小夜鳴鳥十二
「火災・・・焼失・・・・? 大宰府政庁が・・・そんな」
佐為がやっと絞り出した声は掠れていた。
「今日、参内した折に聞いたのです。大内裏中、もうその話で持ちきりです」
対する明は淡々と応じた。
「明殿、その火災は何時起きたのですか?」
「火災は今月の初旬、深夜に起こったそうです。宿直していた方々の幾人かが災禍にみまわれたと・・・」
師走の初め・・・ああ、やはり! 夢に見たのもちょうどその頃。
佐為はそう思い至ると、どうしようもない胸騒ぎを覚えた。
「明殿・・・・。光は・・・、光は無事でしょうか?」
「さぁ、近衛の消息までは分かりません。政庁を護る検非違使や衛士達がその夜、どのように配されていたか・・・? ただ・・・・」
「ただ、何です?」
「その夜、宿直していた官人の方々の中には、大宰府に配せられている陰陽師殿がおられました。この火事にて亡くなられたと、確かに伝えられています」
「それは本当ですか! 他の官人の方々は?」
「詳細は後でお話します・・・。その前にまずあなたにお知らせしたいことがあるのです」
「明殿? それは何です」
「ご存知の通り、内裏も今まで度々、火災・焼失を繰り返しています。その為か、帝は酷く火災に敏感でおられる。今回の政庁の焼失も、殊の外深く嘆かれておいででした。非常に不吉であると仰せです」
「帝がお嘆きに・・・そう・・・ですか」
佐為は呟くように言った。
帝の話を、人から伝え聞く・・・。しかも稀にしか帝に目通りすることのない明から・・・。その違和感は佐為の旨の内側を不協和音を立ててついばんだ。しかし少しすると、はっとしたように顔を上げ、明に問うた。
「しかし、明殿・・・・。もしや、あなたが見た凶事のしるしの一つはこのことでは?」
「いかにも。焔は大宰府政庁を焼く火だったようです。
そして何故、それをボクが見たのか・・・。その訳も分かりました」
「その訳とは?」
「政庁の再建・復興に向けて、仮政庁を何処に置くか、またその他の方位を決める為に、ボクが大宰府に赴くようにとの宣旨を賜ったのです」
「明殿が・・・明殿が大宰府に!?」
「そうです。大宰府に配されている陰陽師が亡くなったことも、いかにも凶報と・・・。陰陽を司る者の不在を長くするのはますます不吉。臨時の任に陰陽寮からボクが行くことになりました」
「どうして、あなたが?」
「内の大臣の仕返しでしょう。大臣は普段からボクをよく思っていません。行洋殿が病床にあるのをいいことに、ボクを追い払おうという魂胆かと」
「そんな・・・・、それでは行洋殿は!?」
「命じられたのは、復興に当たっての臨時の任です。正式な大宰府赴任では無いとの言葉を帝より頂きました。それで少し気が軽くなりました。長く留守をするのは行洋殿を想うととても出来ません」
「・・・・そう・・・ですか」
「佐為殿、出発は三日後ですが、また参ります」
「三日後!? 光も急でしたが、あなたも随分と急ではありませんか」
「そうなのです。急な出発です。とにかく、ボクが行けば、近衛のことは分かるかと・・・。何か、近衛に渡すものは? もし何かあればお預かりします」
「光が無事であるなら、あなたは光に逢える・・・・・・ということ、ですね。分かりました。では、いつ、こちらにみえましょう?」
「そうですね、出発の前の日に、明後日の夕刻にまた参ります」
そう言うと、明は準備で忙しいからと言い、佐為の屋敷を辞した。
佐為は、呆然と明を見送った。
明はそれから出発までの二日間を慌しく過ごした。しかしその合間に、出発前に訪れるべきところをくまなく回ることを忘れなかった。佐為の屋敷の他に、行洋邸を始めとし、その他数軒を訪問して回ったが、その中には初めて訪れる家があった。明の訪問先には純粋な友人宅と呼べるような場所は少なかった。だが、そこはまさしく唯一の友人宅と言ってよかった。しかし、彼はそこで意外な事実を知ることになる。こんな宣旨が下らなければ、知ることも無かったであろうことだった。
そして、二日後の夕刻、約束通り、明は佐為の屋敷に現れた。
「よく来てくださいました。さぁ、こちらに」
佐為は明を夕餉の支度の整った母屋に案内した。
「恐れ入ります。ボクの為に」
「いいんです。あなたにしばらく会えぬのは残念です。そして心もとなくもあります」
「それより・・・佐為殿、ボクは酷く驚きました」
「何がです? また新たに何かあったのですか」
「いえ、そういうことでは・・・・」
「では何です?」
「ボクは昨日、初めて近衛の家に行きました。・・・といえばお分かりでしょうか」
明は視線を上げ、ちらと佐為の顔を窺った。
「光の家に?」
「ええ、彼の父君と母君に逢いに。あなた同様、彼に何か預かるものがあれば、と思い伺ったのです」
「そうでしたか。ではご両親は喜ばれたでしょう」
佐為は落ち着いた声で答えた。
「はい、喜んでくださいました。いえ、そんなことより・・・。驚きました」
「先ほどから驚いた、驚いたと・・・。どうか・・・しましたか?」
「いえ・・・それが。その、近衛の父君からは、あなたの話ばかりでしたので・・・」
明は視線を落としながら語った。
「私の話・・・ですか? ・・・それで何か驚くようなことでも?」
明は改めてしっかりと佐為の目を見ると語り出した。
「聞けば佐為殿・・・・。
あなたは彼の家に春以来・・・、いや、去年の暮れに彼が怪我をして以来・・・、事ある毎に付け届けをしておられるそうですね」
「・・・・・・・それは・・・いえ」
佐為は眉間に少し皺を寄せて口篭もった。
「彼が大宰府へ発ってからは、さらに気を回されている」
「光の父君は、そのようなことまであなたに話されたのですか?」
佐為はますます不快気に応じた。
明はむろん彼の表情の変化に気付いたが、話を止めなかった。いや、自分でも止められないというように却って力が入っていくのを感じた。
「ええ、伺いました。彼が発った後は、何度か直接出向かれていることも。父君に陳謝されたそうですね。しかも月々日々に品物を送られ・・・。そんなことまでされて、あなたに申し訳ない、恐れ多いと、酷く恐縮されていました。 」
「明殿、光が都を追放になったのは、元はといえば私のせいです。腕を怪我したのも私のせいなのです。大事な子息をあんな目に遭わせて、父君、母君に謝罪し、お慰めするのは道理かと思われます」
明の納まりきれない感情の波を押し返すように佐為はきっぱりと答えた。
「いえ、おっしゃる通り、ごもっともです。
ただ、そこまでなさってるとは今まで知りませんでしたので。
ボクは彼の家に行ったのさえ初めてでしたから・・・」
「そうですか・・・」
「そしてそれだけじゃない、あなたは・・・」
しかし明がそう言い掛けると、佐為は表情を豹変させた。そして凄みのある低い声で言った。
「何か ?」
加えて鋭い視線だった。まるで見えない壁が突如現れたように、それは明を威圧した。
「い、いえ・・・すみません。・・・これはやはりボクが何か言うべきようなことでは・・・」
明は拳を握り締め、言葉を飲み込んだ。佐為が張った障壁に退かざるを得なかったのだ。光の家で知り得た中でも最も驚愕した事実を、本当は口に出してしまいたかった。しかし、何の為に口に出すのだろう? 自分でもこの訳の分からなさに呆れた。さすがにそう思いとどまった。
「光の父君が何処まで話されたか分かりませんが、なぜあなたにそのように色々と・・・。光は確かに思慮も浅く口も軽かったが、父君は光と違ってきちんと分別のある方だとお見受けしていました・・・」
佐為の口調には光の父を咎めるような響きがあった。
ああ、辛うじて冷静な自分を取り戻し、良かった・・・。明はそう思った。しかし、光の父の為に口添えした。
「ボクが陰陽師だということをお忘れですか。父君はそれで気を許されたのではないかと。お体のせいで様々なことを思い悩んでおいでです。そのせいで、陰陽師のボクにいろいろ話され、何がしかの助言を欲されていたのではないかと、そのようにボクには感じられました。当然ご存知だと思いますが、佐為殿。近衛の父君は病に臥せっておられます」
「はい・・・・・、知っています」
「この秋から流行り病にかかられている。父君は遠慮されたので、御簾を挟んで離れたところからお話ししました」
「そう・・・ですか」
佐為は酷く鎮痛な表情をした。
「近衛が都を追放になり左遷されたせいで、父君は夜警や、盗賊の取締りなど、厳しい職務に回されていることもあなたはご存知だったはずだ」
「ええ・・・」
「ボクは全く知りませんでした。だが、あなたはご存知だった。
そのせいで、餓死者や疫病で死ぬ者の多い貧民街に足を踏み入れることも多かった・・・。
あなたなら、お察しでしょう?」
「そうです。その通りです、明殿。・・・・それで、おそらく流行り病に・・・。光の父君にまで、心労と災いを。すべての発端は私です」
「この流行り病は進むと血を吐き、また出血するといいますね。体の臓物が破れるせいだと。胸が破れれば吐血し、腹が破れれば出血する・・・。法師や陰陽師が祈祷に駆り出されています」
「明殿・・・、すみませんが・・・」
佐為は口元を手で抑え、堪らないといった表情をした。
「関白殿のところへ行かれたのはそのせいですか?」
「・・・・・・!? 何故あなたがそれを?」
「いえ、偶然耳にしただけなのです。・・・先日、中納言殿と宮中でお会いした折に。特に詳しい話を伺った訳ではありません。ただ、何年も訪れたことの無いあなたが里邸を訪問した理由を何かご存知ないかと、そのように・・・。ボクは何も知りませんとお答えしました。もっとも、中納言殿は左大臣家の姫君のことではないかと勘ぐっておいででしたが・・・」
「そう・・ですか」
「だが、ボクはそのような理由とは思えませんでしたので、何故だろうと・・・」
「穿さくが過ぎるのは、陰陽師なるが故ですか? 明殿」
「今度は・・・ボクに矛先を? ・・・いえ、すみません。あなたのおっしゃる通りです。失礼が過ぎました。もう穿さくはしません。だが、これだけ訊ねるのをお許しください。あなたは、病に罹った近衛の父君のことを思うと、一刻も早く、彼を都に連れ戻したいと・・・そう思われているのでは・・・?、佐為殿。それで里邸をご訪問されたのでは・・・?」
「どうして、そのように執拗に私に問うのです?」
「・・・ボクは、正直あなたの真意がわからなかった。だからです」
「私の真意?」
「そうです。あなたは近衛が去って酷く悲しみ、苦しまれると思っていた。確かに時に、あなたの憔悴なさった顔も垣間見ました。だが・・・、あなたはそれでも、近衛の居ないこの都で、それなりに心地よく暮らされているようにもボクの目には映ったからです。哀しみは何処で癒されておいでです? 何処か女性のところですか? それとも有力な方を後ろ盾につけることで物理的にも精神的にも安寧を手に入れられたのですか?」
「 明殿!」
咎めるように佐為が明の言葉をさえぎった。しかし、明は続けた。
「 時に近衛のことなどもう忘れておいでなのかと思うこともありました。帝と睦まじく談笑されるあなたを見て、幾度もそう思いました」
「なっ・・・」
「聞いてください!
しかし、そうではなかった。
やはり、あなたは近衛のことを考えていた。ボクが思っていた以上に。違いますか?
昨日、近衛の家で耳にした話と、中納言殿の言葉が結びついたのです。
そして、もしそうであるなら・・・、ボクがあなたに抱いていた疑心暗鬼の幾分は晴れることになる・・・」
佐為は黙って聞いていたが、一たび瞼を深く閉じると、しばらく想いを巡らしているようだった。そして、再び瞳を見開き、視線を明に向けた。
「・・・・・あなたには敵いませんね。
あなたが言われた通り、光の父君のことはもちろんあります。それはむろん。だが・・・・・・明殿、それだけではない。決してそれだけでは・・・。
私は、あの子が都を発つことになったあの日から、上洛の禁が解け、召還が叶うことを、一日たりとも祈らなかった日はありません。
父君の病のことは後になって起こったこと。
ただ、心配であることは事実です。薬師も遣りました。ひたすらご回復を祈るのみです」
薬師など疫れいの前には何の役にも立たない。そんなことなど、彼も分かっているだろう。だが、何かせずにはいられないのだ、きっと・・・・。明はそう思った。そしてこう言った。
「分かりました。これである程度は得心しました。もう結構です。だが・・・、大宰府に向かう前に、どうしてもまだ一つ不可解なことがあります」
「・・・まだ、何かおありか?」
「あなたは、最近参内されておられない。そうではありませんか。何かおありになったのでしょうか?」
「いえ、・・・・大したことでは・・・」
「だが、帝への囲碁指南はどうされたのです。新嘗祭が過ぎた頃から、あなたの姿を宮中でまったく見ていません。そして、もうすぐ新年です。一月以上もの間、参内しておられない。それも気になっていたのです。先日行洋殿の屋敷でも酷く憔悴された顔をなさっていた。何かあった、そうではないのですか!?」
「明殿!」
「何があったのです?」
「何もありません」
「嘘だ! そんなはずがあるものか!」
「黙りなさい! 何でもないと言っている! もう穿さくはしないとそうおっしゃったではありませんか? まさかあなたが光に余計なことを言うとは思いませんが、くれぐれも軽はずみなことを口になさらなぬよう、お願いしたい」
「・・・分かりました。あなたがそう言われるなら、もう何も訊きますまい。
では、近衛に何か渡すものをお預かりしましょう。ボクに出来るのはそれくらいということです。それを頂いたら、もう失礼します。明日ボクは早く発ちます。そうすればしばらくお別れです」
明は何処かぶっきらぼうな調子で言った。
「明殿、ですが、すみません。せっかく出向いてくださったのに、光に渡すものはありません」
「は? 何をおっしゃるのです。ボクは近衛の居るところに行くのですよ!」
「分かっています」
「では何故!?」
「すみません、せっかくそのために、あなたは此処に来てくださったのに・・・」
「だが、あなたは良くても、近衛は・・・・!」
「確かに・・・・。光は私からの返事を待っているでしょう。そうに違いない。では、これだけお伝え願いたい」
「はい」
「光の文へは、光が都に戻ってきてから、直接答えると。そのようにだけお伝えください」
「いつ、都に戻るとも知れない近衛にそう伝えるのですか?」
「はい」
「一体どういうおつもりですか、佐為殿!」
「言葉の通りです。光への返事は文ではなく、直接逢って答える、そういうことです」
「そこまでおっしゃるなら、分かりました。では近衛に逢えたらそう伝えます」
「ご無事を祈ります」
佐為は落ち着き払った声で言った。
しかし、明は湧きあがる胸の高ぶりを抑えることが出来なかった。
なんだ!あなたのその自信は!?
分からない? 何を考えている、佐為殿。そして一体何があったのです?
ボクが知りうる限り、佐為殿と帝はかつて無いほど、良好な間柄だったはずだ・・・。
それなのに・・・・。しばらく参内もしておられない。
そしてああ、そうだ! ボクは知らなかった。
あなたが近衛の家に物を届けさせたり、様子に気を配っていたことなど知らなかった。
近衛の父君の立場まで脅かされていることも、病に臥していることも知らなかった!
近衛は、佐為殿に関わったせいで、あんなことになったんだ。普通なら、父君は佐為殿を恨むところだろう。しかし、近衛の父君は佐為殿を菩薩のように崇めていた・・・・!
ボクは、そんなことは何も知らなかった! 何も!
だが、大宰府に行くのはボクだ。あなたじゃない。
行洋殿に必要なのは陰陽師のボクで、碁打ちのあなたじゃない。
あなたがいかに都で振舞おうと、あなたの手は肝心の処へは何処へも届かないんだ!
あなたはボクに文を委ねることが悔しいのですか!?
降って湧いたものだが、今度ばかりはボクの勝ちだ。思い知るがいい!
そして最後に明は言った。
「佐為殿、行洋殿を頼みます。頻繁にお見舞いに行かれてください。だが、あなたは行洋殿の発作を抑えることは出来ない。だから、ボクは、少しでも早く都に戻りたい。
しかし、大宰府へ行くようにとの宣旨が下されたのは皮肉なことにボクです。あなたではなく」
佐為は明の言葉を聞くと、瞳の色を変えた。
「何が・・・言いたいのです」
「何も。ただボクの置かれた状況を述べたまでです。では、しばしのお別れです。佐為殿」
こう言い残すと明は佐為の屋敷を後にした。
佐為は明の後姿を見送りながら、心の中で呼びかけた。
私が、手をこまねいて見ているだけで、何もできないと、明殿?
そのように言いたいのか、あなたは?
行洋殿にも、そして光にも!
ああ、いいでしょう。
あなたは確かに才豊かだ。私とてそれは認める。
だが、あなたは知らない。
慈しみに溢れた眼差しが注がれる愛くるしい笑みを、私が憎んだことなど。
いや、そんなことなどもうどうでもいい。若い頃の苦い想いに過ぎない。
こうして尖った言葉を交わしながらも、あなたのその直向さ、誠実さを、それでも私はこんなにも好ましく思っている。挑発的な瞳さえも頼もしい。
あなたは、確かに光の良き友となるに違いない。光にもあなたのような才煌めき、実のある友が必要だ。そうです。麻の畑に育つ蓬が真っ直ぐに伸びるように、光にはあなたが必要だ。私にはよく分かっている。
だが、其処までです。それ以上の場所はあなたに譲らない!決して。
そして、再び佐為は文机に向かった。今一度帝への御文をしたためるためだった。
小夜鳴鳥 終 。。
つづく
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