棊局

 

「あいつ、また居ないの?」
 光ははっきりと顔に不機嫌な色を浮かべながら、佐為の屋敷の召使いに問うた。
「今日は何処だよ?」
「それが今日も行く先は訳あって教えられないと」
 家の者は光の強い言葉に気圧されながら答えた。
「教えられない、だって?」
 
光の胸にさざなみが立った。 
 ああ、そうだ。あの時だって、そう言って出かけたんだったな。
 佐為は帝の嵯峨殿行幸に付いていってたんだ。行幸に随行した官人は僅かだったから、あまり公にしたくないのだと、そう言った。それは分かる。だってあいつは以前から何時だってそうだった。目立つのが嫌なんだ。だが今度は何だ!?
 その時、あるイメージが不明瞭な輪郭を繋ぎ合わせながら光の脳裏にぼんやりと浮かび上がった。
 ああ、帝か・・・! オレを赦した帝。
 今も変わらず、あいつに執着してるんだろうか。それはそうだろうな、嵯峨殿に呼ぶくらいだから!
 赦しが下った事に関しては、うそ偽りなく感謝している。それは本当だ。
 だが、しかし・・・!
 光の帝に対する敵対心はそれで払拭された訳ではなかった。今だ複雑な想いと共に常に佐為の背後にその存在の重さを感じずにはいられない。しかし、それはほんの僅かな断片の繋ぎ合わせから光の中で造り出されたイメージだった。実のところ、帝のことを光はほとんど知らなかったのだ。しかしそのことにまだ光は気付いてはいなかった。
 
 光は佐為の留守に上がり込んだ寝殿の床に大の字で寝転んだ。大きく伸びをすると、自分で手枕をし、天井を仰ぎ見た。そして思った。
 基頼にはああ言ったけど、やはり昔は良かった…。
 何処へ行くのでも、あいつのお供をして、四六時中一緒だった…
 せっかく都に帰ってきたけれど…。もう一月も過ぎようというのに、少ししか逢っていない気がする。そう、片手に収まるくらいしか。
 まぁ仕方ない。父上のあの病状を思えば、前のように佐為の家に入り浸る訳になどいかないのは承知している。それにできるだけ父上の側にも居たい。もう何回も危篤になっているんだ。

 
だけど…父上の、見る影ないほど痩せて削げ落ちた土気色の顔を見る度、おまえに逢いたくなる。おまえが横に居て、何か声を掛けてくれたら・・・と、いつもそう思う。
 人間って、欲が深いんだな、佐為。
 筑紫に居た頃は、まったく先が見えなくて、だから都に帰れさえすればいいと思っていた。おまえの居る都に帰れさえすれば・・・。だけど、帰ってきたとたん、思うようにおまえに逢えないのがこんなに疎ましく感じられるなんて。あの頃のことを思えば、贅沢な話なのに・・・。

 光は起き上がると、今度は佐為が用意してくれたという東の対を見に行った。渡殿を通る時に庭に目をやった。そこには以前よりも手入れの行き届いた美しい庭があった。
「この庭みたいに、オレが居ないうちに変わったものだって確かにあるんだ…」
 自分でも気付かないうちに光はそう呟いていた。そして次に続く言葉は胸の内側で吐き出された。
 あいつは一度だって帝を悪く言ったことなんてないじゃないか! 
 大宰府で聞いた賀茂の話はどうだ!? 行洋殿が病床で、いよいよ公から退いた今、帝が佐為の一番の後見なんだ。誰もがそう思っているという。一時、左大臣家と親しくしていたけれど、それも途絶えたって。くそっ!
 そして東の対の母屋を覗いた。
 長い間、寝殿以外に人が住むことの無かった佐為の屋敷。母屋には以前無かったいろいろな調度が揃えてあった。むろん碁盤も。
 しかし、自分のために用意されたそれらを眺めてもどうもよそ事のような感覚しか起こらなかった。自分でもよく分からない複雑な気持ちでため息をついた。
 そして光は主の居ない屋敷に長居する気にはなれず、少しすると佐為の屋敷を後にした。


 ちょうどその折、佐為は行洋邸に居た。行く先が行洋邸だというのに、家人に告げなかったのには、込み入った訳があったのだ。
「これが・・・・・」
 佐為は瞳を輝かして、その碁盤を見つめた。そして嘆息を洩らしながら、象嵌細工で盤上に敷かれた十九路の線や、側面の珍しい絵図を眺めた。彼は思わず碁盤に手を伸ばし、その盤面に触れようとした。しかし、指先は微かにその上で間隔を保ち止まった。
 ところが、引き戻されようとしたその手は何者かに掴まれ、盤面にゆっくりと押し付けられた。手に重ねられた掌は圧倒的な意志の強さを持っていた。そして熱かった。しかし、佐為の掌には紫檀の冷やりとした感触が伝わった。手の甲を覆った熱さとは対照的だった。 
 彼は、手を掴んだ者に、「本当にいいのか?」と問いかけるような視線を向けた。
「良い。好きなだけ触れるが良かろう」
 答えたのは帝だった。帝は出来る限りひっそりと行洋邸を訪れていた。理由は行洋への見舞いである。しかし、真の理由は違っていた。何故なら、密かにここ、行洋の邸に東大寺正倉院の宝物が運び込まれていたからだった。
 正倉院の宝物が都に運び込まれたという噂が拡がっては禍々しきことになりかねない。万事は秘密裏に運ばれていた。その為に内裏ではなく、一官人の私邸に運ばせたのであった。
「なんと素晴らしい・・・ああ、これが・・・大君がおっしゃっていた星にある花の細工でございますね・・・多い・・・ようですが・・・一つ、二つ・・・十七・・・このように散らしたようにあるとは・・・」
「星がこのように多いのはどういう訳か?」

 帝は問うた。
「唐土では・・・昔は今よりもたくさん置石をしていたということでしょうか?」
「なるほど、いにしえの碁盤とは、今のものと少し違うようだな。時の移ろいを感じさせてくれる・・・歴史のひとコマをこの眼で覗くかのようだ。ここに運ばせて良かった。やはり読んで知るだけの知識と、この眼で実際に見るのとではかくも違うものか」
「まさしくおっしゃる通りでございます」

「記録を辿れば、佐為。正倉院は今までも何度か盗難に遭うているそうだ。だが、余の御世に、そしてこのように疫れいが流行る年に正倉院の盗難が重なるとはまことに憂鬱なこと。しかし、これは怪我の功名とも受け取れようぞ」
「怪我の功名とは・・・」
「正倉院の他の宝物は余でさえまだ見たことがない。それは言ったであろう。倉の扉は勅封。余の許し無しに開かれることは無い。しかし封印が解かれるのは、記録によれば、皮肉にも盗難に遭うた時が多いのだ。倉の修復と共に宝物は数十年ぶりに外界の空気に触れる。今回の盗難が無ければ、余は倉の宝物の詳細に改めて目を通すことも無かったやもしれぬ」
「私が今こうして、このいにしえの碁盤に巡り逢えましたのも、その数奇な定めに拠るのでございましょうか」
「その通りだ。一月半ほど前に、正倉が盗難にあったのは禍々しきことながらまことに数奇な定めであった。この碁盤がそなたに出逢う為やもしれぬ。優れた碁盤は優れた碁打ちに自ら出逢わんとする意志があるのであろうか。言い換えれば、自らの意志で、この碁盤が倉の外に出てきたのかもしれぬな・・・そなたに逢うに為に」
 そう言って帝は微笑んだ。
「そのようなお言葉勿体のうございます。全ては大君のお計らいでございます」
「この碁盤と共に参った東大寺の僧侶が居る。強い者を付き添わせるように命じた。後で一局打つが良かろう」
「そのようなご配慮まで・・・」
「本当は、余が自ら出向きたかったのだ」
「正倉院へでございますか?」
「そうだ・・・。東大寺に参詣し、近頃の国の憂慮を晴らさんと祈願したかった」

 そう言った帝の瞳にこそ、深い憂いが滲んでいた。佐為は帝の言葉を漠然と敷衍して考えた。
「だが、余が行くとなると大掛かりとなろう。ならば、この数十年に一度の機会を利用し、宝物の一つを此処へ運ばせることを考えた。療養中の行洋にはすまなかったが、行洋は信頼が置ける。正倉院の宝物を密かに都に運ばせたことは隠密にしたい。行洋なら、秘密を護り通してくれよう」
 そう言った帝の眼差しに、これもまた言外の含みがあることを佐為は感じ取った。確かに見舞いという名目も、行洋自身の固い人柄も、どちらも重要な要素ではあった。しかし行洋邸を選んだのは、単に今、帝が言った理由だけでないことは確かだった。
 あの枕を交わした夜のことを想い起こした。何時に無く饒舌になって語った寝物語。帝は自分の言葉を重く受け止められたのであろう。佐為はそう思った。
 
 今更ながら思う。何故あの時、あんなにも胸の内を明かしてしまったのか。ほかの誰一人にさえ打ち明けたことのない想いを・・・。胸の奥の底に仕舞い込んで・・・そして時々、そこに帰っては浸る苦しい想いを。
 いつも求めていたのだ・・・。何を?
 岸辺だ。灯りの焚かれた岸辺だ。
 どんなに暗い海原を航った船人からも、見出されることを待っている岸辺・・・
 遠く航海をした船をいつも、いつでも港が招き入れる・・・それはついぞ安住したことの無い大いなる岸辺だ・・・一体何処にある?
 そんな幻影を・・・・・他の誰でもない、今まさしく眼の前におられる御方に・・・たとえ一時でも望み申し上げた・・・だからなのか? ああ・・・・・それなのに・・・
 あの夜のことを思い起こすと佐為は胸が苦しくなった。
 そしてこの碁盤。正倉院の重宝である。  
 美しい象嵌細工の施された紫檀の碁盤の盤面に素手で触れることを許す帝の微笑に、さらに胸が苦しくなる。
 この瞬間、遥かな時を刻んだ数奇な碁盤に触れる歓びと共に、たまらない後ろめたさが彼を支配した。その両極端な想いが彼の胸を苛んだ。
「何故、そのような顔を? 気に入らなかったか?」
 今度は帝が佐為の顔を心配気に覗き込んだ。
「いえ、とんでもありません。あまりの素晴らしさに言葉を失っているのでございます。」
「そうか・・・。遠慮せずに、あちらこちら触れてみるが良い。あっという仕掛けがしてある。そして、碁笥を開けてみるが良い。こちらもそなたをあっと言わせよう。さぁ」
 佐為は帝の勧めるままに、あれこれと試したり、眺めたりしてみた。そして、帝の言葉どおり、驚きと感激で満たされた。まさしく最高に粋の凝らされた芸術作品
であった。
「何処か、以前私に下さった碁盤に似ております」
「そうだな、余もそう思った。最高の品を贈ったつもりであったが、これを見てしまうと酷く見劣りがするであろう」
「いえ、そのようなことはございません。頂戴した碁盤は、また違った趣がございました」
「ならば良いのであるが・・・。
 佐為、正倉院北の倉の宝物の権限は朝廷にある。つまり余が宝物の主だ。余はそなたが望むなら・・・これとて、そなたに授けてしまいたい」
「何を言われます!? そのようなことはお戯れにも口になさってはいけません」
「ふふ・・・。そなたは本当に無欲であるな。
 しかし、そなたの言う通りだ。いくら朝廷に権限があるとはいえ、聖武帝の御世より国家の重宝として保管されてきた正倉院の宝物を余一人が自由にすることはままならぬ。それゆえ、出来うる限りの力を尽くして、ここに運ばせたのだ。そなたにやれぬなら、せめてそなたにこの碁盤で打たせることは余にも出来よう?」
「深いお心遣いに感謝申し上げます。私は幸せ者でございます」
 帝は微笑んだ。
「そなたを悦ばせることが出来たのなら、余もまた幸せだ」
 しかし佐為は、微笑んだ帝の顔に、ふとこの瞬間翳りを感じた。先ほども感じたものだった。
 心の奥底から笑っておられるのではない・・・。
 違う・・・何処か違う・・・。ずっと感じていた。そう、最初に感じたのは嵯峨の離宮だ。
 何が違うのだ? 
 そうだ、あの頃の帝の笑顔とは違うのだ。
 あの頃・・・? あの頃とは・・・このような後ろめたさを背負い込む以前のことだ・・・。薄い氷を壊してしまう以前の・・・。あの頃の帝の笑みとは違うのだ。
 あの一頃、帝が心の底から笑われた顔を拝したと思ったことが度々あった。
 去年の夏から秋にかけての頃だ。左大臣邸での戯れの碁で、清涼殿の乞巧奠で・・・。
 あの頃の帝の笑顔が今になって無性に想い起こされる・・・!

 佐為は、由緒ある碁盤に巡り会えた歓びと共に、割り切れぬ苦い想いを覚えずにはいられなかった。 



 ちょうどその折、佐為の屋敷を後にした光はふらりと思い出したように、陰陽師の明を訪ねていた。
「キミが訪ねてくるとは意外だな」
「ごめん、馬を借りた礼をろくに言ってなかった」
「いいよ、そんなことは」
「何度か訪ねたんだ、だけど、いつもおまえは外出していた。出仕の無い時は行洋殿のところに行っているだろう? 今日は珍しく家に居たな」
「ああ、そうだね。今日は邸に来ないようにと遣いがあったんだ。行洋殿の邸に今日、お見舞いの行幸があるらしい」
「行幸? 帝が行洋殿のお邸に?」
「ああ」
「そうか・・・」
 そう言うと、次の瞬間、光の瞳は何か思い当たったように見開かれた。
 
しかし、少し間を置くと言った。
「打ち掛けの碁があったろ。あれを打とう」
「そうだな、悪くない」
 二人は一月前、桜の舞い散る大路の脇の地面に小枝で線を書いて碁を打った。
 その碁を今、碁盤の上に並べて再現した。
「これでいい。さぁキミからだよ」
「そうだったな、よし行くぞ」
 二人はしばらく無言で打ち合った。そして終局すると明が口を開いた。
「以前のように、佐為殿のところに居るのか?」
「いいや、今はずっと自分の家だよ。父上の具合が悪い・・・」
「そうか・・」
「悪かった、賀茂。おまえ、心配してくれてたんだろ?」
「いや、ボクなど何の役にも立っていない」
「何言ってるんだ、陰陽師のおまえが場所変えのこととか、いろいろ助言をくれたと聞いたよ。父上も母上もおまえに感謝していた」
「そう・・・か。では・・・あのことも・・・聞いた・・・か?」
「あのこと? あのことって何だよ」
「い・・・いや」
 明は口篭もった。
 聞いて・・・いないのだろうか? 父上は話されていない? そして当の佐為殿も何も言っていないのか・・・。
 明は密かに想いを巡らしたが、光は別の想いで心が満たされていた。 
「なぁ、賀茂」
「ん?」
「父上は長くない気がする」
 光はぽつりと言った。
 明はどう返していいか分からなかった。しばらく視線を彷徨わせてから口を開いた。
「ボクも長いこと、ずっと同じ不安に苛まれている。キミの気持ちはよく分かるよ。行洋殿の病状は、いくら手を尽くしても確実に悪い方へ進んでいく・・・。ボクに出来るのは発作の苦しみを和らげることくらいだ」
 光は明の顔を見た。
「そうか・・・」
 光もまた返す言葉が見つからなかった。だがどこか腑に落ちなかった。腑に落ちないものが何なのか思い当たった時、光はそれを口に出していた。
「でも・・・賀茂のお父上は健在だろう? どうして、おまえはいつも行洋殿にそこまで尽くすことが出来るんだ? そりゃ賀茂の家と繋がりが深いことは分かるけど・・・」
「・・・・・近衛、ボクは賀茂の家の養子だ」
「え・・・?」
 光は瞳を見張った。そして少年の心は驚愕で満たされた。
「まぁいいさ、そんなことは。それより今の碁はとても良かった。都に帰ってきてから佐為殿にまた教えを受けているのだろう?」
 明は強引に話題を変えてしまった。そしてふられた話題こそ、光にとっての最大の関心事に他ならなかった。
「いや、ゆっくり対局して貰ったのは最初に逢った時だけだ。以前のようにもう佐為の護衛役ではないし、オレは父上があんな状態だから、家を離れる訳にはいかない。合間を見て訪ねても、あまりゆっくり逢う時間が無いんだ。あいつも以前より忙しそうだしな」
 光は低い声でそう明に告げたのだった。





 帝が内々の、しかし実際はかなり大掛かりな計らいを施した次の日のことである。
「またお眠りになれませんのか」
 桜内侍は帝を案じて言上した。
「・・・眠れぬ・・・」
 帝は短く答えた。
 清涼殿の朝餉の間。脇息に寄りかかり、半分体を倒したような重たげな姿。
 そして深いため息が室内に響いた。
「よくお眠りになれるという薬草を、先日は典薬頭に煎じさせたばかりでございます。お薬をお飲みになられたのでございましょうか?」
 内侍は心配そうに帝の顔を覗き込んだ。
「飲んだが効かぬ」
 帝はまた短く答えた。
「上はまたしても、お気持ちを誤魔化しておいでなのでございましょう」
「ではどうしろというのだ」
 帝はうな垂れた半身を上げようともしないまま答えた。
「どうか私の言葉に耳をお傾けくださいませ。そのような我が君のお辛そうなお姿、私は辛くて見ては居られぬのでございます」
 内侍の言葉は本物だった。初めは内大臣の命のままに帝に仕えていただけだった。だがいくらかの時をひたすらこの孤独な天子と過ごすうちに、彼女は心の底から主の心に共振を起こしていた。それは妻が夫の志に殉じ、母が子の悲しみを放ってはおけないのと同様な種類のものだった。


 つづく

 

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