涼風三

 

 女は、ますます何か気に掛かる様子で、今度は主の青年の顔をじっと見つめた。
「そ・・そうですね・・・は・・・・・ぁ?」
 佐為は女に「何処かで逢ったことはないか」と問われても、思い当たる節がなく、困ってしまった。
「い、いいえ、すみません、何でもないのです。私の思い違いでしょう。気になさらないでくださいまし」
 そうは言ったが、女はやはり引っかかっていた。だが、はっきりしないのだから仕方がない。女はもう、そのことは口にしなかった。

 
 すると、突然簀子の方から、足音が聞こえてきた。早足で、主よりはかなり元気のよい足音だった。そしてその足音は、ついに直ぐ近くまで来て止まった。女が振り向くと、そこには、立派な武官のなりをした若者が立っていた。
 若者は、一瞬何が起きているか、まったく把握できずにいたが、少しの間の後、やっと声を出した。
三津(みつ)! 乳母の三津じゃないか!」
「・・・若!? 若なのですか?」
「寝殿に客が来ていると聞いたから、誰かと思った。三津だったなんて。三津だったなんて!!」
 若者は瞳を輝かして、御簾の中に入ってきた。
 若者が近づいてくると、女は感極まってまた泣き始めた。
「若・・・信じられない、こんなに立派になって・・・あの小さかった若が・・・」
「なんだよ、三津と最後に逢ったのは元服するちょっと前じゃないか」
「でも、あの頃は、まだこんなに背もなかったし、痩せてたし、ほんとに小柄で・・・でも、その小さい体で、いつも走り回って、元気で・・・やんちゃで、愛らしかったあの若が、こんなに凛々しい姿になっているなんて、三津はもう胸が一杯です」
「はは、相変わらずだな。それにしても逢いたかった、三津!」
「心配したのですよ、若。この度は、ひさしぶりに都に帰ってきたら、若の父君も母君も既に、野辺の露となられたと聞いたとき、どんなに胸が張り裂けたか。若のことが気がかりで気がかりで、近衛の家の家守から、こちらを伺ってお訪ねしたのです。そうしたら、こちらの旦那様がご親切に、ここで待つようにと言ってくださって」
 光は、初めてその場に居た佐為の方へ目を向けた。あまりの驚きと感激に、胸が一杯になっていたのだ。
 光が視線を向けると、屋敷の主の青年は、ただにっこりと微笑みを返した。
 何も言わないけれど、まるで全てを肯定し、包み込むような笑みだ。そう女は思った。
 そして、その笑みを受けて、若者もまた無言で笑みを返した。
 一瞬、女は不思議な感慨に包まれた。薄暗い寝殿の室内だというのに、何か、その場の空気が透明な光を内側から発したように感じられた。
 女は善良だったが、しかし何処までも凡庸だった。しかも女特有の勘の良さも、この乳母には不足していた。不思議な光芒を放った空気の正体に、ただ漠然とした心地よさと共に、一種の畏怖を覚えただけだったのである。
「光、着替えておいで。今夜は三津殿に泊まって頂いて、ゆっくり昔話でもするといい」  
 主人のその言葉に、若者は言われたとおり従い、女はこの日、東の対の(ひさし)に寝所を設けられた。
 佐為は、この夜は寝殿で休み、東の対で、二人がゆっくりと過ごせるように気配りをしてやった。

 

「なんだって!? 佐為と碁を打っただって?」
 光の素っ頓狂な声が東の対に響いた。
「私は、遠慮したのですよ、もちろん! 私など、とてもお相手は勤まりませんって。それでも、あのお方が、手ほどきしてくださると言って・・・」
「はは、あいつらしいな。あいつは、誰にだって碁を教えるんだ、まぁ遠慮する必要はないよ。どんな碁だって、それなりに意味のある碁にしちゃうんだ。本当に凄いよ」
「でも、若、なんて言われたと思います?」
「なんて言われたんだよ?」
「初めて、若に手ほどきした時より、よほど筋がいいと言われました」
「なんだって!? オレより三津の方が筋がいいだって!」
 光の、明らかに憤然とした顔を見て、三津はまたやってしまった、という顔をして、口を袖で塞いだ。が、居直ると直ぐにこう言い返した。
「ふふふ、若は三津をいつも馬鹿にするけど、三津も棄てたものじゃないということですよ」
「ふん、どうせお世辞さ。あいつは殿上人で、宮中の女官達にだって、歯の浮いたような言葉をさらりと言ってのけてたんだ。オレと違って女に対する言葉が上手いのさ」
「あら、若はまた三津をそんな風に。本当のことを言おうと思ったけれど、もう止めました」
 三津はふんと済まして、そっぽを向いてしまった。
「なんだよ、本当のことって」
「もう知りません」
「三津、ごめん! 悪かったよ、つい。三津にはつい何でも言っちゃうんだ。許して」
「さぁ、どうしようかしら。三津は、若のおしめを替えて、乳を飲ませてきたのですもの。若の小さい頃のことなら、何でも知ってるっていうのに、この扱い…」
「だから、ごめんって言ってるじゃないか」
「そうですね、では、若の話を聞かせてもらったら、許してあげます」
「話って、なんだよ?」
「若も元服し、任官して三年近く。しかも、こんなに立派に、男前になって見違えました。さては、何処かに女君がいるのでしょう? 教えてくださいな」
 三津は満面に笑みを湛えて、何のためらいも無く光に訊ねた。
 この女は光に対して、いつもそうだったのだ。母親でも訊けないようなことを訊く。光は、直ぐに昔馴染みに打ち解けたものの、この問いには少し困った顔をした。 
「女なんて居ない」
「まぁ、嘘! 若ももう直ぐ十七でしょう?」
「まだしばらくは十六だよ」
「もう立派な大人です。惟成(これなり)にも、もう子が居ますのに」
「あの惟成に子が?」
 惟成は乳母子の名だった。
「でも惟成はオレより年上だ」
「幼馴染のあかり様にだって、もうお子様がいらっしゃいます」
「あかり・・・?」 
 光は懐かしい名を立て続けに耳にした。
 そうだ、あかり・・・、あいつどうしているのだろう?
「あかり様とは常陸の国で再会しました。本当にびっくりしました。私の夫は常陸国守様の随人でしたから。常陸国守様が、去年の春にあかり様を連れて常陸国に戻られたのです・・・」
「ああ、そうだった! そうか、では三津とは不思議な縁で繋がっていたんだな。あいつ、常陸国守と縁談があるって言っていた。じゃぁ、本当に結婚したんだ?」
「常陸国守様には随分愛されておいでのご様子でしたのに・・・本当に今回はお気の毒なことになってしまって」
「気の毒? 何かあったのか」
「まぁ、本当に何も聞いてないのですね。常陸国守様は赴任先の常陸の国で病に掛かり、亡くなられたのですよ。あかり様がお子様を産まれて直ぐに。それで我が夫も私も都に帰って
参りました」
「・・・そんな、そうだったのか」
「北の方を差し置いて、赴任国にまでご一緒されて可愛がられておいででしたのに、本当にお気の毒で・・・」
「あいつ、じゃぁ、今どうしてるんだ?」
「都のご実家に戻られてますよ。私の娘が乳母をしています。また宮仕えをなさるのですって」
「宮仕えを?」
「常陸守様方のお口利きで、今度はお妃様にお仕えになるのだとか」
「後宮ってことか」
「ええ、東宮様のお妃だそうです」
「東宮妃?」
「ええ、淑景舎にいらっしゃる女御様ですって。左大臣様のお姫様だとか。常陸守様は左大臣様に何かと貢いでらっしゃいましたから、そのお陰でお口添えがあったようです」
「左大臣家の・・・姫君」
「どうかしたのですか? 若」
「い、いや、なんでもない。左大臣家なら、佐為の親戚さ。その姫君の弟君がよく、ここにもやってくる。佐為は碁を教えてるんだ」
「まぁ、さすが・・・。やはり、あのように私などにまで打ち解けて話してくださるけれど、佐為様は高貴なお方なのですよね」
「はは、いや、あいつはでも、ちょっと変わってるから、気にすることはない。碁だって、身分なんかちっとも関係ない、下男にだって教えるんだから」
「まぁ、そうなのですか? 本当に気取らずにお優しい方、それに本当にお美しい。三津はもう何処を見ていいんだか分かりませんでしたよ」
「ふーん」
 光は多少ぶっきらぼうに答えた。
「それにしても、若。あのように高貴な方が何故若を、ここまで? いえ、三津は若を心配して言っているのです。若の後見をも申し出られているし、その、なんていうか、遠い親戚にも当たらない若をここまで世話すると言うのは、少し腑に落ちなくて」
「別にいいじゃないか。身分や家柄が釣り合わないと、一緒に居てはいけないのか? それにあいつの出自は確かにいいけれど、母方の後見が無かったんだ」
「あら、もしかして佐為様の母君様は召人(めしうど)でらしたとか?」
「・・・いや、少し違うけど、そうだな、身分的なことで言えば、召人に近かったかもしれない・・・・・そのせいで、関白家では言わば、邪魔者だし、・・・決して厚遇されて生きてきたわけじゃない」
「まぁ、確かに宮家でさえ、落ちぶれれば、貧しい暮らしに甘んじる親王様もいらっしゃる昨今と聞きますからねぇ。それどころか、更衣腹の皇子様は臣籍に下されることもありますし。公卿様の家でも、召人腹となると、扱いは格段の差と聞きます。帝に直にご指南なさるようなお立場とは、異例のご出世かもしれませんね」
「今、あいつが帝の侍棋の立場にあるのは、あいつ自身が囲碁の才能で得た地位なんだ。それと・・・」
「それと?」
 三津は問うたが、光は言葉を飲み込んだ。佐為の今ある宮廷での地位は確かに囲碁の才で得たものに他ならなかったが、決してそれだけではないことははっきりしていた。その背後には、帝の寵愛が何よりも大きな基盤として、佐為の立場を支えていた。だが、そのことを口に出していうのは光にとって快いことではなかった。
「いや、なんでもない。何がどうあれ、あいつは、オレの師で、オレは一生あいつに付き従うと決めているんだ。三津は心配しなくてもいい」
「若が、あのお方に師事するのは分かります。でも奥様の弟君の阿波国守様も若の後見を申し出られているのですよ。三津は、なんとご説明すればよいのやら・・・」
「ああ、そうか・・・。そうだな、叔父上の気持ちは感謝する。でも父上の遺言なんだよ、三津」
「遺言?」
「そうなんだ、父上が望んでいたことでもあるんだ。三津は口が軽いから、言いたくなかったんだけど、仕方ないな」
「まぁ、失礼な!」
「でも、分かってくれ。このことは絶対に口外しないで欲しいんだ。佐為は、本当はオレを養子にしたいと言っていたんだ」
「養子!? 若を? 関白家のご子息が」
「でも、父上は辞退した。だが最後には、佐為にこう遺言した。オレのことは差し出すと。全て任せるって」
「まぁ・・・なんという」
「父上も母上も、分かっていた。佐為のことを。だから、納得して欲しい。オレはあいつの許で、あいつの為に生きていく。オレはそういう風に生きていきたい」
「そうですか、納得しました。そこまでの深い縁で結ばれておいでなら、三津はもう何も言いません。でも都に帰ってきた今、時々は若のところへ顔を出しても良いでしょう?」
「もちろんさ!」
 光にとって、三津はもう一人の母親だった。だから三津には話さねばならなかった。佐為と自分のことを。この女になら話して当然と思った。いや、そう思ってしまっていたのだった。
「で、本当のことって何だよ?」
「ああ、仕方ありませんね。では三津も教えてあげます。あの方はこうおっしゃっていました。
『光は初めて碁の手ほどきをした時、まったく心得が無かったにも拘わらず、あっという間に強くなってしまった。あの子はかしこい。光は本当に稀に見るかしこい子だ』と、それはもう、なんていうんでしょう。まるで、手放しに我が子を誉めそやす愚かな親のようで・・・あ、また私ったら、思ったことをべらべらと。いえ、若をそれだけ可愛がってらっしゃるのでしょう。それがよく三津には分かりました。いえね、三津もあのお方にすっかり魅了されたのは事実だけれど・・・。でも、その少しだけ、実を言うと、本当にちょっとだけ悔しかったのですよ。だって、三津は、あのお方よりもずっと前から、若が赤子だった頃から若の世話をして、若のことなら何だって知っていると思っていたのに、ここ数年の間にすっかり、あのお方に負けてしまったようで・・・・・。あらいやだ、だって、でもあのお方は本当に素敵。いいんですよ。あんな素晴らしい美しいお方のお世話になっているのだもの。三津はそりゃちょっとは悔しいけれど、でも、ええ、ええ身を引きますとも。あのお方に若のことはなにもかもお任せいたします」
 女はいつ終わるとも無しにしゃべり続けた。
 光は適当に相槌を打っていた。だが、もう途中からは聞いてはいなかった。目の前の女を通りすぎて、佐為のことを考えていたからだった。



 その夜、遅くまで、昔話をして光と三津は過ごし、夜も更けたので、二人はそれぞれの寝所に分かれて眠りについた。
 三津は元来話好きだったが、この日は屋敷の主の青年と夕刻まで、そして光が帰ってきてからは光と深夜まで、みっちりと昔話などに興じた。
 いくら話好きな女でも、さすがに慣れぬ場所での緊張と感情の高まりの連続に疲れきってしまったらしい。聞けば、三津とて常陸の国から帰って間もないようだった。帰京後、女主人の訃報を知ると、とる物もとりあえず、光を探し訪ねて来たのだ。廂で寝ているはずの彼女の寝息が襖や壁代を通して、母屋で寝ている光の耳にも届いた。
 佐為と光が二人揃って屋敷に居る夜は、必ずといってよいほど、佐為は東の対で光と一緒に過ごしていた。だが、今宵は隣に彼は居なかった。
 さすがに今夜はここに来るはずが無い、そう思いながら褥に横たわり、天上の明障子を見つめた。昨夜からの勤務で疲れているはずなのに、なかなか眠りに落ちていかなかった。
 
 すると、何処かから、かすかに笛の音が聞こえた。
 その音色を聞くと、不思議と心が休まった。 
 眠りに落ちていこうとする掠れた意識のどこかで、ふと思った。
     眠れないのか? だから笛を吹いているのか?
 そう思った矢先に笛の音は消えた。廂で寝ている女がこの懐かしい笛の音に気付くことは遂に無かった。
 記憶にさえ残っていない遠い昔と変わらずに、自分を眠りにいざないつつあった笛の音が止むと、今度は逆に意識がはっきりしてしまった。光はもう一度、笛の音が聞こえないものかと思ったが、しばらくたっても、もう聞こえてくることはなかった。
 覚めてしまった頭はいよいよはっきりとしてくる。光は褥から起き上がると、三津の寝ている南廂から極力離れた妻戸を探し、簀子へと出て行った。
 簀子に出ると、あの夜のように月の綺麗な晩だった。渡殿の横に植えられた萩に月が映えて美しい。もう満月が巡ってきたのだ、早い。光はそう思った。

 
 佐為はうとうととし掛けたところに、微かに衣擦れの音を聞いた。はっとして、瞳を瞬いた。
 御帳台の入り口に立てた几帳の前に、黒い人影が見える。咄嗟にその小柄な影が他の誰でもない、光だと感じた。

「光・・・?」
「ごめん、起こした?」
「一体どうしました? こんなに遅くに」
「眠れないんだ・・・ごめん、寝顔を見ようと思っただけなんだ、起こすつもりじゃなかった」
「昨夜は、夜通しお勤めだったのでしょう? 疲れているはずです。明日も出仕ではありませんか? さぁ、こちらにおいで。早く眠るといい」
 彼は眠たげに瞼をこすりながら、衾を捲ると、自分の横に光を手招きしたのだった。



 つづく

註>「召人」は召使、侍女の立場で主人と愛人関係にある者のこと。

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