小夜鳴鳥九

 


          ()に吾が言葉の変はること有るべけんや       
 

        どうして、オレの言葉が変わることがあるだろうか
        今もオレの言葉は変わらない
        変わろうはずがない
        変わることなど有り得ない






 一体何年ぶりのことであったか。
 幾歳月を異国の山河に暮らし、遥かな時と空間を越えて旅したのか。
 再び、こうして巡り会う日が来ることは定めだったに違いない。

 あの少年の日の面影はもう消え失せてはいたけれど、確かに其処にある魂が、時を越えてオレを捉えた。
 おそらく、オレを見つけた瞬間、場所も時も何もかもが意識から抜け落ちたのだろう。
 あいつはオレに歩み寄ると、言葉も無いまま、ただ強くオレを抱きしめた。
 艶のある絹糸の髪の毛がオレの頬をくすぐる。
 香の薫りが鼻先を掠める。
 衣ずれの音と共にあいつの口から漏れた呻きとも、嘆息ともとれぬ息遣いが耳にさやかだ。
 どうやら、オレは本当に、おまえの元に帰ってきたようだな。
 
 さて、どうしたものか。
 この手持ち無沙汰の両手をどうしたらいい? 
 正直な気持ちに任せてもいいものだろうか。
 いや、そういう訳にもいくまい。
 周りを見てみろよ。おい、おまえ。皆が目を見開いてこちらを見ている。
 どうやら、この場を治めなければならなそうだ。やれやれ。

 そう思い、オレは口を開きかけた・・・・・・まさにその時。
 何か、ぞっとするような悪寒が走った。

 この身に突き刺さるような威圧感。
 あまりに張り詰めた空気に、雷に打たれたように体が痺れた。
 一体これは何だ? 

 オレは、静かに、周りを今一度見回してみた。
      いや、違う。ここに居る何人かの呆けた顔の人々ではない。
 なぜなら、この威圧感はまるで千の刃だ。
 いや、千の刃よりももっと強く、もっと熱く、もっと鋭い。
 そうだ。であるなら、間違いない。これは誰かの視線だ。
 しかもそこにあるのは燃えるような憎悪だった。

 そして、それは確かにオレに向けられていた。
 その時、はっきりとそれを悟った。
 オレは挙げかけた腕をあいつの背に回すことなく、小さく言った。
「離れろ。皆が訝しげに見ている」
 いまだ、驚き呆れた瞳を見開きながらオレを見つめるあいつを半ば冷淡と思えるほどに突き放し、オレは高御座(たかみくら)へ向かって拝礼したのだった。




 ざわついた空気は静まった。
 何事も無かったかのように、その場の人々が定められた席次に着いた。

 こうして、法師と佐為は長い時を経て再び、あいまみえることになった。
 他でもない、二人は帝の御前にて囲碁の対局に臨まんとする者たちだったのだ。
 一人は、帝の侍棋だった。
 そして、相対する一人は、この東の方の小国にとっては、遥か古代より英知の先達であり続けた唐土の者だった。法衣は彼が僧侶であることを意味していた。さらに、彼は宋の国の皇帝より、囲碁の専門官に任じられている者でもあった。


 対局が始まる前に、御簾の奥より声が響いた。
「宋国の棋待詔殿は、そなたの知り合いであったか、佐為?」 
 佐為は碁盤の横に座してからは落ち着きを取り戻しつつあった。
 突如現れたあまりに懐かしい人を目の前にして、尋ねたいこと、言いたいこと、確かめたいことは山のようにあったが、今この状況ではそれは叶わなかった。
 叶わぬなら、手談をすればいいこと。石がすべてを語るはず。まして、相手が彼であるなら、それは容易いはずだった。
 帝の問いに、佐為は心を静めながら答えた。
「はい、私の兄弟子にございます。宋へ帰られて以来、長い間お逢いすることはありませんでした。まさか、今日の日のこの対局のお相手だとは露ほども予想できず、あまりに驚き、取り乱してしまいましたこと、どうかお許しください」
「そういうことであったか。なるほど、行洋がこの対局を奏上した訳が今やっと分かった。心憎いこ
とをしたものではないか。のう、佐為」
「・・・行洋殿が?」 
 佐為は小さく呻いた。
 そう・・・だったのか。
 あの方が・・・。
 楊海殿が日本へ来られたのをどういうわけか知っておられた・・・。そして、私には直接におっしゃることなく、帝の御前対局を仕組まれた。なんということだ。ああ。

 対局を始めるべく、佐為は懐かしい兄弟子の方へ向き直った。
 兄・・・そう、兄のように慕っていた人だった。
 変わっていない・・・。
 私がこんなに驚き、取り乱してしまったというのに・・・。
 この人はまるで、数日ぶりで会ったくらいに平然としている。
 ああまさしく、いつもそういう人だった。
 何があっても冷静で、人を食ったような高笑い。
 だが・・・、そんなあなたにも、逢わなかった日々の長さを感じる。
 やはり、別れたあの頃よりも、あなたは歳をとったようだ・・・。
 目元。口元。そして纏う空気にそれを感じる。

 二人は、しばし互いに無言で見詰め合った。
 いまだ、言葉を交わすことは無かったが、互いの瞳が対峙する相手を確かに映していた。




「一体、どういうことです? 楊海殿」
 佐為は慣れた自分の屋敷の寝殿に腰を下ろすや、畳み掛けた。
 御前対局はとうに終わっていた。今、ようやく古き馴染みの彼らは、佐為の屋敷に場を移し、誰にも邪魔されずに二人だけになれたのだった。
「私は心の臓が止まるかと思うほど驚きました。あんなにも突然現れ・・・、さぁ、すべての顛末を話して頂かなければ、今日はお休みになれませんよ!」
 佐為はそう詰め寄った。
「おまえはオレを寝かせない気か? 話すことなどたくさん有り過ぎて、今夜一晩じゃとても足りんだろう」
「まぁ、そうですが・・・。なんでも良いです。時間が足りないのなら、思いつく端から、話そうではあ
りませんか、楊海殿。ああ一体、何年振りにお会いしたと思っているのですか? あなたはよくもそんな風にあの日々から何事もなかったかのように、平然と私の前にお座りになれますね!」
 どうにも落ち着かない様子で佐為は言った。
「いいから落ち着け。おまえは変わってないなぁ・・・」
「そうでしょうか?」 
「いや、よくわからんが、とりあえず、そういうところは変わってない。そうだ今日も、清涼殿でオレを見つけたとたん、おまえは大変だったものな・・・・はは」
「・・・楊海殿! 私がどれだけ驚いたと思うのです。あなたは何もかもご存知だったのでしょう。知らないのは私だけだった。酷いではありませんか!」
「行洋殿には大宰府から文を送ったんだ。帥殿からも知らせが行ったらしい。大宰帥殿は行洋殿の家司だったそうだな」
「・・・大宰府から?」 
「ああ、そうか以前来た時には、越前の国に漂着したのだったからな。あの時も命カラガラの航海だったが、なぜかオレの棋譜はオレと共に護られた」
「今度の航海は何事もなくご無事だったのでしょうか?」 
「ああ、今回は無事だったよ。今回はな・・・・」
「楊海殿・・・。私が今一番あなたにお訊ねしたいこと、それが何であるかお分かりでしょうね?」 
 佐為は酷く真剣な面持ちでこう問うた。
「ああ・・・、分かっている」
「では・・・謹んでお聴き致します」
「師は・・・、老師は・・・、唐土に帰る途上、身罷られた」
「そう・・・でしたか・・・・」
 佐為の瞳は衝撃・・・・というよりは、既に用意されていた深い哀しみの色に支配された。
「願わくは、もう一度、もう一度お会いしたかった・・・。どんなにか、今一度、老師様にお会いすることを夢見たか知れません。おそらく叶わぬことだとは知りながら、しかし・・・、既に何年も前にこの世をお去りになっていらしたとは・・・・」 
 やっとそれだけ言うと、彼はどのような言葉もその胸の寂寥感には値しないというように、黙した。手に握っていた扇だけが震えていた。
 だが、法師は彼が音もなく静かに泣いているのに気付いた。あの懐かしい日々に、彼はこういう泣き方をしたものだったろうか。
 無言で涙する彼を見て胸を痛める自分を感じながらも、一方で法師は彼の様子を冷静に観察していた。
 少し、頬が細くなった。背は別れた時もこのくらいあったろう。しかし、声も幾分落ち着いたし、それから、その髪。削ぐことを禁じられたその髪は長く美しく伸びたようだな。だが、なんといってもやはり、おまえのその顔かたち。昔も思ったものだった。どうして、こうもこいつは造形が整っているんだろうかと。
 まだ若い頃に別れた弟弟子はすっかり大人になっていた。法衣を着ていた頃も充分に美しいと思ったものだったが、それでも還俗し、絹の衣を纏った彼は、まさしく白皙の美青年だった。
 確かに今も変わらず美しい。あの少年の言った通りだ。いや、あの頃よりさらにおまえは美しい。
瑞々しい若さはいくらか影を潜めた。だが、あの人形のようだった顔の目元にも口元にも、そして白い額にも、歳月という鑿に刻まれ、練磨された美しさが加わったようだ。
 そのように考えを巡らすと、突如、昼間のあの背筋が凍るような鋭い視線を思い起こした。
 御帳の奥にあった、あの・・・!  
 ああ、なるほど・・・・。
 この美しさが、あの人を狂わせ続けているらしいな。昔、行洋殿から話に聞いた、あの人の。今日という日、オレは初めてあの人をこの目で拝し奉ったぞ。

 こんな風に法師が弟弟子を観察し、思いを巡らす間にも、佐為は静かに泣いていた。
 彼がこの前に泣いたのは何時だったろう? 左大臣家の童子の前で彼は零れそうになったそれを飲み込んだ。ではその前は何時泣いたろうか? 春の日の早朝、訪ねてきた陰陽師の少年の前でも彼は堪えていた。ではその前は一体何時泣いただろう? 
 それは、ある少年の前でだった。大層愛していた少年の前で、こうしてさめざめと涙を流した。考えてみれば一年も前のことだった。

 法師は知っていた。彼が自分の前ではてらいなく泣くことを。だから、驚くことは無かった。長い
月日が過ぎても、どうやら、それは変わらなかった。
 法師はこうして逢うことのなかった年月の幾ばくかを推し量り、目の前に在る彼の存在を新たに己の中に刻み付けたのだった。ようやく今は、静かに嗚咽する彼に心が戻っていくのを感じた。
 すると、昼の殿上ではぐっと堰き止めた想いが一気に流れ出した。法師は佐為の肩に手を掛け、そっと抱いた。そして彼の嘆きを受け止めた。自らの肩を彼に貸すと、こう言った。
「なぁ、佐為。おまえの中にオレは今日、師を見たよ。師に再会したんだ。感動したよ。これがどん
なことか分かるか。オレは危険を冒し、再びこの国の土を踏んで良かった。心の底からそう思った。
おまえと対局することで、オレは師と再び逢い、師の声を聞き、師の一手一手を見ることが出来た。どれほどオレが感動したかおまえにわかるだろうか?」 
 佐為は兄弟子の肩に埋めていた顔を上げ、法師の顔を見つめた。
「楊海殿、それはどうにも身に過ぎたるお言葉です。だがしかし、あなたと打つことで、私も今日歓
喜に震えました。師の一手を垣間見せてくださったのは、あなたの方です、楊海殿。それは既に石を通して互いに相通じたはず。私たちは今日のこの日の対局で、互いに師を讃え合った。そうではありませんでしたか」
「ああ、そうだな、おまえの言う通りだ。だが、オレはやはりおまえには勝てなかったがな」
 佐為は困ったように笑んだ。そして少しの間を置いて言った。
「お戻りになって嬉しいです」
 佐為は再び、兄弟子を抱きしめた。その時、法師の鼻先を佐為の髪がかすめた。良い匂いがした。そして、髪の間からふと垣間見えた白い耳に光る小さな石が目に入った。
「その石を、今も身に付けているのだな・・・・」
「・・・・は?」 
 佐為は思わぬ指摘に、耳を押さえると、我に返ったように訊ねた。
「楊海殿・・・・。この度は大宰府から来られたと言いましたね?」 
「ああ、そうだ。だが、以前にも大宰府へは行ったことがある。おまえと出逢う直前にも行った。懐かしかったよ」
「そう・・・でしたね。楊海殿から、かの地のお話を聞いたのを覚えています」
 こう言うと、なぜかいくらか思案気に俯いた佐為の顔を、法師は斜に眺めた。そして、彼もまたしばらく思案した。宙を見つめて何かを推し量るように黙っていた。が結局、彼は早々に切り出すことにした。
「文を預かってきたぞ。おまえの検非違使殿からさ」
「・・・!」
 佐為は法師の方を向き直った。
「面白い子だな、実に。そう、実に興味深いよ。知ってるだろう? オレは、興味のわかない人間に
は近づかない。でも彼はオレの好奇心を掻き立てるのには充分過ぎるくらいだったよ」
「光に・・・? 光に会ったのですか、楊海殿」
「ああ。そう呼ばれていると言っていたな」
「・・・あの・・・、あの子は・・・、光は、どんな様子で居たのでしょう」
「どんな様子? そうだな、まっすぐな瞳をして、いつもはっきりとものを言っていた。お勤めのことはよくわからんが、ひょんなことがきっかけで出会ってね。いろいろ話したぞ。若さゆえの未熟さは確かにあるが、随分と熱心に囲碁の勉強もしていたようだ」
「そう・・・ですか。熱心に碁の勉強を・・・・」
「オレとも何局も打った」
「ああ、では是非その話をお聞かせください。ただ他に・・・何か困っていたりはしませんでしたでしょうか・・・。 ・・・・あるいは、何か変わった様子をしてはいませんでしたでしょうか・・・」
「随分と気に掛けていたみたいだな。若いが、意外と神妙に話す子だとも感じた。時折天真爛漫な顔も覗かせていたがな」
「時折? ・・・・神妙に話す? ・・・・そんな。あの子は天真爛漫なのがいつもで、神妙に話すことの方が稀なはずです?」
「ほう・・・なるほどな。なら、オレの話はもういいだろう。まぁ、これを見てやるんだな」
 法師は懐から封書を取り出すと、佐為に手渡した。
「オレが文を渡してやろうか、と言ったんだ。そうしたら、随分苦労して、たっぷり一月以上も掛けて、これを書いたらしい。まったく面白い子だ。碁を打つ時は稀なる煌めきを感じさせるのに、その他の嗜みについては、そんな調子なのだから・・・。まぁそんな訳だから、まず見てやった方がいいだろう」
「文を? 光が・・・・」
 ああ、長らく待ち望んでいたものだった。と、佐為は思った。口に出すことはほとんど無かった。だが、ずっと思い続けていた。待ち続けていた。
 彼はゆっくりと、封書を広げた。すると中からは何枚か重なって折られた紙が現れた。一番上のものに何か書いてある。紛れも無い光の字だった。
 しかし、佐為は、その懐かしい筆跡を見て、目を見張った。以前のように、一字一字楷書で書かれていた。やはり決して上手いとは言いがたい字だった。しかし、何かが佐為の胸を驚愕で満たした。彼は瞳を見開いた。まるでそこに書かれた一字一字に捕らえられるかのように。
 佐為の瞳を繋ぎとめたまま驚きで満たしたものは何であったか? そこにはこのようにあったのだ。
  
    春去都已聞秋風   憂無吾独寂寞悲
    昔与君観下弦月   今徒観於博多地
      ・・・・・・・・
 予想に反して、まず目に入ったのはこんな句だった。
 佐為は、上手ではないけれどしかし丁寧に書かれた一字一字を読み下していった。   
     
    春に都を去りて(すで)に秋風を聞く
    吾無くして独り寂寞(せきばく)として悲しまんことを憂ふ
    昔君と下弦の月を観る
    今(いたづら)に博多の地に観る    
  
 文はこんな風に始まっていたのだ。
 意味はこうだった。

    『春に都を去って以来、もうたくさんの日々が過ぎ、此処で秋の訪れの声を聞いた。
     佐為、おまえは独りで元気にしているだろうか? 
     オレが共にいなくて、どうしているかと心配でならない。
     ところで此処博多の地にて、港に在ったとき、ちょうど去年の秋におまえと一緒に
     見たような下弦の月を見たんだ』

 さらに文はこう続いていた。

    『一年も経ってしまって酷く可笑しいけれど、
     オレはおまえがくれたあの月の歌に返歌を考えたよ。
     それもちゃんと歌の才に優れた人に就いてね、一月もかけて考えたんだ。
     でも、ちょうどそのころ、オレは楊海殿にも逢った。
     楊海殿から色々な事を教えてもらったんだ。凄く色々なことを。
     で、オレ、実は恥ずかしくなっちゃったんだ。
     何がって? うん、なんかオレが詠んだおまえへの返歌がさ。
     なんだか、すごい自分勝手で子供っぽくて、・・・おまえにこんな歌を贈るのは
     情けない気がした。
     ごめん、だからそれは破り捨てたんだ』

「なんですって!?」 
 ここまで読んで佐為は、突然声を上げた。
「な、なんだ?」 
 法師は訝しげな顔をした。
「い、いえ・・・・、なんでもないのです」
 しかし、佐為は心を静めてさらに続きを読み進んだ。

   『 それで、考えたんだ。また、ない頭をしぼってさ。
    オレが今一番おまえに伝えたいこと。そして、おまえに乞いたいことを。
    だから、同封するものをおまえに見て欲しいんだ。
    そして、この答えをオレに教えて欲しい』。。。。

 今目にしている一枚目の紙の下からは棋譜が現れた。
 そこには、きちんとした手順で、対局の記録が記されていた。
 脇息に凭れて、庭を見ていた法師だったが、佐為が棋譜を手にしているのに気が付くと、こう言った。
「あの子、オレに棋譜の記し方を盛んに訊ねてきたよ。それで、この対局譜を記す為の紙を彼に渡したんだ。この対局の相手はオレも知っている。
 高麗の若い商人なんだが、強い。とても強いので昔、他でもない、おまえの棋譜を見せてやったことがある。しかし、その相手にあの子は勝てなかったらしい」
 法師はそう補足した。
 そして佐為は、再び一枚目の続きに目を移した。
 すると、こう続いていた。    
    
     ・・・・・・・・
     豈可有吾言葉変   豈可有吾心事離
     庶正衿拝君之教   須勝吾師者君耳
      
 佐為はこれを低い声で朗詠した。
        
     ()()が言葉の変はること有るべけんや
     豈に吾が心事の離るること有るべけんや

     (こいねが)はくは(えり)を正し君の教へを拝せん
     (すべか)らく勝つべし吾が師は君のみ

  七言律詩     文の中には韻律がはめ込まれていたのだ。彼は言葉を失った。 
 
   『 どうしてオレの言葉が変わることがあるだろうか。
    どうしてオレの心がおまえの許を離れることがあるだろうか。
    オレの言葉は今も変わらない。
    オレの心はいつもおまえと共にある。
    けれど、やはりこの答えは・・・・。
    改めて居ずまいを正し、おまえに教えを乞いたい。
    訊きたい。教えて欲しい。
    どうしたらオレは勝てるのか。
    オレの師はおまえだけだ。』

 こうして、文は終わっていた。 
「光・・・、押韻と対句はいいとしても・・・・平仄(ひょうそく)はめちゃくちゃですよ・・・」
 全くどうでもいいことだけ、佐為はこのようにごく小さく声に出した。
 だが埋め込まれた詩句の方は、もう口に出すことは無かった。

     こいねがわくは    
     こいねがわくは、衿を正し君の教えを拝せん
     すべからく勝つべし 吾が師は、吾が師は・・・・君・・・のみ 

 声無き反芻は胸の内側にあった。
 それはあたかも闇夜の岸辺に打ち寄せる波のようだった。
 幾重にも幾重にも絶えることなく、深く魂の内奥に押し寄せるのだった。


        豈に吾が言葉の変はること有るべけんや    
  

     どうして、オレの言葉が変わることがあるだろうか
     今もオレの言葉は変わらない
     変わろうはずがない
     変わることなど有り得ない

     山と海が砕け、天と地が逆さになろうとも
     オレは変わらない

     たとえ明日太陽が燃え尽き、永遠に夜明けが訪れず、
     この世界が突然終わりを告げようとも

     あるいは世界は闇に包まれ、呼吸は止まり心の臓は砕け、
     この身が朽ち果てようとも

     たとえ、どんな恐ろしいことが起ころうとも
     オレが変わることなど決してありはしないだろう

     いつも、そして永遠に、
     オレはおまえと共にある
 
     遠く離れたこの地にあって、強く強くオレはおまえを求めている
     おまえに乞いたい  オレに教えて欲しい
     どうしたらオレは勝てるのか  強くなれるのか
     今こそ居ずまいを正し、おまえを師と仰ぎたい
     
  
      こひねがはくは衿を正し君の教へを拝せん
      
             吾が師は君のみ
     


 つづく

 

註:平仄(ひょうそく)とは、幽べる先生によりますと、漢詩において漢字を「高く平らな平声」と、「変化する音の仄声」の2種類に分け、平声と仄声をどこにもってくるか、などの決まりのことだそうです。

*作中の光の漢詩は、私の口語文を元に幽べる先生が作成してくださいました。作ってくださった漢詩を拝見したときに思わず涙が出そうになりました。心から感謝です。
 
ありがとうございました。

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