防人の歌十一

 

 

「政庁が燃えたというのに、なかなか豪勢だね」
 明が言った。
 今宵、帥の屋敷では、都から遣わされた官人達の為に宴が催されていた。しかし、そこに下級役人の光は居なかった。明は仕方なく、宴をこっそり抜け出して、光の許に来ていた。光の居る対の屋から遠目にも寝殿の華やかな宴の明かりと賑わいが覗ける。 
「ここはそういう処だからな。富は海の外から来るんだ」
 光が答えた。
「そうみたいだね・・・ キミはずっとこんな立派な寝所に寝起きしているのか?」
 明は光の臥所をしげしげと見回して訊ねた。
 御帳台、屏風に几帳…。光が寝泊りしていたのは帥の屋敷の東の対の母屋だった。
「いや、そんなことはないさ。以前この屋敷に居た時は、北の対に近い渡殿にある小さい部屋だったんだ。社ん家でだって、似たようなもんだし。いや、最初はほんとに古い寂れた官舎に居たんだ。あそこはあばら家だった。今は帥を救ったお手柄でここに寝起きさせて貰ってるんだ。大出世したってわけ。はは」
「そうか・・・・・それは良かった。いろいろ・・・あったようだね。
 なんだか、聞きたいことが一杯だ。一杯あり過ぎて、参ったな。何から聞けばいいか・・・」
 明は口篭もった。
「なんだよ、何でも聞けよ! おまえらしくねーな」
「それにしても。屋敷に帰ってからキミといろいろ話そうと思ったけれど・・・」
「そうだな。おまえ、ここに着いたら、すぐに帥につかまって、宴に連れていかれちまったもんな」
「抜け出すのに苦労したよ。ボクはどうもああいう宴は苦手だ・・・」
「苦手・・・か。そう言えば、おまえって人付き合い、得意じゃないもんな」
「そういうところは相変わらず失礼だな、キミは」
「わりぃ、わりぃ。まぁ、気にすんなって。
 それより・・・・オレ。・・・いや、オレの方がおまえにいろいろ聞きたいことがあるんだ・・・・」
 光ははやる気持ちを抑えつつ、やっと言葉を切り出した。
「そうだ、大切なことを忘れていた!」
 しかし、その言葉を思いがけなく明に遮られてしまった。
「な、なんだよ!?」
「ここに誰も居ないとはいえ、すまないが居ずまいを正して欲しい」
「なんだよ! 急に?」
「これを最初に伝えるべきだった」
 明は無表情に言った。光はその思わせぶりな言葉を聞いて、にわかに心臓が音を立てるのを感じた。そしてごくりと喉に唾を飲み込んだ。「最初に伝えるべき・・・」「居ずまいを正して・・・」明の言葉から、光が思い浮かべたのはやはり彼だった。ずっと彼のことを聞きたかったのだ。それならば、調度いい。
「わかった」
 光は素直に姿勢を正し、明に対して敬意を払った。
「では、伝える・・・」
 明が口を開くと、光の胸の鼓動はますます早くなった。顔が熱くなるのさえ少年は感じた。
 待ち望んでいた言葉だ!
 一瞬瞳を閉じた。気が遠くなるのさえ感じた。それほどまでに、待ち望み、心の底から欲していたのだ。明が都からもたらし伝えるであろう言葉を。
 そして、明は真剣な面差しで自分を見つめる光を前に言葉を続けた。
「『お役目、ご苦労である・・・・西の海の護りをよく致すように』」
 ・・・・・・・は?
 光は思わず、下げていた頭を上げ、ぽかんとした瞳を明に向けた。
 何を言ってよいか、わからなかった。自分が聞いた言葉の意味が理解できなかったのだ。
 そんな風にぽかんと自分を見つめる光に対し、明は伏し目気味に抑えた声で続けた。
「・・・帝からのご伝言だ。キミに逢えたら是非伝えるようにと、そう仰せつかった」
「・・・み・・・かど?」
「ああ」
 光は、やっと飲み込めた。明が伝えたのは、待ち望んでいた人の言葉ではなかったのだ。 
「帝からの・・・言葉? オレに?」
「ああ、そうだよ。出発の直前、昇殿した折にそのように仰せられた。・・・たまたまキミの話題が内大臣の口から出たんだ。それで、帝は思い出されたように、ボクを御前に留められた・・・」
「・・・それで?」
「・・・キミと親しいのか、とお尋ねになった」
「おまえはなんて・・・?」
「別に、ありのままに答えたつもりだ」
「オレと親しいなんて・・・おまえには全然いい話じゃないよな」
「ボクはそんな風に思ったことはない。ただの一度として。だから、たとえ帝の御前であろうとキミの友人だということを隠そうなどとは思わなかった」
「・・・・・・」
 光はその言葉を聞き、ただ明の顔を見つめた。言葉が出なかった。
 ああ! オレが迷惑を掛けたのは何も佐為だけじゃない。こいつにとっても迷惑な話なのだ!
 光はそう思うと、明に申し訳ない気持ちで一杯になった。そして俯き、視線を落とした。
 明もまた視線を落とした。彼にはそれ以上、光を励ませる言葉が無かったからだった。
「・・・だけど、どうしてあの男・・・い、いや、帝はオレに伝言なんか・・・」
 光はしばらく経ってからぽつりと言った。
「・・・・・」
 さすがの明もどう答えていいか分からなかった。思うところはあっても、口に出せば光を落胆させるようなことしか話せないことが分かっていたからだ。
「悪い、ところで、何だっけ? 伝言・・・」
 光は頭に手をやりながら、笑みを作って明に訊ねた。
「あ、・・・ああ。だから・・・・・『お役目ご苦労である。西の海の護りをよく致すように』と」
 明は先程よりも、低く早く言った。
「・・・それって・・・・・どういう意味だろうな」
 少し間を置いてから、光が言った。 
「・・・・・」
 明はやはり言葉を返せなかった。
 天子に対して不敬を働いた一検非違使にとっては その天子からの勿体無くも尊極な、そして慈悲深いねぎらいの言葉に違いなかった。
 だが明にも、そして光にも、それだけの・・・表面をなぞったそれだけの・・・・言葉には思えなかった。その言葉の奥にある冷ややかな態度。それは、遠く離れた場所で伝え聞いた光にも感じられる気がした。

 ようやく明が口を開いた。
「帝は・・・あのような方だ。教養も高く、思慮もおありになり・・・、そして慈悲深いお方と、皆の尊敬を集めておられる。
 ただ、ボクには分かる。そんな一見曇りのないご威光の下に・・・、闇を抱えておられる・・・」
「・・・闇?」
「ご自分でも持て余しておられるんだ。ボクはいつも帝の御顔を拝してそう感じる。感じるがどうしようもできない」
「持て余してる・・・・・か」
「誰の心にだって闇はある、少なくともボクはそう思う。でも帝は人一倍、繊細で内省的な方だし・・・威厳を保たれる一方で、深い迷いも抱えておられるような気がするんだ。・・・ボクにはね」
「ふう・・・ん」
 陰陽師の明が言うのなら、そうなのだろう。光は思った。
 そう言えば・・・今まで一度でも、帝の胸の内を考えてみたことがあっただろうか?
 あの春の日の清涼殿での出来事・・・
 あの・・・挑発的な視線を投げられるまで、帝のことなど考えたことも無かった。自分には雲の上の存在だった。それなのに、あの時からすべてが変わってしまったんだ。オレはあの瞬間から帝を憎むようになったのだから。
 でも何故だ? 答えは簡単だ。
 帝が佐為を縛るからだ。佐為を苦しめるからだ。いつも佐為に物憂げな顔をさせていたのはあの男じゃないか! だから、オレはあの男が嫌いだ。
 あの男だってオレを嫌っている。何故だ?
 佐為がオレを・・・オレを愛しているからだ。そのことを知っている、あの男は。だから、あの男はオレをあんな目で見たんだ。
 『お役目ご苦労』・・・だって! ああ、そうだ。冷笑が聞こえる。
 『西の海の護りを致すように』・・・だって! いつまも其処に居ろと? 何時までも其処に居て防人のように国の防ぎの最先端で働けと? そういうことか!?

 光の心には、もはや都への召還は絶望的に思えた。
 緒方がいくら奏上文を都に送ったからといっても、帝からこのような暗示を受け取った今となっては、その望みも叶うはずが無いものに思われた。
 ああ・・・!
 光の顔色は見る見るうちに暗くなっていった。彼は膝の上で拳を握りしめた。
 それを目の前で明は見ていた。何か掛けてやるべき言葉は無いものかと思案せずにはいられなかった。だがやはり陰陽師の彼にさえも何も出てこなかった。安手の慰めなら無い方がましに決まっている。そう彼は思った。
 そして殿上の間で、帝の言葉を言いつかった時のことを思い出した。
 
 帝が人払いをした時、嫌な予感がした。
 そもそも、あの日の帝はいつになく、ボクの顔をご覧になっていた。傍目には分かるまい。だがボクには分かった。ボクの何かがお気に留まったのだ。
 だが、ボクを引き止めてお尋ねになったのは、近衛のことだった。
 もの静かな口調。思慮深い眼差し。
 しかし、その下に熱い焔を隠し持っておられる。
 静かに、穏やかに、柔和に・・・どんなに天子の威厳を保ったご様子で話されても、その胸の奥底で近衛への怒りが・・・・・・いや、嫉妬が・・・・・・ 冷めやらないのだ。かの方の密かなる悋気が、その時ボクの胸にも伝わった。それは近衛への御伝言に込められた氷のように冷やかなメッセージだ。

 だが、解せなかった。
 何故、今さらそのような憤怒の情を露わにされたのか?
 近衛が去ってからというもの、佐為殿とあんなに良好な間柄でいらしたはずなのに。そうだ、お二人は傍目にも睦まじいご様子だった。だから、ボクは苛立っていたのだ。
 佐為殿は帝の後見をはっきりと得て、碁打ちとしての華々しい道を歩んでいた。碁打ちとしての道を極めるのにも、天子の威光を後ろ盾にすること以上に、心強いことも無いだろう。だから、近衛のことは切り捨ててしまったのかと・・・。近衛のことを忘れてしまったかと。そのような佐為殿の態度が癇に障った。
 だが、旅立ちの直前に、それは佐為殿自身がボクに強く否定したし、ボクの知らないところで、彼が色々と立ち回っていたことも、あの時に知ることになった。
 しかし、参内していない理由をついにボクに話さなかった佐為殿。そして、既に追い払われた近衛に対する執拗な追い討ちとも取れる帝のご伝言。
 何か、あったのだろうか? 帝をそのように駆り立てる何かが?
 もしや・・・もしや・・・近衛に対する変わらぬ思いを、佐為殿が・・・・・抱き続けていると。佐為殿にとって、近衛がそのように今も尚、特別な存在で居続けていると。 そのことが、何らかの形で帝に伝わったのだとしたら・・・。もしも、そのようなことが何かしら、お二人の間にあったのだとしたら・・・、それはきっと間違いなく、帝と佐為殿の関係を崩したに違いない。
 あんなにも寵を注いでおられる佐為殿の、今も変わらぬ近衛への強い想いを、帝がお知りになったのだとしたら・・・だとしたら、きっと深くお心を傷付けられたことだろう。
 だとしたら、全てに合点が行く。ああ、そうか。
 今になって、思い当たるなんて・・・
  
 そして、帝から言いつけがあった事を、佐為殿に話すかボクは迷っていた。
 だが結局は話さなかった。
 あんな状況で話していたら、もっともっとあの人の勝ち気な態度に拍車を掛けていただろう。それに口の軽さはどんな時でもあまりいい影響をもたらすとは思えない。
 佐為殿か・・・
 今ごろどうしているだろう。
 別れた時、何かとてもいやな感じになってしまった・・・な。
 
 その時だった。
 無言になってしまった光と明の居る静かな場所に、高い声が響いた。
「あら、なんてお静かに旧交を温めてらっしゃること」
 瓶子と杯を持った女が入ってきた。
「紫殿!」
 光が叫んだ。
「せっかく久しぶりにお逢いになったというのに、お酒も無いのでは寂しいことです。さぁ」
 紫はそう言って明と光の間に酒を置いた。
「悪いね、紫殿」
「いいえ、どうぞごゆっくり。ええっと・・・?」
 紫は光に目配せした。
「都の陰陽師、賀茂明だよ」
「では陰陽師の明殿、ごゆっくり・・・」
 そう言うと、紫は出て行った。
 しかし、明はあっけに取られた顔をしていた。瞳を見開き、女を見送ると、やっと口を開いた。
「あの人・・・何?」
「あ、そーか! おまえもしかして驚いた!? なんかオレはもう慣れちゃったけど、最初はおまえみたいに驚いたんだぜ」
「信じられない・・・ 一瞬佐為殿が現れたかと思った」
「紫殿は帥の奥方なんだ。かなり変わってるけど、いい人だよ。あの通り、いつも男のなりをしているんだ。動きやすくて好きなんだって。だから余計、最初は佐為に似てると思った。でも話すと違う。佐為とは、オレの知ってる佐為とはやっぱり違うんだ・・・」
「へぇ・・・」
 明と光は見詰め合った。ようやく、何かのたがが外れた。
 そして光が口を開いた。
「・・・・・佐為は、どうしている?」
「やっと・・・訊いたね」
「やっと?」
「いや、キミがなかなか彼のことを尋ねないのは何故だろうと思っていた」
「・・・。ほぼ一年ぶりに逢って、何から訊いていいか・・・分からないって、おまえだって言っただろ?」
「そうだった。ごめん。・・・彼は、佐為殿は・・・そうだな」
 そう明が言い掛けるのを遮って光は言った。
「文を送ったんだ! 都に上る宋人に頼んだ。古い佐為の知り合いなんだ。オレの文はあいつに届いただろうか? なぁ、あいつ何か言ってなかったか? オレに返事とか、何か預かってないか、おまえ!?」
 堰を切ったように、問いは溢れ出した。明は少し気圧された。
「文の話は聞いたよ。ボクもその宋人になら逢った。二言三言しか、言葉は交わさなかったけれど。変なことを言う人だったな。ボクに向かって、『大きくなったな』なんて訳の分からないことを言っていた・・・・・。いや、それはどうでもいい。・・・・佐為殿からも、キミから文を受け取ったことを聞いていたよ」
「それで!? 何か返事は? 返事は預かってないか、おまえ?」
「・・・・・」
「なんで黙ってるんだ!?」
「・・・何かキミに渡すものはないか、と出発前に彼に訊ねたよ、ボクは。だが・・・何も無いと・・・彼はそう言ったんだ」
「・・・何も・・・な・・・い・・・?」
「・・・ああ」
「うそだ!? そんなことあるもんか!? 」
「・・・」
「どうしてだ!? だってオレはあいつに文を書いたんだぞ!! それなのに、どうして!? どうして何も返事がないんだ。そんなのは嘘だ! オレはあの文を書くのに、幾晩も幾晩も寝ずに考えたんだ! それなのに、何も返事がないなんて、そんなことありえない! 嘘だろう!!」
 光は明に掴みかかった。明はたじろいだ。
 光の激情と必死な表情。それらに明は圧倒された。そして沸々と、胸にさざなみが立つのを感じた。
 そのさざなみが、補わなければならない言葉を、明の喉の奥に押し留めてしまった。彼の心のなかで、今どうしようもない、冷酷な想いが多勢を占めようとしていた。
 もっと・・・苦しめてやりたい・・・・
 明の密かな苦悶を知らずに、光は尚もまくし立てた。
「どうして!? どうしてだ! 何故なんだ!? 酷い! 賀茂!!」
「・・・ボクは・・・キミが書いた文の内容を知らない・・・・・・・。キミがどんな返事を期待していたのかも分からない・・・。だが、ボクは彼のところに出発前の慌しい中、二度も訪ねた。だが、それでもキミに渡すものは何も無いと・・・そう言われたんだ」
「そんな・・・」
 今だ信じられないというように、光は苦しげに俯いた。だが考え直したように、再び顔を上げ、言葉を搾り出した。
「賀茂、あいつ・・・オレが居なくなってから、どう・・・だった? あいつ・・・あいつ・・・どんな風に過ごしてた?」
「キミが去ってまもなく、彼を訪ねたよ。用事があったのでね・・・。だが、彼は留守で、いくら待っても帰って来なかった。やっと帰ってきたのは翌朝になってからだった・・・」
 明の口から一人でに言葉が滑りだしていた。
 見る見るうちに、光の顔は青ざめた。
 明は内心、焦燥に駆られた。こんなことを言うつもりではなかった!
 ああ、こんなことを言うつもりでは・・・!
 どうして、こんなことを、佐為殿にさえ、それとなく口止めされたことを・・・!
 だが・・・! ボクは損な役回りだ! 
 本当のことだ。言って何がいけない!?
 
 光はこれ以上無いほど、ショックを受けた様子で、細い肩をがくんと落としてしまった。ただでさえ小柄な彼が明の目には余計に小さく映った。自分が洩らした言葉に、光が余りに大きなショックを受けたことは、明の目にもはっきりと分かった。
「・・・・・・」
 光は何か言おうとしたようだった。しかし、迷った末、検非違使の少年は結局このことに対しては何も訊こうとせず、黙ったままだった。明は話を続けた。
「・・・春が終わって、初夏の頃から・・・帝は佐為殿の為に御前対局を何度も用意されて、そして、あの人はそれらの対局に渾身の姿勢で臨んでいた。対局の度に精進を欠かさず、高みを目指し・・・見事に勝利を収めていった。佐為殿はまた強くなったように思う」
「・・・そう・・・か。それは良かった・・・」
 佐為の囲碁に対する情熱を伝え聞くことは、光をいくらか明るくさせた。気を取り直した様子で、彼は明を見つめた。
「あいつ・・・変わらず、碁を打っているんだな。良かった。・・・ほんとに・・・良かった」
 自分に言い聞かせているようだと明は思った。最後は声が震えていた。 
 驚いたことに、彼は泣いていたのだ。佐為殿が囲碁の道を歩み、昇り続けていることに対する感激の涙なのか、あるいは先程の落胆の涙なのか、そのどっちもなのか・・・

 ひじで涙を拭う光を見て、明は堪らなく胸が痛んだ。たった今まで明を支配していた冷酷な感情が引き潮のように、何処かへすっと消えていくのを感じた。

 キミは・・・・・たとえ裏切られようと、変わらないんだな。
 ボクは堪らなく自分が矮小に思えた。
 彼を元気付けることを言おう。ボクはなんて酷い人間なんだ。どうして彼をこんなに痛めつけたくなるんだ。  佐為殿は・・・・・佐為殿は・・・・・・キミを想っている。酷く深くキミのことを想っている。忘れてなんかいな
い。都でキミを想っているんだ。深く・・・・・・喩えようもなく深く・・・・・・
「近衛、佐為殿は・・・・・」
 しかし、そう言い掛けた瞬間だった。野太い男の声が突如響いたのは。
「こんなところに居たのか! 明殿」
 酒臭い息をしながら、少年二人の間に割って入ってきたのは、大宰府の主、帥殿だった。
「さぁ、こっちへ来るんだな、明殿。久しぶりに逢ったというのに、近衛の所ばかりにキミは行きたいようだな。
 常々、オレは近衛のこの、人好きのする性格も見た目も、気に食わないんだ。このガキは放っておいても、人が寄っていく。だからこんなヤツは置いて、さぁ、あっちへ戻って、オレと飲もうじゃないか、なぁ明殿」
 いかにも、酔っ払いらしく絡んできた緒方は、明の腕をがっしりと掴み、引きずるように、陰陽師の彼を立ち上がらせた。
「近衛! 話は終わってないんだ! また話す。すまないが・・・」
「黙りたまえ、明殿! こんな奴は放っておけと言っている。さぁ、行こう」
 そう遮ると、緒方は明を連れて行ってしまった。
 取り残された光は瓶子と杯を前に、ただ、ぽつんと座っていた。涙は後から後から頬を伝った。緒方が明を連れていってくれてよかったと思った。

 どうして、どうして・・・返事をくれない?
 どうして・・・・・
 佐為、分からない。
 どうして・・・・・・? どうしてなんだ!? 一体どうして?
 オレのことなど、もうおまえはどうでもよくなってしまったのか?
 オレと同じように、おまえもオレのことを想っていてくれてると信じていた。
 違ったのか? オレだけの思い込みだったのか?
 そうなのか!?
 オレはもうおまえの許に帰る必要などないのか!
 答えろよ、佐為!!
 また二人で碁を打とうと、そう言ったじゃないか!! 佐為!?

 落胆と疑念の波は怒涛となって光に襲い掛かった。
 涙が止まらなかった。
 あまりに涙が止まらないので、光は顔を天井へ向けた。だがそれでも涙は止まらなかった。 
 次に静かに立ち上がると、簀の子に出て、夜空を眺めた。
「今夜は新月か・・・空が真っ暗だ」
 そう呟いた。夜風のせいか、なんとか頬が乾いた気がした。そして臥所に戻り、文箱を取り出した。それは、光が大宰府に来て初めて、街の市で買ったものだった。何の変哲もない箱だった。だが、少年が震える手で蓋を開けると、その中からは、彼が身一つでやって来たこの最果ての地で何よりも大切にしているものが現れた。
 光が取り出したのは折りたたまれた紙と、碁石だった。
 幾度となく、開いて目にしたその紙を再び手に取り、大切に開いた。
 そして、そこにしたためられた筆跡を嘗めるように瞳でなぞった。
 
 光無き 花の色さへ 褪せぬれど 散りて護るは 君がかへり路

 あの別れの時に、佐為が光に返した歌だった。

 ・・・・・・ならば、ならば・・・光
 ・・・・・私もこの身を散らせましょう、あなたを都に連れ戻す為に・・・・・ 
 ・・・・・桜の花が散るように、我が身を千々に砕いてみせましょう・・・・・

 
 光ははっとした。とてつもなく、嫌な予感がした。
 
 佐為     ?  
 
 そうだ、オレの心が変わらないように、おまえの心だって変わらない! 絶対。
 オレはおまえを信じることしか出来ない!

 いい! 馬鹿だと言われようが。愚かだと言われようが。
 今こそ、今こそ、オレはやっぱり、おまえの許に帰りたい  ! 帰りたいんだ、佐為!




 つづく

 

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