菖蒲三
童子は綺麗な薬玉を抱えてやってきた。
「佐為、遅いよ! いつもはボクが来ると出迎えてくれるのに!」
ひどく憤慨した幼い声が、菖蒲の香る寝殿に響いた。
「すみません、天童丸殿。機嫌を直してください」
続いて聞こえたのは、我がもの顔の童子を必死になだめすかす佐為の声だった。
「また夢中で碁でも打ってたんだろう?」
「い・・・いえ・・・・・・」
「罰だよ! 佐為、抱っこして!」
「そ・・・、天童丸殿、もうこんなに大きくなったのに。相変わらず甘えん坊ですね。いい加減抱っこはやめましょう、ね?」
「だって、佐為に抱っこしてもらうと高くなるんだもん」
「仕方ないですね、少しだけですよ」
「やったー!」
そうしてしばらくの間、天童丸は佐為に何やかやとまとわりついていた。
実は、童子は今までも何度か供の者に付き添われて佐為の屋敷を訪問していた。佐為が左大臣家に出入りしていた為に起こった、あの不幸な行き違い事件以降のことだった。様々な理由により佐為自身が自粛せざるを得なくなったのだ。だが童子の許へ佐為が訪問できなくなったのは、当時、彼にとっても、また童子にとっても、辛いことだった。
もっとも童子が来るようになったのは年が改まってから暫くたってからのことだった。左大臣家からはそれまでも、天童丸の訪問が申し込まれていたのだが・・・。佐為の方で、都合が整わなかった。やっと童子の念願が叶って、再会したその時、童子は大層恨みがましく、佐為を責めたてたものだった。しかし、一通り、恨み言の嵐が去ると、童子は堰を切ったように、佐為に甘えた。
だから今日もこうして、薬玉を佐為に渡すと、いつものように彼の膝に乗って、得意げに話し始めたのである。
「ボク、もう『史記』を習ってるんだよ」
「ほう、天童丸殿はいくつになりました?」
「七歳」
「そうですか、しっかり学問もしてるのですね」
「え〜ボク、漢文の本なんてだ〜いっ嫌い! あんなの全然つまんないや」
「ふっふっふ。そうですか。天童丸殿らしい。でも学問は大事ですよ。しっかりおやりなさい」
「佐為までそんなこといわないでよ。勉強なんてほんとにつまらない! 家は退屈で仕方ないんだ。佐為ともっと遊べたら楽しいのに」
「では楽しい遊びをしましょう」
「へんっ、その手には乗らないぞ! 囲碁をしようって言うんだろう?」
「・・・だって囲碁が一番楽しいではありませんか。他に私は知らないのです」
佐為が少し残念そうな瞳をしたのを見ると、童子はそれまでの傍若無人な態度を改めた。そして彼の方へ向かって居直ると抱きついて言った。
「まぁ・・・囲碁も面白いけどさ・・・確かに佐為と打つのは他の人と打つのと違って楽しい。囲碁があんなに面白いなんて知らなかった。でもさ、ただ、そればっかりはやなんだ。ねぇ、何して遊ぶ?」
「そう・・・ですね・・・」
「・・・・・」
「どうしました?」
「・・・佐為、あれ・・・誰?」
童子は突然訊ねた。佐為ははっとした。
童子は向き直った為に佐為の肩越しに見たのだ。今まで見たことのない少年の姿を。見慣れぬ少年は少し呆然とした様子で、そこに立っていた。
佐為は慌てて光に声を掛け、手招きをした。
「光・・・、ああ・・・光! さぁ、こちらへおいで! 天童丸殿を紹介します」
童子は佐為に抱きついたまま、丸い目を見開き、口をあんぐりと開けて、黙って近づいてくる少年を眺めた。
「・・・誰?」
童子は繰り返し訊ねた。
佐為は光にすぐ側に腰を下ろすように促すと、天童丸に向かって言った。
「この子はね、光といいます。光は検非違使で、以前、私の警護をしてくれていました」
「今は?」
「今はね、こうしてよく私のところに来て、碁を打っています」
「ふーん」
そして童子はものめずらしげに、無言で座る光をじろじろと無遠慮に眺めながら、こう言った。
「じゃぁ遊ぼうよ、佐為」
それからしばらくの間、佐為は天童丸と遊んで過ごした。むろん、光にも加わるように促した。光は、強張った表情のまま、仕方なく佐為と共に童子の相手をすることになった。天童丸もまた何処となく、光にはよそよそしかった。
しかし、硬い空気が緩むのに時間は掛からなかった。童子は童子である。程なく悟ったのだ。かくれんぼをするにしても、鬼ごっこをするにしても、意味もなく庭を駆け回るにしても、そのうち、この屋敷の主よりも、この少年の方が自分の欲求を満たすということを。天童丸は少年が自分の相手に不足が無いことを悟ると、すっかり打ち解けてしまった。では光の方はといえば、自分の思惑とは関係なしに直ぐに懐いてきた童子に面食らわないわけではなかったが、いつしか瞳に笑みが戻っていた。
庭に降りると童子が言った。
「ねぇ、光! 今度は蹴鞠をしよう! 佐為はへたくそだから、直ぐに鞠を落とすんだ」
「ははは、知ってるよ」
光は笑った。
何時の間にか、佐為はそんな二人を簀子から眺めていた。遊びの相手はすっかり光の役目に変わっていた。それはごく自然な成り行きだった。光の方が童子の年齢に近かったし、そもそも天童丸のようなやんちゃな童子に、光は申し分ないはずだった。
佐為はほっとした。一方で、光が時折自分へ向ける一瞥にも気付いていたのだが・・・。
悪いことをしてしまった。彼は自分がうかつだったことを悔やんだ。童子が来ることを忘れて、光を招いた。光はさぞ、怒っているに違いない。
だがむろん、童子を帰す訳にもいかなかった。どうしたものかと思案しながら庭の二人を眺めていた。
ふと気が付くと、二人が簀子に上がってきていた。
「少し休むんだって」
光は言った。
「では菓子を持ってくるように言いましょう。さぁ、ゆっくりしなさい」
童子は出された枇杷をほうばったが、光は手をつけなかった。
佐為もまた、いつものように光に菓子を勧める言葉を口に上らせたりはしなかった。
しかし、佐為は光が大人になったことを、皮肉にも今実感していた。以前のこの少年だったら、もっとあからさまに不機嫌な顔をしていたに違いない。時折、自分へ向ける眼差し以外には、年端の行かない童子に対して微塵もそのような態度を表さないところに感心していた。我が侭で幼い天童丸と並ぶと、光は今ではすっかり分別のある頼もしい大人に見えた。
そして天童丸はといえば、新たな遊び相手にこれ以上ないほど満足していた。その証拠にくったくなくこう言った。
「佐為と遊ぶのも面白いけど、光も面白い! 光ともっと遊びたい。ねぇ、次は何しよう?」
幼い童子は、容赦が無いものである。しかし、佐為は遮るように言った。
「天童丸殿、私の家でも勉強することを条件にここへ来ることをお父上に許してもらったと、さっき言っていましたね?」
「そうなんだよ! あさってまでに『項羽と劉邦』のところを何も見ないで言えるようにしなくちゃダメだって。あーあ、でもやだな。ボク、漢文なんてちっとも面白くない。あんなのぜんぜんつまらない」
「天童丸殿、本は持ってきましたか?」
「うん、ほらこっからここまでだって。どうしよう、あーあ、やだなぁ」
「父上の宿題は短いではありませんか、さ、頑張りましょう。諳んじればいいのですね?」
「うーん、やだ。ボクには長いよ! つまんないったら、つまんない!!」
「天童丸殿っ、最初からつまらないと思ったら、面白いものも面白く感じることが出来ません」
佐為は少し厳しい顔で窘める。
だが今、童子は、持ち前の我が侭と強情な性格に支配されていた。佐為に窘められて尚、ぷーっと頬を膨らませたままだった。
光はそんな二人をよそに、この時、童子が持参した本を眺めていた。が、ふと口を開いた。
「『鴻門の会』のところだ・・・。『史記』だろう、ここは面白いんだ」
「光・・・?」
「どう面白いの? 女房の説明を聞いてもぜんぜんわかんないし、父上はいつも怒りながら話すんだ。もっとつまらない」
「それはあなたが真面目に聞こうとしないからではありませんか? だから父上は怒ってしまわれるのでは・・・?」
「だとしたって、やだよ、怒られながら勉強するのなんかつまらない」
「つまらなくないよ」
再び、光がぽつんと言った。
「光・・・?」
佐為も再び、光に目を向けた。
「ここは・・・さ、ちょっと登場人物達の思惑が複雑だけど、凄く面白いんだ。項羽にさ、劉邦が詫びてこれを項羽が許す。一応、そうだな、今まで戦ってた二人が話し合って仲直りしようって楽しく宴を開く場面なんだ。だけど、会してるみんながそう思ってるかというと違う。項羽の味方の一人がこんな絶好のチャンスを逃しちゃいけない、劉邦を殺しちゃえって、項荘って奴に命じて剣を持って舞わせるんだ。あくまで宴の余興を装ってさ。ほら、こんな風に剣を持ちながら舞うんだ」
光は立って鞘に差したままの自分の剣を持って見せた。そして、天童丸の前で、それを振りかざし、大仰に手足を動かしてみせた。
「何、それ? 舞ってるの!?」
「そうだよ。剣舞だ。上手いだろ? はは」
「おっかしー! 光、へんてこりんな舞だな」
「可笑しいか? カッコいいだろ? ほら、こんな風に何気なく、劉邦に近寄っていく。そして、剣をいざ!」
「うわっ、何すんだよ! 怖いじゃないか!」
「はっは。鞘から抜いてないから大丈夫だよ」
「それから??」
「でも、これってなんか怪しいだろ?」
「うん、怪しい! 狙われてる?って思うよ」
「だから、その場を読んだ張良って劉邦の味方がさ、項伯という、この仲直りの宴を取り持った人に目配せするんだよ。こんな風に」
光は佐為に向かって瞳を瞬いて見せた。
「それに気付いた項伯が、今度は和解の宴を護ろうと、自分も舞い始めるんだ。同じく剣を持ってね、項荘の剣舞の相手を装ってさ」
「へーっ」
「ほら、佐為が項伯の役だ。おまえは剣の代わりに扇でいいから、持って舞え」
「私もですか・・・わ、分かりました」
佐為は扇を持つと適当に舞って見せた。
すると其処だけまるで季節はずれの桜花が舞い散るように感じられた。
「わー、佐為は上手いや。それが舞いってもんだよね」
天童丸は心から感嘆して言った。
佐為の優美な身のこなしには、光も一瞬見惚れざるをえなかった。だが、直ぐに気をとりなおして厳しい口調で言った。
「ダメダメ! それじゃ、扇を持って踊ってるだけじゃないか。ここは、舞いながらお互いに牽制しあうっていうか、特に項伯・つまりおまえは、オレ・項荘が劉邦を刺そうとするのを邪魔しながら踊るんだ。しかも剣を持ち合ってだよ。もっと凄みを効かして!」
「で、ではどう舞えば・・・?」
「こうだよ! ほら、その扇は剣だからな! こうやって、刃と刃を交わす」
「うわーっ! 怖いね、っていうか、佐為負けてるじゃん?」
「そ、そんなことを言われても私だって精一杯やってますよ・・・」
佐為は情けない顔をしてみせた。
「いや、違う。もっとお互いに牽制しあって、凄い緊迫感なんだよ。佐為が下手だからこの場面の緊迫感が伝わらないじゃないか」
光は自分でも気付かずに容赦の無い言い方をしていた。
「そ・・・そんな・・・」
佐為はますますおろおろとしながら言った。
「わっはっはっは! 光は佐為よりも強いんだ! これは面白いや」
「違うって。ここは佐為・・・じゃなくて項伯も怖いんだよ。で、項伯が邪魔してる間に、他の家来がこの宴に乱入してさ、そのすきに命を狙われた劉邦を上手く逃がすんだ」
「へーっ」
「どう、危機一髪の面白い場面だろう?」
「うん、面白かった!」
童子は目を輝かせて言った。
「知らなかった。こんなに面白い場面だったんだね。光が説明してくれると面白い! ねぇ佐為?」
しかし、佐為は今、驚きの眼差しで光を見つめていた。
「ねぇ、佐為ったら?」
「え、ええ、そうですね・・・」
「光は凄いね」
「『史記』のここの場面はたまたま、すごく学のある人と話したことがあるんだ。とても話が上手で・・・その人の受け売りだよ。オレは学問は苦手だ。他のところは知らないところだらけだ」
「ほんと? 光も勉強嫌い?」
「うん、好きじゃなかった、前まではな。でも今は好きになったよ。どうしてだろう? いろいろと気付くのが遅かった、知ることは楽しい。いまさらだけどな。オレは後悔している。だから、天童丸殿は小さいうちから、頑張った方がいい」
「ふーん」
天童丸は我が侭ではあってもくったくない無邪気な童子だった。しかし、左大臣家に育った自分が大概の者にかしずかれるのには慣れていたし、光が自分の家の家格より大きく劣る家の者であることは、肌で感じていた。そしてそれまでは年上の光に対して、ごく対等な態度で接してた。
しかし、童子の眼差しは今、年長者に対するものを含むようになった。
こうして和やかに夕刻まで過ごした。夕餉の後に佐為が席を外していると天童丸が言った。
「良かった、光のお陰で宿題をする気が出てきたよ。それができなきゃ、もう佐為の家に泊まらせないって父上に言われたんだ」
「今日は安心して泊まっていけるな。良かったな、天童丸殿」
「うん、いつも佐為と一緒に寝るんだよ。それで遅くまで遊ぶんだ」
さすがにこの言葉を聞いて、光は一瞬顔を強張らせたが、落ち着いた声で言った。
「・・・そうか」
「佐為は寂しがりやなんだ。ボクがやだって言うのに、一緒に寝ようって言うんだ」
「・・・・・」
「でも可哀相なんだ。仕方ないよね。佐為、本当はボクの姉上と結婚するかもしれなかったんだから」
「・・・え?」
「夕星の姉上さ。佐為はね、ボクの家に来てたんだよ。姉上もね、佐為のことが好きだったんだ。でもさ、父上が姉上を東宮様のお妃にしちゃったんだ。だから、もう逢えないんだよ。それでさ、その話が決まった時に、佐為ったら、ボクの前で泣いたんだ。あの時は、佐為がなんで泣いてるんだか分からなかったけど。女房達がね、後で話してるの聞いちゃったんだ。二人はいい仲だったんだって。夕星の姉上も泣いてたんだ。佐為も綺麗だけど、姉上も凄く美人なんだよ。どう考えてもお似合いだったのに。ぼくもそうなって欲しかったのに。佐為も哀しかったんだ。佐為ったら、目を真っ赤にしてさ・・・」
「それ・・・何時頃・・・?」
「そうだな、何時だったっけ? そうだ、去年の秋くらいだ。夕星の姉上が入内するから、もう佐為はボクの屋敷に来れなくなったって、女房達が噂してた。それで、ボクがここへ遊びに来るようになったんだ」
「・・・・・そう・・・か」
「・・・どうしたの? 光、怖い顔して」
「い、いや・・・」
「その話、しちゃダメだよ。佐為が悲しむから」
「・・・・・・・」
そして再び、童子は言った。
「光も泊まっていくの? 一緒に遅くまで遊ぼうよ」
童子は満面の笑みでいかにも楽しげだった。
光が答える前に何時の間にか戻ってきた佐為が光に耳打ちした。
「光も泊まっていきなさい。東の対はあなたが自由に使っていいのです。いちいち私の許可を得る必用はない・・・好きなだけ居なさい」
しばらく黙っていたが、光は答えた。
「いや、今日は帰るよ」
夜も更けた。頃合を見計らって、光は席を立った。中門から出て行こうとすると、呼び止められた。光は淡々とした表情で振り返った。が、佐為はいつもよくするように、光の肩を包み込み、顔を覗き込むと、懇願するように言った。
「光、怒っているんですね。私がうかつだった。謝ります。許してください。お父上の具合はいいのでしょう? どうかもうしばらく居てください。光、お願いです」
光は目線を合わせないまま、黙って聞いていた。しかし、しばしの沈黙の後、佐為を押しのけながら言った。
「・・・悪いけど、オレは駄目だ」
独り言のようだった。
「・・・は?」
「・・・おまえはいい。ああやって、寂しい時に慰めてくれる子が居て。オレじゃなくたっていいんだ、そうだろう? だから、おまえはいつも平気なんだ。オレが筑紫に居る間だって、別に寂しくなんかなかったはずだ。おまえには行く場所がいろいろあるからな。おまえにはそうだ、帝だって付いてる。心配なんかする必要なかったんだ。オレが知らないと思っているんだろう? 別にいい、おまえがどうしようとおまえの勝手だ。そうだ、一年も離れてたんだから、その間、おまえのような男に何もないはずがない。普通に考えれば分かることだ。なのにオレは・・・!」
堰を切ったように、言葉はひとりでに滑り出していた。
佐為は光の言葉を聞いて蒼白になった。
「だけど、オレは堪らない。我慢ならない。どうしていいか分からない。もういい、帰って頭を冷やすよ。ここじゃ頭に来るばかりだ! 分かってるよ、オレがおかしいんだろう、未熟なんだろう。オレは駄目だ! おまえは呆れるだろうさ。だけど、駄目だ。今は駄目なんだ。どうにもならない。自分が情けない! 頼むから触るな! 放せ!」
「光・・・・・光!? ちょっと・・・待ってください・・・・・! 何を・・・言っている? 落ち着いて話ましょう・・・光?」
佐為は自分の腕を振り解く光に必死に追いすがった。
「他所でも、そんな目をして、優しい言葉を掛けてるんだろう? ああ・・・! 聞いたか? オレは最低だ! 止せ! 今おまえと話すと、ますますオレは悪くなる」
「光!?」
佐為の声は最後には悲痛な叫びに変わっていた。
しかし、その時、童子がばたばたと中門に通じる渡殿を走ってくる音が聞こえた。
「佐為、何してるの!?」
背後から天童丸が呼びかけた。
そして光は振り返らずに出て行ってしまった。
佐為は、酷く気持ちが沈んでいくのを感じた。光にこんな風に去られた後で、このやんちゃな童子の相手をするのは拷問のようだった。
だが、なんとかその日と次の日の昼まで過ごし、天童丸を家に帰した。そして急いで光に遣いをやった。しかし、返って来たのは、光の父がもう何度目か分からない危篤に陥ったとの知らせだった。
菖蒲 終 ・
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