遺言

 

 オレは考えていた。
 いや正しくは、考えが勝手に頭を巡っていた。

 賀茂が言っていたのは、オレが大宰府へ発って直ぐ後のことだ。直ぐ後・・・まだ春の頃だ。
 だが、天童丸殿が言っていたのは秋・・・。では春から秋にかけて通っていた・・・?
いや、賀茂の話と天童丸殿の話は結びつかないのかもしれない。また別の処だっておかしくない・・・佐為はそれほど女にまめとは思えなかったけど、でも・・・。
 オレが怪我をしてから、大宰府に行くまでの三ヶ月間。オレと佐為はあの期間、本当に片時も離れずに暮らしていた。片時も離れず、何処へ行くのもいつも一緒に。
 しかし、あいつは天童丸殿が言う通り、元々一人では寂しい奴なんだ。では、あんなにもずっと一緒に過ごしていたオレが突然居なくなって・・・あの屋敷にまた一人っきりになって・・・それで・・・居なくなった直後はきっと、さぞや寂しかったに違いない・・・
 さぞや寂しかったに・・・・・・。人も恋しくなるだろう・・・・・な。
 ・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・
 そして夏ごろから秋にかけて、帝が御前対局を何回か用意した。それが左大臣邸でも何回かあったって言ってた。
 帝と佐為・・・
 行洋殿が病に臥してからは、帝が佐為の後見。
 今ほどその結びつきが強くなかったにせよ、オレが大宰府に左遷される前も、帝と佐為の関係は徐々にそうなりつつあった。今、その傾向が強まっているのなら、それはオレが大宰府に行った後も佐為と帝は親しくしていて、関係は変わらなかったということだ。変わらなかった? いや、何か違う。確かに以前だって、佐為は褒めこそすれ、帝を悪く言ったりすることなど無かった。それは当たり前といえば、当たり前。だが明らかにあの頃、佐為は帝を煙たがっていたはずだ。一言も言わなかったけれど。でも、帝から来た贈り物や文への反応、それでオレは充分に佐為がそれらを厭わしく思っているのが分かった。それが元で他の官人や、そう、特にもう一人の侍棋、菅原顕忠殿に妬まれるのを苦にしているんだと最初は解釈していた。
 だが、違っていた。いや・・・正確には、違っていたと思った、・・・だ。
 帝は佐為に執着している。佐為を寵愛している。それを人から妬まれるとか、そういうこと以上に、帝からの強すぎる寵そのものに苦しんでいるのだと、あの時思い至ったのだ。
 それも違っていたのか?
 賀茂の話では、オレが大宰府に発った後、帝と佐為は至極良好な関係を築いていたと言っていた。傍目にはっきりそう見えたと。
 しかし・・・佐為に他に取る道があるだろうか?
 あいつには後見が無い。関白家に生まれたのに、関白家とはまるで交渉が無いし関わりも無い。それどころか父上の関白殿に疎まれている。佐為の顔を打って血を流させたあの男。あの時の怒りは未だ忘れない。あんな父上なのだ。母上はとうに亡くなっているし、他に頼るところがあるのか? 行洋殿以外には佐為には後ろ盾がない。左大臣家だって、天童丸殿の姉姫を入内させたのなら、佐為はむしろ邪魔者でしかなかったのかもしれない。
 だとしたら・・・・・・帝しか居ない。今、佐為の味方は。
 何を今更? その結論なら、既にあの鳥羽の船着場で出ていたじゃないか。
 佐為には、選択肢など初めから無かったんだ。帝が佐為の後見になり、佐為は帝を後ろ盾にすることでしか、宮廷で身を立てることが出来ない。
 だが・・・・・・
 ここまでは何度考えても同じ。しかし、何か違う。
 何が違うって言うんだ。いや、分かっている・・・・・。佐為があの頃、見せたあの物憂げな顔が今は無いってことくらい。
 佐為は以前同様、帝のことを悪く言ったりしない。ここは同じだ。だけど、以前のように帝を厭うている様子もまた無い。やはり、賀茂が言うとおり、二人の関係は変わったんだ。佐為は少なくとも、今は帝をけむたく思ってなどいない。前のように四六時中一緒に居るわけではなくてもそれは分かる。

 帝・・・どうしてオレを赦したのだろう?
 帥殿の奏上文・・・? 天下の安寧の為の恩赦・・・? 

 賀茂が言っていた。
 帝は教養も高く、思慮もあり、慈悲深いのだと。皆そう思って尊敬しているのだと。帥殿は恨んでいたけど、あれは、自分が左遷されたから・・・。
 確かに・・・顕忠殿や座間の大臣、そして佐為の父上に比べてどうだ? 誰より佐為の理解者じゃないか? 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 いや・・・・・・・
 ではなんだ、あの伝言は・・・。賀茂に伝えさせたオレへの伝言。
 オレの深読みだったのか? 言葉通りの意味でしか無かったのか?
 賀茂自身だって言っていた。
 『一見曇りのないご威光の下に・・・、闇を抱えておられる・・・』と。

 ・・・分からない・・・帝という人物が・・・こうして考えるとオレには分からない。分かっているような気がしていたのに、ああ! 何も分からない!? 分かっていなかったんだ! 言葉だってほとんど交わしたことなんかないんだから。

 いずれにせよ、帝は佐為と繋がっている・・・だがオレには、今の二人が分からない。佐為の他の女のことが分からないのと同様に・・・。
 オレと対座するおまえはあんなにはっきりとオレの目に映るのに・・・なのに、他所に居る時のおまえの心が掴めない。

 ああ、まただ。よせ、今は何も考えるな。
 時折気が付くと、オレはそう心に言い聞かせた。
 そして、現実に戻った。

 結局、父上は亡くなった。・・・・・そうやっと。
 端午の節会も過ぎ、夏を迎えた頃、父上は死んだ。あっけなかった。
 父上が息絶えると、葬送の用意が始まった。家の前に穢れが出たことを知らせる札を立て、棺を何処から出すか、家の者達は思案した。皆まるで、今日それ・・・父上の死が決まっていて予定通りにそれが起こったように、動き出した。母上は泣いていた。そして、弱っていた。父上の死と共に倒れてしまった。
 こんなことになって、初めてどう弔うのかを考えた。だが、母上は考え、準備をしていたようだった。

 佐為がやって来た。何故だか家司を連れてきていた。
 佐為は黙ってオレの傍に座った。
 ・・・・・!
 そう座ったのだ。
 オレは慌てて言った。
「どうして座った、佐為? 穢れが・・・」
 立ったまま弔問すれば死の穢れは移らない。だが、座ればその家の穢れが移る。だから、普通死者の出た家に入っても腰を下ろしたりしないのに。
 しかし、おまえは何も言わず、オレの肩に手を置いた。
 父上が死んでから、この瞬間初めて瞳から涙が溢れ出すのを覚えた。

 数日後、洛外の野辺へ棺を運び、父上を荼毘にふした。
 陰陽師の賀茂は万事に付けて葬送に関する助言をしてくれた。あいつには最近感謝ばかりしている。
 そして佐為は葬列ではオレの隣を歩き、野辺では立ち上る煙が続く間、幾度か読経をしてくれた。忘れていたけれど、あいつは昔出家していたのだった。

 葬送は、当初母上が考えていたものよりずっと立派なものになった。
 佐為は細かいことを、連れてきた家司にさせていたのだ。葬送ではずっとオレの隣に黙って居ただけだったけれど、実は葬送が立派なものになったのは佐為のかなりな援助に依るものだった。

 オレは都に帰ってきてから、幾度も洛中のあちこちに転がっている屍を賀茂川に運んだ。そうなのだ、人を雇うことができなければ、家の死人を洛外に運ぶことも出来ない。盗人に衣を剥がされ、烏や野犬に肉を突付かれる。そういう辱めを人目に曝す前に、検非違使に賀茂川の河原に運ばれる屍は幸せだろう。賀茂川の河原に、盗人や烏や野犬がたむろしているのは洛中と何ら変わりは無かったが・・・。
 それが都の庶民の死の姿だった。
 下級官吏の家でこんなに良い葬送が出来たのは全て佐為の心配りに依るものだったのだ。

 しかし、弔いはこれで終わらなかった。
 母上が父上の野辺送りの二十日後に死んだ。父上が逝った後、急激に疲れが出たのか、あっという間に病状が悪化し、逝ってしまった。母上に関してはあまりに突然でオレは呆然とするより他なかった。
 母上の葬儀が終わって、今日は三十日が過ぎた。
 オレは濃い鈍色の喪衣を着て佐為の屋敷を訪れた。

「よく・・・よく、来ましたね。さぁ、こちらにいらっしゃい」
 此処に来たのは、あの気まずく別れた日以来だったけれど、以前と何の変わりもなく、おまえはオレを出迎えた。
 実際にはその間、佐為は出来うる限り、オレの家の葬儀に携わっていた。だから、幾日も顔を合わせていた。都に帰ってきて以来、こんなに頻繁に傍に居たことも無かったろう。皮肉なことにそれくらい、多く逢っていたのだ。だが、雑多なことに追われ、ゆっくり話す時間は無かった。
 それに両親の死の直後は、ただ一緒に居ただけで、ほとんど会話をすることが無かったのだ。そう、佐為は・・・・・気が付くと、いつもオレの傍らに居てくれた。

 オレは、佐為の顔を見るとほっと一息ついた。だが、さすがに心身共に疲れきっていた。
 屋敷に招き入れられると、灯台の許に共に腰を下ろした。もう夜だったが、しとみ戸は開け放たれ、御簾を通り抜けて涼しい風が舞い込む。庭からりんりんりんという虫の音が聞こえた。夜空が明るい。どうやら今日は満月のようだった。
 
 しばらくはオレ達の間になかなか言葉が交わされることが無かった。仕方なく、二人とも鈴を鳴らしているような虫の音のする庭を眺めた。
 しかし、オレはやっと口を開いた。
「佐為・・・ありがとう。感謝している・・・どう表現しても足りないけど、とても感謝している・・・」
「いいえ、もっと・・・もっと・・・あなたの力になりたかった。大したことが出来ず、不甲斐なく思っています」
 オレはただ首を横に振った。そしてまた、言葉が途切れた。
 灯台の明りに照らされた母屋の一角に、虫の音だけが響いた。時折舞い込む風が微かに二人の影を揺らした。
 しばらく間があいたが、オレがまた口を開いた。 
「佐為、今日はいろいろ話したいことがあるんだ。ずっと話したい、いや、訊きたいと思っていた。まさか母上がこんなに急に亡くなると思ってなかったから、延び延びになってしまった」
「・・・・・・何でしょう、何でも話してご覧なさい」
「聞いたよ」
「聞いたとは・・・?」
「死の間際、父上が話した・・・おまえのこと・・・」
「そう・・・でしたか」
「おまえに父上からの遺言がある」
「・・・・謹んでお聴きします・・・・」
「その前におまえに訊きたい」
「・・・・・・・」
「おまえ・・・オレを養子にしたいって、そう父上に言ったんだってな。オレが大宰府に行って間もなくの頃のだって聞いた」
「確かに・・・そのように、お願いに上がりました」
「初めて聞いたよ。どうして・・・どうしてオレを養子にしたいなんて?」
「だが、お父上はお許しくださいませんでした・・・」
「ああ、断った後に陰陽師の賀茂に占って貰ったとも言った。それで口外したことはすまなかったと。ただ、それだけ父上は迷ってたんだ・・・許してやって欲しい。だけど、賀茂の答えも否だったそうだよ。良い瑞相は見えないと。むしろこの話は秘密にして人に知られないようにした方がいいと」
「・・・・・・」 
「だけど死ぬ間際、父上は言ったんだ、佐為。佐為殿にお伝えしろと。養子の件は承服したと、佐為殿に息子は差し上げると。但し、それは気持ちの上でのこと。公に知らしめるような養子縁組は辞退したい。藤原姓を息子に頂戴するのは勿体無い。ただ、気持ちの上では息子を差し上げると。だから養子に出したも同然。全て、オレのことは任せると、そう言ったんだ」
「そう・・・でしたか・・・」
「どうして・・・オレを養子にしたいなんて・・・」
「・・・・・・」
「・・・父上が病気になった後のことならまだ分かる。だが、そういう訳でもない」
「・・・光、理由は一つではありません。いろいろある、一つには・・・」
「一つには・・・?」
「私は子が欲しかった。でも持てなかった。これから先・・・子を成してくれるような女性と添うことはもう無いでしょう・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 ・・・父上は・・・・・・こう言っていた。
 佐為殿の子にしては、おまえは少し大きすぎる。養子とはいってもこういう意味だろう。おまえが都を追放になったりしたから、おまえの先行きに不安を感じたのだろうと・・・償いの為にそう思い立ったのだろうと・・・」
「・・・光がこの先、どうなってしまうかととても不安だったのは確かです。少なくとも、私の持てるものであなたの行く末を保障できるなら・・・・と、たとえ私が居なくなっても、そうすれば光は生きていけるのでは・・・・、とも思いました」
「・・・・・・」
「だが、それだけではなく・・・私に子が居ないならば・・・。私の持てるものは僅かなものですが、もし私が死んで、それらを譲るとしたら、光に譲りたい。私が何か遺すとしたら、それは全て、形のあるものも、無いものも全て、あなたに遺したい。光は私にとって、そのような存在だと思うし、これからもそうであって欲しいから・・・だから、あなたをお父上から貰い受けたかった。あなたは私の相続人だからです」
「・・・相続人・・・? オレはおまえの弟子ではなかったのか」
「・・・・・むろん弟子であるけれど・・・・・・でも、それだけではないのです・・・」
「・・・・・・・・・・・・・。
 ・・・だけど、だけど、『もし、死んだら』・・・なんて言うな。オレはおまえが居なければ生きていけない。そんな言葉は聞きたくない」
「・・・実のところ、私も自分が死ぬことをあまり考えたことがないのです・・・。楊海殿は私を楽観的だと言いました。死ぬ時のことを考えないのかと、老いて死すとき、おまえはおまえの打った碁にまだ満足していなかったらどうするのかと問いました」
「・・・あの人は・・・そうだな、だって千年前や千年後の未来のことを考えている人だから、生きてる間のことよりも、死んだ後のことの方が気になるのかもしれないな」
「ふふ、そうですね。楊海殿の言う「未来への布石」の話には私も惹かれます。でも光、私には、人知の及ばない未来をあまりにも憂えて今を嘆くよりも、今出来ることの方が大事と思えるのです。私は本当に楽観的なのかもしれません。時間に限りがあるのは避けて通れない。だったら、最善を尽くすより他はないと。果てしない高みを目指して碁を打ちたいと。それにはより強い打ち手とあいまみえ、そして強い打ち手を育てなければ・・・。碁は一人では打てないのですから」
「うん・・・」
 オレは頷いた。酷く真面目なことだと感じたからだった。 
 だけど、今はどうしようもなく先ほどの佐為の言葉が心に掛かってしまった。オレは佐為に向かって止むに止まない心情を吐露するより他なかった。
「佐為・・・・・、オレは両親を失ったばかりだ。以前のオレなら聞き流していたかもしれない。でも今、おまえの口から『死』などという言葉を聞きたくないんだ。やめてくれ。おまえが死ぬなんて絶対に嫌だ。オレは都に帰ってきてから、何度も大路や小路の屍を運んだ。もう『死』はたくさんだ。
 父上母上が死んだのだってとても辛い。こんなに早く逝ってしまうと思っていなかった。だけど、漠然と感じる。おまえが居なくなることの方が遥かに恐怖だって。何より、おまえの・・・そんな姿は想像がつかない。
 筑紫に居たころ、やはり楊海殿と話していて、初めて死のことを考えた。おまえかオレ、どっちが先か分からない。でもいつか必ずどちらかが先に死ぬ。父上と母上が死んで、猛烈にそのことが現実味を帯びた。年齢の順なら、確かにおまえが先だ。オレが独りになる。そんなことを考えたら、とてつもない恐怖に襲われたんだ。おまえが居なければ生きていけない。佐為、だから、そんな先のことは考えられない。いや、考えたくない。おまえの相続人になるなんて・・・おまえの死んだ後のことを考えるなんて出来ない。ただおまえの弟子でありたい。師であるおまえと共にありたい。今はそれしか考えられない」
「それで充分です・・・光が辛くなるなら、もう止しましょう・・・」
「いや・・・違う・・・。おまえの気持ちは嬉しい・・・オレは自分が恥ずかしいし、情けない、佐為。いつもいつもおまえを護ると豪語していたのに、オレはおまえに護ってもらうばかりで、何もしてやれない。口だけは偉そうなことを言って・・・この前も・・・悪かった・・・オレはあんなことを言える立場ではないのに・・・酷いことを言ったのに、まだ謝っていなかった・・・」
 だが、おまえは酷く悲しい瞳をして言った。
「光が謝るのは・・・違う・・・。謝らなくていいのです」
「・・・・・・」
 それは・・・・・どういう意味だ、佐為? オレは声に出さずに問うた。
「・・・それに・・・光はどうしてでしょう? 変わった子ですね」
「・・・え?」
「普通、人からして貰ったことは直ぐに忘れても、人に施したことは忘れないものです。でもあなたは反対だ。私にしてくれたことをまるで覚えていないようですね?」
「・・・なんだ? どういう意味だ?」
 するとおまえはオレの利き腕の肩に近い部分を衣の上から強く掴んだ。
「痛っ!」
「ごめん、光・・・」
 今度は同じ箇所に優しく手を添えて、おまえは言った。
「やはり・・・まだ痛むのですね。いつも・・・ここに触れると光は少し表情を変えるから、なんとなく分かっていました」
「・・・そ、そんなことはない。何でもない! おまえが強く掴んだから痛かっただけだ」
「どうして・・・光? 痛いなら痛いと言ってください。それとも、光は本当に痛くないと自分に暗示を掛けているのでしょうか? 無理をしなくていいのです。光は変わった子だ・・・私の為に受けた傷のことはそんなにまでして忘れようとするのはどうしてでしょう・・・?」
 ああ・・・、そうか。この傷・・・これは佐為を庇って受けたのだった。そういえばそうだった・・・。
 にわかにあの野漢に襲われた夜の光景が眼に蘇った。
『オレの命に代えても渡さないっ!!』 そう叫んで、黒い男達に立ち向かった。
 佐為は・・・命を掛けて護っても惜しくはない、オレにとってそういう存在・・・ あの時、既にそう宣言していた・・・
「・・・それだけではない。光は私にとてもたくさんのものをくれているのに・・・。あなたは私の光だと・・そう歌に詠んだでしょう? 忘れてしまったんですか。光は確かに思慮が足り無く愚かなところがあった・・・それで、都を追放になってしまったけれど・・・でも、私はあの観桜の宴で光の怒りの言葉を聞いたとき、密かに歓びで心が震えたのです・・・でも光はやはり愚かなことをしたのも事実だった。だから、光を叱ったけれど、それでも光の受けた制裁は私も共に背負ったものだと、そう思っています」
「・・・・・・」
 オレは胸が一杯になって俯いた。
「光・・・もっと早くに話せたらよかったのに・・・私達は離れてしまったから・・・何か時の歩みが思うように行かなくなってしまった気がします。
 いえ、でも光、こう言えば分かって貰えるでしょうか・・・
 光を養子にしたかった理由です・・・もっと単純なことなのです、きっと」
「・・・単純?」
「ただ、単純に・・・あなたを公然と自分のものにしたかった・・・その思いが何よりも強かった・・・それだけだったのかもしれません」
「・・・自分のものに・・・したかった・・・?」
「ごめん、光・・・どう言えばいいか・・・。私達は共に在るべきだと感じるのです。だからあなたが大宰府に行ってしまって、魂が引き裂かれたように、私はとても辛かった・・・いつ帰ってくるかも分からなかった・・・酷く、酷く辛かったのです。
 そしていつも思っている・・・・あなたが苦しむのは辛い。あなたに幸せであって欲しい。あなたを護りたい。あなたを育てたい、もっと。光には大きな可能性がある。光はとても綺麗で、輝いている。光がもっと輝くのを見守りたい、助けたい。共に碁盤を囲んでいたいと」
「・・・オレは・・・そんなに綺麗じゃない。オレを買いかぶり過ぎだ・・・」
「そんなことはない、光は魂が美しい。私には分かる」
「いや、オレは・・・オレにだって・・・それは確かに自分の全部が汚いとは思わない。でも・・・。
オレにだって後ろめたいことはあるし、思い出したくなくて、心に蓋をしているようなことだってあるんだ・・・」
「・・・光に・・・?」
「佐為・・・おまえにも言えないことが出来るなんて思わなかった。だけど、オレはそうしたんだ」
「どういうことですか?」
「おまえはオレの腕の傷のことを言ったけど、オレはその反対に人の腕を斬ったんだ」
「斬った・・・?」
「傷つけただけじゃない。斬り落としたんだよ」
「・・・光?」
「肉刑は嫌いだった。人の体を傷つけるのは好きじゃない。いや、好きな人間なんて居るだろうか? オレは都の屍を片付けるのだって大嫌いだ。死んだ途端にその辺のごみと同じように地面を引きずるなんて気分が悪い。
 まして生きてる人間を傷つけるなんてもっと嫌だ。少なくともオレは嫌いだ。おまえを護るために、人を斬りつけたことがあった。あれはでも、多勢に無勢で攻めてきたんだ。おまえを護るためには仕方なかった」
「あなたが彼らに斬りつけたのが間違ったことだとは私には思えません」
「そうだ、オレだって、あれは今でも誇りに思っている。この腕の傷だって、別にいいんだ。おまえの腕じゃなかったんだから! だからいいんだ。こんなのは何でもない。おまえの為なら命だって惜しくはない」
「・・・光、 光は何も悪くない・・・・」
「違うんだ。でもオレが大宰府でしたことは、それとは違う。命じられた通りにしなければ、海賊の首領の腕を斬り落とさなければ、オレは二度と都に帰れない、そう思ったんだ。今命にそむけば、謀反と見なされるだろう、そう思った。だからやったんだ。佐為、刀じゃない・・・。斧を渡されたよ。オレはそれを長い躊躇の末に結局振り落とした。そして返り血を浴びた。オレはその血で真っ赤に染まった。首領は失神してそのまま倒れてしまった。
 そして、オレはその後、何度も何度も吐いたよ。やがて、透明の水しか吐かなくなっても、それでも次の日は何も食べることが出来なかった。だけど、オレはやったんだ。人の腕を斬り落としたんだ。
 あの首領が碁を打ったかどうかは知らない。だけど、これから先、もし碁を打ちたいと思ってももう打てないんだ。石をもてないからね」
「光・・・」
 しばらく佐為は黙ってオレを見つめていた。だが、やっと口を開いた。
「後悔や、葛藤や、後ろめたさの無い人間など・・・、この世に居るでしょうか、光。私も・・・同じです。いつも、迷いの淵に沈んでいる。深い後悔に苛まれることもある。ならば、苦しみを同じくしようではありませんか・・・・・ねぇ、光」

 おまえの言葉に抱かれた。
 おまえと共にありたい。
 結局この決心だけは何があっても崩れない。
 そしておまえもまた同じ想いを抱いている。
 改めてそれを知った。

 そしてそれを知ったその夜、オレは初めて佐為と寝た。
 共に身に掛けた濃い鈍色の喪衣のせいなのか、夜がオレ達を飲み込んでいった。
 だけど褥でおまえがオレのことをこう言ったのをはっきり覚えている。
 光は私の魂の伴侶に違いない          と。

 
 つづく

 *この話を補完する番外編「良夜」はえにし本に収録されています

 

 back next