。それで、病に罹り死んだと噂する者も居るほどでございます。その子を取り立ててはまた、面倒になりかねないと、案じているやもしれませぬな」
「ほう、それはなんと不憫に」
帝は暫く、感じ入っていたが、ようやく口を開いた。
「そなた、関白に伝えるがよい。娘姫は妃として、常しえに大事にしてやる故、あの童子・・を童殿上に寄越す様にと。余の傍仕えをさせたい」
公卿の中でも最も大きな力を持つと言われている父君は、この幼い美しい童子に滅多に会うこともなく、この子は母君の顔も知らなければ、父君の顔もほとんど見ることなく育っていた。童子は母君が生きていた頃はあてがわれた立派な屋敷に母君とともに暮らしていたが、その母君が病で亡くなると、父君の住むさらに広大な屋敷に引き取られた。
童子はその屋敷の中の一つの対屋に住まわされたが、父君は何故か、愛妻であったこの子の母君の死後は、まったく会おうとはせず、童子の住む対屋に足を運ぶことがなかった。
さらに父君の北の方からは覚えが大変に悪く、母君の面影濃いこの子は、同じ屋敷に共に暮らすことになった北の方の子女たちにも疎まれた。
広大な屋敷で、別の対屋に住まっていれば、フツウは顔を合わすことなど無い。しかし、北の方は女房達を引き連れて、幼い子を見物にやってきた。
なんと美しい子であることか。あの女もこのように白い顔、艶やかな黒髪をしていたのであろうか。
高貴な女であればるほど、外出の機会も少なく、滅多に夫の他の女を垣間見ることも無い。北の方はこの子の姿から、母親の美しさを連想して、憤懣やる方ない心の在り様を呈したのである。
もう死んだ女とはいえ、夫の心を長らく独占していた女。このように美しかったとあらば、到底自分から足が遠のくのも頷ける。
ああ悔しい。ああ憎らしい。
自らの苦悶を思い起こすと、矢も盾もたまらず、年端の行かぬ子に言い放った。
「お前など、卑しい淫売の子ではないか。何ゆえ、このような場所に居る。いい気におなりでない。身分をわきまえるがよかろう」
童子には訳がわからなかったが、自分がよく思われていない事だけは肌で感じてわかった。不幸なことに、父君はそんな童子の境遇を助けてやることが無かったのである。
こうした、いじめを不憫に思ったのは、一門の中の公卿の一人、藤原行洋であった。度々この子を訪れた行洋は、得意とする碁の手ほどきをしてやった。そして、関白邸での不遇をますます憐れに思い、遂には自分の屋敷に引き取っていったのである。行洋に手ほどきを受けた童子は天才的な碁の才能を見せたので、早くから都で有名な碁上手の法師をつけて勉強させた。そのうち、名人と称される大人と互角に対するようになっていた。しかし、それもこの子がほんの幼い日の話で、8歳を迎える頃にまた関白の元に戻された。子の才能に気が付いた関白は最もな理由を付け、自分の屋敷にまんまと「神童」を連れ戻すことに成功したのだ。
行洋は、藤原北家の家督をめぐって、関白と仲が悪いと噂する者が多かったが、事実は少し違っていた。噂とはかくもいい加減なものである。往々にして真実と異なる場合があまりに多い。
行洋は、家督に近い位置にいたのは確かだが、世間が思うほど、政権を手中に納めることには興味を持っていなかった。いや、もとい、行洋はもっとしたたかだったのだ。
彼は学者肌な男で、その博識と実直な人柄を持って、多方に面識が及んでいた。特に、朝廷の祭事を司る賀茂家とは別懇な間柄であったし、若い頃、修学院と叡山に学んだ彼は、漢文にも仏教にも深い造詣があった。都の名門寺院にも顔が通じている。
そのように多方に太いパイプを持つ行洋を関白は敵に回すのではなく、絶妙な距離を保って、時には利用していたのだ。いや、利用されているのは関白の方だったのかもしれない。敵に回すことを恐れた関白は時に行洋の意見に逆らえぬ事さえあったという。
やがて関白の娘で童子の異母姉に当たる姫君の入内が決定すると、関白の屋敷は喜びで沸きかえった。
その入内を祝う祝宴の席での出来事である。
帝は関白の子の中に愛らしい童子を見つける。これが何かと不幸な巡り合わせのこの童子であったのだ。
関白は帝の要請を受け、諸手を挙げて喜んだ。この世は自分を中心に回っている。そう思えた。行洋から奪い返しておいたのはまさしく先見の明である。姫が皇子を出産するまでは、安心できぬ。何より、まだ姫は幼い。親王を生んでくれるまでに何年か掛かるであろう。その間、帝の寵愛を自分の一門が子に繋ぎ止めて置くのは好策に他ならない。この申し出、断る理由など何処にあるというのだ。
上手くいけば、あの使い物にならぬと思っていた煩わしい子が良い手駒になるやもしれぬ。
童子は、立派な絹の直衣を着せられ、髪を綺麗に左右に振り分けて、耳のところで輪をつくり、残りの髪を肩に垂らした。男の童が元服前にする「みづら」という髪型である。そのみづらがこうも似合い、美しい様に、用意を整えた女房たちもうっとりと眺め入った。
「なんて愛らしい」
「本当にお美しゅうございますな」
「はぁ、そうでしょうか?」
「ええ、素敵でございますよ。さぁ、次は香を焚き染めましょう」
「えぇ、まだあるのですかぁ・・。皆様には申し訳ありませんが私は早く碁を打ちたいです・・・。何故に今日はこのようないつもより立派なイデタチをせねばならぬのでしょう?」
童子は心底がっかりした顔で女房たちに訴えた。
「えっと、では、香を焚きながら、一局お相手願ってよろしいでしょうか」
そう申し出た気の効いた女房は幼い君の身の回りを世話する女房たちの中で一番碁の腕が高い。それとて、勝つのは容易であったが、なかなか楽しい碁を打たせてくれる相手であった。
「ああ、それなら♪。さぁ、早く碁盤を持ってきてください」
「うふふふ。本当に風変わりでお可愛らしい」
童子は、藤原家の肉親からの冷たさとは反して、身の回りの世話をする女房たちからはいつも人気があり、優しくされていたが、これはこの子が纏う不思議な空気のせいだった。何はともあれ、両親の情薄く育ったこの子には救いであった。
童子は、こうして、入念な身仕立てを終えると、牛車に乗り、内裏に連れていかれたのだった。
そしてこの童子、元服前ではあったが、殿上童に上がるを以って「佐為」と名を改められた。普通は元服時に名を付けるものだが、帝直々のお召しにより殿上童に上がるのである。事情は特別だった。
「佐為様、よろしいですか?。まだお慣れではありませんでしょうが、これからはお名は佐為様です。どうかお忘れなきように。帝がそうお呼びになったら、お返事をなさるのですよ」
そう女房が笑った。しかし、彼は対局中に出発を余儀なくされ、打ちかけとなってしまった盤面が頭から離れなかったのである。
つづく
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