涼風四
「おまえの笛の音を聞いていたら、眠れそうだったんだ」
光は佐為の褥に入り込み、枕元にある竜笛を弄びながら言った。
「では、もう少し吹いていても良かったのですね」
「おまえの笛が止んだら、逆に目が冴えてしまった」
「それでここへ?」
「ああ」
「光が居ないし・・・手持ち無沙汰で、気が向いたので笛を手に取ったのですが、今夜は三津殿も居る。うるさくては申し訳ないので、直ぐに止めました」
「オレだけだったら、吹いていたのか?
それにおまえの笛はうるさくなどない。三津だってもし聞いていたら喜んでいたに違いない」
「確かに、あなたにとってはうるさくはないようだが・・・」
「オレにとって?」
「だって最近、光は私の笛でいつも寝てしまうではありませんか」
「あ…ああ、まぁな。なんでだろう、自分でもよく覚えていないんだ。気が付くと、帳台の中に居る」
光は決まり悪げに言った。
「そう、気が付くと時既に遅い。光は脇息にもたれてすやすやと眠ってしまっている。眠ってしまったあなたはさすがに重い。いつも大変なのです」
「ああ、ごめん。ここのところは、たまたま疲れていただけさ。おまえの笛は好きなんだ。だから、本当は聴いていたいと思っているんだ。嘘じゃない」
「光の言葉を疑ったりしませんよ」
佐為はそう言ってもう瞳を閉じたが、眠れぬ光は彼の直ぐ横で、御帳台の天上を見ながら続けた。
「三津が言っていた。今日は一日笑って過ごしてしまったけれど、お悔やみを言う為に来たんだと。母上が亡くなったのが悲しくて悲しくて仕方なかったって」
「そう、そうでしたね。明るいお人柄にお見受けして、すっかりいろいろと話し込んでしまいましたが…。では私は、三津殿に無理に昔話などを強いて、辛い思いをさせてしまったのでしょうか。だとしたら申し訳ないことをしてしまいました」
「いや、そんなことはない。オレが言いたかったのは違うんだ。三津は悲しくて沈んだ気持ちで居たのに、ここへ来たらすっかり気持ちが晴れたと言っていた」
「でも、本当のところは、もっと静かに光のお母上を偲びたかったのかもしれませんね」
「三津は、言葉に裏表が無い。佐為に逢えて感激したと言っていた」
「ならば良いのですが」
「・・・・・おまえはもてるからな」
「は?」
「三津は昔からそうなんだ。見目良い男にぽうっとなって、母上によくたしなめられていた」
「ほほう」
佐為は楽しげに笑った。
「三津がはしゃいでいたのは、本当に言葉どおり、人一倍見目良い男に逢えて感激したからだろうさ」
光は天上を見つめたまま、少し不満気に言った。
「何か棘のある言い方ですね」
佐為はからかうように、天上を見上げている光の顔を覗き込んだ。
「おまえがもてるのが嫌いだ」
光はそう言うと、そっぽを向いて衾を被った。
「何を言ってるのですか、光? 三津殿は光の大事な乳母・・・私は、光の母上の代わりとも思って・・・」
・・・三津のことを言ってるんじゃない! 三津なんてどうでもいい。そうじゃない。
三津の話に出てきた姫君のことだ。あの姫のことなら、もう過去のことだ。そんなものはもうどうでもいいと思っていたのに。今日は、そのことを思い起こさせる出来事が立て続けに起こったんだ。
そして、やっぱりそれだけじゃない。
何かが不透明なんだ。だから時々苛立つんだ。左大臣家の姫君のことは象徴に過ぎない。
そうだ、もうあれから・・・オレが無理やりに・・・食い下がっておまえと寝たあの夜から、幾夜も過ぎたっていうのに。
オレは感じつづけている。おまえの心の何処かにまだ躊躇が住み続けていることを。
いや・・・本当は薄い霞の向こうに見えるんだ。おぼろに。だから・・・だから、オレは・・・
「・・・三津殿のお気に召したのは光栄ですが、でも一番の理由は、光、違いますよ」
佐為は光の背中に向かってしゃべり続けていた。光の葛藤がもっとずっと深いところにあることを知ってか、知らずか・・・。
「三津殿は何度となく、光のことを想って泣いていた。三津殿はあなたに逢えたからこそ、感極まっていたに違いない」
「まぁ・・な。それは分かってるさ。そうだ、こうも言っていた。オレがもっと気落ちしているだろうと思っていたらしい。でも元気そうだから安心したと」
「それは良かった・・・だけど」
「だけど?」
「・・・光は本当は・・・まだ辛いはずです。いろいろなことが一度に起きて、まだその哀しみにゆっくり浸ることも出来ずにいるのではないかと・・・」
「うん・・・きっとそうなんだと思う。オレは・・・まるで小船で大海原に投げ出された気分だ。でもまだ、大海の波がどれだけ荒いか分からずに居る。だけど恐れだけはあるんだ。そんな感じだ」
「それでも、今の光は以前の光とは違う。そう、池や湖、川のせせらぎに居た頃のあなたではない」
「それはきっと、乗った船に羅針盤があり、遠くの岸辺には標となる灯りが見えるからだ。だから、恐れはあっても迷わない」
佐為は何か答える代わりに、深い眼差しを光に返した。
「少し安心しました。光にあのような乳母が居てくれて」
「どうして?」
「お母上の代わりというには、少し三津殿はそのなんというか…」
「落ち着きがない…だろ? いいんだよ、三津がああなのはよく分かってる。オレには姉妹は居ないけれど、三津は姉君のような感じだ。乳母なんだけど、どうも何処か友達みたいでさ」
「ええ…その、そうですね。でも、心の底から、あなたのことを我が子のように愛していることが感じられました。それが私にはとても嬉しかったのです」
光は、横に居る青年の横顔をちらりと見た。彼の顔が見たいと思った。先ほど胸を騒がした葛藤が治まると、佐為のこうした言葉こそが自分にとっては確かに幸福なのだと感じたからだった。むろん、三津は限りなく肉親に近い存在には違いなかったが。三津の来訪を心から歓迎してくれる佐為の態度が嬉しかったし、彼の心情が何よりも、この短い一言に感じられて胸が暖かいもので満たされた。光は今この瞬間、自分が置かれた場所の心地よさに酔った。
しばし幸福に酔った後、光は思い出した。佐為にも乳母が居たことを。だが、幼い頃に別れてしまったのだと聞いていた・・・。継母の嫌がらせだったのだろうか?
そのように想いをめぐらすと、今度は堪らなく横に居る彼に触れたくなった。
こんな風に枕を並べて語らうのも悪くない。そう、いつもこうしていたではないか。昔のように、ただたわいもなく枕を並べて尽きることの無い言葉を交わそう。あの頃とは違う意味で一緒に夜を過ごすようになってからも、それは変わらなかった。二人はこうしてただ寄り添い、その日あったことなどを語り合う。そうして、互いの体温を感じながら眠りに落ちていく。それだけでもやはり幸福だった。
「佐為…」
光は彼を抱きしめた。ふいを付かれて、佐為は少し驚いた。
「どうしました?」
「うん、なんかこうしたくなった」
「嬉しいですね、光に抱きしめられるなんて」
「本当か?」
「ええ、本当に」
「・・・・・なぁ、佐為」
「ん?」
「蝉の鳴き声はどう聞こえる?」
「蝉の鳴き声? どうして、そんなことを」
「いいから、答えろよ」
「蝉の鳴き声といえば、みーんみーんではないのですか?」
「そうばっかりじゃないだろ」
「そうですね、今だとひぐらしの声なども良いですね」
「ひぐらし?」
「そう、夕方になると、かなかなかな・・・と。涼しげで私は好きですよ。光は?」
「・・・・・・・」
「おや、どうしました? 口をへの字に曲げて」
佐為は笑いながらも訝しげに、光の頬を小突いた。
すると、光は少し怒ってからかいの指先を払い除けた。
「どうしたのです、なんと答えればあなたは満足するのですか? 光は一体何が言いたい? 分かりません」
佐為は訴えた。すると、光は観念したというように、口を開いた。
「今年はもう『筑紫恋し』とは聞こえないのか?」
「・・・・・・・・」
佐為はようやく思い当たった。『筑紫恋し』・・・それは左大臣家との決別の声だった。去年のちょうど今ごろに起きた、あの忌まわしい行き違い事件の象徴だった。その折のことが今、想い起こされた。すっかり忘れていた。その後に起こった様々な出来事の方が遥かに自分にとって直接的な苦悩を呼び覚ましたからだった。それらに比べれば、左大臣家との決別などたいした事ではなかったのだ。とりもなおさず、あの出来事は、単なる誤解が元で起こった不幸だったからだ。
だが、今何故、あの初秋の日の哀しい虫の音を思い起こせと迫るのか?
しかも、予期せぬ相手からだ。その為に彼は何と言えばいいのか分からなかったが、次の光の言葉ではっきりした。
「今日、天童丸殿に逢ったんだ」
光は、不思議そうに自分を見つめる彼にそう補足した。
「ああ・・・」
彼はただ、そう声を洩らした。何もかも合点がいったというように。それで、繋がった。
自分に咎無くとも、いや無かったからこそ、異母兄に憎まれたことは哀しかったし、愛して止まない少年の形代と別れるのは辛かった。
・・・・・・形代! そうだ、今になってこそ、そう思う。あの童子は、今ここに居る少年の形代だったのかもしれない。やんちゃな瞳、大胆不敵で物怖じしない気性。そして年の割には賢く働くその機転。
佐為は少し気恥ずかしげに視線を逸らし、同時に無意識に光の腕を振り解き、再び天井へと視線を戻してしまった。光は振り解かれた手で再び佐為の肩を掴んだ。
「なぁ、どうなんだ? 今年は? 今年も、そう聞こえるのか? どうなんだ、佐為?」
少年は体を起こし、彼の顔を覗き込んだ。そして尚も執拗に問うた。
こんなにしつこく問いただすのは、みっともないことだと思いながらも、光はついむきになっていた。
佐為はむきになった光の頬を撫でると、明障子の御帳台の天井を見つめながら、ふと微笑んだ。そしてこう言った。
「光、どうしてでしょう。今年はもう何故かそうは聞こえませんでした。不思議ですね、そう聞こえたのは去年だけでしたよ」
「去年・・・だけ?」
「そう、去年の夏は、不思議と『筑紫恋し筑紫恋し』とばかり虫の音が聞こえた。だが、今年はもうそうは聞こえない」
「・・・・・・」
「これで良いでしょう? もう答えましたよ」
「分かった、もういい」
光は今度はくるりと向きを変え、衾を引き上げて、すっぽりと頭まで覆った。あっさりと答えた佐為に対して、無性に熱くなった頬を隠したかった。
「光?」
「・・・・・」
「光」
答えようとした時には、光の唇は塞がれていた。口付けの後、佐為は光の耳元で言った。
「どうしよう、あなたが欲しい」
「おまえの好きにしていい」
光はそう言うと瞳を閉じた。
翌日、光が出仕するのと同時に三津は佐為の屋敷を辞した。しかし、光は大路を上手へ、三津は下手へと直ぐに別れなければならなかった。
三津はまたひとしきり光と別れの挨拶を交わすと、市女笠姿で大路を一人の供も連れずに下って行ったのだった。
女は光と別れ、七条まで来ると、ふと立ち止まった。何故なら、七条には市があったからだった。活気に溢れた市で彼女は、色々な品物に目を光らせた。慕っていた女主と、昔よく来たものだなどと、想いを巡らせながら。
立ち並ぶ店の間を通り抜けると、ふと道端のある光景に目が止まった。
それは、昨日まではなんとも思わなかった光景であった。たしなまない訳ではなかったが、特別に興味を強く引かれるものでも無かったからだった。
碁。四角い盤の上に直角に交差した十九路の線。その上に散りばめられた白と黒の石。
今辞してきたばかりの屋敷の主はこの古来からの高尚な遊びの大家だった。多くの貴族達に教えるばかりでなく、帝にまで教示する程の人間だった。自分が乳母として、育てた可愛い若子の師匠・・・いやそれ以上。あれは若子が言っていた話の通り、養い親といっても良いだろう。そう思った。
しかし、あの屋敷で見た碁と、今、ここ七条の場末で見る碁とでは、違っていた。ここ、七条の碁は賭け碁だった。
女は吸い込まれるように、市女笠に掛かった虫の垂れ衣の間から、賭け碁に見入った。
賭け碁を打っていたのは男二人だった。形勢は五分ではなく、どうやら、一方が悪かった。
女はふと口に出して、この時言ってしまった。
「佐為様なら、どう打つのかしら・・・」
女の声はほんのささやき声ほどの大きさだった。だが、この時、碁を打っていた男の目は碁盤を離れ、鋭い光を放ち、囁いた女を凝視した。雑踏に紛れてしまうような小さな声でも、この名の響きだけは聞き逃さない耳を持った男だったのだ。何故なら、この名に痛々しいまでの積年の恨みを抱いてきた男だったからだ。
鋭い眼光に一瞬女は蛇に睨まれた蛙のように硬直したが、それを見て取ると、男は、直ぐに、作り笑顔を見せ、努めて女に優しい声を掛けた。
「そなたは佐為殿のお知り合いか?」
「は・・・はい、いえ、その」
「ほほう、やはり。これはなんたる奇遇。私はかのお方を尊敬申し上げているのです。一分でもあのお方の徳に預かりたい」
男はそう言った。この言葉に凡庸な女は直ぐに心を開いた。
女は愛情深い代わりに警戒心が薄かった。女は善良な代わりに、愚かだった。そして女は朗らかな代わりに、口が軽かった。
しかし、この道端の邂逅がもたらす波紋はまだ少し先のことである。
時を同じくして、この七条の市を通りかかった一人の僧侶が居た。
僧侶は長身で痩せていた。ちらりと、この道端の賭け碁と、市女笠の女の方を見やると一人ごちた。
「ほう、賭け碁か。寄りたいところだが、またにしよう。今はとにかくあいつのところだ! オレの計画が動き出す。賭け碁で得る小金は今の愉しみ。だが、オレの企ては千年先の愉しみだ!」
僧侶の独り言を誰も耳に留める者など居ない。いや、聞いても解らなかったろう。
何故なら、この法師は独り言だけは、母国の言葉で言う習慣だったからだ。僧侶はこうして意気揚揚と、小走りに市を抜けて行ったのだった。
つづく
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