防人の歌十三
ああ 遠い遥かな大地に日が昇る
そうさ 日はやがて玄武の山々をくゆらし起こす
聞こえるか 山の麓に広がる西の都の大宰府よ
なぁ 幾度この朝を迎えたろう
さぁ告げよ 消えた都府楼に いよいよ惜別の時は迫ったと
叫べよ 打ち寄せる西の海原に 朝焼けに染まる旅立ちの時は来たのだと
光に恩赦の知らせが届いてから数日の後だった。
明は光に連れられて、高麗の商人の住む館へ来ていた。
「良かった、キミ。元気になったみたいだ」
「ああ、ごめん。心配かけて。もう大丈夫だ。オレ、あの時どうかしてたんだ」
「近衛、もうあのことは考えるな。罪人が罪を償うのは当然だ。略奪と殺生の贖いに、首領が失ったものが妥当かどうかはボクにも分からない・・・。だが、温情ある刑と言わねばならないのだろう」
「ああ、分かってる・・・・・」
「今日は楽しみだな。ここに来てから、ずっとキミと碁を打っていた。キミがとても強くなったのは充分に分かったし、そのキミを鍛えた相手の一人に会えるということだね」
「うん」
そんな会話を交わしていると、高麗の若者達が姿を現した。
若者達は挨拶を交わすと、さっそく碁を打ち始めた。
明と背の高い高麗の青年はいい勝負だった。二回対局して、最初は高麗の青年が、次は明が勝った。光がその対局を見て言った。
「賀茂はやっぱ凄いな。オレはまだ彼には一回も勝てないんだ」
そしてその高麗の青年といつも一緒に居る少年と光が打った。光はこの少年になら勝てた。
最後に、光は一回も勝てたことのない青年と打った。
かなりの接戦だったが、やはり勝てなかった。
そして、礼をすると、光は呟くように言った。
「おそらく、おまえと打つの、これが最後だ。結局勝てなかったな」
その呟きを聞いた高麗の青年は言った。
「サイゴ? どうしてだ?」
「まだ言ってなかったけど、オレ、都に帰るんだ」
「都に帰る? ではもうオマエと打てないのか」
「そうだな・・・。そういうことになるかもしれない」
「そんな勝手なことを言うな! オレはもっとオマエと・・・・・光と打ちたい」
「オレと打ちたい・・・? そんなこと今まで言ったことなかったじゃないか」
「いや、オレは光の打つ碁が好きだ。ずっとそう思っていた」
「オレの・・・打つ碁が好き・・・? でも、オレは一回もおまえには勝てなかった。オレは・・・オレは・・・まだ
弱い」
「いや、光の打つ碁には、初めから惹かれていた。光の打つ碁の中に、あの昔、宋の楊海師から見せら
れた素晴らしい棋譜を想い起こした。あの棋譜は光の師匠のものだったのだろう?」
「そうだ・・・佐為の打った碁を知っているんだったな」
「光は初めにオレと打った時に比べると、とても強くなった。一手一手にキレもあるし、輝きも感じる」
「・・・今になって、そんなことを言われても、どう言ったらいいか」
「いつも、オマエは勝手にオレの言葉を誤解して、怒っていたから、話す機会がなかった」
「そんな・・・・・」
「勝ちて言わず、敗れて語らず。廉譲の風を振るう者はすなわち君子なり。憤怒の色を起こす者は小人なり・・・『棋経』の言葉だ。
光と初めて打った時、光はオレの言葉を誤解したせいか、凄く怒っていたし、思いっきり悔しげな表情をしていた。確かないい碁を打つのに、どうして心に落ち着きがないのかと思った。あの顔は忘れない。だが、今の光の顔は勝てなくても穏やかで謙虚だ」
高麗の青年は静かにそして淡々とそう語った。最初は、ほとんどしゃべれなかったこの国の言葉を今では、随分と話す。
言葉が通じなかったせいだろうか? 確かに自分が育て持っていた彼の像と、今目の前で語る青年の姿にはいくらか隔たりを感じた。光は今、どうしようもなく、高麗の青年に悪いことをしたと思った。
彼はこんなに真摯な言葉を紡ぐ人間だったのだろうか。いや、最初の誤解とて直ぐに解けたはずだった。それを静かに受け入れられない自分が居たのではなかったか。
見下したような視線も、冷淡な口調も、どれにも悪気があるわけではなかったのかもしれない。ああ、そうだ、自分は恐ろしく子供じみていた。そう光の脳裏には想いが巡った。
「佐為に・・・・・そうだ、佐為に、おまえを逢わせたかったな。
あいつにオレ、おまえと初めて打った碁の記録を書き送ったんだ。あいつに見て貰って、それで教えて欲しかった。おまえに勝つ方法を。だけど・・・返事は来なかった」
「光、オマエがオレの言葉を誤解したのを知った時、同時におまえの師に対する想いの強さも知った。そ
の師にオレの碁を送ってくれたというのは、オレとしてはとても光栄だ。オレもその答えを知りたい。あの強い強い打ち手の答えなら、喜んで知りたい。・・・・・だが、おまえにその返事が来たとしても、そんな一朝一夕でオレに勝てたとは思えない。日々おまえの力も知恵も新たになるように、オレもまた日々新たになっていく。そんなに簡単に棋力の差は縮まるものではない。返事を寄越さなかったのには、きっとおまえの師には何か考えがあるからだろう」
「・・・・・・」
光は目頭が熱くなるのを感じた。信じられないことに今、高麗の青年の言葉に感動していた。
ああ、ここは、筑紫は、大宰府は、素晴らしい場所だった。
たくさんの出逢い、いろんな出来事。すべてが自分を育んでくれた。今、心から光はそう思えた。
そして、初めて心から友人として高麗の青年と別れの挨拶を交わすと、明と光は高麗人の館を後にした。光の頼み
で、帰る前に博多津に寄った。ちょうど入り江の入り口を夕日が黄金色に染めている。眩しさに思わず二
人は目を細めた。
「綺麗だな」
馬から降りて明が言った。
「うん。これで見納めだ。不思議だ。オレ、この港に立って、何回・・・いや、百を越しているかもしれない、とに
かくこの光景を何回も見たけど、こんなに名残惜しいのは初めてだ」
「あの高麗の商人、高麗に帰ると言っていたね」
「ああ」
「本当にキミと打つ為に、ここに留まっていたってわけか」
「知らなかった。金持ちの道楽って言う連中も居たし。豪商の御曹司なんだ。だから、商船を勝手に帰ら
せて、自分だけは博多津で遊んでる・・・なんてな」
「なんだか、少し悔しいよ」
明はぽつんと言った。
「何がさ?」
光は屈託の無い調子で返した。
「ボクは、キミが大宰府に独り送られて、酷く悲惨な境遇に居ると思っていた。だけど、キミは、この地
でいろんな素晴らしい出逢いをして、そしてそれらの人々に見守られ・・・・・ ボクの知らないところで。あ
あ、そうだ。キミは随分と変わった。・・・そう随分と」
「オレは・・・大して変わっちゃいないよ、賀茂。それより、オレはおまえが此処に来たの、凄く嬉しかった」
「ボクが・・・?」
「だって、賀茂は賀茂だもんな。帥も知ってるには知ってる人だったけど、おまえとは全然違う」
「キミの説明はよくわからないよ」
「分かれよ、そのくらい。おまえ陰陽師だろ」
「キミの理論はむちゃくちゃだっていうのだけは分かるよ」
「何だって!」
光と明は睨みあった。だが次の瞬間には大声を上げて二人で笑っていた。
「行くか」
「ああ」
光は後ろ髪を引かれる思いで馬に乗った。
綺麗な夕日を背に受けていた。二人で街道を行く。この港と政庁を繋ぐ街道を何度往復したことだろう。行く手には、大宰府を護る水城がやがて見えてくる。もう海は遠かった。
次の日、光は大野山に来ていた。
この山に来るのは久しぶりだった。あの初秋の日以来だ。ススキで一杯だったこの山も、今は紅梅白梅が咲き誇り、山桜のつぼみもうっすらと色付き始めていた。春の訪れが山全体に今、高らかに告げられていた。
光は西の都を護るこの山もまた好きだった。
光が馬を降り佇んでいると、背後から別の馬の音がした。馬の音は止まり、その人は現れた。
「今日は、都ではなく、大宰府を眺めておいでですね」
「うん、見納めだよ」
「そうですか。ではよく目に焼き付けて行かれてください」
「うん」
「とうとう・・・望みを叶えられましたね」
「紫殿・・・・・でも本当にそうなんだろうか」
「何か、迷いが・・・?」
「都に帰りたい。オレはずっとそう思っていたし、今現在だって、それは変わらない。だけど・・・オレはこのまま、都に帰っていいんだろうか?」
「何故、そのように・・・?」
「・・・以前、宋から来た法師様の話をしたよね。あの法師様に言われたんだ。キミはきっと、都に帰れるっ
て。でもその時は今のままのキミじゃダメだって」
「それで、ご自分に色々なことを課されたのでは・・・?」
「ああ、そうなんだ。っていうか、そもそも自分が恥ずかしくなったんだ。いろんな意味で自分が未熟に思えて。だからもっともっと、いろんなことを勉強しなくちゃいけない、そう思った。でも・・・」
「でも・・・?」
「オレ、ちっとも成長してやしない。ちっとも、変わっちゃいない。最近は自分の未熟さばかりが気になる。オレが変わったって、賀茂や、高商人は言ったけど、実のところオレは大して自分が変わったとは思えない。こんなんで、オレは都に帰っていいんだろうか。あいつのところに戻っていいんだろうか。都に帰れるのだって、帥のお陰だ」
「通匡様が奏上文を書かれたのは、あなたが命掛けで救い出して下さったからです」
「でも、それを都に伝えたからといって、オレはそれだけで赦されたとはとても思えないんだ。大体あの火の海の中から生還できたのだって社に助けられたからだし。帥の力が無ければ恩赦だって下らなかったと思う・・・それにあの時だって帥がオレを助けてくれなければ、どうなっていたか・・・」
「光殿・・・」
「それに、タイミングさ。都では疫病が流行っているって。オレは結局一人じゃ何も出来ない。オレは皆に助けて貰って、初めて都に帰れるんだ・・・」
「あなたにそれだけ人を惹きつける力があるからではありませんか」
「そんなことはない・・・。都に帰る方法だって皆目見当がつかなかいまま、過ごしていたんだ。何時帰れるか分からなかった。無駄に時間を過ごすのは空しいって思ったよ。せめていつか帰れる時にはもっとマシな人間になっていようって・・・」
「光殿、あなたはご自分がちっとも変わっていないって、おっしゃったけれど、私も明殿と同じく、そうは思いません」
「・・・」
「何より・・・そうしてご自分を省みられる、あなたのその眼差しが証のような気がします」
「・・・そうだろうか」
「そうして、迷いを抱えられたまま・・・その在りのままの姿でお帰りになれば・・・そのあなたを受け止めてくださる方が都にはいらっしゃるのでしょう?」
「そう・・・・・だな、どうだろう」
光は大きな瞳を少し細めてそう言った。
「・・・いつも、強い強い信頼を置いているように感じていました」
「・・・オレの心はあいつの許に置いてきたつもりだ。でもやっぱり、逢ってみなければ、分からないこともある・・・」
「信じてらっしゃらないのですか?」
「・・・信じてる・・・信じているさ」
「ふふ、やはり光殿は輝いている・・・」
「え?」
「さぁ、もう戻りましょう。日が沈みます。明後日はご出発でしょう」
「うん」
そう言って光は西の海の方へ沈んでいく太陽を見ていた。昨日見た博多津の夕日に負けず劣らず美しか
った。夕日は青い空に浮かぶ白い雲を朱色に染め上げていた。その雲間から、朱色の光が幾筋も零れてい
た。
ふと光は紫を振り返った。彼女は馬に乗る準備を整えていた。
「待ってくれ! 紫殿」
「何ですか?」
「・・・・・紫殿、本当はオレのことなんか・・・好きじゃなかったんだろう?」
その言葉を聞くと、紫は静かに瞳を見開いた。だが、黙ったまま、そこに佇んでいた。
「紫殿は帥を愛しているんだろう? 帥の心を試したんだろう? それで・・・オレに。・・・別にオレを騙した、とかそういうことを言いたいんじゃないんだ。その、ただ、・・・そうだったら、オレは、そうだったらオレは・・・」
「光殿・・・」
そう呼びかけると、紫は馬に跨った。そして光の傍まで馬を進めると、いつものように背筋をぴんと伸ばし、毅然とした態度で馬上から語りかけた。
「あなた、やっぱり、まだまだですね。最後に女心を傷つけてお帰りになるおつもりですか」
「・・・!?」
光は予想だにしない答えにうろたえた。
「ふふ、ふふふふ・・・」
そんな光を見下ろすと紫は笑った。
「だから、あなたが好きなのです。さようなら、光殿。お元気で! でも、あなたを愛した私を時々は思い出してくださいね。今は都にお帰りなさい。お別れです。あなたの上にはいつもあなたを照らす光が絶えませんように! さようなら」
ああ、四神が皆男なら、大宰府を護る女神のような人!
不思議な人、優しい人、賢い人。さようなら!
光は春の花の香りに包まれながら、かの思い出深い人を見送った。それが紫を見た最後だった。
出発の朝、光は帥の邸の人々に深々と頭を下げた。紫を目で探したが何処にも見えなかった。帥は言った。
「元気でな。今度は都でおまえの道をしっかり歩むんだな。もうへまはするなよ」
光は帥に改めて深く頭を下げた。どれだけ嫌味を言われたか、どれだけぞんざいな態度をされたか分からない。でも知っていた。帥の心根は表面に出しているものほど奢り高ぶっているわけではない。いやそれよりも男としてむしろ、一分でもこのように在れば、と思っている自分に気付いて光ははっとした。
いよいよ、期せずして共に都に帰ることになった明と並んで邸の門をくぐった。そして朱雀大路を下ると社の館に寄った。
「キミには今では感謝しているよ」
そう、社の父君は言った。
「おまえが居らんとさびしくなるわ。ま、ええ。オレも数年後には都に行きよるで。その時はよろしくな!」
社は笑顔を作って見せた。帥はもう一人の命の恩人である社に対して、大宰帥の任期が終わるとき、共に都に連れて行くことを約束していた。地方役人が都に上る機会は、光と縁しなければ巡ってこなかったものだった。
社は博多の駅まで見送った。だが、とうとう少年達に別れの時が訪れた。
「社、いろいろ有難う。オレは此処が好きだ。またいつか来たい。本当だ。できれば、あいつを連れてきてやりたい」
「おお、いつでも来いや。待っとるで」
光と明は社と別れ、都に帰る官人一行に加わった。長い道のりを行くと、港に出た。瀬戸内の海へと船出する港だ。ここへ来るのはほぼ一年ぶりだった。光は大宰府の方角を振り向いて、大きく息をした。それから、長いことその方向を見つめていた。見えるのはなだらかな山並みだけだったが。そして、明に促され、乗船した。船はゆっくり漕ぎ出した。港を離れ、やがて広大な九州の岸辺が遠く小さくなっていった。
オレは行った。そして出逢った。勤め、学び、泣いた。
今、これを以って一つの精算の時に違いない。
さらば、筑紫の大地。そして大宰府よ!
防人の歌 終
第二部完
つづく
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