涼風一
此の朝 此の世界、汝が天地たり
願はくは国内にて善く其の天命を全うせよ
定めて、汝の修ぜむ生業は
千秋の程を経、千重の波を分け、四海に及ぶべし
それはある夜のこと。
佐為の耳に、歳月を越えて、四海の底よりも深い声がこだました。
その声に佐為は涙した。
なぜなら、それは決して忘れ得ぬ師父の声だったからだ。
光は褥の上にあぐらをかき、瞼をこすりながら、訊ねた。
「その言葉を夢の中で聞いたのか?」
「ええ、でもこの言葉は師がかつて、本当に私に言った言葉なのです」
「おまえの老師様が唐土に帰る時に?」
「そうです、お帰りになる前に私は師に色々と訊ねました。そして師は、私に告げたのです。夢の中で聞いたのと同じ言葉を。光、早く身なりを整え、こちらにおいで。褥の上では話せません」
「え、あ・・・ああ、うん、分かった」
いつもは自分よりも遅くまで寝ている佐為。その佐為が、今朝は珍しくも自分を起こすのだ。まだ一番鶏の声さえ響いている。光は一言文句を言いたかった。だが、その気持ちを抑えこむと、まだ重い瞼をこすりながら身支度を整えた。もし、たわいも無いことで早く起こされたなら、決して我慢はしなかっただろうけれど。
光は顔を洗い、着替えを済ますと、佐為の前に座った。
「・・・つまり、日本に一人残ることを憂えたおまえに、老師様が言った言葉だろう、さっきの」
「そうです。何を言っているか分かりますか?」
「そうだな・・・こういうことだろうか。
『この国土世間こそがおまえの天地だ。
この国においておまえの持つ天命を全うせよ。
そうすれば、必ず、おまえが修めゆく碁の道は、永い年月を経て・・・遠い未来世だな・・・には国と国の隔たりを越え、四方に広がる海の向こうに及ぶだろう』と。
違うか?」
「その通りです」
佐為は大きく頷いた。
以前の光なら即座に答えられただろうか、と思いを巡らしながら。
「千秋の程を経、千重の波を分け、四海に及ぶべし・・・」
光は、佐為の師の言葉をかみ締めるように、繰り返した。そして感嘆して言った。
「凄い・・・凄いな・・・佐為。おまえの碁がいつかは、四方の海の向こうに及ぶというのだろう」
そう言いながら、光は誇らしささえ感じていた。
「この師の言葉を忘れたことはありません。私の拠り所としてきました」
「でも、おまえは楊海殿と共に老師様に付いて行きたかったのだろう?」
「確かに、あの時は共に行きたいと願っていました」
「今は?」
「今はそうですね、以前と同じように海の向こうに広がる世界を見たいという気持ちもありますが、しかし・・・」
「しかし?」
「老師様には不思議な力がありました。過去を見透し未来を予見する力です」
「過去を見透し、未来を予見する? それはどういうことだ」
「唐土に古来から伝わる伝承の中にはね、光、「仙」と呼ばれる老賢者がいます。知っていますか?」
「いや、よく分からない」
「光はよく学んでいるから、知っているかもしれないと思いましたが・・・」
佐為はにっこりと光に微笑みかけた。
「い・・・いや、オレはまだまだ何も知らないよ」
光ははにかみながら答えた。「よく学んでいる」たったそれだけだったが、佐為の一言は光の心をくすぐった。
「で、その唐土の仙とは?」
「仙は、優れた才や芸の為に、俗とは隔絶した感のある人物のことをいいますが、唐土では囲碁に関する伝承のなかにも多く存在します」
「へぇ、どんな風に?」
「永い時間のことを言うのに「斧の柄が朽ちる」というでしょう」
「うん」
「大昔、一人の男が斧を担いで山奥に入ると、二人の仙が碁を打っていた。男はその碁に見入る。しかし、ふと気が付くと、斧の柄が朽ちてしまっていたというのです」
「斧の柄が朽ちるほど、永い時間その碁に見入っていたっていうのか?」
「そうです」
「ありえない! 一体どんな碁だよ、それ!?」
光は笑った。
「さぁ、どのような碁だったのでしょうね」
佐為も笑った。しかし、光はふと真面目な顔に戻ると、言った。
「そんなに永い時間が経っても気付かないくらい夢中になったんだから、さぞかし心惹かれるいい碁を打ってたんだろうな」
「そうなのでしょう。さぞ奥深い碁なのでしょう。仙たちが打っていた碁に心を奪われてしまった間に、知らず知らずに永い永い時間が経ってしまっていたんですからね。でも男はそれに気付かなかったという訳です」
「うん」
「こうした伝承が少しづつ姿を変え、たくさん残っているのですよ。
仙は不思議な力を持っている。不思議な力とは過去や未来を見る力です。そのような存在を「仙」と呼ぶのです。老師様もまた仙のような方だった。その言葉の通りに、私の天命はこの国の内にあるということなのでしょう。だから、この国に生を受けたのだと。師の御下命なのです。であれば、我が使命を全うすることこそ、師に応えることだと、そのように思います。
光、こうして目覚めても、まだこの身が震えている。大概は、見た夢など直ぐに忘れてしまうのに、あまりにもはっきりと師の声がこの耳にこだましました。今私に師の声が再び届いたのは一体何故だろうかと考えるのです。何か意味があるのかもしれません」
「そうか、おまえがそう感じるならそうなのかもしれないな」
光は短く答えたが、佐為が何故そのように言うのか、今ではよく解るような気がした。だから、深く頷いてみせた。
「しかし、それでも私は時々解らなくなる」
「何が?」
「何ゆえ、私にそのような言葉を師が残されたのかです・・・」
「おまえは納得していたのではなかったのか?」
「解ろうと努めているのは確かです。でも未だ、身をもって知ったとは言い難い。まだ解らないのです。永遠に探求が続くのかもしれません。だが、今、分かった言葉もある。老師様の言葉にはまだ続きがあるのですよ」
「続き?それはどんな言葉だ?」
「それは、また次に教えましょう。順番を追わないと見失うことがあるものです」
「そうか」
「老師様と別れたことは深い哀しみではありましたが、楊海殿が約束の通り、この国に戻ってきてくれました。たくさんの海の向こうの碁の記録を携えて。それらに目を通す機会を与えられた。この上ない喜びです」
「おまえは、その楊海殿の棋譜を冬の間、ずっと耽読していたと言っていたな。楊海殿は、そういえば、どうしているんだ? オレは都に帰ってきてから、まだ一度も逢っていない」
「ふふ、そうですね。じき、逢えましょう。そろそろ現れるのではないかと思います」
「おまえはもう何度も逢ったと言っていたな」
「ええ、最初逢ってから、暫くは間が開きましたが、春になってからは、再び何度かお逢いしました。そろそろ、ここへも来る頃かと」
「おまえ、何か楽しそうだな?」
「ふふ、楽しみには違いない。光にも手伝ってもらうことになるでしょう。あなたも楽しみにしていなさい」
「っていうことは何か碁に関することなんだな」
光は笑って言った。
「そう、楽しいといえば碁です。この世の清い楽しみですよ、光」
佐為も再び笑った。
さて、光が佐為を訪ねてから、もう十日あまりになる。光はそれから一度も家に帰っていない。出仕や用事で外出する時を抜かせば、二人はこんな風に、日がな、碁を打ち、碁について語り合い、昔に戻ったように寝食を共にしていた。そんな日々はあまりにも自然に訪れた。弔いの忌みが明けて光が佐為の屋敷にやってきてからは、光は両親の居ない家にどうしても帰らねばならぬ理由を失っていた。ずっと家を空けておくわけにも行かないと思いつつ、佐為が引き留めるままに、光は屋敷に居続けた。佐為が碁を教えるのは光一人ではなかったが、今回は佐為の護衛という大義名分も無く、これで明らかに特別の弟子ということになった。
以前と違うこともあった。今は屋敷に居る時でも光は佐為が居なければ、東の対で一人で過ごし、東の対で寝起きをすることだった。
一方、佐為は帰宅して寝殿に光が居なければ、必ず東の対へ向かい、そのまま光と夜を過ごした。夜が明けて日が高くなろうと、寝殿に急いで帰ることも無い。朝起きてからは必ず、そのまま東の対で碁を打った。
だが不思議なことに、それまでどんなにか仲睦まじく、この屋敷の主と過ごしていようと、光は碁盤を挟んで相対する時には、きちんと衿を正した。その真摯な態度は大宰府から帰った当初と何ら変わらなかった。光は、今では時に応じて態度を変えることを学んでいた。
それは、もともと天性として備わっていたものが、今まではなりを潜めていただけのようにさえ感じられた。やっと本来の姿を現したのだ。光は確かに変わった。まるで朝明けの空のように。佐為はそう感じていた。
これは筑紫から帰った当初からそうだったが、光の口数は以前より幾分少なくなっていた。以前より大人びた面立ちと呼応するかのように。筑紫から帰ってきた後の状況を考えれば、前のような無邪気さが影を潜めてしまったことは致し方ないことなのかもしれない。
しかし、出逢った頃に佐為を魅了した天真爛漫さが完全に無くなってしまった訳ではなかった。時には大きな声を立てて笑い、瞳を悪戯っぽく輝かせ、傍若無人に振る舞い、遠慮の無い物言いもする。時折覗くそんな光の顔は、かつての無邪気でやんちゃで愛くるしい姿を彷彿とさせた。
そのせいだった。自分をやり込めるようなことを光が言おうものなら、佐為は嬉しそうに瞳を輝かした。満面に笑みを浮かべ、言い返すことも忘れてしまう時がある。だが、そんな風に微笑むばかりの佐為に、光は気が抜けてしまうのだった。そして真顔で抗議した。
「なんだよ、その余裕の笑みは! また、オレを子供扱いして笑ったな!」
言い返す言葉は、以前と変わり映えしなかったが。
すると、佐為はもっと幸せそうに微笑んだ。
そしてさらにもう一つあった。今この少年が鈍色の衣を纏っていることだった。これは以前と違う点というよりも、少年に初めて訪れた試練のしるしでもあった。光は、愛する者との死別を知ったのだ。
喪衣は光が本来持っていた晴れ晴れとした明るさにはまったく似つかわしくないものだった。しかし、今では精悍さが加わった面差しを、濃い鈍色がよく引き立てていた。口にこそ出すことは無かったが、佐為は喪衣姿の光を心の中で褒め称えていた。
光は朝日の差し込む廂で、出仕までの時間を、文机に向かい、書を手にとっていた。庭先には青い朝顔の花が咲いている。時折さわやかな初秋の風が舞い込む。涼風に撫でられる光の横顔。その面差しは直向きで真剣だった。
今ではそんな横顔を見るのは珍しくはない。佐為は脇息に凭れながら、そんな姿をじっと眺めていた。飽きることもなしに眺めていた。
彼はふとこんな風に詠じている自分に気付いた。
朝顔の 露に濡れたる 鈍色の うち添ふるかな 君が匂ひを
庭先には朝露に濡れた朝顔の花
この胸を満たすのは深い憐れみ
儚き朝露と姿を変えてしまった方々があなたの傍に降りてきたとでもいうのだろうか?
喪衣は幼かったあなたが世の儚さを知った証し
鈍色は思慮深くなったあなたをもっと美しく見せる
ああ、私の光はなんと大人になったのか !
さて、光はどうだったであろう。
光の方でも、気付いたことがあった。こうして、毎日手合わせをするようになって、佐為の打ち方に変化を感じていたのだ。
ある朝、碁を打ちながら、光は眉間に皺を寄せて、盤面を睨み、手が止まってしまっていた。そして、絞り出すように、やっとこう言った。
「駄目だ、そこも殺されては、もう後がない」
「・・・・・・」
佐為は盤面を見据えてそう言った光の顔を黙って見た。光は続けた。
「おまえ、今日は容赦なしだな。これでは完敗だ」
「そのようですね。ではまだ早いから、もう一局打ちましょう」
「そんなに軽く流すな! やっぱり強すぎるんだよ、おまえ」
「何をいまさら?」
「分かってるよ、おまえの強さは。分かってるけど! もっと分かった。おまえ、打ち方を変えてるだろう?」
「光、それは今、気付いたのですか」
「いや、こないだから気付いてるさ。以前はそんな風に打ってこなかった」
「やはり光なら分かっていると思っていた。どうしてだか分かりますか?」
「それは、筑紫に行く前はオレは弱すぎて、おまえがそんな風に打ってきたら、直ぐに負けていたから・・・。だから、そんな風に厳しく打ったりしなかった。そうだろう?そして・・・」
「そして?」
「そして都に帰ってきてからは、一緒に碁を打つ時間が少なかった。だから、一局一局、必ず、おまえはオレに合わせて打っていた。丁寧に、とても丁寧に、微々細々に渡って、オレのところまで降りてきて、オレを教え導くように打っていた、そうだろう?」
「うん、そうですね・・・」
「でもここのところは、いろいろだ。いろんな手を放って、オレを執拗に攻めてくる。まったく手を緩めずに打つことがある。今のもそうか? いや、これでも手を緩めているのか?」
「う・・・ん、そうですね、今の碁ならば、最初のうちは、光の出方を窺いながら打っていましたよ。完全に容赦なし、だったという訳ではありません。光、これからあなたが言う通りに、最初からまったく手を緩めることなく、打ってみましょうか?」
「ああ、望むところさ!」
そうして、打った碁は、三十数手打ったところで、形成は光の不利に傾き、百手目で苦しくなった。そして佐為の放った百三十二手目で、光は負けを宣言し、投了した。そして愕然とした。
強い、佐為は強い。光は身を持って感じ、心が震えた。
そして、この時ふと思った。
佐為には対等に打ち合う相手が存在するのだろうかと。
その疑問が頭の中に芽を出すと、たちまち大きく膨らみ、圧倒的な存在となって光の心に広がるのだった。
それから何日かが過ぎ、四十九日の法要の為に光は自分の家に戻ったが、それも済むと、再び佐為の屋敷に泊まり、そこから、出仕した。
時折秋風が吹き、庭の朝顔も枯れかけていた。
そんな折だった。一人の女が佐為の屋敷を訪ねたのは。
女は市女笠姿でやってきた。どうも光を訪ねてきたらしい。家の者にそう告げられると、佐為は直ぐに立ち上がり、自ら出て行って応対した。
女は、佐為が姿を現すと、一瞬瞳を見開いて息を飲み込んだ。それから、おろおろすると、とても直視できないといった風に、顔を隠してしまった。
女童一人連れずに訪ねてきた、どうも庶民風の女。一体どういった女なのか。様子が良く分からない。佐為は訝しげに尋ねた。
「こちらに人を訪ねて来られたと聞きました」
「は、はい、こちらに居ると聞いてお訪ねしたのです。あ・・・あの・・・あの・・・もしや、間違いでございましたでしょうか? ならばお許しください」
「いえ、お待ちください。あなたが探して訪ねて来られたのが、あの子・・・いえ、光であるなら、確かにこの屋敷に居ます。でも今はお勤めで留守なのですよ」
「そうでございますか! ああ良かった」
女は屋敷の主人の答えを聞いて、喜びの声を上げた。そして思わず佐為の顔を見あげた。
すると、また我に返ったように、おろおろして、赤くなると俯いてしまった。 これで露わになった女の顔を良く見ると、年の頃は三十半ばといったところのようだった。
佐為は、息をつくと腰を折り、跪いた。そして優しく女に声を掛けた。
「どのようなご用向きで光を? 光と縁のある方とお見受けしましたが」
女は佐為に話し掛けられると、どぎまぎして、なかなか次の言葉が出てこなかった。が、恥ずかしそうに袖で顔を隠すと、やっと話し出した。
「・・・そ、そうなのです。私は何年か夫に付いて常陸の国に参っておりましたが、つい最近、訳あって、都に戻ってまいりました。そこで、子供の頃よりお仕えしていた女主人の家に向かってみたのですが、奥様は病で亡くなられたと。そしてよくよく聞くと、亡くなられたのは奥様だけでなく、その夫君まで。家には今は家守しか居ないといいます。ですが、奥様にそれは可愛いらしい若子がいらっしゃいました。家守に問いただすと、若はこちらのお屋敷に居るはずだと、そのように聞いたのです」
「そうだったのですか・・・では、さぞかし驚かれたことでしょう」
佐為は合点がいったというように頷き、気の毒気な眼差しを向けた。女は暖かな言葉に気が緩んだらしかった。
「何もかもが寝耳に水で、驚くやら、哀しいやらです。若にも奥様にもここ何年か逢っておりませんでした。奥様に逢うのがもう叶わぬなら、せめて一目、若にお逢いしたいとこちらをお訪ねしたのです」
「あなたは光の家に昔、居たのですね?」
「いえ、仕えて居りましたのは奥様の里の家でございます。私は若の乳母でございました。ところが、若が少し大きくなった頃に奥様が若の父君の家に移られてしまったのです。つまり、その家が、今お話致しました、家守が番をしていたという家のことでございます。私が居りました奥様の家はもっと立派な家でございました。あ、いえその・・・すみません、つい。・・・もちろんこちらほどではありませんでしたが」
佐為は少し困ったように微笑むと、気を取り直して言った。
「・・・しかし、そうでしたか。あなたが光の乳母でらしたとは・・・」
ずっと下を向いたままだったが、この時、女は堪らなくなってちらと目の前の青年を再び垣間見た。だが、瞳を瞬かせると、また下を向いてしまった。どうもこの女は年の頃にしては落ち着きがない。
このような貴族の屋敷には不慣れなのであろうか。いや、やはりそれよりも、目の前にいる屋敷の主の、絵から抜け出たような佇まいこそが問題だったようだ。
さて、「また改めて訪ねる」と言ってとうとう女が辞そうとした時だった。
女は、まったく思いもかけぬ優しい言葉を聞いた。
「いえ、お待ちください。光が喜ぶでしょうから、さぁ、奥へいらしてゆっくりお待ち下さい。
あの子はじき帰って来ることでしょう、さぁ」
女は恐れ多く思いながらも、喜びで顔を輝かしたのだった。
つづく
*冒頭の師の言葉は幽べるさんに古語訳して頂きました。また今回も和歌の監修、ありがとうございました!
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