水魚 

 

「すっかり暗くなっちゃったな」
 光が言った。
 夕刻の嵐山から、光は佐為を乗せて馬を走らせた。左京にある佐為の屋敷に辿りついた頃には、もうすっかり宵の闇に包まれていた。

 出迎えた家人たちは皆、目を丸くして驚いていた。
 主人が数日ぶりに帰ってきたのはいいが、出かける時に乗っていったはずの車は一体どうしたのか? 
 そして今日の昼に、一年ぶりにひょっこりと戻ってきたあの検非違使の少年・・・主が留守と知るや、一目散に駆け出していったあの少年と・・・一緒ではないか。そしてどういう訳でか、二人は馬に乗って睦まじく屋敷に帰ってきたのだ。
 
 どうやら、少年は主を迎えに行っていたらしい。
 いやいや、行く先を知らなかったのだ。
 ではどうやって主と逢えたのか。探し出して連れ帰ってきたとでもいうのか。
 いや、どいういきさつかは分からない。しかし、あの少年が出迎えに行ったとなれば、主人が楽しげに帰ってくるのも頷けるではないか。
 それ、思い出してみるがいい。一年前にこの屋敷にあの少年が住んでいた頃のことを。あの頃の主人の様子といったら。
 ああそうだ、そうだったな。確かに思えば不思議ではない。目に入れても痛くない、とはあのことを言うのだろう。そんな様子ではなかったか。
 ああそういえばそうだった。確かにそうだった。
 家の者達は訝しげに顔を見合わせながらも、最後には皆こうして頷きあった。

 そして家の者達の驚きをよそに、戻ってくるなり主人は言った。
「遅くに悪いが沐浴の準備をしてくれませんか」
 普段からあまり無理を言うような主人でなかったので、家人は皆あっけにとられている。
 そんな様子を見て光は慌てて言った。
「まて、いいよ、佐為。オレは体を拭ければ、それでいい」
「それでは旅の疲れも汚れも取れぬでしょう」
「じゃぁ、行水をするよ」
「いいえ、こんな時間に水を浴びては体が冷えてしまいます。蒸し風呂の用意をさせましょう」
「いいったら。時間もかかるだろ。オレは水を浴びるのなんて慣れてるからいいよ」
 佐為を押し切って、光は自ら湯殿に向かって行こうとした。佐為はそれを追いかけた。
「では光、せめてお湯を沸かさせるから待ちなさい」
「うん、わかった」
 光はそう言うと、しかし急に腑抜けたように、床にしゃがみこんでしまった。
「どうしたのですか!?」
 佐為はびっくりして床に跪き、光の顔を心配気に覗き込んだ。
 光は自分を覗きこんだ佐為の顔を見つめ返し、一言こう言った。
「疲れた・・・」
「可哀相に・・・。そうでしたね、あなたはずっと馬を駆け通しだった。さぞ疲れたでしょう。ごめんね、光。私が替わってあげればよかったのに」
「おまえに替わってたら、今ごろもっと疲れてるさ、きっと」
 光は笑って言った。
「言いましたね」
 佐為は光を睨んだ。睨んだのは瞳だけだった。口元は微笑んでいた。
 それを見て、大口を開けて笑った光も今度は何も言わずに佐為の瞳を見て微笑んだ。
 しかし、そんな穏やかな空気を壊す音が突然響き渡る。
 ぐぐぐぐ・・・。光の腹が静寂の中に鳴ったのだった。
「ああ、オレ・・・お腹と背中がくっつきそうだ。腹減った・・・もうだめだ」
 そう情けない調子で訴えると、光は再び脱力したように、床に蹲った。
「光、ああそうでしたね! では湯を沸かす間に食事をしましょう」
 そうして光は、懐かしい佐為の屋敷の寝殿で食事をとった。
 光はかき込むように、出されたものを平らげていく。
 時々、たまりかねて佐為は口を挟む。
「もう少しゆっくり食べなさい。噛まないで飲み込んでいるではありませんか。あなたはその癖が治っていないようですね。私があれほど言っていたのに」
「普段は、もっとちゃんとゆっくり食べてるさ。おまえに言われた通りな! でも、今日は特別だよ。もうお腹が空いて死にそうなんだ」
「本当に普段はこの通りではないのでしょうね?」
「本当だってば!おまえも相変わらず疑い深けーな」
「なんですって!」
 佐為が恨めしげにそう言うと、また二人は視線を合わせて笑った。
 不思議だ。何もかもが・・・いろんな想いが・・・溶けていく。おまえのその暖かい瞳の中に吸い込まれていく。もう、何もかもいい。どうだっていい。
 オレの留守におまえが誰とどう過ごしていたかなんて、もう何処かへ消えてしまった。筑紫で想いを巡らしたはずだった心のわだかまりもなにもかもいい。賀茂に悟られないように気をつけていたんだ。密かに考え続け、心を悩ましていた、オレは! だがそんなことはもうどうでもいい。そんなものはどうでも。こうしておまえが目の前にいる。オレの前に。
 それでもういいんだ。だって、この瞳は今オレのものだ! そして、それは本物だろう? なぁ、佐為。それより、おまえに伝えたいことがたくさんある! 光はそう思った。
「光、湯を浴びてきなさい。用意ができたようですよ。」
 佐為がそう言うと、光は沸かしてもらった湯で行水をした。水よりはマシだが、湯を浴びた後は体が夜の冷気に震えた。光は湯殿から出て、着替えると寒気とともに、再びぐったりと疲労感が蘇ってきた。もう体はへとへとだった。
 重石に繋がれた体を引きずるように、母屋に戻ると佐為が待っていた。
「さぁ、こちらへいらっしゃい、早く」
 そう言って、彼は待ちかねていたように、すぐ傍に座るように促した。
 彼の傍には火桶が用意してあった。春が訪れたといっても、まだ時折花冷えがする。この夜もいつもより空気が冷たかった。
 佐為は光を直ぐ傍に座らせると、火桶の風を扇で仰いでやった。
「暖かい」
 光はあくびをしながら言った。ふんわりと、暖かい風が心地よい。旅の疲れが癒えていくようだと感じた。
 だがまもなく、さらに心地よい感覚が光を襲った。髪を梳かれているのだ。
「佐為?」
 光は振り返った。
「ゆするで髪を梳きましょう。ほら、やはり、光は男前ですよ」
 佐為はゆする(米のとぎ汁)を櫛につけて、光の髪を梳いてやっていた。
 ああそうだ、彼はそうだった。
 最初の頃は驚いたものだった。まるで侍女がやるようなことを平気でしてくる。全てとは行かないが、気が向くとこまごまとした身の周りの世話をまるで母親のように焼く。そんな習慣が殊に強くなっていったのは、光が怪我をして利き腕の自由が利かなくなった辺りからだった。あの頃は食べることでさえ、佐為が世話をしていた。箸で一口一口光に運んでやっていたのだ。それが佐為と光の暮らしだった。家人たちも主のそうしたところには慣れていたので、やりたいようにさせていた。
 しばらく忘れていたその奇妙な感覚を、光が取り戻すのにそう時間は掛からなかった。一年前の夜から何事もなかったかのように、時が繋がったようにさえ感じられる。
 佐為を制止するでもなく、満ち足りた笑みを浮かべて光は言った。
「気持ちいい」
「それは良かった・・・ほら、艶がとても良い」
 そう言って、佐為は光の洗いざらした髪の毛にゆするをつけながら、丁寧に梳いてやり続けた。
 光は言葉の通り、本当に気持ち良いと感じていた。とても心地よいので、体の力が次第に抜けていくのを感じた。後ろで何か言ってる? 今、彼はなんと言ったのだったか・・・そう頭が鈍い調子で思い出そうとしながら、意識はふんわりと遠のいていった。
「光・・・本当に見違えるようだ・・・私はおかしくなかったようです。ほら、あなたはとても・・・」
 そう背後から優しく語りかけたが、返事はなかった。代わりに、少年は少し肩をふらりと揺らした。かと思うと、佐為は胸に重みを感じた。
「光・・・?」
 胸に倒れこんできた少年に呼びかけたがやはり返事はなかった。覗き込むと、彼は深く瞼を閉じていた。疲れきった少年の意識はもはや無かったのだ。佐為に体重を預け眠ってしまった。
「本当に疲れきっていたのですね。」
 そして、佐為は、寝てしまった光の体をゆっくりと、横にしてやった。膝に頭を乗せてやると、体には衣をかけてやった。
 それから、再び乾ききっていないその髪を火桶の風に当て、乾かしてやった。しばらくして、ようやく髪は乾いた。
 髪が乾くと、彼は以前より大きくなった少年を大層苦労して抱きかかえた。力が要ったが、光が少しでも痛い想いをしないように、できる限り優しく抱えた。なんとか塗篭に引きずっていくと、御帳台に横たえた。そして、昔やっていたのと、そっくり同じように少年のすぐ横に、自分も横たわった。
 それは昔のままの情景だった。しかしその実、何もかもが昔のままでないことを佐為は知っていた。
 光が眠ってしまってよかった。彼はそう思った。
 これで、いつかの夜のように、まったく自分の思いのままだったからだ。
 彼はこの世で最も大切な少年を抱きしめた。その喜びに酔いしれていた。彼は少年の額に口付けた。そしてこの夜はこれ以上ない幸せな眠りに落ちていった。 

 
 明くる日、光は目を覚ますと、しばらくは呆然とそのまま、褥に横たわっていた。頭の中がまっしろで、自分が今何処にいるかさえ、はっきりしなかった。
 しかし、次第にぼやけた視界がはっきりしてくると、白い帳の中に寝ていることに気付いた。
 ああ栴檀の良い香り。佐為の香りだ。
 褥に鼻先を付けて、その残り香に浸った。塗篭のなかには少し朝の明かりが差し込んでいた。妻戸が二箇所開いていた。帳が揺れている。風が塗篭のなかを通り抜けていくのだ。そよ吹く風は外の心地よい天気を伝えているようだった。

 ああ、ここはあの懐かしい佐為の褥だ!
 光の頭はどんどん覚醒していった。
 だが、肝心な人の姿が無い。どこへ行ったのか。そもそも、昨日の夜の記憶があるところでふっつりと途切れている。湯浴みをしたところまでは思い出せる。疲れきっていたんだ。足元がふらついた覚えがある。その後、どうしたのだったか? 思い出せない。オレは寝てしまったんだろうか? そうだ、ここに寝かせて貰ったのだ。昔のように? 昔のようにオレはあいつと共にここに寝たのだろうか? 彼の残り香がするからにはそうに違いない。すぐ横にはやはりもう一人が臥していたような跡がある。
 それから、光はすっくと褥から立ち上がると、傍に用意してあった衣を身に付け、母屋に出ていった。
「やっと起きましたね。」
 そう言って、彼は笑った。上げたしとみの向こうから差し込む光で逆光になっていたが、それでも彼の美しい笑顔は眩しかった。
「・・・佐為」
 ああ昨日の出来事は夢じゃなかった。やっぱりそこに佐為は居る。ここはあんなに帰りたかった佐為の屋敷だ。

 光が何か言う先に、佐為が言った。
「光、こちらへおいで。朝餉の用意が整うまで、簀子で碁を打ちましょう。」
 佐為は光を手招きした。
 光はこの言葉で、自分が何を言いかけたのか忘れてしまった。まっすぐに、青年が手招きする方へと吸い寄せられていった。
 そして待っていた言葉はこれ以外に無かったというように、簀子に置かれた碁盤の前に座った。
 碁盤の向こう側には、彼が座った。それを見ると、光は体に震えが走るのを感じた。
 光は座りなおすと、彼の前に深々と頭を下げた。佐為はそれを少し驚いて見ていたが何も言わなかった。光はしばらく頭を下げたままでいたが、やがて前を向き直った。
 そして碁盤に目を落とすとはっとした。
 そこにはあの碁があった。あの碁・・・あの碁とは光が筑紫で打った碁だった。勝てなかった碁だった。まさしく遠く文に託し、佐為に教えを乞うた碁だった。

 盤面には光が記した通りに対局が最後まで再現されていた。
 碁盤の周りには碁笥のほか何も置かれていない。光が書き送った対局の記録など見ずに並べたのだろう。光は直ぐにそれがわかった。対局をそらで並べることなど、彼であれば、別に特段目を見張るほどのことではない。それにしても、彼が、この対局を以前に間違いなくきちんと目を通していてくれていることが感じられたことが嬉しかった。それで胸が一杯になった。
 光は盤面を見つめて黙ってしまった。
 少年がまっすぐに盤面を見つめる視線に応えるように、佐為は静かに言葉を掛けた。
「光、今こそ、あなたの問いに答えましょう。この時が来るのを私は待っていました。」
「この時を・・・待っていた?」
 光は初めて視線を盤面から対座する青年へと向けた。
 すると佐為はこくりと頷いた。
「だがおまえはオレに文の返事をくれなかったな、佐為」
 光は、そう言ったが言葉には何の咎めの響きも混じってはいなかった。ただただ、問いたかったのだ。そして知りたかったのだった。
「なぜ、あの時返事をくれなかった、佐為。決して責めてるんじゃない。何か理由があるなら知りたいんだ。佐為、オレは知りたい」
「光・・・このように碁盤を囲み、実際に打って初めて見えることがあります。何かよい指南を文に託すこともむろん考えました。それが最良の方法ではないにしろ、決して悪い訳ではない。離れているなら、文でしかやりとりができぬのなら、それも決して悪い方法ではないでしょう。むしろ、遠く離れてあるならそれが最善の方法かもしれない。あなたは正しかった、光」
「では、何故・・何故、おまえは・・・」
「光にはすまなかった。むしろああしたのは自分の為だったといった方が良いのかもしれません」
「自分の・・為?」
「私は妥協したくなかったのです」
「妥協?」
「あなたの召還があいなることを私は祈り続けていました。今、文で答えてしまえば、私も光もそれでいいと思ってしまうかもしれない、特に、私は・・・一歩退いてしまうかもしれない・・・そう思ったのです。様々な理由から、あなたを都に、私の許に連れ戻したかった。光を連れ戻すは大事、文にての返事は其の前に小事であると・・・その時の私は思ったのです。だが、それが真に最良の道であったかどうかは私にはわかりません。しかし・・・その時々で、最善を尽くすしかないのだと思います。・・・それはまた碁においても同じです」
「そうか・・・」
「ただ・・・光の想いに報いてあげられなかったことには深く詫びたい。許して欲しい」
「・・・おまえは・・・何も詫びるようなことなどしていない。謝るな」
「・・・光」
「今、分かった、佐為」
「なにが分かったのです?」
「おまえのその想いが通じたんだ。だから、帥がオレのために恩赦を願い出てくれたんだ。きっとそうだ」
「帥殿が?」
「ああ」
 佐為は少し驚いた表情をしたが、直ぐに平素の顔に戻って光の言葉に耳を傾けた。
「帥殿が恩赦を願い出てくれたといっても、オレはそう簡単に赦されるとは思っていなかった。ただ望みは繋いでいた。」
 光は筑紫で起こったことを語り始めた。政庁の火事のこと。帥を助けたこと。そして帥殿がその恩に報いたいと光の恩赦を願い出る奏上文を送ってくれたことなど…。
 だがしかし光は気が付いただろうか? いや、気が付いたとしてもまったく気にとめなかったのだろう。光の話に静かに耳を傾けていた佐為の瞳の奥に、この時僅かに複雑な色が浮かんだことなど。その証拠に光はさらに感動を込めて語った。
「ああ、そうだ。全ておまえと繋がっているんだ。いつもおまえがオレを見守ってくれていた。あの時だって、佐為。おまえが焔の中のオレを呼んだのだろう?」
「焔の中・・・?」
「いや・・この話はいいんだ。またそのうちゆっくり話そう。今は・・・今は・・・オレにとって、おまえと碁を打つことこそが大事だ。その前には積もる話など小事に違いない。
 佐為、この時を・・・胸が焼け付くように望んできたのはオレだ。オレは嬉しい。今正直に嬉しい。喜びで胸が一杯なんだ・・・!」
 碁盤を挟んであいまみえることの歓喜こそが、この時ただ光の胸を、そして全身を包んでいた。今の光に見え、感じるのはただただその怒涛のような喜びだけだった。
 少年のただ真っ直ぐな瞳の光に応えるように、佐為は口を開いた。
「光と再び、碁盤を囲み、石を打つことを私もまた、この胸の内に強く望んできました」
「ほかに強い打ち手がたくさん居る。それなのに、オレなんかでも…おまえはそう思ってくれるのか?」
「光だからこそ、そう思うのです」
「オレだから…?」
「光、我らは水魚の交わりを成して、共に石を持つ者となりましょう。私達は共に、この十九路の宇宙を旅し行く定めなのです。光、その手に石を持ちなさい」
 佐為は盤上の石をある一手の時点まで片付け、盤面に繰り広げられた碁を遡ると、光に問うた。
「光、この碁を打ったのは大宰府に着いて間もない頃のことでしたね。あなたはそこから様々に学んできたはず。そのように兄弟子から聞いています。楊海殿と逢いましたね。あの方が私に光の文をもたらしました。今の光はこの頃とは違うはずです。この石の後に続く手を、私を前にした今の光が打ってご覧なさい」
 光は頷いた。そうして、続く一時は、二人に無限の天つ宙を飛翔させた。
 佐為は、巧みに光の技量を測り、光は佐為の敷いて行く幾通りもの道を辿りながら自らの脳裏にその道筋を刻印していった。
 その様子は、まさしく「天翔ける」と言ってよかった。そしてこの時こそ、果てしない探求の道を行く二つの魂が真に再びあいまみえた瞬間だった。

 つづく

 

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