蘭香一
空から灰色の帳が降りる。冬の日は短い。
帝は、暮れ行く薄墨色の庭園を憂鬱そうに見やると、人払いをした。
誰も居なくなると、一通の文を手に取った。その文を手に取ったまま、しばらくはただ黙ってそれを見つめていた。
どれくらいそんな風に文を見つめていたのか、既に暮れかけていた戸外はいっそう明るさを失いつつあった。観念したように、彼は一つ深く嘆息すると、ゆっくりと文を広げた。ごく淡い藤色がかった紙からは栴檀の香りが漂った。
・・・・これこそ!
香がただそこはかとなく辺りに漂うのみでは飽き足らない、というように帝は、淡い藤色の紙を鼻先に引き寄せ、その芳香に深く浸った。
以前にも文が来た。内容は、ひたすら陳謝の意を奏上し、許しを乞うものだった。だが、それに対する直接の返事はしていなかった。
文に途中まで目を通した。今回の文にも謝罪の意がしたためられているのは同じだった。
しかし、今はただ、一月ぶりに触れたその芳香のかぐわしさが、ほとんど痛みとも似た痺れを誘った。 痺れは眩暈に変わった。そして、眩暈は動悸を呼び起こした。
しかし帝は気が遠くなりながらも最後の数行に目を通した。ここで彼は初めて香りにではなく、文にしたためられた言葉にはっとした。
『かくも憂きこととは知らざりしかな
心ならずもわりなう隔てさせ給ふことのわびしさよ』
どうか耳をお傾けください。
私は辛いのです。
愚かな私に対してお怒りであられるのは当然のことでございます。
しかしながら、何故こうまでも私を遠ざけていらっしゃるのでしょう。
君とのこのような隔たりは私にとって、不本意な事に他ならないのです。
まして、この辛さがこうも深いものだとは今まで露も知らずに居りました。
『君が顔をえ見奉らざらん、あたかもこよなう永き冬の夜を経るも、
また春の曙の来たるこそなからめと告げられたるがごとし 』
さらに、私は知らなかったのです。
御かんばせを拝せぬことがこれほど悲しいことだということを。
それはまるで長い長い冬の夜を過ごし、もう二度と夜明けが来ぬと告げられたように、
辛く、重苦しく、私の身と心を苛むのです。
どうか、今一度お心をお開きください。
どんなに天高く日が昇ろうと、お赦しを頂戴できぬ私の心にだけは
永遠に暁が訪れることが無いのです。
そのように思い悩み、私は更け行く夜を泣き明かしているのです。
いまだ何のご沙汰も頂戴できぬのは、私を赦しては頂けないというお心の表れなのでしょうか。
このように辛い日々、そして酷い仕打ちに私はもはや耐えることが出来ません。
願わくは、どうか今一度、夜明けをお告げください。
そう文には綴られていた。
なんだ!? この文は 。
そなたは、・・・・そなたは、余をなじるか!?
あ・・・・あ! 胸が苦しい。動悸がする。誰か助けを!
日が差さぬのは、余の許にこそだ!
とうに知っているであろう?
余にとっての暁こそ、そなただからだ・・・!
このように感情的な言葉をそなたから聞いたことがあったであろうか!?
苦しい! 誰か助けてくれ!
このような言葉を・・・よくも! 他の者なら・・・・他の者なら、ああ、どうしてくれよう!?
帝はそのように胸の内に叫んだ。
彼は文机の前に座していた。
一旦は筆を取ったが、迷った末に取ったはずの筆を硯の上に下ろした。そしてしばらくするとまた筆を取った。だが、また下ろしてしまう。そんなことを既に何度も繰り返した。
時を見計らった桜内侍は、御簾の外よりどうにも堪らないといった様子で問うた。
「またしても筆を、置いてしまわれるのでございましょうか? いよいよ、お返事をされるお気持ちになられたと思いましたのに・・・?」
やっと佐為の君にお返事なさる気になったのか・・・、内侍はそう思ったのだ。なのに筆を置いてしまった帝の様子に、彼女は内心業を煮やしていた。そして堪らずこのように問うた。しかし、そんな内侍をたしなめるでもなく帝は黙していた。
内侍が終始こんな様子の帝に、苛立ちを感じるのは無理からぬことであった。帝の煮えきらない態度は、この時に始まったものではなかったからだ。
事は一月前にさかのぼるのである。
新嘗祭も終わり、師走の近づいた頃のことだった。
後涼殿の女房達の局ではこんな囁きが聞かれた。
「あら、また栴檀を合わせておいでですか?」
「そうなのです。桜宰相様が、栴檀を多めに合わせるようにと」
「帝はいつも麝香を多く合わせた薫物をお好みでらしたのに・・・」
「そうなのです。でも、なかなかお好みにぴったりと合うものが作れません。それで、また配合を変えるようにと・・・」
「まぁ、大変でらっしゃること。それにしても帝はどういう風の吹き回しでらっしゃるのでしょう・・?」
「あら、ご存知ありませんの?」
「何をです?」
「ほら、栴檀の香りといえば、あの方です」
「ああ、・・・あの方の。どうりで」
「そういえば、最近お見えになりませんね」
「お体の具合でも悪くされているのでしょうか?」
「具合を悪くされているのは帝の方ではありませんか。今日も臥せっておいでだとか。お体の加減が良くないので、囲碁指南を休まれておいでなのではないのでしょうか?」
「理由は何にせよ、あの方のお姿が眺められないのは、残念ですこと」
この頃、確かに帝は昼だというのに、御寝所に臥していた。
御帳の外から内侍のさくらのは言った。
「おかわいそうに・・・。そのようにお心を痛められて・・・」
「よい・・・。それより、もっと香を強く」
帳の奥からは、沈んだ声がした。
「そのように香を焚かれてあの方をお想いになるのなら、何故お返事をなさいませんのか?」
「もう、よいのだ」
「何がよろしいのです?」
もう、終わりだ。どんな言葉を返してももう遅い。すべては闇の中だ。
こうなることを何処かで分かっていた。分かっていたのに、ああ!
束の間でもそなたの近くに在りたかった。
そなたの呆然とした顔が瞼に浮かんでは余を責める。
もはや、余の心に日が差すことは無い、無いのだ!
「今はまだお分かりにならないのです。お心を痛められておられる故に・・・」
何が分からぬと・・・!
何が分からぬというのだ! もう終わりだ。破綻だ。限界だ!
所詮は偽りだった。
そなたの心を得たいという一心から出た偽り!
あの女! そうだ、一年も夜離れていたという哀れな前の式部丞の女! あの女にさえ、あんなにも憎しみを覚えた。それなのに、ああそれなのに、あの少年のこととなると、あの女の何倍も憎い!
一体今、余はそなたに何と返せばよい!?
そなたに逢ったら、何と言えばよい?
分からぬ! あんな失態を演じた後で何と返せば・・・。
そなたに黒いはらわたをさらけ出し、そなたに怒りをぶつけ、打ちのめしてしまった。そんな後で、どう取り繕えばよいというのだ。
今、そなたに逢えば、余はもっと醜い姿をさらすであろう。そんな姿をそなたの前にさらすことはとても出来ない! だから、今はとてもそなたには逢えぬ。
内侍は、しばらく帝を気遣って沈黙していたが、再び時を見計らって、言わねばならぬことを伝えた。
「東宮妃として入内された姫が淑景舎にお入りになりました」
「淑景舎・・?」
「まぁ、お忘れですか。帝がたってのお望みで東宮様の妃にと、ご希望された左大臣家の姫でございます。淑景舎の君とも、夕星の女御とも、呼ばれておいでです」
左大臣家の姫・・?
ああ、そうだった。・・・そうだ、そういえば、そんな女も居た!
すべてが・・・、すべてが憎い! ああ、苦しくて何かせずにはいられない・・・!
「さくらの・・・」
「はい?」
「よいか・・・、こちらへ」
御簾の内に招き入れられた内侍はそこで信じられない帝の言葉を聞いた。
「ま、まぁ、なんてことを!」
内侍は呆れたように声を上げたが、直ぐに笑みを作ると頷いた。帝が耳打ちした頼みごとは内侍の腕の見せ所だったからだ。
「承知致しました。万事、心得ておりますわ」
密かに淑景舎へ向かう人影があったのはその日から程無い夜のことであった。
「そんなに泣かずともよい」
男は傍らの女に声を掛けた。
乱れた黒髪。乱れた衣。女はどうやら泣いているようだった。
「どうして、余はそなたを東宮にやってしまったのであろう。のう、そなたの美しさに心惹かれたのだよ。余はどうしても自分を抑えられなかったのだ。こうして間近に見ると噂に違わず美しい。そなたのような女には男なら黙ってはいられないものだ」
男は女を口説く言葉を口にのぼらせた。その声こそは優しげだったが、女が顔を伏せているのをいいことに、瞳は氷のように冷たかった。
しかし女はやっと声を絞り出すと、弱々しくこう言った。
「私は東宮様ともまだ、夫婦の契りを交わしてはおりません。こののち、どうしたらよいのでございましょう・・」
「こうなることは宿縁であったのだ。男女の仲ではどうしようもない事がままあるもの。そなたのように美しい女なら男が放っておかぬのは無理からぬことではないか。嘆かずとよい」
男の声は先ほどと変わらず、優しかった。しかし、次に続く言葉だけは違っていた。
「しかし、そなたは・・・・どうやら余が初めてではなかったようだな」
この言葉を聞いた夕星姫は背筋が凍るのを覚えた。この言葉だけはぞっとするほど冷淡だったからだ。
彼女はその冷淡な声に怯えずにはいられなかった。だが、やっとのことで言葉を絞り出した。
「そ、そのようなことは・・・ございません」
「そなたに、女の悦びを教えたのは誰だ?」
「な、何を言われます!? どうかお許しください」
「答えよ! あれはどんな風にそなたを抱いた!?」
「わ、私が望んだことではございません! 中納言様が、中納言様が無理やり・・・」
「中納言・・・? 中納言などどうでもよい。そんな男のことを言っているのではない。そなたはもう一人知っているであろう。正直に答えよ!」
「恐れながら、何を言われているのか私には分かりません」
「しらを切るな! そなたはあれに・・・。・・・・佐為に、抱かれたのであろう!!」
そう言った男の顔はまるで鬼のようだった。女はその顔を見ると、恐ろしさで震え上がった。
「さ、佐為の君・・・? そんな・・・ああ、誤解でございます。あの方はそのような方ではございません。
私は一度だけ碁を打って頂いたことがあるだけです。そうです。あのお方は弟の所にみえておいででした。
その折に、たまたま、対局していただく機会が一度だけございました。それだけです。どうかお信じください! あの方の名誉の為に申し上げます。どうか!」
この言葉を聞くと、男は気が抜けたかのように、愕然とした。
「それは・・・まことか?」
「まことでございます!」
「・・・・偽りを申すな」
「いえ、偽りなどではございません。誓って申し上げます。あの方とは何もございません!」
「・・・・・・・・!」
男は言葉を失い、其処から先はただ呆然とするのみだった。
夕星姫は再び涙に濡れた。その様子を見て、男ははたと我に返った。
何をしていたのであろう・・・・・!?
目の前でしどけない姿の若い女が泣き崩れている。そうだ、自分が蹂躙したのではなかったか?
情事の手練手管に慣れている女ならよい。しかし、まだ無垢な娘に不義を強いた。しかもこの娘は聡明だった。ああ、しまった! こういう類の女はたった一度の過ちを思い悩むかもしれない。
こともあろうか、この女は佐為の女ではなかったのだ! 潔白だった。
ただその事実だけが明らかになった。そして彼は猛烈な悔恨の情に駆られた。
先ほどまでの恐ろしさは何処に姿を潜めたのか。人が入れ替わったように、男は優しく夕星の女御に声を掛けた。
「・・・すまなかった。どうか許して欲しい。そなたを想う余りに、つい過去のことを穿さくしすぎたようだ」
そして、袿を彼女に優しく掛けてやった。
「もう来ぬ。来れば、そなたを苦しませよう。今宵のことは二人だけの胸にしまうこととしよう。そなたのことは忘れがたい。だが、余がこれ以上、そなたを想えば、そなたが苦しむばかり」
徒言!
夕星は直感した。
しかし男はそう言い残すと去っていってしまった。
こんな出来事が密かに御所で起こった数日の後のことである。
不吉な知らせが帝のもとに舞い込んだ。
大宰府政庁が焼け落ちたと・・・・・・!?
亡くなったと知らせがあったのは数人の官人のみだ。若い下位の一検非違使の消息など知る由もない。
あの少年が死んだと知らせが届いたなら、いつも余を苦しめてきたはずの、世の中を襲う災禍に、どんなにか歓喜したかと思うと、ぞっとする。
亡くなった陰陽師の代わりに誰を遣ろう?
内大臣が推す賀茂明が昇殿し、余の前に現れた。
「恐れながら、お訊きしてもよろしいでしょうか。私の赴任は長く続くのでございましょうか?」
・・・? おや、この若い陰陽師はこんな顔をしていたか?
「何故、そのようなことを?」
・・・・似ていないか? どこか。・・・そうだ、どこか似てはいないか?
「大宰府政庁再建に力を尽くしたいと思いながら、行洋殿の病状は予断を許さぬ状況で在ります故」
端正な顔立ち。鋭い視線。
いや、あれの瞳はもっと柔らかだ。・・・だが、何処か似ている。そうだ、宋人や高麗人の強い打ち手と対局したときの顔に似ている・・・?
ここで内大臣が口を挟んだ。
「陰陽師殿、大宰府にはそなたのあの、愚かな友人が居ろう。あの馬鹿な検非違使よ。友人として、あやつの心配もしてやってはどうだ?」
・・・いや、余の思い過ごしだ。この若者の顔をまじまじと眺めたことが無かったから、意外にも端正な顔立ちに、はっとしただけだ。やはり、あれに似ている者などそう居ようはずはない。
そうだ、それより、この若者はあの検非違使の友人であったのか?
「では、輩の安否も気になろう。しかし、一方で都のことも捨てては置けないのだな。よく分かった。なるべく、早く召還致そう。それはさておき、余はそなたとしばし、話をしたい」
「何で・・・ございましょう?」
余は人払いをし、陰陽師と二人だけになった。この陰陽師は若いがそつが無く、問いには臆することなく答え、そして余の言葉には、顔色を変えずにただ黙って耳を傾けていた。そして最後に言った。
「承知いたしました」
陰陽師は下がっていった。
それから、数日の後、帝は佐為からの例の文を受け取ることになる。
これが内侍を苛立たせたこの一月のあらましであった。
だが何にせよ、この文によって幸か不幸か、帝は己が胸の内を嫌が上にも悟ることになる。いや、文はきっかけでしかなかった。この文が来ずとも、彼がたどり着くところは同じであったろう。しかし、早めたのはこの文に他ならなかった。
かくも憂きこととは知らざりしかな。
心ならずもわりなう隔てさせ給ふことのわびしさよ。
あ・・・あ! 佐為・・・!
幾度となく、余はそなたの言葉を読み返した。
そなたを偲ばせる香りはもうとうに薄れ消えてしまったにも拘わらず・・・・。
余は・・・努めた・・・ 様々に心を砕いた。
そして、そなたが初めて胸襟を開き、余を心から慕うのを感じた。ああ、あの時のことはまだ覚えている。そなたがその手にこの我が手を取り、そなたの白い頬に押し当てたあの時。 あの瞬間のことを想うと、いまだに動悸がする。震えが走る。
それは決して、心の奥底にある真の望みを満たす形ではなかった。だが、そんな清らかな関係にさえ、ある種の陶酔を覚えた。ああ、そうであった。
そしてしばし、この手に得た、そなたの信頼に酔いしれた。
透明で美しいものを壊したくはなかった。
やっと得た愛を失いたくないと・・・。心地よい関係を壊したくはないと・・・。
その為に、そなたが望むような慈父を演じたのだ。
誰よりもそなたに尊敬される父のような存在であれば、ああ、そのようにさえあれば !
そなたの心を繋ぎとめていられたからだ!!
だから、そなたはあの時、傷ついた頬への癒しを余に求めたのであろう?
それなのに それなのに!!
しかし、そなたに告げよう。
闇夜が続き、暁が訪れぬ日々を過ごしているのは余の方である。
そして、そなたは知っていようか。
ただ一人のことを想い、身を狂わしていく自らを確かに感じているのは余の方である。
そうなのだ。そのように感じながらも・・・、それでも救済の手立てを知らぬのは余の方である!
余はこのまま、自分を偽り続けるつもりであった。
ただ一つの望みを封じ込めるつもりであった。
そなたに逢わず、これ以上狂っていく自らに目をそむけるつもりであった。
忘れられるものなら、忘れたい。そなたを想うのは余には地獄の苦しみだ。
ならば、捨てよう。伏せよう。隠してしまおう。
そして余が望むような愛を返してはくれぬそなたを呪い、あの少年を呪い続けるつもりであったのだ。
しかし、そなたはさすが碁打ち。戦略に長けるは碁の兵法の深さの証か。
一枚の鎧をその身に纏うことも無く、一振りの太刀をその手に持つことも無いのに、そなたは百戦錬磨の将軍にもあたう。
碁の兵法とはまことに奥が深きもの。それは他ならぬそなたが余に教えたことではなかったか。
ならば、これより先は封印を解く他はあるまい。
そなたが諦めぬのなら、余も諦めぬ。
そなたが返事を乞うなら、余は答えを与えるのみ。
余は筆を取り、拙いながらもそなたに応手を返そう。そなたはどう打つ?
余を導くのはそなたであるはずだ。
こうして佐為の許へ帝の遣いが訪れたのは、新年を迎え、幾日かが過ぎ、年初の行事も一通り収まった頃であった。
彼は震える手で帝よりの御状を広げた。
そこにはこのようにあった。
かく世の中の騒がしく、殊にこたみの大宰府政庁炎上
ならびに都
にあさましき疫れいのはびこりたる、余まことに憂へたり
・・・・・・
余は、大宰府政庁の炎上と、都に蔓延る疫れいを深く憂いている。
余こそ、そなたに問いたい。
かくなる災厄は、天子が慈悲を欠いた事が所以であろうか。
答えて欲しい。
余は深く心を痛めているのである。
今、京の寺々へ密かに詣でて、祈念をしている。
このことはまったく公にはしていない。
明後日の夜は内裏より東の方に半里ばかりのところにある寺院に隠密に参り、
経文を読誦するつもりだ。
かつてそなたは仏門に在った。
明後日の夜はそなたと共に世の災厄の収まらんことを祈念したいのだ。
これが余の望みである。
蘭香殿と呼ばれる宸殿にてそなたを待っている
文には、このような内容があった。
佐為は読んでしまうと御文を畳んだ。
・・・・・・まるで暗号文だ。私の問いには何も直接お答えになっていない。
だが・・・・・何をおっしゃりたいか、よく分かります。
ではこれがあなたの答えか !?
そして彼は瞼を深く閉じて、沈黙した。長い間、ただじっと畳んだ文を前にして考え込んでいた。しかし、遂に彼は何かを決心したように、瞳を見開いたのだった。
それから二日後の晩。
内裏より半里ほど東の距離には、先帝が里内裏として使っていた邸があった。その邸は今は、先帝の下賜により、寺院と姿を変えていた。御所として使われていた寝殿は、今は寺院の宸殿となっていた。
夜も深まり、寺院は静寂に包まれていた。
蘭香殿の階(きざはし)に立つ一人の女房を除いてはもはや誰も起きてはいなかった。
彼女はやがて、其処に直衣姿の者が現れると、妻戸へと導いた。彼の顔は見えない。何故なら、彼は被衣(かつぎ)を深くかぶり、顔は見えないようにしていた。しかし、細身で長身な姿は顔は見えずとも、闇夜の中で、彼自身が光源のように薄い光に包まれていた。
妻戸を開け、廂に入ると、背後で女房が妻戸を閉めてしまう音が聞こえた。
今、完全に静寂と闇が彼を包んだ。
そして、そのしじまに微かに読経の声だけが聞こえた。その声は奥から響いていた。
彼はその読経の声を頼りに、暗い宸殿の中を手探りで、奥へ進んだ。
襖障子を開け、壁代を避け、御簾を潜った。
すると、読経の声は確かに大きくなっていった。やがて灯りが一つ見えた。
その方へと、彼は歩いていった。被衣をかぶったままである。
衣擦れの音が読経の声と混じった。
そして、ふいに読経は止んだ。
僅かな灯りの中に照らし出された人物は厨子に向かって手を合わせていたが、振り返らないまま静かに問うた。
「佐為か?」
「はい」
すると、読経していた男は立ち上がり、振り返ると佐為の方へと近づいていった。
佐為は男が自分の許へ来ると、頭から被っていた被衣を、真っ直ぐな線を描く鼻先まで捲り上げた。
しかし、途中まで捲った被衣は、突然荒々しくむしり取られた。同時に、暗闇とはいえ、白く美しい顔が露わになった。
次の瞬間、彼は抱きしめられていた。頬に、それから耳に熱い唇が押し当てられるのを感じた。
「文の意味は分かったか?」
言葉は苦しげな吐息と共に耳元で囁かれた。
「・・・・はい」
「では、余の想いを知っているであろう?」
「・・・・はい」
「一度だけでいい、余のものになって欲しい・・・! あ・・・あ、佐為!!」
答えを待たずに狂ったような口付けが落とされた。
世のゆゆしき厄の平らがんこと、そなたと相ひ祈念せまほしきなり
蘭香殿と聞こゆる宸殿にてそなたを待たむ
・・・・・もろともに念じ給ひなば非常の赦しを行ふべし
・・・非常の赦しを・・・・行ふべし
つづく
<後書き>
例のごとく、作中帝と佐為がやりとりする文中の古文は幽べる先生に作っていただきました。
どうもありがとうございました〜!!!
<註>
帝から佐為への二人称を古文表現による原文中でも私は敢えて「そなた」としましたが、幽べる先生によると、平安時代では目上の者が目下のものを呼ぶ際の二人称は「そこ」というのが正しいそうです。「そなた」はまだこの時代には使われていなかったとのこと。
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