蘭香二

 

  孔子家語に曰く、「善人と居るは 芝蘭の室に入るがごとし」

          善き友と交わると自ずと感化を受けるものである。
 それは、霊芝や蘭のような清浄な香りに満ちた部屋に在ると、その芳香が自然に
             自らの体に移り匂うのと同じである          ・・・


「そなたが欲しい」
「・・・分かっています、・・・・分かっています・・・・」



 今宵は、新月夜か。
 明かりの差さぬ闇夜。むせ返る蘭麝の香り。

 重ねた指先が熱い。帳が揺れる。
 溶け合う吐息。絹の擦れる音。
 むせ返るのは、熱のせいか。蘭香のせいか。
 眩暈がする。視界が霞む。

 ここは・・・蘭室? そうだ、世にも芳しい香り。
 清浄なる室。穢れのない部屋。

 今宵、高貴なる御身が元に額づく。
 何を求めて・・・? 何を。・・・赦しだ。赦しとは何だ。
 祈りだ。世の平らかならんことへの祈り。大願成就への祈り・・・。
 いや・・・違う、知っている。分かっている。
 赦しとは、・・・・・報酬だ。譲歩だ。取引だ。
 こうすることでしか、あの子を取り戻せないのならいい。かまわない。大したことではない。
 だが、私は卑怯だ。
 一方で、御前に在ることをお許し下さった君を、貴方を・・・。
 私を愛してくださる貴方を、貴方の愛を・・・、こんな形で踏みにじっている。
          卑劣だ。






 そなたの白い首筋に口付ける。
 良い匂いがする。そなたの匂いだ。栴檀の香り。
 だが、今宵ばかりは蘭香に抱かれよ。

 そなたの掠れた声が余を誘う。
 互いの衣が入り乱れる。白絹の肌に舌を這わせる。

 最後の衣に手を差し入れ、帯を緩める。
 そして露わになった白い肩に唇を押し当てる。

 求めていたのはこれだった。
 そなたが欲しかった。
 肌を合わせ、肉を貪り、自分のものにしたかった。

 桜の花びらの唇を貪り、白絹の肌を貪り、体中に刻印を残しながら、こうしてこの腕に抱きたかった。
 長いこと手に入れられなかったそなたを征服する悦びなのか。
 押し殺したその声が、褥を握り締めるその手が、さらに余を欲情させる。

 ずっと、ずっと、ずっと欲しかった! そなたが欲しかった。こうしたかった!
 もはや自分を留めることなど出来ない。
 激情のままに貪欲に抱き、痺れるような快楽を味わうのだ。
 
 元服の夜に添い臥しと共寝したのは一体何時のことであったか。あれから幾夜を、そなたではない他の者と臥所を共にしてきたであろう。だが、今宵の悦びを知った後では、誰と寝ればいい? 誰と契ればよい? 
  
 達した後も、そなたに寄り添った。互いの着ていた衣を重ねかけ、御帳台の中に横になっていた。抱きあった後に言葉は無かった。ただ、傍らのそなたを背後から抱きしめ、髪を掻き分け、首筋に唇を押し当てた。

 そなたが欲しかった。こうしたかった。これで余のものだ。誰にも渡したくない。

 どれくらい、そうしていたであろう。
 そなたは自らの顔を隠すように、うつぶせぎみに臥していた。何も言わなかった。余もまた何も言わなかっ
た。ただ、悦びを分かち合った至福の余韻に浸っていた。

 しかし、ずっと顔を伏せていたそなたは、ふと余を振り返った。
 そして、半身をよじり起こすと、ひどく驚いた顔をこちらに向けた。
 どう・・・したのか・・・? 
 するとそなたはゆっくりと、余の頬をその手でぬぐった。それで初めて気付いた。余は泣いていたのだ。頬
に伝う余の涙をそなたは拭ったのだった。あ・・・あ! 余は、余の涙を拭ったその手を握り締めた。
「このようなことになっても、そなたは変わらず優しい。しかし、もうそなたは余を父と思ってはくれまい」
 冬の合間の小春日和のように優しい瞳。だが何処かに夕暮れの寂しさを隠している。そんな瞳をしてそなたはかぶりを振った。
「いや、このような姿をそなたに曝した。余はずっと、ずっと、ずっとそなたが欲しかった。たとえ一夜だけでも、そなたをこうして我がものにしたかった。余は、余は・・・。絶えず、そなたを欲望の眼差しで見ていた。望みはそれだけだった。こうしてそなたを抱きたかった。抱いて自分のものにしたかった。余は、余は・・・そなたを・・・・」
 言葉は堰を切ったように溢れ出た。共寝の褥で囁くのに相応しい、ゆかしく美しい言葉など忘れた。口をつ
いて出てくるのは、包み隠さぬ心の内側だった。

 しかしその時、余の口もとを、そなたは指先でそっと抑えた。そうして言葉を閉じ込めた。
 情を交わしても尚、聞きたくない・・・のか? 耳を塞ぎたい・・・のか? 
 しかし、乱れた髪の掛かる美しい瞳でそなたは余の瞳をまっすぐに見詰めた。瞳は先ほど睦みあった時のように、間近にあった。
「・・・いいえ、と申し上げております」
 そして、その長い優美な指先を余の唇から離し、頬へ滑らすと、そなたは余に口付けた。
 優しい口付けだった。優しく啄ばむような口付け。まるで、桜の花びらで織った衣で抱かれているように。そうだ、そのように、今宵のそなたはとても優しくて、余は気が遠くなる。
 そなたは両の掌で余の頬を包んでいた。次第にその手を首に滑らし、余を優しく愛撫した。そして、優しい口付けは次第に深くなっていった。ただうっとりとそなたの抱擁に身を任せていた。
 至福だった。今この瞬間、死ねたら幸福に違いない。
 堪らずに余は抱擁を返す。そなたの髪をかき抱いた。こうして褥に座しながら、互いに口付けを繰り返した。

 余は愛しいそなたの、すっかり乱れた黒髪を指で弄びながら、問うた。
「今夜、そなたはとても優しい。優しいから甘えたくなる。夢を・・・見ているようだ。これが夢なら、覚めた時、どれだけ落胆するであろう」
「私の指は・・・何か味がするのでしょうか? すれば・・・夢ではございますまい・・・」
 先ほどはそなたの絹糸の髪を弄んでいた我が手で、今度は知らぬ間にそなたの手を取り、その長く美しい指に一本一本、口付けていた。
「・・・そなたの指は蜜の味がする」
 そう言うと、そなたは僅かに笑んだ。微笑んだ顔が美しい。堪らずまた唇を重ねる。
 しかし、ふと脳裏をよぎるものがあった。押し殺したようなそなたのあの声。
「佐為・・・」
「はい・・・・」
「すまなかった」
「・・・何を・・・・・謝られるのです…?」
「そなたに辛い思いを・・・させたことは分かっている」
「いいえ・・・そのようなことは・・・・・。ご不快な思いを・・なさったのでしょうか・・」
「いや、そうではない。そうでは・・・。ただ・・・ただ・・・そなたは・・・。そなたは、こうして男と睦み合うたこ
とが・・・無いように思われた・・・・」
「・・・答えねば、ならぬのでございましょうか?」
「・・・そなたのことなら、どのようなことでも知りたい・・・。つい、そのように思ってしまう。そなたのこと
を何でも知りたい。知りたいのだ」
「なぜ・・・・・、そのようにお思いになるのでしょうか・・・」
「何度も言っている。そなたを愛している・・・。愛しているのだ。

 
この胸に在るのはいつもそなたの面影・・・。寝ても覚めてもそなたを思っている・・・。そなたのことをすべて知りたい」
「愛・・・、大君はいつも私を愛しているとおっしゃる。でも・・・愛とは・・・何でございましょう?」
「愛が何かと・・・。そなたは以前も余に問うた。再び、余に問うのか? のう、佐為。そなたは再び余に問う
のか・・・・?」
「分かっているようなつもりで居りました・・・。大方の人々がきっとそうであるように、私も人に愛されたいと、思うことがあります。燃え上がって直ぐに消えてしまうような・・・あるいは移ろいやすい一時の狂乱や、そのように直ぐに形を変えてしまうものではなく、永遠に変わらぬ人の想いが欲しいと。私は欲が深いのでしょうか。でも、実のところ、私には何も分かりません・・・。そのような愛がこの世に存在するでしょうか。私は愚かです。愚かな私をお許しください」
「・・・以前も・・・、そなたの迷いに共鳴した。今も同じだ。余にも分からぬ。そなたが愚かなら、余はもっと愚かだ」
「どうか、そのようなことをおっしゃいますな・・・。私の心の中をくまなく覗かれたら、さぞ私に落胆なさることでしょう」
「・・・余には分からぬ・・・。だが、違う。たとえ、そなたの心の何処かに黒い影があったとしても、それでも余はそなたを愛するであろう。余に分かるのはそのことだけだ」
「・・・・・・・・。先ほどの問いにお答えすることになるか分かりませぬが・・・」
 そう言って、そなたは語り始めた。
 先ほどから裸身で褥の上に座り、向きあったままだった。冬の夜の冷気が肌に刺さった。余は自分の纏っていたはずの衣を手に取り、我らの肩に掛けた。こうして、二人で衣を重ね掛けた。衣から蘭麝香が薫った。蘭麝の香に包まれながら、そなたの言葉に耳を傾けた。
「・・・私は僧籍に居りました。僧侶の間ではこのような習慣は珍しいことではありません。山にはいくつもの堂宇があり、僧坊があります。結界は世俗の情を絶ちます。女人は通れません。ところが結界を過ぎても、人の情欲は消えることはありません。僧となっても修行の途上。見目美しい稚児を見かけるのは珍しいことではありませんでした」
 そなたは淡々と語った。
「・・・ずっと、気付かずに居ました」
「何をだ?」
「・・・私の姿形に・・・ついてです」
「そなたの姿形?」
「母に瓜二つだとよく言われて育ちました・・・」
「そのように・・・、余も耳にしている」
「しかし、この顔のせいで、私は愛して欲しかった人物からは憎まれ・・・、そして、思いもかけぬところから嫉まれ・・・。そして時に、この姿形が人の情欲を掻き立てるのだということを・・・。あの頃、私は初めて知ったのです」
「そなたを憎む者など・・・どうして居よう?」
 余は、そう言いながらも幾人かの顔が脳裏に浮かんでいた。口にした言葉はどうしようもなく、うわべだけのものだとはっきり感じていた。
「私は・・・、いつも一人でした・・・。物心ついたと同時に、母は亡くなり・・・。継母からは憎まれて育ちました。一人頼りであった父にも、何故か私は疎まれていました。ただ一人あの方だけが、幼い私に囲碁を教えてくださいました」
「そなたの・・・生い立ちは、知っている・・・。だから余は・・・」
「分かっています、君はそんな私を憐れんでお傍に呼んでくださったことを・・・。あの頃は知らなかったと・・・。幼いが故に、御慈愛に気付かずに居たことを・・・。いつぞやはお詫び致しました」
 そう言うと、そなたは余の手を取り、頬に押し当てた。
 余は再び、涙が溢れるのを感じたがどうすることも出来なかった。ただ、そなたの言葉に耳を傾けるしか
なかった。
「私は碁を打つのが楽しかったのです。寂しいと思うとき・・・、どうして母が傍に居ないのだろうと思うとき、父が決して私の許を訪れないのは何故かと思うとき・・・。私に、「碁を打て」という声が聞こえました。そして、石を持った私は何時までも碁を打ちつづけました。時の経つのを忘れ、一心不乱に碁に興じました。

 
私が碁を打ちたいのでしょうか? いえ、碁が私を呼ぶのです。石を持て、と。声が聞こえました。何処からでしょう?分かりません。でも、幼い日々にいつも、私はその声を聞きました。誰も信じないでしょう。だから、誰かに言ったことはありません。それでも声がしました。私はひたすら、碁を打ちました。あの方が、・・・叔父が、幼い私に師を幾人かつけてくださいました。私に冷たい父のことも、母が傍に居ないことも遠いことになっていきました。何故でしょう? 目の前に碁盤と碁石があれば、私は囲碁を打つからです。
 
どのように布石を敷くか考えました。教えられたことを直ぐに試しました。ハネるのがいいのか、ツケるのがいいのか、挟むのがいいか、コスむがいいか、ケイマがいいか・・・。一間空けるのがいいか、二間空けるがいいか・・・。私は来る日も来る日も、師らと碁を打ちました。他のことは取るに足らないことのように思えました。
 私はそのように、幼い日々を過ごしました。結局、何故自分が憎まれ、孤独なのか知りませんでした。熱心に知ろうともしませんでした。そのような日々の中に、ある日、私は昇殿せよと父に命ぜられたのです。
 殿上童に上がったことは、夢か現か、あっという間に過ぎてしまいました。
 君の御慈悲に報いるには、私はあまりに奇妙な童子でした。お詫びするより他はありません」

 今度は余がかぶりを振る番だった。
 そなたは余の手を握り、頬に押し当てたまま、続けた。
「そして、その次に待っていたのは、出家の道でした。
 私は、家では常に身の置き所がありませんでした。そもそもそういう境遇にある者にとって、出家はままあ
ること。
 碁の修行が出来るとあらば、私に何の不満もありません。唐土からおいでになった老師様に師事した日々は、生涯最高に幸せな日々でございました。何故なら、私が幼い日々より聞いた声はあの方のものだったかもしれません。いえ、私がそう思い込んでいるだけなのかもしれません。それはどうでも良いことです。真実は、私が老師様より碁を教えていただいた日々にあるのです。
 兄弟子は、私に碁を教えてくださったあの方以外に初めて、肉親の温かみを感じた人でした。私を嫉みも憎みもせず、姿形をどうこう言うこともなく、常に在りのままの心の内を語り、また私の言葉にも耳を傾けてくれました。「兄」とはどういう存在を言うのでしょう? 私が語っても良いものでしょうか? 話に聞く兄弟の愛とはどのようなものでしょう? 私は知りません。ですが、あのような人をもしも「兄」というのなら、兄弟とはまことに麗しきものと私は思うでしょう。
 私は、だから、失いたくなかったのです。それらの日々を。還俗などしたくありませんでした。都に帰り、あの広い屋敷の片隅に帰るのは酷く辛いことでした。それより、私は老師様に就いて碁を学びたかったのです。
 だが、結局、私が元で起こった忌み事の為に、還俗を余儀なくされました。私は、何故か、いつも争いごとの元になるのです。自分の意志とは関係なしに・・・。ある時は妬まれ、ある時は嫉まれ、そしてある時は想いを掛けられました。私の居る処に災いが起きるのだと・・・。そしてすべてが去りました。私の元から。兄弟子は再び戻ってくると約束しました。そうして私を諭したのです」

 忌み事・・・とは・・・。災いとは・・・・? 
 そなたは変わらぬ調子でただ淡々と語った。余は・・・だが、怒りに震えた。それならば、ああ、それならば、余が元に置きたかったものを・・・!  

「望んでそうしたことは一度もありませんでした」 
「不本意であったと・・・?」 
「蹂躙されることが本意な者が居ましょうか。
ですが、お信じください。今宵はそのような夜ではありません」「では、今宵は違うと・・・?」 
このようなことは・・・・あのとき以来・・・、つまり還俗した後は、今宵が初めてです。なので慣れません。お相手を満足に務められぬこと、申し訳なく・・・ただただ、恐れ多く・・・・お詫びするより他は・・・」 
 今度は余がそなたの口を塞いだ。
息が苦しくなるくらいに強く唇を吸った。
 そなたの悲哀に胸が共振し、涙が溢れた。その哀しみを受け止めたい、心の奥底からそう思った。

 
そして、このように湧き上がる想いを押さえられない日があったことを思い出した。そうだ、あれは、あの観桜の宴の日のことだった。父に打たれたそなたを見て、心の底から憐れに思った。あの想いが、あの想いが・・・今、甦った・・・・。余はあの時、そなたを心から憐れに思ったのではなかったか。心の底からそなたを護りたい、いとおしいと。
 そのように、想いを巡らしていた。そなたの悲哀に涙していた。止め処なく涙しながらも、ああ、その一方
で、新たに生まれ出づる感情を抑えられない。余は確かにあの男にそれを感じていた。そなたが兄と慕うあの男に。
 どうして、余ではなかったのだ。どうして余ではなかったのだ。其処に在るのは余でも良かったはずだ! 
 そして、さらに抑えきれぬ大きな大きなものを・・・・あの少年に感じていた。
 あの者が憎い。
 そなたがこうまでして・・・、こうまでして護ろうとする・・・あの少年が・・・・・、あの少年が憎い! 

 至福であるはずの今宵、余の怒りは収まるところを知らなかった。
 無限の暗い淵がその先に広がっていた。



 つづく

 

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