涼風五
「桓譚の『新論』に曰く、世に囲棊の戯有り
或は言う、是れ兵法の類なりと
上なる者は、其の疎張を遠くし、
置きて以って会囲し、
因りて道を得るの勝ちを成す」
唐土の僧侶は一年前と変わらぬ淡々とした口調で語った。
そこは佐為の屋敷の簀子であった。二人は盤を囲んでいた。二人というのは、墨染めの衣を着てはいるが、頭髪が大分伸び、勝手知ったる屋敷とばかりにくつろいだ風の僧侶と、そして鈍色の喪衣を着た少年のことである。この二人が再会してからもう暫く経つ。
この日、屋敷の主は帝の詔を受ける為に参内していて留守であった。
二人はもう碁を打ち終えていた。ところが僧侶は今打った碁の感想を言うでもなく、唐突に先の言葉を口にしたのである。対する少年 光は、彼の話にごく自然に聴き入った。言うまでもなく、この僧侶の言葉はいつも光を魅了してきたからだった。それは佐為の言葉とはまた違う意味で、光を惹きつけるからだ。
「つまり、世に囲碁の遊びがあるが、これは兵法の類だともいう。最上の打ち方は遠くまばらに石を置いて囲み、地を得て勝つ、と」
「遠くまばらに…。布石を考えることが大事ということか?」
「まぁそうだな。だが、布石のことだけではない。中盤の戦いでもこれは言える。相手の石を断つ事ばかり考えていると利は小さい。もっといけないのはスミや辺ばかり護って小さく生きることだ」
「なるほど…。だが、そのことと、今回佐為が受ける詔とどう関係があるんだ、楊海殿」
「キミに以前、記録することの意味を語ったよな?」
「ああ、教えて貰った、丁度一年前だろうか?」
「そうだな、キミは一年前と比べるとまた見違えるように立派になったじゃないか」
「いや…そんなことはないよ。変わったのは、外見だけさ」
光は照れ笑いをすると、頭を掻いた。
「確かに背も伸びたし、顔も大人びた。しかし、オレが言いたいのはそんなことじゃない。キミは驚くほど強くなったよ」
強くなった、というのが今打った自分の碁のことを指しているのだと悟ると、光は正直に嬉しいと感じた。そして瞳を輝かした。
「ところで、キミにはこうも語ったはずだ。オレは単に碁を記録するだけでなく、理論として系統立て、中でも最高最上の打ち方を追求したいんだと」
「ああ、聞いたよ。その為に、佐為の棋力が、あいつの才能が、必要だと言っていた」
「その通り。だから、オレはキミに逢った時から考えていた」
「何を?」
「どうしたら、オレの計画が上手く行くかさ」
「どういうこと?」
「オレはキミから聞いた。あいつが、今、帝に碁を教授する役を受け、『侍棋』と呼ばれていることを」
「ああ」
「そして、僅かだが思った、これはもしかしたらまずいことになるかもしれないと」
「まずいこと?」
「で、予感は的中したよ。あの人のさ、・・ああすまん帝のことだ。その帝の御前でな、あいつと碁を打ったんだ。オレは宋国棋待詔として。あいつは帝の侍棋として」
そして、法師は光に語った。帝の御前で、佐為が懐かしさのあまりに取ってしまった行動について。
「高貴な御簾の向こうから燃えるような鋭い視線で射抜かれたんだ。オレも碁好きの皇帝に請われて棋待詔になった。随分嫉まれたよ。一介の僧侶がとな。だから、人の嫉妬の視線には慣れている。でもあれはそんな簡単な類のものとは違った。あの視線は忘れない。正直、怖いと思ったよ。そして、計画を練り直さねばと、気付いたんだ」
光は、法師が語った言葉に思わず息を飲んだ。
そして、体が小刻みに震え出すのを感じた。努めて動じていないフリをしようとしながら、どうしようもなく頭の中に、浮かぶ光景があった。
射抜くような眼差し。
そうだ、オレも知っている。あの梅の香漂う庭園で、そして神泉苑で。
オレを睨みつけた、あの…。
光は、震えを抑え、やっとのことで、訊ねた。
「それで…どう計画を変えたんだ? 楊海殿」
「まず外堀を埋めるのさ」
「外堀?」
「オレはあいつと旧交を温めると、ここを辞して、懐かしい山に赴いた。あそこには古い知り合いも多い。そして、オレの為に上手く立ち回ってくれる奴も。オレは一冬を掛けてある老阿闍梨と親しくなった。阿闍梨は立派な人物で囲碁にも通じている。そして、阿闍梨には、あの人、いや帝の寵が篤かったんだ。代々の天皇は信仰心が篤いと聞いているが、今上帝は特に信仰心が篤いらしい。それは天の味方だったさ」
「それで」
光は話を急かした。
「阿闍梨は宋の皇帝の勅命になる棋書の話があることを、帝の耳に入れ、日本においても、せっかく優れた侍棋が現れたのだから、棋書を献納させてはどうかとな」
「凄い! 凄いよ、楊海殿! 分かった。それで今日、佐為が昇殿しているのか! 勅命とはそういう意味だったんだな」
「これで、オレは献納する棋書の同編者さ。堂々と、ここにも出入できる」
「・・・・・」
「どうした?」
「いや、どうして・・・そんなにも回りくどいやり方をしなければならなかったんだ。どうして・・・楊海殿は佐為とは旧知の仲だろう?」
「旧知の仲だからこそだ。実際に逢った、いやご拝謁の栄にあずかったのは御前対局に呼ばれた時の一回きりだが、行洋殿からも、そして老阿闍梨からも帝の性質についてはよく聞いたよ。今上帝は賢い。特にものを見る目に優れていると」
「ものを見る目?」
「ものの本質を見抜く視力という意味だ、話には聞いていたが、その意味をあの時悟った。佐為の態度一つで、あいつにとってオレが特別の存在だと見抜いた。数少ない、あいつが全幅の信頼を寄せる人物だということをな。
だから、オレを睨みつけたんだ」
「楊海殿に嫉妬したっていうのか?」
「ま、そういうことだろうな」
「もしそうなら、帝は狂ってる」
「かもな。キミはそう思うだろう」
「そう思うだろうって、楊海殿はそうは思わないのか?」
「刹那に思ってしまう感情と、それをコントロールする理性は別だ。不思議なことに、行洋殿も、老阿闍梨も、そろって、帝は内向的で陰湿なところがあると言いながら、二人とも、帝を賢帝だと褒めてもいる」
「・・・・・・」
「どうした?」
「友達の陰陽師が同じようなことを言ってた」
「明殿のことか?」
「ああ、そうか、知っているんだったな」
「彼のことなら随分昔からな。ふふふ、まぁ、どんなに賢い人物にも欠点はあるものさ」
「そんなに単純な話だろうか?」
「さぁ、どうだかな。だが、いっぱしの大人である以上、上手く立ち回っていくしかないさ。オレも、キミも、殿上人で帝の侍棋の佐為もな。だから、最初に言った。最上の打ち方は遠くまばらに石を置き、勝ちを見通すことだと」
「そうか、このことだったのか」
「碁の兵法は全てに通ずる。師が言った言葉だ。あいつも知っている」
光は再び、胸の内側から震え出すのを感じていた。
にわかに、自分が矮小なものに思え、恥ずかしくなった。
この人はやはり大きい。
自分よりも遥かに広く世界という盤の上を見ている。
自分はどうだ? 楊海殿は褒めてくれたけど、まだまだ相手の石を断つことばかりに気を取られているじゃないか。
そして光は、帝の恐ろしさを思った。たった一つの視線で、このつわものの法師にこれだけの策を巡らさしめたのだ。
僧侶は、自分と佐為の全ての関係を知る訳ではない。もし知ったらなんと言うだろう。光は心の震えを止められずにいた。
そして、帝も!
あの帝が、佐為が今最も愛する存在であるはずの自分を、新たに垣間見たとしたら、どうするだろうか。
光は蒼白になりながら、考えを巡らしていたが、法師は構わずに言った。
「あいつは、オレと違って、あまりこうした理屈は言わないだろう?」
「え?」
「なんだ、聞いていなかったのか?」
「いや、ごめん」
「あいつは、オレのように理詰めで考える性質とは根本的に違うんだ」
「違う? 確かに、佐為は少し碁の教え方も楊海殿とは違う気がする」
「はは、それはあいつが天才だからさ」
法師はきっぱりと言い切った。
「あいつは考えるより勘が早いことが多々ある。そこが違う。天才だ。オレが数刻考えに考え抜いて出した道筋を一瞬で思いつく。それがあいつだ。もしかしたら、時間の進み方があいつは違うのかもしれない。あいつはあいつの時間で、考えているのかもしれない。答えにたどり着くまでの時間が驚異的に短いだけなのかもな。しかし、これはあいつに尋ねても答えが返ってくることではない。だから、その不思議を探求するしかないのさ」
天才・・・佐為は天才・・・考えるより勘が早い・・・そうなのだろうか?
オレには分からない。オレには。
オレに分かるのは一つだけだ、それは・・・
「きょとんとした顔をしているな、キミ、どうした?」
法師は光に尋ねた。だが、光の答えを待たずに続けた。
「オレは天才ではないから、理屈でものを考えるしかない。系統立ててな。キミもあまり理屈をこねるのは好きではないだろう?」
「オレ・・・? ああ、そうだな。オレは楊海殿のように頭がよくない。勉強も足りない。棋書の手伝いと言われても何をどう手伝えばいいのかも皆目見当がつかないよ」
・・・キミも天才かもしれない・・・オレはそう言ってるんだ。分からないんだな、キミらしいよ、実にな。一年ぶりに碁盤を囲んだが、キミの進歩は目覚ましい。おそらく、都に帰ってから、あいつに、さらにいろいろな棋法の教えを受けたのだろう。
佐為がこの少年に入れ込むのも頷ける。オレとて、この逸材に出会ったら放ってはおかないだろう。加えて、この人好きのするくったくの無い明るい気性。今じゃ立派な若者なのに、それでも愛くるしさの残るつぶらな瞳とくる。
孤独な師が親を失った愛弟子を手元に置くのも自然の成り行きということだろう。
・・・だが。一つ不安がある・・・不安が。
この子はあいつが言うように賢い。今のオレの言葉を必ず敷衍して考えるだろう。その為に言ったんだ。 いや、その前にオレの思い過ごしだと尚いい。いいんだが・・・・・
法師はそう心の内に一人想いを巡らした。
すると、光はぽつんと言った。
「佐為は、確かに天才だと思う。
だけど、あいつが楊海殿のように、理屈をあまりこねないように見えるのは他の理由もあると思う」
「他の理由?」
「あいつ、直情的で、短気で、意外と単純なんだ」
「ああ、そいつは当たってるな」
法師は光の言葉を聞くと、高らかに笑った。
萩の花の咲く庭から、秋風が二人の座す簀子を横切って御簾を揺らしていた。
それから数日後のことだった。
光はまとまらない胸の内を抱えながら、明の屋敷を訪ねていた。
明は以前のように、佐為の屋敷を頻繁に訪ねることが無くなっていた。光はふと、この陰陽師の冷静な言葉が懐かしくなる時がある。そんな時は、自分から訪ねるより他なかった。
二人は寝殿の簀子から降りた階に腰掛けて語り合った。
「おまえ、もっと佐為のところに来ればいいのに」
「はは、ボクと逢えないと寂しいかい?」
明は落とした視線を上げずに言った。
「別に寂しかねーけどさ!」
光はぶっきらぼうに答えた。
「そうだな、でもキミが元気そうだから、特に行く必要もないかなと思ってね」
「なんだ、それ」
「言葉の通りだよ」
明の瞳には、秋の色を深めつつある庭の風景と同調するような、何処か涼しく、何処か寂しげな色が浮かんだ。
なんとはなしに寂しく思いながらも、光は明の言葉の奥にある彼の優しさを感じた。
そして、葬送の折りに、尽くしてくれた彼の誠意を想い起こした。
「碁の理論をまとめた書を作るそうだね」
明が言った。
「ああ、楊海殿と佐為がな。オレは手伝うだけだ」
「それでボクは分かったよ」
「何が?」
「この度の勅命に先立って、顕忠殿が帝の侍読に任ぜられた訳がね」
侍読とは、帝に学問を教授する役のことである。
先の侍読が亡くなってから空席であった侍読の座に顕忠が就いたのであった。
「侍読に?」
「そう、顕忠殿は文章博士だ。名実共に、誰もが認める学問の第一人者だ。何時侍読になってもおかしくはなかった。
侍棋の役を正式に退いた訳ではないが、帝は顕忠殿を侍読に格上げすることで、事実上の侍棋を佐為殿だけにしたいという事ではないのかな」
「つまり、佐為を取り立てて、棋書の勅命を出した代わりに、顕忠殿には佐為以上の名誉を与えたって訳か?」
「顕忠殿が侍読の役を任ぜられたのが先だから、傍目には顕忠殿だけが栄誉を得たように見えた。ボクは何故だろうと思っていたんだ。だが、謎が解けたよ。
この為だったんだ。帝はお考えになっているな」
「考えている・・・か。考えて策を巡らしているのは楊海殿だけではなかったんだな」
「どういう意味だ?」
「碁の兵法さ」
「碁の兵法?」
「最上の打ち方は遠くまばらに石を置いて、地を得ること。
目先の相手の石を断つことばかりに走るよりも結局はいい打ち方だと」
「それは王道だろう。
碁の打てる者なら、実戦で自然に知ることだ」
「ああ、だが、気付くと相手のペースに乗せられて、応手ばかりを考え、遠くに石を置くことを忘れる」
「さっきのキミの碁のように?」
「悪かったな! 分かってるさ」
だが強くなった、キミは。佐為殿が教えているのだ。高い棋力を持つかもしれない、侍棋の役を担えるような。だが問題は、位階・・・。そして帝を不敬した過去。
明は心の中でそう思った。
「そうだ、顕忠殿といえば、オレ変な場所で見かけたことがある」
光はふと思い出したように言った。
「変な場所?」
「七条の賭け場だよ。みすぼらしい身なりをしていたが、あの顔は確かに顕忠殿だった。どうして、あんなところに居たのか分からない。それともオレの見間違いだったんだろうか」
「さぁ、ボクには何とも言えないけれど、顕忠殿の動きが怪しいのは確かだ」
「どういうことだ?」
「あの人の随人がうろついているのを見た。キミが見たというのも本当に顕忠殿かもしれない。あの人は情報の売り買いに長けている。場末で一体、何の情報を得たいのか謎だけど、何時だってそうだ。いつかは、手の者を使って佐為殿をつけ回していた」
「佐為を!?」
「あ、ああ、うん、キミには言ってなかったな。確証がある訳ではないが。初めはもしかしたら帝かとも思ったよ。だが、多分違う」
「帝かもしれないと思っただって?」
「帝の佐為殿への過剰なご寵愛が成せる業かとね・・・。だが、やはり帝はそういうやり方をなさる方ではない。尾行なんて、顕忠殿こそが好む方法だ」
「どう違うんだ? オレには分かんねぇな」
「本当に分からないか?」
「いや、そうだな。ていうか、帝のことが今、オレには分からねぇ。賀茂、オレは正直言って、都に帰ってきて少し拍子抜けしたんだ。大宰府に行く時、オレは帝を信用できないと言った。覚えているか?」
「ああ、覚えている。いい加減、口を慎め、とキミをたしなめたのも覚えているよ」
「オレは帝に不信感を抱いていたけど、おまえが言った通り、今じゃ佐為にとっては帝は一番の後ろ盾だ。佐為のために強い打ち手を探し招き、今度は棋書の献納を命じた。誰が見ても一番の理解者だし、一番の庇護者だ。そして、不敬を働いた愚かなオレを赦し、都に召還した。賀茂、オレは間違っていたんだろうか」
「そうだな・・・。キミに意味深なご伝言を遣したり、赦したといっても、多少厳しい条件付きではあったけれどね」
「・・・・・」
「ただ、ご伝言はさて置き、キミに科したあの条件は、どうも腑に落ちない。あれは帝らしくない。まぁ、これはいいんだ。つまり・・・」
「つまり?」
「つまり、帝は・・・元々人を陥れたり、人を痛めつける為に自ら何かなさるような方ではないんだ、根本的に。ただ・・・」
「ただ・・・?」
「いや、上手く言えないが・・・何か強い縁に触れて、何処かに抱えられた闇が力を増して、帝のお心を支配してしまうことがあるのかもしれない。その強い縁となるのが、もしかしたら、佐為殿であるのかもしれないとうっすら感じる」
「それは陰陽師の視力がそう見せるのか?」
「視力?」
「楊海殿が言ってた。物事の本質を見抜く視力のこと」
「ああ、そうだな、そうかもしれない。確かにボクは人の顔を読むことにはキミの何倍も長けていると思う」
「オレの何倍もっていう言う方はないだろ! おまえ、ほんとに余計な一言が減らねぇ奴だな!」
「一言余計だって? キミに言われたくはないね。ボクが一言余計だったら、キミは・・・」
「なんだよ、言ってみろよ!」
「ボクが一言余計なら、キミは十言くらい余計じゃないか」
「なんだって!」
「まぁ・・・というのは昔の話で、今は三言くらい・・・かな」
「なんだ、それ。なんだか、微妙な言われようだな」
光は拍子抜けして頭を掻いた。明はこの時、ふいに思い出したように言った。
「そういえば、キミは座間の大臣がご病気なのを知っているか?」
「いや、知らない。そうなのか?」
「座間の大臣はもうご高齢だ。さっきの話の顕忠殿だが、内大臣殿を見限ったのじゃないだろうか。中納言殿の屋敷に行くのを見たという者もいる」
「なんだって!? あんなに結託していたじゃないか」
「後ろ盾を無くす前に新たに有力な後ろ盾を作ろうとしているのかもしれないな。中納言殿は関白殿のご嫡子で、中宮様の同母弟だ」
「なんだよ! 藤原家とは今までは敵対してたじゃねぇか。相変わらず、きったねぇ野郎だな!」
「そして、高齢なのは何も座間大臣だけじゃない」
「誰のことを言っている?」
「帝だよ」
「・・・・・帝? 内大臣殿よりはずっと若いじゃないか」
「だが、父君の先帝も五十にならずに身罷られている。帝も既に四十過ぎ。そして最近、ご体調があまりよくない」
「帝が・・・」
この時光は、明の意外な言葉にただきょとんとするだけであった。
つづく
back next
|