小夜鳴鳥十一

 

    何とぞ、何とぞ恩赦を賜りたいのでございます」
 佐為の声はその胸の内を表すように、聞くも切実な響きがした。
 決意の言上は  賭けの品   いや褒美に何が良いかと問われて答えたものだった。
しかし、佐為がこの嘆願に至るまでに長くかかったように、対する帝の答えもまた直ぐに返されることはなかった。
 帝は押し黙ってしまった。
 もとより、帝がどう答えるか明確な見通しがあるわけではなかった。
 しかし、あの場の光の狼藉を、他の誰でもない、帝本人が最も寛大な態度で遇していたはずだった。
 まさに陥れるべく罠を仕掛けた座間の大臣や顕忠。そして、体面を繕う為だけに自分を救った関白。あの場を動かした人物達の中で、帝が最も光に対して寛容だったはずなのだ。
 少なくとも佐為はそう信じていた。だが、その寛大さは自分に因を発したものだった。そんなことはむろん承知していた。

 しかし、彼は幸か不幸か、あの梅の園での帝と光の最初の対決のことを知らなかった。
 そして、さらにそれよりも以前に、宮中での自分と光の睦まじい様子を疎ましげに帝が眺めていたことも知らなかった。
 だから、あの観桜の宴の席において彼は、光の愚行への叱責と、成り代わっての謝罪のみに気を取られていたのだ。愛しい者が窮地に立たされた時、大方の人々がそうであるように、彼もまたその愛しき者しか見ていなかった。そうなのだ、彼は光しか見ていなかった。その為に帝が光に対してとった挑発など知るよしも無かったのだ。

 座間の大臣達は卑劣に違いなかった。が、光はあまりに愚かだった。あのような無礼を帝ご自身が不快に思われない訳はない、佐為とても確かにそう思っていた。それ故に、時が要ったのである。
 この半年以上の間、自分は常にこの瞬間を何処かに望んでいたのだ。だからこそ、天子の意に沿う努力を無意識の内に・・・・・・いや、或る時ははっきりと意識の内に、重ねてきたはずだった・・・。
 だが光が去ってから、帝もまた以前のようには自分を苦しめることが無かった。苦しめるどころか、孤立し後ろ盾の無い自分に対して、帝は慈父のように振る舞ったのだ。

 償いの為にはいくばくかの時が費やされ、そして償いには少なくともいつか終わりが来るものだと、佐為は考えていた。
 帝の沈黙はどれだけ続いたのであろうか。佐為にはよく分からなかった。だが沈黙は、続けば続くほど重さを増していった。
 償いに費やされる日々には終末が見えなかったのだ。見えないだけに、佐為にとっては途方もなく長く感じられるものだった。しかし帝にとってはどうであったか。それが果たして償いとして充分なものであったのか。これこそが彼にとっては真の賭けだった。賭けにもかかわらず臨んだ。
 何故なら、彼は今なんとしても光を都に連れ戻したかったからだ。 

 そしてしばらく経ってのち、ようやく帝が口を開いた。
「それがそなたの望みなのか?」
「はい」
「・・・・・」
 また沈黙が甦った。
 しかし、これは短い沈黙だった。
 かくして後、帝の声が響いた。
「ならぬ」
「・・・・は?」
 佐為は、思わず頭を上げた。
 何を言われたのかよく分からなかった。 
「ならぬ、と言ったのだ。聞こえなかったか」
 佐為は全身から血の気が引いていくのを覚えた。
「・・・・・・・そ、それは・・・」
「もう・・・下がるが良い」
「・・・・・・・お、お待ちください!」 
「良いからもう下がれ!」
 この言葉を聞いても、佐為はいまだ、自分がなんと言われたのか認識できなかった。ただただ返す言葉を失っていた。答えはあまりにも予想に反するものだった。いや言葉の意味ではない。このような声を聞いたことがなかった。
 まるで別人が発した声のように聞こえた。およそ彼の聞き覚えのある帝の声音とはまったく違っていた。声は静かだった。取り乱している訳でもなければ、天子の威厳を失っている訳でもなかった。静かに落ち着いた低い声のうちに、だが確かに今まで聞いたことのない音声が混じっていた。
 彼は狐につままれたように、ただ呆然と相対する天子を見つめていた。
 声にも聞き覚えがなければ、その顔にも見覚えがなかった。
 だが、さすがに瞳に映るものは彼にも覚醒を呼び起こした。
 怒りだった。紛れも無い怒りだった。そして、怒りと共にその瞳には苦しみの暗い淵が覗いていた。
 情熱的ではあっても、いつも穏やかな帝の、このような憤りに震える顔を見たのは初めてだった。
 しかし、それはあまりにも胸を驚愕で満たした。彼は一言も声を上げることが出来なければ、身動きを取ることもできなかった。まるで金縛りにあったようだった。あるいは体に重石を繋がれたようだった。

 そのような止まった時の中に在って、彼は嫌が上にも悟らざるを得なかった。 
 こともあろうか自分は天子を怒らせてしまったのだ。それは紛れもない事実だった。
       ああ! すべては終わった、失敗だ。      
 絶望が彼を包んだ。

 そしてもう一度、声が聞こえた。
「何をしている。早く下がれ!」 
 しかし、いまだショックのあまり佐為は動けなかった。
 帝は終には立ち上がっていた。そして直立して佐為を見下ろすその御身は震えていた。
「早く下がれ! そなたの顔をこれ以上見ていたくはない。早く・・・早く下がらぬか!」 
 それでも佐為は動けなかった。動けなかったのは、もはや嘆願が聞き入れられなかったことへの絶望からではなかった。目の前にある真実を受け止めることが出来なかったからだった。
 信じられなかったのだ。すべては嘘方便、茶番であると誰かに告げて欲しかった。そんな胸の叫びから彼は動けなかったのだ。動けば、それはこの場の真実を受け止めることになる。
「早く行け!」 
 もう一度声がした。
 と同時に頬に痛みが走った。何かが落ちて床に当たる音がした。
 なんということか。帝は自分がしてしまったことに酷くうろたえたように瞳の色を変えた。が、再び震える拳を握り締めると踵を返して行ってしまった。天子がこの場に居た証として残されたのは、天子自身が投げた扇だけだった。

 その場に独り残された佐為は何が起こったのか確認するように、痛みの走った頬にそっと手で触れてみた。そして、指についた血を眺めると愕然とした。床に手をつき深くうな垂れた。床に突いた掌を次には握り締めていた。その拳の震えは何時までも止まらなかった。


 これはしばらく続くことになる暗く陰鬱な日々の始まりだった。
 この日、佐為は魂の抜け殻のように呆然とした様子で屋敷に辿り着いた。なんとか寝殿の母屋に座すと酷い疲労を覚えた。
 食事は喉を通らず、胸のあたりは鉛のように重かった。
 家人が灯りを持ってきたが消すように言った。

 自分は何をこんなにも絶望し、落胆の淵に沈んでいるのか? 
 そんな問いが沸き起こった。
 だが分からなかった。考えは混乱するばかりだった。

 それよりも何をしに参内したのであったか? 
 そうだ、光の恩赦を願い出る為だった。
 酷く昔のことのように思われた。
  
 その証拠にいつも寝殿に置いて使っている碁盤の上には光が文に託して寄越した打ち碁を並べていた。
 途中から、置く石の場所を変えていた。何通りか考えたが、それが最も優れたものだと思い至った打ち方だった。
 そして、まさしくそんな自分の打つ碁を乞う光に想いを致した。
 自分を突き動かしたのは、他ならぬ遠く離れたこの少年への愛だった。
 だが、今はそれも霞んでよく見えない。
 近影でさえもはっきりしないのだ。
 
 ああ、すべては幻だったのか。
 何を見ていたのだろう・・・・? 

 彼は驚いたことに泣いていた。光が去った時にはこんな風に泣くことなど無かった。
 何故なら、これは葬送の涙だったからだ。そして決別の涙だった。失ったモノを悼む涙だった。
 もう二度と戻ってこないような気がした。自分が壊したのだ。薄い氷の上に憩っていたとも知らずに。
 そう悟ると悲しかった。
 喩えようも無く悲しかった。
 彼はこの夜、一晩中苦しみ続けた。
 失ったものを思うと、それほど悲しかった。

 だが、次の日には酷く頭痛がしたものの、平静な態度を取り戻した。
 そして、気力を振り絞り、陳謝の奏上文をしたため、遣いを内裏にやった。だが、これに対する返事も直ぐには返されることがなかった。それはさらに彼の懊悩を深めた。
 かつて、これほどまでに帝の返事を待ち望んだことがあっただろうか? 喪失の苦しみがいや増して彼を包んだ。
 やがて、幾日か過ぎ、宮中からの遣いがもたらしたのは、とどめの一撃だった。
 しばらくは、沙汰があるまで囲碁指南の為の参内はしなくとも良いとの伝言だった。

    ああ、すべては闇に包まれた!  私はどうしたらいい? 
 私の許にあの子が戻ることもなく、後見であった帝からも見放されたのだ。
 せめてここに、兄弟子が居てくれたら   
 佐為は心の中で叫んだ。
 彼は今や完全に孤独だった。
 
 そのような最中、師走を迎えたある夜、夢を見た。
 見たのは焔だった。燃え盛る火炎だった。
 一瞬息を飲んだ。
 焔に包まれる人影がこちらを振り向いたからだ。
「光!」
 焔に包まれているのがかの少年と認めると彼は喉の力を振り絞った。
 だが、声は空気に伝わることなく、喉の奥に捉えられた。声が出ないのだ。
 少年は縋るように自分を見つめて叫んだ。
「佐為!」
 火炎の中に、少年の声だけが響いた。
「早く!、こちらへおいで、光!」
 彼は声無き声を絞ると、手を差し伸べた。だが体も思うように動かなかった。
 何者かに押さえられるように、足に力が入らないのだ。
「光!」
 もう一度叫んだ。やっと声は空気に伝わった。
 そして、今一度手を差し伸べた。だが、あと一息のところで少年の指先に届かなかった。

 そこではたと目覚めた。
 目覚めるともう眠ることは出来なかった。 



 さらに陰鬱な数日を過ごしてから、彼は意を決した。何年も訪れることの無かったある邸に向かった。ここに来ることがあるならば、それは最後の時だと思っていた。他に何一つ取る術の無い時だと思っていた。なのに、来てしまった。
 車泊まりには宮中からと思しき車が何台か停められていた。
 嘘偽りなく、足が竦むような気がした。だが、眉間にしわを寄せ、唇をきゅっと結び、立ち向かった。

 ところが佐為は取次ぎを願い出てから、その人物が現れるまで、長い時を待たされた。やっと、その人物がやって来ると、彼は天子に対したのと同じようにひれ伏した。
「何の用だ?」
 いかにもいまいましいといった声が落とされた。
「申し訳ありません。突然お伺い致しまして、父上」
 佐為は挨拶を述べた。
 たわいも無く交わす会話の材料など、残念なことに、この二人の間には存在していなかった。
佐為は、初めから本題に入るよりほかなかった。
 そして、彼は訪問した目的を語り終えると、こう結んだ。
「今まで、ただの一度として、父上に何か願い出たことはありません。一生に一度の懇願とお聞き入れください。どうか、何とぞ・・・!」  
 佐為の懇願を一応は一通り聞くと関白は言った。
「そなたのその傷は痕が残ったのか?」
「・・・は?」
「その顔の傷だ」
 佐為はやっと問いの意味が分かった。
 もとより、まるで勝算など無かった。彼は悲痛な決心を抱えて立ち向かったのだ。
「・・・いえ、これは最近のものでございます。あの時のものは直ぐに跡形なく消えました」
「ふん、そうか。ではその傷も直ぐに消えるということか」
「・・・おそらく、そうではないかと思われます」
 すると、関白は立ち上がって佐為に近寄り、彼の顎に扇を当て上を向かせた。
「そなたのその顔に・・・、そなたの母親によく似たその顔に・・・、少しでも傷が付き、あの女と似なくなれば、それならば、その悲痛な望みに少しは手を貸しても良いと思った。私が強く言えば、帝は拒めない。よく分かっているではないか。だが、それが直ぐに治るものとは残念であったな、佐為。
 もっとも、そなたは私などよりよほど、帝の寵愛を受けているであろうに。しかも、帝のそなた狂いは本物だ。そなたが年端も行かぬ幼い頃からなのだから。覚えている者はわずかだろう。だが、私ははっきりと覚えている。私など通さずに直接願い出ればどうなのだ」
「既に・・・帝には願い出たのでございます。しかし、お答えは否でした。・・・・父上よりほかに頼るところが無いのです・・・。どうか・・・どうか!」 
「帝がそなたの頼みを聞かなかったとは・・・、これまた異なこと。ふん、そうか、ではあの検非違使の少年はそなたの念弟か何かか?」
「いえ・・・、弟子にございます」
「ふん、そのようなことはどうでも良い。さぁ、その傷痕が消えて、またあの女とそっくりな顔に戻る前に早くここから立ち去るがいい!」 
 佐為はしばらく黙って耐えていたが、こう言った。
「では・・・、この顔にもっと傷を付ければ、私の願いを聞き入れて頂けるのでしょうか?」
 しかし、関白はますます憤ってこう言った。
「そなたは何処まで愚かなのだ!? その顔に傷を付けるだと。そなたが? 馬鹿なことを申すな。そなたがその顔形にそっくりそのまま映し取ったそなたの母親の姿を傷つけることが出来るというのか。いや、そのようなことは私が許さぬ! いいから、早く立ち去れ。私など二度と頼るな。心優しい病床の叔父御の許へでも行ったらどうだ? さぁ早く帰るがいい」 
 佐為は最後の一撃を浴びると表情をもはや変えることなく、ただ、ただ、無言に頭を下げ、暇を告げた。

 
 しかし、帰りの車の中で関白の言葉が消しても消してもこだました。
    心優しい叔父御のところへ行ったらどうだ!?    
 ああ!  
 彼は牛車の中にうずくまった。


 さらに数日、暗く辛い日々が過ぎた。
 結局、彼は行洋の元を訪れていた。
 行洋は以前見舞ったときと同じように御帳台の中に臥していた。 近づくと、彼は寝息を立てて寝ていた。その顔色は蒼白で、決して良いとはいえなかった。 
 むろん、何か言おうと思って訪れたのではなかった。ただ、彼の顔を見たいと思ったのだった。
 改めて、佐為は思った。
 このような病床から楊海法師と自分の対局を仕組まれたのだ。聞けば、帝への奏上文は病床から口頭で言ったものを代筆させたのだと。
 ああ、この方に、頼みごとなど出来ようはずがない。
 父上にも、帝にも聞き入れられなかったことなのに、どうしてこの方を頼ることが出来よう? 病に臥して、このように苦しんでおられる方に、どうして、そのような心労を掛けることができようか? 

 そうして、病床の行洋のもとに佇んでいるうちに、佐為の脳裏に、また関白の声がこだました。
    帝がそなたの頼みを聞かなかったとは・・・あの少年はそなたの念弟か何かか?    

 この声はますます大きく頭の中に響いた。
 ああ!やはり。薄い氷の下の真実はやはりそういうことなのか。
 夢を見ていたのだ、夢を。心地良い夢を見ていたのだ!? 
 いや、嘘だ!あれがすべて偽りだったとは思えない。私には思えないのだ!  
 どうか、お答えください、君!  
 もし、父上が言ったことが貴方の真実だとしたら、・・・だとしたら、そして貴方が光をそのように思っておいでなら、永遠に光を召還なさることなど有り得ない。そういうことなのですか!? 
 何故だ。
 ああ、そうだ。薄い氷は割れてしまったからだ!
 私がまたしても父を失ったからだ!  
 考えてみれば、父上の元を訪れたのも、何もせずにじっとしているのが辛かったからだ。そうではなかったか!? 
 辛い。何が辛いのか? 
 光の召還に失敗したことだけではない。それだけでは・・・ない!  もうそんなことにはとうに気付いている。

 行洋はこうして苦悶に独り沈む佐為がしばらく傍に居ても、起きることがなかった。だが、却って佐為は安堵した。もしも彼が目覚めたら・・・そう思うと一握りの不安があった。もし、彼が少しでも元気な様子で起きたとしたら・・・。自分は何を言い出すか知れないと思った。佐為は今のうちに、辞すことにしよう。そう思ったのだ。
 しかし、その時、背後から声を掛けられた。
「気を付けられてください」
 振り返ると陰陽師の少年が立っていた。
「ああ、明殿でしたか」
「流行り病が蔓延しています。あまり出歩きにならない方がよろしいかと」
「そうですね・・・。その通りです。あなたこそ、御身を大切に」
 佐為はそう言って、言葉少なに行洋邸を辞した。
 
 流行り病!ああ、忌々しきは疫れいだ!  
 人々が死んでいく。病にかかれば、貴も賎も同じだ。
 急がねばならないのに!  
 何故だ!すべてが私をあざ笑うのか? 

 それから、明が佐為の屋敷を訪れたのは、ほんの二、三日後のことであった。
 もう夕刻であった。彼は何時にも増して難しい表情をしていた。
「佐為殿!」 
「どうされました、急に」
「大宰府政庁が火災で炎上、そして焼失しました!」 
「な・・・なんですって・・・・!?」
 佐為は叫んだ。
 大宰府政庁が炎上      !? 
 あれは、・・・あれは幾日前の夜だったか? 
 焔に包まれる光を見たのは・・・!  あれは何時の夜のことだったのだ!  
 佐為は心の中でそう叫んでいた。


 つづく

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