涼風二

 

 今日は珍しく寝殿が賑やかだ。初秋の風が御簾を通り抜ける。簀子(すのこ)まで談笑の声が響いた。
「そうでしたか、光にはそんな癖が・・・ふふ、それは良いことを聞きました」
「あ、どうか、私がしゃべったことは内緒にしてくださいまし」
「言ってはいけないのですか。これでせっかく、あの子をからかえると思ったのに」
 佐為は楽しげに笑ったが、女は唖然とした。
 先ほどからこうなのだ。こうして光の話を始めてからもう半刻は経っただろうか。屋敷の主は「光の幼い頃の話を聞きたい」と言う。そもそも自分のような者が丁重に寝殿に通された上に、香るような佇まいのこの青年の、話相手をしようとは思ってもみなかったのだ。
 女は躊躇いながらも、適当に思い出話をした。すると、主の青年はひどく喜んだ。しかも、それをからかいの種にする気でいるらしい。 
 一体、若とどういう関係なのか? 「からかう」というからには随分気の置けない間柄ということなのか? この屋敷にはどういった訳で世話になっているのか? 女は酷く不思議に思った。
「あの・・・・・」
「なんでしょうか?」
「若は、ここ何日も旦那様のお屋敷にお世話になっているとのことですが、 身内でもらっしゃらない旦那様が何ゆえ、若を・・・?」
「ああ、そう言えば、まだ私のことは何も言っていませんでしたね」
 佐為はそう言って、簡単に光と出逢った経緯やこれまでのいきさつを語った。
「それで、若をこちらに置いてくださっているのですね。それではまるで親代わり・・・。合点がゆきました。また安心致しました。もう任官しているとはいえ、まだまだ年若いのに、頼りを亡くして、どうしているかとそればかり心配で心配で、こちらを訪ねたのです。
 旦那様のような方が居てくださるとは、本当に心強いことです」
 そう言って、光の乳母は涙を流した。やっと興奮ぎみだったこの女も落ち着いてきたようだ。
 光の多少うかつなところは、もしかしたら、この女に似たのだろうかと、佐為は密かに思った。光の父も母も、記憶に残っているその姿は、落ち着きがあり、分別もあった。特に母親には品が感じられた。
 この乳母の話によると、光の母はどうやら、父君よりは上の階層の出らしい。今にして思えば、合点の行くことだった。
 それに対してこの女は光の母よりも若いせいか、それとも元々下女であるせいか、どうも軽率さが感じられる。
 しかし、女は光の為に涙を流していた。
 血のつながりはなくとも、この女もまた、光の母に違いない。
 なんと測り知れないことか、人の心というものは。
 血の繋がりが無いからこそ、一層清らかなものがあるのかもしれない。
 女の姿を見て、佐為は思った。
 外見も中身も凡庸そのもの、もう若くはない中年の女。だが、今日出逢ってから、彼はこの女を今、一番美しいと感じていた。
「それにしても、若が碁とは。本当に何もかも驚きで一杯です。小さい頃は本当に外を飛び回ってばかりいて、琴棋書画には一切興味を示さないことをいつも奥様が嘆いておいででした。本当にあのやんちゃな若が、どうしてまた、旦那様に就いて碁を学ぶようになったのでしょう」
 乳母(めのと)は本当に心の底から驚いているらしかった。
「光には碁を教える他、今は微細ながら、書物の手ほどきもしています。碁は置いておいても、書物に関しては、私から強く勧めた訳ではありません。碁を学ぶうちに、学問も必要だということをあの子が自分で悟ったのです。光は賢い子です」
 屋敷の主はいい声をしていた。その主が光を語ると、さらに柔和で暖かい響きがした。
 屋敷の主は美しかった。その主が光を語る瞳は、うっすらと濡れて煌めいているように見えた。
 女は、この青年にすっかり、心を奪われてしまった。感激で、胸が一杯になった。青年を喜ばせようと、覚えている限りの思い出話をした。一生懸命に語った。
 話も尽きてくると、今度は佐為が質問をした。
「光の母君のご実邸のお話をよろしければ、もっとお聞かせ願えますか?」
「奥様のお父上様は、上国の国守をなさったこともおありになるご立派な方でした。ただ、お家はだんだんに傾いてきて・・・、何せ、都の高位高官は皆、藤原家の方々が独占なさってしまいますし・・・」
「・・・」
「あ・・・あの、申し訳ありません、つい。そんな意味で申し上げたのでは・・・」
「いいえ、いいのですよ。ただ、私は、碁打ちでしかありません。今は昇殿を許され、特別な計らいで侍棋の任を頂いては居りますが・・・それ以上を望むことはありません」
「旦那様のお人柄は、こうしてお話を伺うだけで、分かります。それに、どうしてでしょう? なんだか、旦那様には初めてお会いしたという気がしないのです。旦那様には何処かでお逢いしているような・・・、あらいやだ、私はなんと失礼なことを。申し訳ありません、私はつい思ったことをぱっと口に出してしまうところがございます。度重なるご無礼をお許しくださいませ」
「いえ、いいえ、あなたは光に良く似ている・・ふふ」
「え?」
「それで・・・光の母君の家は今?」
「大旦那様も大奥様も亡くなり、今は奥様の弟君が継いでおられますが、淡路の国に国守として赴いておられて・・・文を受け取りました。この度のことを酷く悲しまれて、若の後見をしたいと思っておいでのようです」
「・・・・・・。叔父君には申し訳ありませんが、後見役は私がするつもりです」
 それまでの柔和な顔を一変させ、佐為はきっぱりと言った。
「旦那様が?」
「・・・私ではいけませんか?」
「い・・・いえ、そんな・・・勿体無いお話でございます」
「光の父君も、私が後見になることを望まれていたと、私は解釈しています。それに遠国に居ては光の様子も分からぬでしょう。どうか、光のことは私にお任せ願いたいと、そのようにお伝えください」
「わ、分かりました。そのようにお伝えいたします」
 淡路の国守の光の叔父君にとっても、これは良い話に違いないのは確かだったのだが、乳母は半分気圧されながら答えた。
「それで、光は、母君の里にいた頃はどんな暮らしを?」 
「そうそう、若は小さいころ、特に赤ん坊の頃のことですが。髪の色が少しおかしいのを奥様が心配なさって、それでよく寺社詣でをしたものでした」
「ほう・・・寺社詣でを・・・」
「奥様が若と一緒に里の家を出られて、夫君の家に行かれてからは、そのようなことも叶わなくなりましたが」
「どちらに詣でられたのですか?」
「あの頃は祇園の辺りや、いえ、大津へまでも、足を伸ばし、牛車に乗って詣でたものです。私も若の世話をする為に付いて参りました。牛車に揺られて詣でるのは赤子だった若には少し大変で・・・」
 女はここまで話すと、突然、何かに思い当たったように、訝しげな表情をして、言いよどんだ。
「どうかしましたか?」
「い、いえ・・・赤子だった若に牛車の旅は大変だったのです。若はそれはよく大きな声で泣いたものでした・・・あの」
「はい?」
「あの・・・・・」
「何か?」
「・・・本当にどこかで旦那様にはお逢いしていませんでしょうか?」

 

 その時、光は堀河大路を馬の背に揺られながら下っていた。
 日が傾いている。影は真横に伸びていた。日中は暑かったが、夕刻になってからは涼しい。二条三条あたりの大路や小路は、大きな屋敷の築地塀が続いている。その築地の向こうには木々が茂り、最後の盛りと蝉の声の大合唱が聞こえていた。
 堀河大路が、ちょうど三条大路と交差する辺りまで来ると、光は突然声を掛けられた。
「光! 光じゃないか!」
 声の方を向く。あの童子だった。
 大路の真中を走ってこっちへやってくる。背後には供らしき者が見えた。
 光は面食らいながら言った。
「天童丸殿・・・! やぁ、ひさしぶりだな。どうしたんだ、こんなところで?」
「虫捕りしてたんだ、ボク」
「ここで?」
「だってほら、塀の向こうにたくさん居るんだ。鳴き声が聞こえるでしょ?」
「ああ、そうだな。まぁ、確かにこの辺は一町や二町もある大きな邸ばっかりだから。でも天童丸殿の屋敷にもきっと木はたくさんあるだろう?」
「あのねー、こないだから言ってるじゃないか! 家はつまんないんだよ。外がいいんだ! 外が!」
「ははは、そっか」
 光は笑った。
「ねぇ、光、いいなぁ。ボクもそのお馬に乗っけてよ」
「馬に・・・? 弱ったな」
 光は手綱を引きながら、戸惑い、天童丸の供の者を見やった。
 天童丸の供の男が近寄ってきた。
「若様、危ない真似をしては駄目ですぞ」
「いいじゃん! 光は検非違使なんだ、光に付いてれば大丈夫だよ!」
「若様、もう日が暮れます。そろそろお屋敷に戻らないと」
「やだよ、まだ! だから、一人で出たかったのに!」
「何を言われるのですか、また若君は! 無謀なことばかり」
 童子と供の男の押し問答を前に、光は勝手に立ち去る訳にもいかず、困っていた。
 昨夜は夜警だった。正直なところ、早く佐為の屋敷に帰りたかった。
 しかし、この童子の言い出したら引かない性格は知っていたし、一向に押し問答が治まる気配が無いので、声を掛けた。
「なぁ。じゃぁ、少しだけならいいだろ? 走ったりしないし、オレがしっかり、天童丸殿を支えているから、少しだけ馬に乗せてやってはどうだろうか?」
「し、しかし・・・」
「やったー! だから、大丈夫だって言ったんだ、光は頼りになるんだから! ねぇ光、早く乗っけて!」
 自らの複雑な想いとは裏腹に、どうやらこの童子には好かれているらしい。光は少しはにかみながら、供の男の返答を待った。
「仕方ないですな、少しだけですよ、天童丸様。少しだけ乗せて頂いたら帰るのですからね」
「分かった、分かった!」
 男が天童丸を抱き上げると、光はこれを馬上で受け止めた。小さな体を支え、馬の背に乗せてやる。それから、しっかりと手綱を握り締めた。
「わー、やった! 楽しいね、光。あ、そうだ、あそこの木の枝に近づいて」
「どうして?」
「だってほら、見えるでしょ? ほらほら、あの蝉を捕まえるんだ」
「ああ、あれな。じゃぁ、静かにゆっくり近づこう」
 光は少しだけ馬の向きを変え、一歩二歩だけ馬を慎重に進めると、また手綱を引いた。
「よし!」
 そう言って、童子は手を伸ばすが、届かない。後ろでは心配そうに供の男が見ている。
「オレが捕ってやるよ」
 光は、片手で童子を押さえながら、もう片方の手を伸ばし、枝にとまっていた蝉を上手に掴んだ。
「凄い! やっぱり光は上手いね」
「はは、そうだろう? 虫捕りなら任せとけって。オレも小さい頃はよくやったな」
「佐為はおかしいよね。虫が嫌いなんだ」
「知ってる、一度虫で悪戯してやったことがあるんだ、はは、可笑しかったぜ」
「なんだ、光もボクと同じことしてるんだね」
「そっか、あいつ、可哀相にな。皆にからかわれて、はは」
 光は笑うと、捕まえた蝉を童子に渡してやった。
「やったー! ねぇ光、これ、なんて鳴いているか知ってる?」
 光は虫の鳴き声に耳を澄ました。 
「これは・・・ほら、あれだ・・・・・・・ツクツクボウシ、ツクツクボウシ・・・秋になると鳴くやつだ、そうだろう?」
「違うよ!」
「はぁ?」
「えっへん、これは『筑紫恋し』って鳴いてるんだ」
「ツクシ・・・コイシ?」
「そ、筑紫の国が恋しい、そう鳴いてるんだ」
「筑紫の国・・・?」
「筑紫って何処にあるか知ってる、光?」
「知ってるか、だって? それは知ってるさ、知ってるに決まっているだろう。だって筑紫はオレが行ってたところだ」
「光が、筑紫に? だって筑紫って大宰府のあるところだよ、そこに行ってたの? 光は都を護る検非違使でしょう?」
「いや、まぁいろいろあってな、行ってたんだ。筑紫は・・・いいところだったよ。天童丸殿もいつか行くといい」
「え〜、だってあそこは、左遷先じゃないか、ボクだってそのくらい知ってるんだぞ」
「ははは、まぁ、そうだな、天童丸殿のような立派な家の子は、将来はやっぱり大臣か・・・それじゃぁ、大宰府は確かに左遷先だ。行かされたら大変だな」
「ボクは大臣になんかならないよ」
「は?」
「だってつまんなそうだもの」
「くっくっく、面白いな! 天童丸殿は。だけど、『筑紫恋し』か、そう聞こえなくもないか、はは」
「佐為が教えてくれたんだ」
「・・・佐為が?」
 光は、大きな瞳を見開いた。
「あ、ほらほら、こないだ光に内緒で教えたよね。佐為が泣いた話。そういえば、この鳴き声の話をボクに教えてくれた時だったんだ」
「・・・・・・? だって・・・・・・あれは・・・」
「だっから、最初分からなかったんだってば。佐為ったら、「筑紫が恋しい」って鳴いているんだって言いながら、目に一杯涙を溜めているんだもの。蝉の鳴き声の話のどこが哀しいんだか、ボク、さっぱり分からなくってさ。でもあの時、佐為の顔、なんか凄く哀しそうで・・、「もうボクの家に来れない」なんて言うんだもの・・・、ボク、哀しくなっちゃった」
 天童丸は一年も前のことを思い出しながら、小さな胸を本当に痛めているらしかった。光の脳裏に、今、童子の見たであろう佐為の顔がどうしようもなく浮かんだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「光?」
「い・・・いや、さぁ、満足したろう? 約束だから、屋敷にもう帰った方がいい。父上、母上が心配しているかもしれないから」
「うん、分かった」
 光は天童丸を馬から降ろすと、別れを告げた。 
 童子と供の男を後にして、大路をさらに下っていった。
 振り返ると、まだ童子は手を振っていた。
 初秋の風が頬を撫でる。空を見上げた。すると黄昏が光を飲み込んだ。
 この空は筑紫まで続いている。そう思うと、一瞬、懐かしい筑紫の人々の顔が浮かんだ。
 ああ、だが、今は都に居る。よし、これぞ本望だ!
 光は前を向き直った。思い切り馬の腹を蹴ると、家路を急いだ。

 
 
 さて、この三条、堀河大路でのささやかな出来事に偶然出くわした男が居た。髭を生やし、痩せて長身の男は、この偶然を幸運だと思った。しかし、本当に偶然だったろうか? いや半分は確かに偶然だった。その時刻に、一人の検非違使がこの大路を下っていくことは予測できた。だから、今、この大路の脇に牛車を停めていたのである。しかし、そこに、いかにも良家の子息らしい童水干を着たみづら髪の童子が現れるとは全く予測していなかった。その童子が検非違使に声を掛けるのを見て、男は面食らった。
 しかし、何食わぬ顔で、牛車の中のもう一人の男に言った。 
「さて、あの者をご存知ですかな? 中納言殿」
「あの者・・・? 随分横柄な言い方ではないか、あれはやんちゃで有名な左大臣家の天童丸殿であろう。知っているに決まっている」
 問われた中納言は答えた。
 答えは問いを勘違いしたものであった。男が問うたのは、検非違使の方だった。しかし、男はこのあまりの幸運に口元が僅かに歪むのを覚えた。なぜなら、左大臣家の子息の顔は知らなかったからだ。検非違使に声を掛けた童子の正体を期せずして掴むと、思わず笑みがこぼれそうになる。それを必死に堪えると、言った。
「いえ、左大臣様のご子息のことではございません。私が問いましたのは、あの検非違使にございます」
「ああ、あの武官装束の若者のことか?」
「はい、いかにもあの者でございます」
「あの者がどうかしたのか? 私をわざわざ、ここに連れてきて、待たせたからには、何かあるのであろう?」
「くっく・・・。中納言殿、去年の花見の宴を覚えてらっしゃいますかな? 帝が神泉苑に行幸された宴でございます」
「ああ、あの宴か、あれなら覚えている。とんだ騒動があったあの宴であろう。我が弟があの時も絡んでいた。あんな失態の元になりながら、帝からは何のお咎めもなしであったのだからな」
 帝の意向はむろんのこととしても、実質「何の咎めもなし」に仕向けたのは他ならぬ、中納言の父・関白ではないか、と男は思ったが、おくびにも出さなかった。むしろ、このような言い様は、いかにも、個人的な感情を露わにしている。男には好都合だった。
「では、あの検非違使の顔に見覚えがおありになりましょう?」
「・・・何? では、あの時の検非違使があれか? 私は顔までは覚えてはいない」
「そうでございます、いかにもあれがあの時の検非違使。中納言殿の弟君に随人の如くに付き添っていた者。弟君があの者に碁を教え、痛く可愛がっておられるのをご存知ではありますまいか?」
「そ・・・・・、そうか、筑紫に送られたと聞いていたが、戻ってきていたのか・・・」
「そうです。この春に、多くの罪人に恩赦が下されました。あの者にも恩赦が下ったのでございます」
「しかし、あの者は取るに足らぬ地下(じげ)の者であろう。ふん、元々何処ぞの馬の骨とも知れぬ卑しい腹の生まれのアレには合っているやもしれぬが・・・。今も、通じているのか?」
「あの検非違使は、最近両親を流行り病で亡くしました。今は弟君・・・そう佐為殿の屋敷に居るようでございます」
「それは・・・・・まことか?」
「はい、確かに」
「その卑しい検非違使が、左大臣家の天童丸殿と・・・あのように親しげにしているとは・・・」
「地下の若者なら、元服前の童子よろしく、よろずの遣いにはぴったりですな。何か、秘め事の橋渡しにでも・・・・・と考えるのは、物語の読みすぎやもしれませんが・・・くっくっく」
「・・・・・・・。しかし、そなたは何なのだ? そのように情報通とは知らなかったぞ。何が目的で私に声を掛けた? それを聞かぬうちは、信用できぬ。そなたは誰もが知る内大臣の懐臣であろう」
「それこそ、我が望みでございます。どうか、私の話に耳をお傾けください」
「わかった、聞くだけは聞こう」
 そのように、男達は牛車の中で言葉を交わすと、今度は大路を逸れ、光が去っていったのとは逆の方向へ向かっていったのであった。



 つづく

 back next