博奕と幻術
果たして、如何程の時であったろう。朝餉が用意されるまで、それほど長いことではなかったはずである。だが、これほど二人の間に凝縮された時が流れたことも今まで無かったのではあるまいか。光と佐為の間に言葉によって交わされる会話と一手一手によって交わされる手談とが、あたかも金銀七宝となって、虚空に結実され、眩い光を放つかのようだった。
朝餉の用意が整ったとの声が二人のこのひと時に終わりをもたらすまで、その恍惚は続いた。
実際、光は朝餉を告げるその声さえも、最初は耳に入らなかった。佐為が促すとようやく光は気付き、心底がっかりしたような顔をしたのだった。
「オレはまだ打ちたい」
光は訴えた。
佐為は満面に笑みを広げた。だが、少年をおおらかにも肯定するようなその笑みとは反し、光を軽くいなすと一旦碁を終わらせた。
光は従ったが、まだ余韻に浸って言った。
「おまえはやっぱり凄い、佐為。オレでは思いつきもしない一手から食い込んで、右辺の石を死なせてしまった。あんな手筋はおまえでなければ出来ない。凄くはっとしたんだ。それから・・・」
光は朝餉を頬張りながらも、嬉々として今打った碁の内容の話を続けた。佐為は嬉しそうに、光の言葉に耳を傾け、そして時折口添えした。
大方食べ終わると、光は言った。
「佐為、また続きを打とう」
しかし、返ってきた答えは、意外なものだった。
「光、今日のところはこれで家に帰りなさい」
あまりに予想に反する返答だった。光は最初、何を言われたかよく理解できなかった。しばらくぽかんとした顔をしていたが、こんなことを真顔で言った。
「・・・家? 家とは何処だ?」
「・・・光?
あなたのご両親のいらっしゃる家のことを言ったのです」
「あ・・・ああ、そうか。その家か」
これもまた真顔で答えた。そして、急にはっとしたように、叫んだ。
「何故だ? オレはおまえともっと碁を打ちたい」
「そのようにだだっこのようなことを言うものではありません」
「オレがどれだけおまえと打てることが嬉しいか、今言ったじゃないか! おまえだって同じだって言ってくれたろう? オレ達は・・・オレ達は・・・さっきおまえが言った通り・・・それに、オレは・・・その。ここが、佐為の家が半分自分の家のように思い込んでいた。それじゃいけなかったのか? 『家に帰れ』なんて言葉をおまえから聞くとは思ってもみなかった・・・」
しかし、佐為は興奮した光を諌めるように言葉を返した。一言一言、含み聞かせるように。
「光・・・あなたの言う通りです。ここはあなたの帰る場所に違いない。私とてあなたをここに引き止めていたいのは同じなのです。わかってください」
「じゃぁ、どうして!?」
「昨夜、光はとても疲れていた。だから、ここに泊め、まずは旅の疲れを癒してあげなければと・・・、きちんと身支度を整え、あなたの家に帰してあげることができればと・・・、思いました。そして、まずは何より光の文に答えたかった。そしておそらく、あなたもこの一時を過ごさねば、家には帰らないと思った。だが本来なら、それよりも以前に、あなたをご両親の許へ帰すべきだったでしょう。しかし、これだけは私の望みを、そして
あなたの望みを、何にも優先して通してしまった。だから、今はもう一刻も早くあなたは家に帰り、お父上、お母上に顔を見せて差し上げなければいけません」
ようやく、光にも佐為の言わんとすることが分かった。確かにそうだと、光は思った。その胸の内に両親への申し訳ない気持ちが痛切に沸き起こった。
だが、佐為はまだ言葉を続けた。そして続く言葉を口にした時の彼の瞳は、再会してから、この数刻の間の中で、最も悲しみに満ちていた。
「光、おそらくまだ聞き及んではいないはずだと思いますが・・・お父上は病に臥せっておいでなのです」
「病・・・? 病だって?」
光は狐につままれたような顔をした。
「父上が病・・・一体何の? それは確かに聞いていない。賀茂は何も言わなかった」
言いながら、光ははっとした。昨日、明に引き止められた時のことを思い出したのだ。
あいつ、そういえば、何かを言いかけていた。口止めされていたって・・・まさか!
「光・・・お父上は、大宰府にいるあなたが心を痛め、帰京の望みを強くして、苦しむことがないようにと、明殿に黙っていてくれるように、それは強く望まれたのです。くれぐれも、明殿を責めてはいけません」
「そうか、そうだったのか」
「都に疫れいが流行ったのは聞き及んでいるかと思います」
「ああ、知ってる。同じ病が・・・オレが大宰府に着いたころ、流行っていたんだ。そういえば、社が言っていた。流行り病も西から東に移っていくって。それで、天下に広く恩赦が出されたとも聞いた」
「・・・分かりましたね、光。父上に顔を見せて差し上げなさい」
「分かった・・・帰るよ。父上は悪いのか?」
光は観念したように俯きながら言った。
「冬の寒さを乗り越えられて、少し落ち着かれたようです。しかし、良くなったかと思えば、また悪くなる・・・の繰り返しで、なかなかはっきりと良い方向に向かうしるしが見えぬのです」
「そんなに・・・悪いのか」
「あなたの顔を見れば、安心され、気持ちも明るくなられるでしょう」
「そうだな、顔を見せに帰るよ。とにかく、逢って自分の目で確かめなければ。佐為、オレが親不孝をしていたせいだろうか?」
「・・・そうですね・・・。確かに、心配を・・・随分掛けたのは間違いない。ただ・・・あなただけのせいではありません。私にも咎がある」
「どうしてだ、おまえは関係ないだろう?」
「光を色々なことに巻き込んでしまったのは私です。光の父上には、あなたと共に、できる限り尽くしたいと思っています」
「ありがとう・・・。でも親不孝ってそれだけじゃない」
「他に何が?」
「オレは・・・大宰府に居た間、殆ど両親のことなど、考えなかった。もちろんまったく考えなかったわけじゃない・・・そして、悪いことをしたと思っていた、ずっと。でも・・・それより何より、オレは・・・」
「・・・何よりどうしたのです?」
「・・・オレはおまえのことばかり考えていた」
「そう・・・ですか」
「帰るよ、おまえの言う通り直ぐに。だけど・・・また来ていいだろう?」
「光こそ、そんなことを私に訊くなんて・・・。ここもまた、あなたの家だと思いなさい。いえ、そう思っていたのでしょう? さぁ、父上の所まで私が送っていきましょう」
佐為は光と共に車に乗って屋敷を出た。
牛車の中で、光はしばらく黙っていた。予期せぬ事態を聞いて、気持ちが酷く沈んでいた。だが、少しすると訊ねた。
「佐為・・・おまえの暮らしは変わらないのか?」
「暮らし・・?」
「どんな風に過ごしている? 以前のように参内しているのか?」
「ええ、内裏には、以前のように・・・。ただ、他のところへの囲碁指南などは以前より増えました。あるいは私のところへ訪れる碁士も多くなりました」
「そうか。じゃぁ、明日は家に居るか?」
「明日は、そうですね・・・留守にしていた為に先延ばしにしていた約束があるのです。今朝ほど、遣いをやってしまいました。大納言家へ囲碁指南に赴くことになっています」
「でも夜には帰ってくるだろう?」
「う・・・ん、なんとも・・・大納言家へ赴くと、そのまま宴に招かれることが多いのです」
「ではその次の日は?」
「・・ふふ。光は相当に私が恋しいようですね」
佐為は悪戯っぽく微笑んだ。光はその笑顔を見た。だが直ぐに俯いて眉根を寄せ黙ってしまった。そしてにこりともしない。佐為は少し慌てて声を掛けた。
「光・・・光?」
すると、光は鋭い視線を佐為に向けて言った。
「そうだよ。オレはおまえが恋しい。とても恋しい。いけないか? 何故、おまえはそんな風に笑っていられる? オレが可笑しいのか」
まだ昼だというのに、光の眼差しはたそがれの空のようだった。
「違う、光。悪かった、許してください」
佐為は、再び俯いてしまった光の肩に手を回し、顔を覗き込むようにして、こう言った。
すると光は顔を上げないまま、ぽつりぽつり言葉を紡いだ。
「オカシイな・・・一年もの間離れていても、なんとかやってきたのに・・・。昨日、再会したばかりなのに・・・。
再び逢ったら、おまえの顔を見たら・・・声を聞いたら・・・もう、おまえと・・・片時も離れていたくない・・・。どうしてなんだ・・・。さっきはそうでもなかった。だけど、車に乗ってから、もう直ぐおまえと別れると思うと、酷く辛いし、寂しい。せめて、次に何時逢えるかはっきり知らないと耐えられない。オレはオカシイのか・・・? いや、それとも女々しいのか・・・?」
「光、そんなことはない・・・、光はオカシイ訳でも、女々しい訳でもない。そんな風に言われると私の方こそたまらない・・・・・。違うのです、光はとても若くて、真っ直ぐで・・・だから、そのように思うのは自然なのですよ、きっと。だけど、私は光よりも年上で、いくらか長く生きていて、逢いたい人に逢えぬもどかしさをいくつか通り抜けてきた・・・だから・・・」
「もういい! もう他の恋の話などオレにするな!」
「違う・・! 逢えぬもどかしさとは恋とばかりは限らない。むしろ、・・・むしろ・・・私は光が羨ましい。あなたには、孝行するべきお父上がいる。これから父上の許に帰ろうとしている。私には・・・光。そのように近しく慕える父の存在も、ましてや、母の存在も幼い頃からありませんでした・・・」
光ははっとした。
ああ、そうだ、そうだった。オレは自分のことばかりだ! なんて情けない!
「佐為、オレは自分勝手だな・・・悪かった」
「私はそんな自分勝手な光が愛しいのですよ。だけど、光は口で言うほど自分勝手ではないことを、私はよく知っています」
「佐為・・・」
光は両手を佐為の首に回した。佐為は光の背を抱いた。
「光、いつでも来なさい。あなたが来られる時ならいつでもいい。屋敷にあなたの部屋をきちんと整えましょう」
「佐為、オレはいつでも、いつまでもおまえの傍に居る。おまえを独りにしない。おまえはもう孤独じゃない」
二人はこうしてしばらく揺れる牛車の中で抱き合っていた。
言葉は無かった。ただお互いの鼓動に鼓動を重ね合わせていた。
それは、やがて無情にも車が止まるまで続いたのだった。
さて、佐為が光を両親の許へ返してから、光の望みも空しく、数日の間二人はまったく逢うことが叶わなかった。光の父の容態は想像以上に悪かったし、また光にも都での新たな出仕が待っていた。合間に時折、佐為の屋敷に寄っても、あいにく留守にばかり当たっていた。
久々に逢った友人でかつての同輩、三谷基頼が言った。
「もう、佐為殿のお供はしないんだな」
「ああ・・・。あんな騒ぎを起こして、同じお役目を受けるとは思ってなかったが、オレはこれでいい。都に帰ってこれただけで、感謝してるんだ」
「なんだ、おまえ、大人びた口を利くようになったじゃないか。ま、確かに要人の護衛なんて、優雅なお役目だったよな。くっくっく、今でも思い出すぜ、あの佐為殿の怒った顔」
「なんだよ、それ」
「いや、なんでもない。それより、おまえ覚悟しろよ。本当の検非違使の仕事は都の穢れを取り除く仕事さ」
「そんなこと分かってるよ」
「おまえは任官してから直ぐにそのみてくれのお陰で、佐為殿の護衛を仰せつかったから、汚い仕事なんて知らないだろう」
「みてくれのお陰?」
「そうさ、おまえが選ばれたのはおまえの顔がちょっと良かったからさ」
「そんな話は聞いたことない」
「そんなもんさ、佐為殿の随従警護となれば、禁中にも出入りしなければならんからな、滝口の武士だって容姿端麗だろう」
「ふうん、オレの何処が容姿端麗なんだかわかんねーけどな」
「容姿端麗なんてオレは言ってないぜ、ただ顔がちょっといいって言っただけだ」
「どうでもいいよ、オレは。それに初めからずっとあいつの護衛をすると決まっていたわけじゃない。オレが仰せ付かったのは最初、当座の任だった」
「ところが佐為殿がおまえを気に入って、離さなかったってわけか」
「それに汚い仕事だって知ってる。大宰府では、海賊の取締りで大変だったんだ」
「そっか、まぁいいさ」
だが、基頼にそう言われた時にはまだ光は分かっていなかった。
佐為の希望もあって、特別に護衛役に任じられた頃は確かに、優雅な暮らしに違いなかった。それは大宰府に送られた当初に、嫌と言うほど感じたことだった。夜襲に遭ったことを除いては。あの一件では光の働きは都でも一応は評価されていた。大宰府では、外国人の護送もすれば、盗賊の追捕もした。そして今は記憶の遠い引出しに閉じ込めて、あまり触れぬようにしている、あの務めさえも果たした。
だが、ここ京の都はもっと複雑だった。
都の穢れを払う・・・それが検非違使の仕事なのだ。穢れを払う、つまり都の清浄を保つのだ。祭事の後の清掃は良かった。たまらないのは行き倒れた餓死者や病死者の始末だった。
殊に今年は死人が街に溢れていた。疫れいが流行ったからだ。庶民の家では必要に迫られて死の近い肉親を外へ出した。いや、貴族の家でも雇い人なら死に行く病人は外に放り出されるのが普通だった。
光は流行り病で死んだ者の亡骸に出逢うと、思わずにはいられなかった。
父上もこんな風にやがて死に行くのだろうか・・・
いくら元来楽天的な光にも、それは絶望的な予感となって住み着いていた。
ある日、光と基頼が大柄な下部(しもべ)を一人連れ、検非違使少尉(しょうじょう)の共をして向かった先は、東市の近く、左京七条にある賭場だった。
賭場には揉め事が多い。
賭場で行われる博奕(ばくえき)にはいかさまが付き物だからだ。だが、賭場に乗り込むと、光は声を上
げた。
ここで行われる博奕は主に奕、つまり囲碁だった。
なにやら客の一人が必死に訴えている。勝っているはずなのに、数えたら負けていたというのだ。
一行は街の庶民の風な水干を身につけていた。つまり相手方に悟られないように赴いたのである。
光は思わず、少尉殿に小声で申し入れた。相手方のいかさまを見極めてみせると言う。
光は客の男と替わって初めから打った。だが、今や下卑た場末の街の片隅で賭け碁をするには光は強すぎた。相手方はあっさり負けてしまった。これでは八百長の検証にはならない。
基頼は光の強さに内心驚きを隠せなかった。しかも光は賭けに勝ってしまったので賭けたきんすを儲けてしまったのだ。
少尉殿は光に耳打ちした。
「で、どうだったのだ?」
「普通に打ってただけでした」
「それでは話にならんな」
「おまえが打ったから悪かったんだ。おまえは佐為殿仕込みだから強すぎる。仕方ねぇ、オレが今度は打つ
から、おまえしっかり見てろよ」
その時、奥から声がした。
「そこのお客人、随分強いらしいが、わしが相手してやろう」
「わかった、今儲けたきんすを賭ける」
光はすぐさま返事をした。
しかし、新たに打ち始めた相手の男は強かった。そして今度の男こそ小ざかしいごまかしも上手だった。力もそこそこなところに、巧妙ないかさまを重ねたら、なるほど、今度は光に勝つことも叶いそうである。
勝敗は揺れていた。対等に打てば、難なく光が勝っていたはずである。しかし、相手の男のいかさまのテクニックは実に巧みだった。
まるで奇術だ!光は思った。どうやって、うそを暴けばいい?光は思案しながら石を運んだ。しかし、それでも光は強かった。打ちながら、常に相手にハンデを与えているような、この碁にも遂には勝ってしまったのである。
基頼は思わず声にだした。
「おい!」
そして少尉殿の咎めるような視線に気がつき、また小声で耳打ちした。
「手加減しろよ!負けなきゃ、ずるが暴けないだろ!」
相手方の男は蒼ざめ、見るからに嫌な顔をしていた。
「さぁ、とっとと帰れ!荒しはごめんだ。あんた碁士か? こんな場末のお楽しみを荒しに来るなんざ、許せねぇ」
しかし、光は叫んだ。
「おい、基頼! 負けなきゃ、ずるが暴けないって言ったけど、そんなことはない!」
そして相手の男を見据えて言い放った。
「待て、今、オレが一から説明してやろう。この碁の内容を!それをよく聞くんだ!」
何の騒ぎかと光の周りに人が集まってきた。
光は説明を始めた。
何処で賭場の男が石をずらしたか、何処でアゲハマの石を増やしたか。
光の説明はよどみなく、理路整然としていた。そして、それは今打った碁の検討でもあった。仕舞いには、ずらされた石の放つ攻守の意味まで説明した。周りで聞き入っていた者たちは、みな時には感心したように深いため息をついた。
「これは分かり易い。講釈を聞いているみたいだ。」
賭場の男まで、光の説明を呆気に取られて聞き入った。
手の内がすべて見透かされていたのである。そして、ごまかしを一つ一つ受けて立ちながら、全てをかわして、結局は上を行った、あまりに見事なその打ち筋に呆然としたのである。敵ながら見事! これはまさしく賭場の男の心情だった。
しかし、そのうち集まった人々の歓声が上がると、男は我に返った。
「おい!、作り話もいい加減にしろ! おまえは相当に腕が立つ。それは認めよう。だが、何処に証拠がある!? 今の話は全ておまえの作った話だ。でたらめだ!」
そう言われると周りの人々は何も言えなかった。何故なら、傍で見ていた基頼にも、少尉にも、まったくそのごまかしが分からなかったのである。
奇術! それとも幻術か? そう言うより他なかった。
ああ、これと似たものを見たことがある! 光はそう思った。
そうだ、賀茂の使う術だ!
何か得体の知れぬ力を光は感じた。棋力ではない。幻術にだ。
結局、いかさまは暴けぬまま、一行は賭場を後にするより他なかった。
「証拠が掴めぬのではどうにもならん」
少尉が言った。
「おまえの言ったことが本当なら、あの男は方士だな」
基頼も言った。
「だが、方士をもってしても、碁士の力には敵わぬということか?」
また少尉は言った。
だが光は答えた。
「いや、どうだろう? あの男の幻術には舌を巻いた。オレは自分の手筋がどうだったか、はっきり覚えているから、幻惑されずにいかさまを確信できた。だが、もし、方士が対等の棋力を持っていたら、俺は当然ながら負けているだろう。そして周りで見ている者は誰も気付かないんだ。真実を知るのは対局する者達だけだ」
光はため息をついた。そしてその時だった。
光は目の前の賭場から急いで出てきた男にぶつかってよろめいた。ぶつかってきた男もよろめいて転んだ。男は妙に急いでいる風だった。そして、顔には濃いひげを蓄え、背丈は高く、痩せており、みすぼらしい水干を着ていた。
光は慌てて、男に詫びた。悪いのはぶつかってきた男の方だったが。
ところが男はろくすっぽ、謝りもせず、立ち上がろうとした。そして少し顔を上げた瞬間、光と目があった。
だがその時、光は驚きで凍りついた。
そして男もまた、驚愕に身を固まらせた。
しかし、それはほんの一瞬だった。その一瞬が過ぎると、男はもう遠くに遠ざかっていってしまった。残された光は呆気にとられて、その後姿を呆然と見送っていた。
「どうした?」
少尉殿が声を掛けた。
「あの男・・・あの男だ!」
光は低く、呻くように言った。
「あの男とは誰だ?」
基頼が尋ねる。
だが、光は何か得たいの知れぬ嫌な予感に包まれ、何も言葉を発することが出来なかった。そしてただ、男の去っていった方を見て立ち尽くしていた。
つづく
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