菖蒲一
花菖蒲の香りが風に運ばれる皐月の五日。
この日は端午の節会で、武徳殿に帝の行幸がある日だった。その為、大内裏はとりわけ賑やかである。武徳殿に行幸して帝は騎射を見物する予定だった。見物の為に設けられた帝、東宮の御座はむろんのこと華やかであったが、さらに華を添えることに、この日は後宮の妃たちも見物に加わることになっていた。
梅雨が間近に迫ってはいたが、晴れ晴れと雲ひとつない空が拡がっている。そしてここかしこに菖蒲のさわやかな香り。
しかし、夕星女御の心は曇っていた。
そう、あの日以来…。あの忌々しい出来事以来、帝の御前に出るのは酷く辛かった。
もっとも、その言葉どおりにあの日以来、二度と帝が自分の前の御簾や帷子を取り払うようなことは無かった。いや、それどころか御簾越しにさえも自分に目をくれることは無かった。その無関心さとは反対に、夕星の方では事態は別だった。彼女にとって帝を拝すことは、いつも心に暗雲を呼び寄せることだった。
幾度眠れぬ夜を過ごしたであろう。
しかし考えても分からなかった。帝があのようなことをした理由が分からなかった。言葉の通り、自分に想いを掛けられて止むに止まれず…とはどうしても思えなかったのである。
主上は何故、あのように道を踏み外されたことをなさったのか、一体何故…?
それとも、数多の妃達では飽き足らずに気まぐれを起こされただけなのか?
だから、あのように何事もなかったかのように、まるでお気に留めるご様子がないのか?
そして、夕星は自分の立場を思った。あのようなことをなさった以上、東宮の妃として、帝ご自身から自分は重視されていないのだと思うより他なかった。東宮が即位されたら、先に入内している関白家の姫が立后あいなるに違いない。誰もがそう思っている。しょせん自分は二番煎じに過ぎない と。
今日の日のこの節会、夕星女御は幾度も病を装おうかと思案した。しかし、思案に思案を重ねた結果、遂に病を装うことはなかった。彼女の心の奥底には深い葛藤があったのだ。一方で最も御前に出ることを躊躇われる御方が…しかし、また一方で最も焦がれる青年が其処に現れる。かの美しい姿を遠目にも眺めることの出来る、これは僅かなチャンスに違いなかった。
入内前の彼女であったなら、臆病の心に支配され淑景舎に篭っていたに違いない。しかし、入内してより半年の時間が彼女にいくらか変化を与えていた。それは結局仮病を良しとしなかったその決断に表れていた。そして彼女はしばし、その勇気の果てに得た幸福に酔った。
ああ美しい。なんて美しい・・・
やはり彼は美しかった。御簾越しに、遠く離れてではあったが、見物する官人に混じって、ひときわ目を引くその美しい姿。その涼しげな佇まいにくぎ付けになった。
なんと久しぶりに、彼の姿を見たことか!
夕星は胸が高鳴るのを感じた。そして、それはいまだに冷めてはいなかった自分の恋心を確認することでもあった。当然、そのことはさらに夕星の心を苛むことになったのではあるが…。それでも束の間の愉しみを得た喜びに勝るものはなかった。
そうして、ささやかな幸福と、深い懊悩がせめぎ合う中、ふとそれに気付いた。
偶然であった。御簾越しにしかも遠い。しかし、それでも気付いてしまった。
それは視線だった。
誰の視線・・・?ああ、それは・・・あの御方の…、あの恐ろしい御方の眼差し!
刺す様に鋭く、燃え上がるように熱い眼差し。他の誰でもない、自分を悩まし続けている内の上の・・・、帝の眼差しだった。
御殿は、馬の蹄の音や、威勢の良い嘶きがこだまし、人々の歓声で騒がしかったにも拘わらず。それはなんとも微動だにしないものだった。何事も寄せ付けない強い意志だった。いや、念と言った方が良いだろうか。歓声の中にあって、それは静かな焔を感じさせた。
そして、その眼差しの先にあるものを認めた時、背筋に震えが走った。
眼差しの先には、彼が居たのだ。自らが今日、密かに眺めることにときめいていたあの美しい青年が…!
ああ、まさか、ああまさか…そんな。
この日見た、帝の焔のような眼差しは夕星女御の胸に強く刻まれた。しかし、それは疑念を越えるものではなく、少し過ぎると、「なんと馬鹿なことを考えたものか」と密かに胸に仕舞い込んでしまった。
暫くして、後宮の女房達の間で歌合わせが行われた。
この時、几帳を一つ隔てて、もう一人の東宮妃である梨壺女御と初めて近しく対面した。梨壺女御は関白家の姫君であった。
つまり、里邸に居た頃関係のあった中納言の君と、今上帝の妃である中宮にとっては同母妹に当たる。そして、あの方・・・佐為の君にとっても異母妹に当たるお方だ。どのような方なのだろう・・・?と夕星は思った。
後から入内した夕星の方から声を掛ける他はない。
それにしても煩わしい・・・。世の習いとはいえ、東宮様の他の妻と顔を合わし、和やかに話さねばならぬとは。
それでも東宮様はおやさしい。そのお優しさが救いだったけれど・・・。
ああ、このような場はやはり辛い。
佐為の君をお慕いしていた、あの頃、こんなことを思うなど考えてもいなかった。お慕いしている方の妻になるわけではないのだから、他の妃に対して何も思わなくて済むだろう、却って楽かもしれない、とさえ思ったものだった。
しかし、そんなに簡単なことではなかった。
佐為を恋い慕う気持ちとは違ったが、夫婦の契りを交わした相手の他の妻を見るのはやはり辛いことだった。
ままあることだが、東宮の最初の妃、梨壺女御は東宮よりも年上であった。それでも関白家で一番若い姫だった。しかも東宮とは八歳も離れていた。そして、この度の、東宮とあまり歳の変わらない姫の入内である。梨壺女御は自分よりもかなり若く、しかも美しいと評判の夕星のことが気になり気が気でなかった。
そして、東宮の寵が夕星に移りつつあることは確かだった。夕星は若く美しい上に聡明で、深窓の姫君らしく清らかな風情をしていた。八歳年上で、まだ皇子も授からず、関白家の威信を背負った梨壺女御から、東宮の関心が愛らしい若い妃に傾くのは当然であった。
こうして対面した梨壺はつんとすました女だった。顔は扇で隠してよく見えない。
しかし、扇の下は、燃え上がる嫉妬心で張り裂けんばかりなのは疑いの余地がない。
侍女がごく小さな声で耳打ちする。
「夕星様の方がお美しゅうございます」
「これ、何を言います」
夕星は小声で嗜めた。
場はいつしかしんと静まり気詰まりな空気が張り詰めていた。
複雑な心中を抱えながらも夕星は、何か和む話題はないかと思案した。
そして思いついた。
「・・・梨壺女御様はお兄様の佐為の君に碁を教えて頂いたことはおありでしょうか?」
「まぁ」
「くすくす・・・」
梨壺女御付きの女房達から笑いが漏れた。
夕星は訝しげに、扇の陰でくすくすと笑う女房達を見つめた。
「まぁ、失礼だこと!」
先ほど夕星に耳打ちした女房が憤慨した。
しばらくしてから、落ち着き払った声で梨壺女御が言った。
「何もご存知ありませんのね、幼い方。夕星殿は世間知らずの幼い姫との噂は本当だったようですわ」
「そ、それはどういう意味でございましょう」
夕星は泣きたくなった。梨壺女御の声音は明らかに夕星への敵対心が感じられた。
「佐為の兄上とはほとんど言葉を交わしたこともございません。だってあの兄上は変わり者。母上も、そして姉上の中宮様も、佐為の兄上には昔から酷く困らされておいでなのです。」
「どうして・・・? 佐為様が一体何故・・・? あのように素敵な兄君をお持ちなのに、酷い言われよう・・・」
遠慮がちだった夕星の語調もいつしか芯の強さを感じさせるものに変わっていた。
「まぁ、素敵な兄君と! ではあのお噂は本当ですのね。 あなた、中納言の兄上だけでなく、佐為の兄上とも・・・? よくも穢れた身の上で入内なさったこと!」
「なんというおっしゃりよう! 夕星様を侮辱なさるおつもりでございましょうか?」
夕星の女房が耐えきれずに口を開いた。
「これ、よしなさい。きっと梨壺女御様は誤解しておいでなのです」
「まぁ、誤解とはふてぶてしい! お隠しになったって無駄でございますわ。夕星殿が兄達と交際があったことを知らぬ者など内裏中に居ないというのに! そんな貴方が東宮様に入内なさるなんて奇妙なこと。どうしてかご存知ではないのですか」
「・・・おっしゃる・・・お言葉の意味が・・・私には分かりません」
「ならば、教えて差し上げましょう。だってあなたが入内なさったのは、佐為の兄上とお噂がおありになったからこそなのですもの!」
「な・・・なんですって・・・!?」
ここまで気丈に振舞ってきた夕星もさすがに怒りに震えた。
「主上は佐為の兄上に異常なまでにご執心でらっしゃる。姉上を・・・中宮様を何時までたっても里邸からお呼び戻しにならないというのに、佐為の兄上にはそれはそれはお優しく、事ある毎にお側にお召しになっておられる。ここまで申し上げてもお分かりになりませんのか?ずいぶんと鈍感な方なのか、それともお分かりにならぬふりをされてるだけかしら?」
「私には・・・私には・・・何のことやら・・・」
しかし、そう言いながら、夕星は震えていた。なぜなら、脳裏には今はっきりと、様々な記憶が去来したからである。
去年の夏の日、見たはずだった。里邸に突然御幸された帝が、佐為の君と和やかにご歓談されているご様子を。弟の天童丸の粗相をお咎めになるどころか、それはそれはお優しくお声を掛けてくださった。そう、とても慈しみ深い笑顔をしておられた。
あの時、主上はなんと素晴らしいお方かと尊敬申し上げたのだ。
あのお優しさ、あの輝くような笑顔は、全て佐為の君が居らしたからだと・・・?
そしてあの夜!
お怒りになったお顔の恐ろしさは忘れない。あれは・・・あれは・・・!
それでは、この半年の間、悩み続けていた疑問が全て解けるではないか。
上が、嫉妬なさったのは自分と関係があったと噂に上った佐為の君に対するものなのではない、いや、そうであろうはずがないのだ。嫉妬の矛先が向けられたのは自分の方だったのだから! 夕星はすべてに合点がいった。
自分に懸想したなど、やはりありえなかった。 彼をこそ、佐為の君をこそ、懸想なさっておいでなのだ、と気づいた。 だから、あのようにお怒りになったのだ! 根も葉もないお噂を信じられて。
・・・なんていうこと!
「ふっふっふっふ、ああ不思議なこと! 佐為の兄上と噂のある方はいつも何時の間にか、兄上の周りから消えるのです。兄上さえ居なければ、あなたが入内なさるようなことも無かったでしょうに! 可笑しいではありませんか。貴方もお笑いになったらいかがですの? ふっふっふ・・・」
梨壺女御の甲高い笑い声は空寒く、いつまでも広間に響いていた。
「お顔の色がすぐれぬようです」
褥の上で、そなたは気遣わしげに言った。
こめかみを撫でる指先が優しく、柔らかな声の響きが耳に心地よい。
意識は途切れがちになり、何時の間にか眠りの世界にいざなわれてゆく。
こんなに安らかな気持ちで眠りに就くのは何時以来であろう。
ああやはりそなたが必用なのだ。
そなたの腕の中では重い鎧を脱ぎ捨て、弓も槍も投げやり、こうして無防備になれる。
そして、夢を見た。短い夢だ。白い世界。
若い。・・・この童子は誰だ? 一人の童子が居る。みづらに髪を結い、たった一人でひれ伏している。ああ、これは皇子だ。そうだ、幼き日の我が姿だ。
しかし、人物も風景も混ざり合い、混沌としながら折り重なっていく。
いつしか碁盤が現れた。その碁盤の前に今度は先ほどとは違う、美しい童子。瑞々しい白い額。そなただ。そして、対座しているのは余だ。大人になった余だ・・・だがまだ若々しい。
しかし、何時しか、童子もまた大人の姿になった。美しい。喩え様もなく美しい。
ああ・・・だが、何故だ?
なぜか、碁盤の前に座るそなたが泣いている。静かに・・・背筋を伸ばし・・・端然と座しながら、しかし涙している。一滴・・・二滴・・・・それは碁盤を濡らしていく・・・・・・その涙は一体何の涙だ? 何故泣く・・・佐為?
そこで突然夢は途切れた。続きを見たのかもしれない。いやきっとそうだ。なぜなら、とても心地よい気分で目覚めた。だが、記憶を辿れるのはここまでだ。
「夢とは・・・不思議なものだな、佐為・・・覚めた途端に忘れる」
余はまどろみながら、口に出して言っていた。
言いながら、そなたの指先を探した。そして探し当てた人差し指と中指の付け根に口付けると、自分の指をその白い指に絡めた。
「夢をご覧に・・・?」
「ああ」
「では、しばしでもお眠りになれたのですね」
「そのようだ」
そう言うと、そなたは安堵の笑みを浮かべた。
「どのような夢をご覧になったのでしょう?」
「幼いそなたを見た・・・愛らしかった・・・」
「ふふ・・・では覚めてがっかりなさったことでございましょう」
「がっかりする・・・? そのようなはずがあろうか・・・手に触れることの出来ぬ夢の中の幻影より、こうして腕に抱けるまことのそなたの方が良いに決まっている。それにみづらの童子は夢の中で何時のまにか、大人の姿になった。今のそなたに・・・だが・・・」
「だが・・・?」
「いや・・・よい・・・もう思い出せぬ」
「不思議でございます・・・私も・・・夢を見ました」
「そなたも・・・?」
「夢の中の私は・・・碁盤の前で泣いておりました・・・」
「・・・なんと」
「・・・ですがその後は私も思い出せません。不思議と寝覚めが悪くないのは、悪い夢ではなかったのございましょう」
「・・・そう・・か。ならば良い・・・」
なんとも不思議な感慨に耽りながら続けた。
「では・・・余の夢の話を聞いて欲しい・・・」
「何なりと・・・」
「夢の中には初め、幼かった頃の余自身が現れたのだ・・・このような夢を見たのは初めてだ」
「大君の幼くあられた頃を・・・?」
「そうだ・・・もう忘れていた・・・随分と昔だ」
「夢の中で、幼くあられた大君はどのようにしておられたのでしょう?」
「父・帝に・・・・対面していた・・・今は亡き先々帝だ」
「御対面を・・・?」
「あれは、七歳を迎えた頃であった。その歳までは母・故女院の里邸で育てられた。七歳を迎えた余はその時初めて内裏に上がった。そして初めて父・帝の顔を拝した。母宮の居る飛香舎(ひぎょうしゃ)へも初めて迎えられた。母宮と暮らしたのはそれから東宮となるまでのわずかな間であった。
・・・そなたは言ったな。ほんの幼き頃に母を失った為に、母の顔を覚えておらぬと。余は逆だ。逆に・・・七歳を迎えるまで母とも父とも暮らさなかった。父・帝に至っては、顔さえ知らなかった」
余の話に耳を傾けていたそなたは酷く哀しい目をして訊ねた。
「里邸では・・・何方が君をお育てになられたのでございましょう?」
「余の後見は祖父母であった。
佐為・・・そなたに幾度か訊ねられた問いに答えられぬ訳を余は今やっと気が付いたのだよ」
「・・・」
そなたは無言だった。ただ静かに続く言葉を待っているようだった。
「幼き頃、共に過ごした兄弟も無く、皇子であるが故に父・帝とも母宮とも離れて暮らした。余の幼き頃は赤子はもちろんのこととして、幼な子は内裏に入ることを許されてはいなかった。佐為、余もまた余の皇子達の幼き頃の面影を知らぬ。皇子は皆我が身と重なる。だが、姫宮だけは別だった。初めて我が子を腕に抱き、いとおしいと思った。しかし、それも姫宮が生まれてから一度きり。もう大きくなったであろうか・・・・・? のう・・・佐為?」
そなたの瞳を見つめた。憐憫の情に満ちた眼差しで余を見つめ返す。そして、余は再び、そなたの首に顔を埋め、言葉を紡いだ。
「そなたが恋しい・・・佐為。どう愛したらよい? 分からぬ。ただ、ただそなたが恋しい。そなたの顔を見て居たい。側に居て欲しい。それが叶わぬなら、せめてこうして時折二人だけで逢って欲しい。いつでも余は不安だ。そなたの想いが他の場所にあるのではないかと恐ろしくなる。そなたは・・・余を・・・愛してくれているか・・・? 少しでも・・・余をいとおしいと思ってくれるか?」
「・・・お慕い・・・申し上げております・・・」
「それは・・・父としてか・・・?」
そなたは困った顔をしてしばらく黙ってしまった。ああそうだ、いつもこうなる。語れば語るほど、余とそなたは、答えの見出せぬ迷宮に迷い込むのだ。それは何故だ?ああ。
そなたと余は同じ迷いを抱え、同じ傷口を隠しているからではあるまいか? だからお互いの問いに、お互い答えることが出来ぬのだ。だがそなたにも余にもそれぞれ、全く違う天賦の定めがあった。余には孤独な高御座(たかみくら)が、そなたには孤高の求道の道が。
そしてそなたはやっと言葉を紡いだ。
「・・・いかなる類のものにあろうと・・・私は我が君をお慕いしています・・・・。どう申し上げればよいのか・・・分かりません・・・ですがただ・・・」
「ただ・・・?」
余は心をかき乱しながら続く言葉を待った。しかし、言葉はなかなか返されなかった。しかし、却ってそれで良いとさえ思った。
そして、静かに時が流れた。お互い口をきかぬまま、抱き合っていた。そなたは優しい指先を我が髪に滑らせた。我らは互いの傷を垣間見あったのだ。心の奥襞を見せてくれたのはそなたであった。ああそなたの鼓動が余にも伝わる。
感応し合う体温に次第に溶け合っていくような恍惚を覚えた。
こうしてしばしの間、幸福に酔ったがやがてそれはそなたの哀しい声に打ち消された。
「・・・一度だけ・・・と・・・おっしゃいました」
よほど思案したのか、遂にそなたはそう言った。
ああ今宵初めてそなたから聞くなんとも冷たい言葉・・・余を責める言葉だ。今までの憩いは何であったか?
やめよ、そのようにすげない言葉はそなたの口に似合わぬ・・・そなたは余を突き放すのか?
余は心の中でそう叫んだ。
そして堪らなく哀しくなった。哀しみに心が満たされ、胸に錐を立てられるような痛みを覚えた。
「度重なっては・・・噂になります・・・・どうか・・・このようなことは・・・もう・・・。日の下にお側にお召しください。私のような者が君のお心をお慰めできるのなら何時でも直ぐに参りましょう。ですが、こうして忍んでお逢いすることは・・・どうか・・・どうか・・・もう・・・」
余はその言葉を打ち消したいという堪らない衝動に駆られ、夢中でそなたの言葉を遮った。
「そなたを・・・縛ろうなどとは思わぬ。そなたを独り占めしようなどとも思わぬ。そなたは自由だ。だから、どうかそのようなことを言わないで欲しい・・・。いつもとは言わぬ。ほんの時折でよいから、逢って欲しい。そなたを愛している。そなたと肌を合わせ睦み合えぬなら死んだ方がましだ」
そなたを繋ぎとめる為に、明らかなる偽りを口走っていた。
偽り・・・そうだ、それはやはりいまだ偽りであった。心の平安を求めたはずであった。憎しみを捨て慈しみに生きよと、心に命じたはずであった。そのように、日々努力した。だが、あの者が戻ってからは心が掻き乱された。眠れなくなった。
眠れぬ理由は、愛しき者の腕の中で、最後まで口に上らせることは無かった。
つづく
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