嵐山一 

 

 桜が散る
 音も無く散る
 まるで雪のように
 静かに一ひら、そしてまた一ひら
 音もなく散っていく

 そんな野辺に明るい声が響いた。
「賀茂、見ろよ。ここも桜が満開だ!」
 光は満開の桜を見つけると、急に走り出しては、爛漫と花が咲き誇る木々を見上げた。そして満面の笑みを浮かべると、屈託の無い声を張り上げていた。
 春を寿ぐ桜花が舞い散る中、大宰府に派遣された官人達が都に戻ってきたのだった。一行と共に光と明も歩を進めていた。
「まるで童子だな」
「なんか言ったか?」
「い、いや、なんにも。確かに綺麗だな。もう葉桜になってしまっているのもあるけど、どこも満開だ」
 光は陽気だった。都が近付けば近付くほど、快活さは増していた…かのように見えていた。ところがいよいよ洛中に足を踏み入れた瞬間、それまで威勢の良かった光の足が止まった。そして感慨深げに、京の都の街並みを眺めた。隣で共に歩いてきた明は尋ねた。
「どう? 一年ぶりに都を眺める心境は」
「うん・・・そうだな。帰ってきたんだな、本当に。なんだか、夢を見ているみたいな気もする」
「・・・気が急くかい、キミ?」
 明は光の顔を余り見ずにそう言った。
「そうだな・・・どうだろう、よく分からない。船旅の時には、早く都に近づきたいって思ったけど、いざ近付いて見ると、どうも変な感じがする」
「変な感じ?」
「ああ、なんか・・・ちょっと・・・いや何て言ったらいい? 足を踏み入れるのが恐ろしいような・・・そんな気もする。それに今朝食べた(ほしいい)のせいで胸がムカムカするんだ。おまえ、平気か?」
 明は少しだけ瞳を見開いた。だが、いつもの冷静な口調で言った。
いや、ボクは別に。キミ・・・気分、悪いの・・・?」
「いや、大丈夫だよ。平気だ、大したことはない」
 しかし、そうは言っても、光は少し青ざめた顔をしていた。そして胸を押さえながら深い呼吸をする音を、明は光のすぐ横で聞いた。
 長い旅がいよいよ終わろうとしている。もう直ぐ。
 このまま目の前の大路を行き、数回曲がりさえすれば、いいのだろう。そうすれば、そこでもう自分の存在は消えるのだと明は思った。これだけ彼が希求した故郷に近づいた今、かつて無いほど、光を独占できた日々が終わる。既に光にとっての自分の存在は薄れつつある。それを静かに確かに明は感じていた。
 立ち止まっている二人は、何時の間にか官人一行から取り残されていた。そこで何かを思い切ったように、明は口を開いた。
「近衛、少し休まないか? この桜の下で。キミ、桜を見たかったんだろう」
「休む・・・?」
「疲れたろ? 少し休めば、気分もよくなるさ」
 光は少し考えたようだが、再び胸を押さえて俯いた。それから明が指し示した辻の桜の木を見上げると、返事をした。
「そうだな、そうするよ」
 光と明は大路の脇に腰を下した。一息入れると、光は明に言った。
「碁、打たないか?」
「え?」
「碁を打とうと言ったんだ」
「ここで? 碁盤も碁石もないじゃないか」
 明はきょとんとした顔を光に向けた。
「こうするんだよ。ほら」
 光は傍の地面に落ちている小枝を拾った。小枝は花や蕾を付けたままだった。光はその小枝で足元の土の上に、線を引き始めた。
「なるほど、これはなかなか酔狂だね。ボクも手伝うよ」
 明は微かに口元をほころばせた。
 そうして二人がしばらく小枝を持って苦心すると、地面の上には十九路の盤面が出来上がった。
 仕上げに明が星を書き入れた。すると、何か思い付いたように、光は地面に落ちている桜の花を拾ってきて、いくつか星の位置に置いた。
「ほら、これでどうだ」
「星が花?」
「風が吹いたら飛んじゃうけどな」
「いや、綺麗だよ。キミにしては風雅だな」
「おまえ、いつも一言余計だ。オレ、これでも桜は好きなんだ」
「そうだね、キミさっきから、桜を見て喜んでた・・・。そういえば桜、キミにとって嫌な思い出じゃないのか」
「嫌な思い出・・・とかそういうのとは少し違う・・・。賀茂、オレ一年経ってようやく・・・いや、今、そんなことはいい。それより、碁を打とう」
 そらした言葉の先にあったのは何だろうと明は思った。だけど、執拗に尋ねたりしない。それより、碁を打とう。明の心もまたそのように動いた。二人は小枝で、石を書き入れながら、数手を打った。だがそこで明は思い出したように言った。
「星がね、花の形に象嵌細工してある碁盤が本当にあるそうだよ。さぞ綺麗だろうね」
「花の形に象嵌?」
「そう、星の場所に花模様の細工がしてあるんだって。昔、行洋殿が千載一遇の機会に恵まれて、見ることが出来たと言っていた。それは見事な品だったと・・・」
「何処にあるんだよ? そんな碁盤」
「奈良の東大寺だよ。あそこには、そんな宝物がたくさんあるんだ」
「宝物?」
「上代の帝に縁のある品々が献納されていると聞く・・・。めったに倉の扉は開かれないそうだよ。今上の帝もご覧になったことがあるかどうか」
「へぇ。そんなもんがあるんだ。でも倉に入れっぱなしなんて、宝の持ち腐れじゃん」
「ははは、まぁ・・・そうだね。ボクも見たわけじゃないから、何ともいえないけど」
「あ、花が・・・!」

「その時、星に置かれた桜の花は、ふいに吹いてきたそよ風にさらわれ、飛んでいってしまった。
「仕方ないね。細工された模様ではない本物の花の美しさを味わった代償だな」
「そうだな」
 そう会話を交わした後は二人の間に言葉は無かった。何故なら、地面の上で繰り広げられる勝負に命が宿ったからだった。二人は碁を打ちつづけた。早い碁だった。たいして経たないうちに、勝負は佳境へと進んでいった。言葉を交わさなくても石が語る。その一手が伝える。ずっとこうだったのだ。明が大宰府にやって来てから、こうして、共に都に帰ってくるまでの間ずっと。来る日も来る日も、二人は手談を交わしていた。そんな日々は都に居た頃にさえ無かった。しかし、これはその終焉の一局だった。
 しばらくして勝敗はまだ決まっていないのに、光が言った。
「この勝負、オレの負けだよ・・・」
 光がもしかしたらそう言うのではないかと、明は思っていた。だから驚かなかった。ただ、光の顔を見上げて言った。
「キミ、まだ負けてないよ、いやボクよりいいくらいだ、分かっているだろう? 打ち掛けにすればいい。じゃぁ、行こう」
「うん、そうする」
 二人は、地面に残された碁を、そのまま消しもせず立ち上がり、再び歩き出した。
「ごめん、賀茂。いいところだったのに」
「いいよ、別に。だけど、約束しろ、また続きを打とう」
「ああ、もちろんだ」
「走るか?」
「ああ!」
 そう言うと、二人は走り出した。大路を二人の少年が走っていく。その姿を時折出逢う街の人々はきょとんとした顔で見送った。
 そして、数回曲がった先の小路に目指す屋敷は在った。見慣れた築地塀の先に門が見える。光は、その門を見て一瞬足を止めたが、その後は尚一層、早く駆け出した。懐かしい門前にたどり着くと、はあはあと肩で息をしながら、勝手知ったる様子で中に入っていった。 
 光は凄い勢いで庭に回り、寝殿に向かって大声で叫んだ。その懐かしい名前を。

「佐為!」
 しかし以前そうだったように、名を呼べば笑顔で出迎えてくれるはずの青年の姿は、いくら待っても現れなかった。光はもう一度叫んだ。
「佐為!」
 だが、やはり返事もなければ、その人が現れることもなかった。
 にわかに、光は胸に焦りを感じた。
 だがやっと、簀の子に人が現れた。見知った家人だった。
「ああ、良かった。誰も居ないのかと思った」
 そして光は、家人に畳み掛けるように尋ねた。
 一方明は、光が消えていった築地塀の向こう側を、見つめていた。
 それから、ようやく踵を返して立ち去ろうとした瞬間だった。突然背後から呼び止められた。
「賀茂!」
 振り返ると、光が走ってこっちにやってくるところだった。
「どうしたんだ!? 近衛」
「賀茂、頼みがあるんだ。馬を貸して欲しい!」
「馬・・・!? どうして。佐為殿はどうした?」
「居なかったんだ。あいつ・・・あいつ、嵯峨に行ってるらしい・・・」
「嵯峨・・・? 何の用だ」
「それが召使いたちも良く分からないって。・・何日か前に嵯峨に行くって出かけたきり帰ってきてないって言うんだ」
「そう・・・か」
 明は考え込むように、顎に手を当てた。
「でも待て。嵯峨野には、大臣殿や、大納言、中納言殿の別邸もたくさんある。もちろん、佐為殿のお父上の邸も・・・。何方の邸に行かれたとか、聞かなかったか?」
「それが、それも分からないって。訊ねても『嵯峨に行く』としか答えなかったって言うんだ」
「・・・・・・」
 明は思いあぐねるように、視線を宙に彷徨わせた。しかし、お構いなしに光が畳み掛けた。
「こっからだったら、おまえん家の方が近いだろ。悪いけど、馬を貸して欲しい」
「待て、近衛。行ってどうするんだ」
「どうするって・・・」
「落ち着け。・・・つまり、嵯峨にこれから駆けて行ったところで、佐為殿が何処に居るか分からないんだろう? 無茶だよ」
「・・・」
「今日のところは自分の家に帰ったらどうだ、近衛。父上母上が待っているだろう? それに・・・実は、口止めをされていたから、今まで言えなかったことがあるんだ。聞いて欲しい・・・」
 だが、明の言葉は光の耳を通り過ぎていった。全く聴いてはいなかった。光は尚も必死に訴えた。
「頼む、賀茂。家には帰れない。あいつの顔を見るまでは、落ち着いて家になんか帰れない! 体だけ帰ったとしても、オレの心が一緒に帰れないんだ。頼む、賀茂!」
「・・・・・・分かった。好きにするがいい。だが決して無茶はするな」
「分かってる」
 結局、明は光の言う通りにしてやった。
 それはもうどうしようも無いことだと、明は思った。さっきまで桜の下で手談を交わしていたのだ。だから分かる。光を止めることはできない。明にはそれが分かっていた。
 光は礼を言い、明の屋敷を後にした。明はそうして今度こそ一人になった。一人になった今、初めて抑えていたもの、塞き止めていたものが溢れ出した。彼は、傍らにあった木に拳をぶつけた。手の甲に痛みが走った。
「嵯峨・・・だって。嵯峨・・・か。近衛の召還をまさか知らないわけでもなかろうに。どうして今ごろ嵯峨に行ってるんだ、あの人は! ああそうだ、近衛に言った通り、嵯峨には多くの公卿方の別邸がある。そうに違いない。だが、それだけじゃない・・・あそこにあるのは・・・」
 そう、明は吐き捨てるように言った。
 
 
 京の都の条坊から西の方角に程よく離れた嵯峨は風光明媚な土地だった。嵐山の麓を流れる桂川の上流方面には瀟洒な官人達の別邸があちらこちらに佇んでいた。
 しかし、その中でもひときわ、美しい佇まいが在った。その美しさと、豪奢な様子は他の邸とは比ぶべくもなかった。何故なら、それは天子が時折遊楽や療養に訪れる離宮だったからだ。
 さて、その美しい佇まいによく似合う美しい庭を佐為は眺めていた。庭には桜の木が何本も植えてあった。そのどれもが今を盛りと満開に咲き誇り、風薫る新緑と混じりあっていた。
 佐為は石を運んでは、程よい場所に置いた。そして相手の石を待つ間に、庭を眺めた。この碁では殆ど思考を働かせる必要は無かった。もう次の手もその次の手も、さらにその先もずっと既に頭には描けていた。だから、次の手を待つ間に、彼は桜を愛でていた。その横顔は哀しいほど美しかった。哀しいほど美しいと思ったのは彼と相対して石を打っていた天子だった。天子は先ほどから喉の奥に留めていた言葉を遂に口に出した。
「・・・気になるか?」
 その声にはっと我に返ったように、佐為は天子を見つめた。
「・・・いえ、ただただ・・・桜が美しいと・・・、思っていたのはそれだけです」
 天子の言葉に込められた僅かななじりの気配を、佐為が感じないはずは無い。少し困ったように居ずまいを正し、もう庭に目を向けないようにした。
「よい、いくらでも・・・花を愛でるが良い。そなたにこそ、この庭を見せたいと・・・、そなたと共に桜を愛でたいと・・・そう思ったのは余だ」
 そう言った天子の瞳にはだが、哀しみの色が浮かんだ。
 ・・・そなたの瞳の先にあるものが、あの桜だけなら良いものを。
 桜の透ける花びらの向こうに、そなたは何を見ていた、佐為? この冬の間、そなたの瞳は余を見ていたではないか? かつて無いほど、余はそなたを独り占めにした。苦労した末に、今やっと真の意味でそなたの後見という位置を自分のものにしたのだ。
 そなたをずっと見つめてきた余には見える。見えなければ、幸せなものを・・・! 
 あの桜花の先にそなたは何を見ていた、佐為?
 答えなど聞きたくない。知りたくもない。だが、そなたが愛しい、佐為。
 
 厭わしい知らせが今朝ほど届いたのだ。大宰府に遣わした官人達が都に帰ってくる。
 そなたの耳にも入ったのであろう。それからだ。そなたは余の前にいながら、もう余の前には半身ほども居ない。魂は何処へ向かっている、佐為? 
 ああ、分かっている。すべてはそなたに約束したこと。違えることはできぬ。支払いの時が来たのだ。
 しかし、この期に及んでやはり辛い。だが詮無いことだ。潔くあれ、余は天子だ。
 最後の時に、そなたを独り占めしたかった。それだけのこと。だからしばし、ああもうしばし・・・余の前にそなたを留めたいのだ・・・!

 天子の願いは聞き入れられたのか、佐為の瞳は、今は真っ直ぐに相対する碁の相手を見詰めていた。魂が戻ってきたようだと、天子は感じた。
 すると、それを寿ぐように、佐為の傍らの台盤に置かれた杯にふと花びらが舞い降りた。
「花を映すのは、庭の池ばかりではないようでございます。私の杯の水面(みなも)にも花が咲きました」
「ふふ、そのようだな。花もあの広いばかりでつまらぬ池に落ちるより、そなたの杯に落ちた方が幸せであろう。やがてそなたの口に吸われる定めなら、余もそなたの杯の中の花びらに生まれ変わりたいものだ」
「お言葉が・・・過ぎます。それより、先程から杯にお手をつけておいでになりません・・・。ご無理をなさっておいでなのでは・・・?」
 佐為は心配そうに、相対する貴人の顔を拝した。 
 二人の間に置かれた碁盤は庭の優美な池や築山がよく見渡せるように、簀子に面した廂の間に置かれていた。蔀は上げられ、格子は外されていた。最初は、御簾だけが下ろされていた。だが、それも上げるように、帝は命じた。そして、桜の花びらは、簀子よりも一段高い廂の間に時折舞い落ちるようになった。はらはらと舞い落ちる花びらは帝の御座が設けられた畳の上にも花を咲かせていた。帝は微笑みを浮かべていた。それが、佐為の杯にも美しい花を咲かせたとあれば、なおさら高貴な笑みを誘った。 
「いや、無理はしていない。典薬頭(てんやくのかみ)も戸外の空気を吸うようにと言ったのだ。だが、酒はまだ早かろう。そなたこそ、手をつけていないではないか。余に遠慮せずに飲むと良い」 
「いえ・・・飲めば花を吸ってしまいましょう」
 そう言って、佐為は庭の桜にも劣らない美しい顔で悪戯っぽく微笑んだ。その笑みを見て、天子もまた笑んだ。しかし浮かべた笑みの下で胸がちくリと痛むのも感じていた。

 そなたが他所を向いている時と、こうして余を真っ直ぐに見つめる時とでは違うのだ! 
 そうだ、先ほどまでは見えていたように感じたそなたの心が見えなくなる。気の利いた受け答えも、真っ直ぐに見つめてくる瞳も、全てが真実に思える。そなたは嘘が苦手であろう、佐為? ならばその瞳は、今は余のものなのか?
 ああ、四十を過ぎた天子がまるで初心な娘のように、恋した相手の一挙一動に心を悩ませるとは、滑稽もいいところよ。

 帝は佐為の顔を見るのが無性に辛くなって、視線を碁盤の上に彷徨わせた。
 佐為もまた、視線を落とすより無かった。
 無言になった二人の間にふと、桜の花が花弁を全て付けたまま、はらはらと舞い降りてきた。二人は、言葉の無いままその花の行方を見守った。すると、花は碁盤の上に落ちた。不思議なことに、もう一輪続けて、碁盤の上に花弁を揃えたままの花が舞い降りた。ちょうど対角をなす、星の位置に落ちた。
 これまで無言だった二人は揃って「ほ・・・う・・・」と感嘆の声を上げた。
「これは・・・随分と奇遇だな」
「なんと美しい碁盤でございましょう」
「ちょうど、対角にあるそなたの石と余の石の上に落ちたな」
「はい・・・」
「星に重なるというのも珍しい」
「仰せの通りでございます」
 盤上に咲いた花は美しかった。その美しさに、佐為は瞳を震わせた。だが、盤上の星を映した瞳こそ美しかった。瞳は盤面の神秘に吸い込まれるように煌めいたからだった。 
「まるで、星空に花が咲いたようでございます」
「佐為・・・、そなたの言葉で思い出した」
「何をでございますか?」
「十日ほど前に、奈良から遣いが参ったのだ」
「奈良から・・・?」
「東大寺の正倉を知っているであろう?」
「正倉院のことでございますか?」
「いかにも。あの三つ倉のうち南の倉と北の倉が盗難に遭うたのだ」
「まことでありましょうか! なんと嘆かわしいことでございましょう」
「そうなのだ・・・またも嘆かわしいことだ」
 帝はひとつ、ため息をついた。が、直ぐに続けた。
「余は勅使を東大寺に送り返した。北の倉の宝物の権限は朝廷にある。宝物の点検と、壊された倉の修復の為には、北の倉を正式に開扉しなければならぬのだ」
「北の倉は大君の御勅命によってしか、扉の封を解かれることは許されていないからでございますね」
「その通りだ」
「盗難の被害は、どうのようなものであったのでしょうか?」
「その報告が昨日参ったのだ。被害の程は・・・よい、そなたが案ずることではない。それより、佐為。数十年ぶりに開かれた倉の中にあったものの詳細を読む方が面白かったのだよ」
「面白いとは・・・如何なことでございましょう?」
「佐為、正倉の宝物の中には、いくつか碁盤があるそうだ」
「碁盤が・・・」
「中でも北の倉に、聖武帝がご愛用になった唐渡りの碁盤がある。それは素晴らしい細工が施されているという。喩えのようの無い美しい品だと・・・。珍しい絵図がいくつも木と象牙で象嵌されているのだが、盤上の星は花の形をしているのだそうだ」
「花の形を・・・ああ、聞いたことがございます」
「この星に落ちた桜と重なるではないか、佐為?」
「ええ、いかにも。まことに不思議な偶然。そしてさぞ美しい碁盤なのでございましょう。なんとも、興が誘われます。さすが、正倉院の御宝物・・・・・。伝え聞いたことしかありませんが、いずれも重宝中の重宝、素晴らしいものばかりと・・・」
「だが、余でさえまだ見たことは無いのだ」
「御宝物の御主である大君でさえ、まだご覧にならぬ国家重宝の御品に盗難の穢れとは腹立たしいことでございます」
「佐為・・・」
「はい?」
「そなた・・・その碁盤で碁を打ってみたくはないか?」
 佐為は、ただ、きょとんとした顔でその言葉を聞いた。今は桜花に酔った帝の戯言としか思えなかったからだった。




 


 さて、嵐山に差す日にも翳りが見え始めていた。光が馬を最初に蹴ってから、かなり時が経っていた。都の中心から、飛ぶように馬を駆けてきたのだ。しかも休むことがなかった。まさしく息も絶え絶え、やっと桂川のほとりに辿り着いた。
 なだらかで幅広な川のせせらぎを前にして、光はようやく馬の手綱を思いっきり引いた。馬は嘶きながら、前足を勢いよく蹴り上げた。光は振り落とされないように、上体に思いっきり力を込めた。馬は川の手前で止まった。目の前に掛かる長い橋の向こうに嵐山が見える。汗は額から滴り落ち髪をぐっしょりと濡らし、鼓動はまるで雷鳴のように轟いて、胸を破りそうだと思われた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
 光は苦しさに喘ぎ、馬の背にもたれた。そして、自分の胸を押さえながらも、馬の首をさすってやった。
川面からは水の流れる音が山に、花に、そして空に響いた。
「ごめんな、こんなに走らせて。やっと着いたよ。でもこれからが問題だ。オレは馬鹿だ。賀茂の言った通りだ。一体どうやって、あいつを探したらいい?」
 光は目的の場所に辿り着いて、初めて途方にくれた。
 だが、吸い寄せられるように、長い橋を渡り始めた。
 儘よ! この先の何処かにあいつは居る。ならば、オレはここを進むしかないじゃないか!
 途方に暮れはしても、光の心に迷いは無かった。
 それは見えない糸に手繰り寄せられるかのようだった。こうして用心深く橋をゆっくりと渡り終えた。しかし、馬が土の上に歩を踏み出すや、再び光は馬の腹を勢いよく蹴った。馬は嘶きながら走リ出した。
 桂川を挟んで渡った対岸には、あちらこちらに満開の桜の木があった。青い新緑を背景に、うっすらと淡い色にけぶり、辺り一面に柔らかな帳を掛けたような桜花の美しさ。
 霞か雲のようだ! 天女の羽衣もここまで美しくはないだろう。
 光は感嘆しながら、馬を駆けた。
 そして、しばらく行ったところで、はっとしたように、再び手綱を引いた。道の脇に止まっていた一台の車に気付いたからだった。車を大分通り越してしまったので、慌てて、向きを変え引き返した。初めのうちは、確信が持てなかった。だが、通りすぎた車に近づいて行くうちに、光は息を飲んだ。
 牛車には見覚えがあったのだ。そう、見間違えるはずなど無い。幾度、その車に乗ったか知れなかったからだ。見れば、車を止めて休んでいる牛飼い童は、あの夜襲に遭った日も車を引いていた牛飼い童だった。

 


 佐為は、音も無く散る桜の中に居た。
 其処には誰も居なかった。
 帝を見舞った嵯峨の離宮からの帰りだった。
   さぁ、もうそなたは帰るが良い。日が暮れぬうちに  
 信じられないことに帝はそう言ったのだ。解放を告げた帝の眼差しを想い起こすと、佐為は胸が苦しくなった。一方で痛みを、一方では安堵を・・・。引き裂かれる二つの想いを抱えながらも、彼は家路に着いた。だが、車が嵐山に差し掛かると、舎人に止まるように言った。満開の山桜の木々が奥に見えた。彼はまるで誘われるように、雑木林の中に足を踏み入れていった。

 ただ、佳人は桜を眺めていた。佐為が桜を愛でていたのだろうか?いや、桜が佐為を愛でていたのだろうか。
 白い直衣の美しい人影。花の帳に抱かれ、まるで水と葉と空気の中に優しく融けていくようだった。
 そこには音はまるで無かった。あるのはただ、舞い散る桜花と、その中にうっすらと白い光を纏ったその人影だけだったのだ。

 光はゆっくりと、歩を進めた。
 やがて白い後姿が、視界に入っても、決して走り出したりしなった。いや、したくても出来なかった。何故か、心も体もそのようにしか動かなかった。あと十歩と迫ったところで、音の無い世界に突然音がした。光が下草や小枝を「がさっ」と踏んだ音だった。その音が合図となり、まるで鐘楼で鐘が打たれるように、桜の木々が一斉に揺れた。
 その振動は其処に立っていたその人の意識も揺らした。

 そして、彼は後ろを振り返った。
 瞬間、辺りは嵐のように舞い散る花びらで埋め尽くされた。
 
 

 つづく

*正倉院の碁盤の話は雅景さんとのおしゃべりから生まれました。ありがとうございました!まだ、この正倉院宝物・木画紫檀棊局の話は続きがある予定です。尚、木画紫檀棊局は現存の史料から唐渡り(中国からの舶来品)という断定はなされていないようです。
 そういえば、実在の寺院名は出さない方針と一部二部あとがきに書いたのに、思いっきり出してます。すいません。東大寺正倉院は例外です(汗)。
 

 

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