防人の歌十二
「次はオレとやな」
「ああ」
少年三人は邸の南面の庭に面する簀子で碁盤を囲んだ。
一人は大宰府の検非違使。一人は都の陰陽師だった。
それを横で見る番に回ったのは三人のうちで一番小柄な少年だった。
社は帥の屋敷にやって来て、光と明の居る東の対に上がりこみ、よく三人で碁を打った。
社が帰ると、今度は明と光の二人で碁を打つ。こんな光景が繰り返されるのも、明が大宰府にやって来てからまもなく始まった。そして何日か続いていた。
「キミは熱心だな」
「おまえも好きだろ?」
・・・・・碁は好きだ。でも正直、今のキミほどじゃない。
明は思った。
「キミと、都で最後に対局したのは、ほぼ一年前だ。覚えているか?」
「覚えてるよ。行洋殿の邸でだろ」
「寒椿の花が・・・・・咲いてたね」
そう明が言うと、光は盤面を見たまま黙ってしまった。
ああ、しまった、まただ・・・・・。と明は思った。
キミはまた、何かを思い出したんだろうか?
いつもそうやって黙ってしまう。
ボクとこうして碁盤を囲んで、ボクとこうして盤上の宇宙を形作りながら。
ボクが時々、もらしてしまう不注意な言葉に、キミの心はボクの前から容易く離れてしまうんだ。
そして明は数日前の日のことを思い出していた。大宰府に着いた日のことだ。
明はあの日、帥に捕まって宴に戻り、遅くまで帥の相手をさせられた。帥は酒癖が悪い。都に居たころからそうだったので覚悟はしていた。やっと解放されたが、次の日は辛かった。
遅く起きると、もう光は出仕していた。
次に二人で話せたのはその日の夜だった。ずっと気になっていた。
明は、彼に逢うと急いで言った。自分の心が移ろわないうちに。前日に補えなかった言葉を。良心がエゴに勝っているうちに言ってしまおう。一刻も早く。
明はそう思ったのだ。
「キミの文への返事は、キミが都に帰ってきたら、直接話すと・・・・。そうキミに伝えるようにと、佐為殿は言っていたよ」
そう急いで言うと、明は安堵した。これで卑怯者にならずに済んだ。
だが、意外にも 光の反応はあっさりしたものだった。
光はその言葉を聞くと、一瞬瞳を見張りはしたが、静かにこう言った。
「そうか、わかった」と、一言だけ。
昨夜のあの激情は何だったのかと、明は思った。そして、光は直ぐに臥所に入っていって、倒れるように寝てしまった。
そして、あれから数日が過ぎて、今の目の前の光の姿だった・・・・・
ああ、もういい。何か話題を変えよう。ぐるぐると巡る思考を振り切って、明はこう問うた。
「強くなったな・・・・・。どうやって碁を学んだ?」
明は一年ぶりに光と碁を打ち、心底驚いていた。
「おまえがオレを誉めるなんて驚きだな」
「別に・・・・・ボクは心に思ったことは正直に言うよ」
「なんだよ、なんか調子狂うな」
光は中途半端に笑った。
「で、どうやって、碁を学んだんだ?」
明は再び光に問うた。
「ここは外国の商人や、帰化人が多い。そういう人の中に強い人が居るんだ。そういう人と打ったり、それから、おまえも都で逢ったっていう、宋の法師様にも教えてもらった」
「へぇ。なるほど。大宰府は碁を学ぶには良い環境だったようだね」
「まぁ、結果的にはそうだったかもな・・・・・。そうだ、オレの知ってる高麗の商人のところへおまえを連れていってやるよ。港の方に住んでるんだ。凄く強い」
「それは楽しみだな」
「でも、オレ思ったけど・・・・・」光は言った。「おまえと碁を打つの、なんか好きだな」
「は?」
明は光の言葉に、きょとんとした。
「ボクと、打つのが楽しい?」
「おまえ・・・・・、オレが強くなったってさっき言ったろう」
「ああ」
「だからかもしれない。
だから・・・・・きっと前より、都に居たころより、オレおまえと打つのが楽しいんだ、きっと。オレに以前よりも力がついたから、おまえに一方的に負けなくなっただろう?」
「うん、確かに」
「はっはっは。認めたな、おまえ!」
「鬼の首を取ったみたいだな」
「取ったさ! おまえにオレの力を認めさせたんだ。ああ、気分いいぜ!」
「なんだと! 人が真面目に接しているというのに、なんだ! そのキミの子供みたいな態度は」
「何処が子供なんだよ!」
「子供だから、子供といっているんだ!」
「なんだとっ!」
二人は碁盤を囲みながら、言い合いになった。しかし、そこに突然、よく通る高い笑い声が響いた。
「んふふふ。また喧嘩をなさってるのですね。仲がよろしいこと」
何時の間にか、紫と帥が其処に居た。
「近衛がガキなのはよく知っていたつもりだが、明殿まで、こいつと関わっていると幼くなるようだ」
帥は少年二人を見下ろしながら、淡々としたいつもの調子で言った。
「別にボクは・・・・・」
明は反論しようとしたが、帥が遮った。
「近衛、おまえに話がある。すまないが、明殿、席を外してくれないか。紫もだ」
「オレに?」
明は訝しげに顔を一瞬しかめたが、言われた通りに出て行った。そして、紫も続いた。しかし、彼女は廂に出て行こうとする時、僅かに振り向いた。そしてほんの少し、哀しげな瞳を光に向けた。何か躊躇を心に抱えたような表情だった。光は、紫の顔が気になったが、彼女を見送るしかなかった。
そして光は帥と二人になった。
明は簀子に出ていた。
簀子に座し、庭の梅を眺めていた。紅梅白梅共に今を盛りと美しく咲き誇っている。そして庭先では鶯の鳴く声がした。
麗らかな日だった。
しかし、庭の梅よりも、鶯の鳴き声よりも、春の日の優しい日差しそれ自体よりも、もっと麗しい人が隣に居た。かねがね、変わった人だとは光から聞いていた。だが、明にとってもその人は本当に不思議な人だった。
「…陰陽道に興味が?」
明はその美しい人に訊ねた。先程から、ずっと彼女は明に、様々な質問を繰り返していた。
「ええ、そうですね。とても興味があります。私が男だったら、あなたの弟子にして頂けたでしょうか?」
そう言って、彼女は笑った。
笑って彼女の髪が揺れた瞬間だった。それは明の瞳に映った。
「それは・・・・・?」
明は目を細め、眉根を寄せると、彼女の耳元を見つめた。
「これのことですか・・・?」
彼女は耳元に手をやった。
「久しぶりに着けました。ふふ、珍しくお思いでしょう?」
「ええ」
「これは私の身を護ってくれる天津甕星・・・赤い火の星と云います」
「赤い火の星?」
「陰陽師殿なら、お詳しいはず」
「いえ、ボクは天文博士ではありません。初めて聞きました」
「ふふ、この呼び名は大陸の古い言い伝えです」
「では渡り物ですか?」
「そう、これは古くから、この地に住まう私の一族に伝わる守護星なのです。大陸から伝わった大切な品。昔はもう一組、対であったといいます。もう一つの天津甕星は金の光の星です」
「もう一組は・・・どんな色をしていますか?」
「その昔は金色をしていたと聞きました。しかし、今はその黄金は失われ、これと同じ赤い宝石だと」
「・・・・・・」
「どうか・・・なさいましたか?」
「・・・同じものを・・・都で着けている人を知っています」
「そうですか。ふふ、きっとそうだと思いました」
「え?」
「いいえ、さぁ、もう充分です。この星はまた外すことに致しましょう。あなたなら、訊ねるに足る人物と思い、お見せしたのです」
そう彼女は言うと、耳の石を外し、懐に入れてしまった。
明は、ただ黙って彼女・・・・・そう紫を見つめていた。
静かな時が流れていた。あの都に居る美しい人にとてもよく似た人。深い眼差し。白い顔。明は不思議な感慨を覚えた。
どれくらい、そんな静かな時が流れたのか、ふいに奥から、帥と光が連れ立って簀子に現れた。
「紫、近衛を連れて出かける」
帥は無表情にそう彼女に言い、すたすたと歩いていった。その後を小柄な光が付いて行く。
・・・・・・え?
明は光の顔を見て、妙に不安になった。
どうしたんだ、近衛?
やけに強張った表情をしている。そして彼は明に目もくれず、帥の後を追っていってしまった。
明は後に残った紫の方を見やった。紫は伏し目気味に二人を見送っていた。
夜になり、光が帰ってきたのは深夜だった。
襖障子を隔てて、寝起きしている明には、光の様子がよく伝わる。何か苦しげなうめき声が聞こえる。
確かに様子が変だった。
「近衛? 近衛? 入っていいか」
「・・・う・・ぐ・・・ご、ごめん。・・・起こし・・・た・・・か? ハァ・・・いいよ、心配・・・するな。大丈夫・・・だから」
「大丈夫な訳がないだろう!?」
明は襖障子を押し開けた。
「そんな苦しそうな声を出して、心配せずにいられるか! 一体どうしたんだ?」
そう明は怒鳴った。光は明には背を向ける格好で其処にうずくまっていた。
「い、いいんだ。見るな。自分で始末するから・・・・・」
「吐い・・・た・・・のか?」
「だから、いいって。あっち行けよ。こんな汚いもの、見るな」
「まだ気分が悪いなら、全部吐いた方がいい。簀子へ出よう、さぁ」
明は光の背をさすった。
そして、心配気に光の顔を覗き込んだ。
光は今度は明の言うとおりにした。明に肩を支えられると彼に体重を任せて歩き、よろめきながら簀子に出た。
「気持ちが・・・気持ちが悪い・・・ハァ・・・ハァ・・・」
そう呻きながら、光は簀子にうずくまり肩を激しく上下させていた。
明は必死に光の背をさすった。嘔吐は何回もやって来た。だが、もう胃の中に何も残ってないらしく、彼の口からは水のようなものしか出てこなかった。嘔吐と激しい呼吸を繰り返した光の肩は小刻みに震えていた。床に突いた指先はもっと激しく震えていた。
「水を持ってくるよ。待っていろ」
そう言って、明は光に自分の衣を掛けてやった。
小走りに帥の邸の中を移動しながら、いろいろな思いが頭の中を駆け巡った。
どうしたっていうんだ? 近衛。
おかしい。少しも彼は酒臭くない。だから、酒に酔ったのではない。では食当たりか?
一体どうしたっていうんだ!? わからない。
果たして、光の許に明は水を持って帰ってきた。
すると、光は先程よりももっとぐったりと床にうずくまっていた。
「もう何も吐けないようだな。さぁ、中に入ろう。体を冷やしてしまったね。悪かった」
そう言って、彼を抱え起こした。そして引きずるように光を御帳台に運ぶと、褥に彼を横たえた。
「大・・・丈夫・・・か?」
明は光に掛けてやった衣の上から、再び背をさすった。
そして気が付いた。光は褥に臥して泣いていた。
嗚咽に混じった、その声は僅かに聞こえた。
「これで・・・・・これで・・・都に・・・かえ・・・れ・・・る・・・」
「・・・近衛?」
「・・・これ・・・で・・・かえれる・・・んだ。これで・・・」
「帰れる? どういうことだ? 近衛!」
明は光の肩を掴んだ。
すると、光は顔を明の方へ向けた。そして、明の肩を掴み返した。
「賀茂、帥は有無を言わせなかった。オレに考える間さえ与えなかった。そして、オレは命じられた通りにしたんだ。他にどうすることも出来なかった。賀茂、どうしてだろう。オレはちっとも今嬉しくない。都に帰れるのにちっとも嬉しくないのはどうしてだ。それよりも気分が悪い。凄く悪い」
「どう・・・したっていうんだ? わから・・・ないよ? ちゃんと話してくれ。都に帰れるってどういうことなんだ?」
「恩赦が・・・恩赦が出たんだ。帝がオレを赦した・・・・・」
「なんだって・・・!?」
「なぁ、でもオレは気分が悪い。気分が悪い。助けて、助けてくれ! 助けて・・・・・・佐・・・為」
そう瞳に涙を一杯に溜めて光は叫ぶと、明の首に抱きつき、肩に縋った。
「気分が悪い。オレは気分が悪い。助けてくれ。あんなことはもう二度としたくない!」
「近・・・・・衛?」
ボクを・・・佐為殿だと思っている? 錯乱している? おかしい。
キミは錯乱しているんだ。
そう明は思った。
そして明は光の細い肩に腕を回し、再び背をさすった。
光は明の胸で泣いていた。しかし、次第に嗚咽は小さくなっていった。そしてそのうち、安心した子供のように、小さく丸くなり寝てしまった。
それでも明は光をしばらく抱きしめていた。妙な不安を覚えた。いや、陰陽師としての勘以上に、一人の人間としての魂が、彼を抱きしめ続けていた。だが、ついに彼を褥に戻し、衣を掛けてやった。そして、明は光の寝顔を見つめていたがしばらくして、彼の褥を離れた。
明は再び、簀子に出て独り頭を冷やそうとした。
すると、其処には帥が立っていた。
「あいつ、どうかしたか?」
帥は静かに言った。
「近衛は酷く苦しげでした。何があったんです?」
「今日、都から勅書が届いた。近衛を都に召還するという内容だった」
「恩赦があったとは本当だったのですね!?」
「ああ、オレがあいつの恩赦願いの奏上文を送ったんだ。あいつはオレの命の恩人だからな。だが、まさか本当に赦しが下るとは正直思っていなかった。政庁の炎上に加えて、都では疫病がはやっているらしいな。その為だ。天下の平安を願っての恩赦が本当に下ったらしい。
恩赦は近衛だけじゃない。島流しの罪人にも出されたんだ」
「そう・・・ですか」
「だが、近衛には条件が付されていた」
「条件?」
「ああ、だが、オレはあいつがあれしきのことで迷うとは思っていなかった。正直、いささか驚いた」
「一体何を迷ったんですか?」
「あいつに課されたのは、政庁放火の罪で獄に繋がれた海賊の首領の断手刑の執行だ。帝への忠誠の証にな」
「罪人の手を斬る・・・刑のことですね」
「そうだ。あいつがあまりに躊躇するので、オレは散々言った。今、朝廷からの命に背いたら、もう二度と都に帰る機会は来ないとな。それに首領は放火以前に略奪を繰り返し、何人もの命を奪っている大罪人だ。罪人を罰せなくて何で検非違使だ。あんなに臆病者だったとはな」
「そう・・・だったんですか」
「あいつがなかなか刃を振り落とさないので、縛られた首領自身が苛立って叫んだんだ。『オレはこの手で何人も殺した! 早くやれ!』とな。それでも動けないでいるあいつにな、仕方ないからオレが手を貸した・・・。可哀相だが、そうでもしないとあいつは謀反人だ。だが、これで晴れて近衛も都に帰れる」
そう言い残すと、帥は渡殿の方へ去っていった。
明はまた独りで考えた。
帝が・・・あの帝が近衛を赦した・・・
帥殿の奏上文にお心を動かされたとでも?
いや、あるいは本当に天下の安寧を期してのことなのだろうか。
公卿達がそのように帝に進言したとも考えられるが。
それにしても、わざわざ近衛に刑の執行を命じてくるなんて・・・
帝がそのようなことをなさるだろうか?
あの方がそんなあからさまなことをなさるとは・・・ボクには思えない。
帝はもっと・・・そうだ、違う。あの方のやり方なら、もっと・・・
では・・・では・・・
立春を過ぎたとはいえ、明の頬を今、まだ冷たい冬の夜風が撫でていった。彼はぶるっと肩を震わせた。
だが、どういうことにせよ・・・あなたの・・・あなたの思い通りになったという訳か 佐為殿。
つづく
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