笹百合

 

「夕星様、ご覧ください。笹百合があのように美しく咲いております」
 侍女が言った。もう長く私に仕える侍女だ。
「まぁ、本当。今年も咲きましたね、綺麗だこと」
 私はそう返した。そして、御簾の向こうに見える、白く凛とした佇まいのその優雅な花に見とれた。
 侍女は私がこの花の咲くのを毎年楽しみにしていることをよく知っている。
 だけど、私が何故この花を愛でるのかまでは知らない。
 何故なら、ごく若い頃に気を許した一人の女房を除いては、今までにほかの誰にも言ったことはないし、これからも言うつもりはないからだ。
 私だけが胸に秘めていること。
 そう、今では誰も知ることはないのだ。だってもう随分と昔のことだもの。
 ああ、知っているとしたら、懐かしいあの侍女のほかには、あのお方だけ。あのお方だけが、私のこの胸の内の想いを知っている。いいえ、知っているのではない。そう知っているのではなく、同じ想いを抱いておられたのだ。いえ、同じ想いなどというのはおこがましい。私の想いなど、きっと遠く及ばない。あのお方が、この花の面影に、この白く高貴な・・・でもひっそりと山の中に、木々の茂みの下に咲いている、この高貴な花に、抱いておられた想いになど。
 今はもう昔。
 さぁ、女童(めのわらわ)に命じて、花を摘ませましょう。そして、美しいあの白い花をあのお方に捧げましょう・・・。

 
 入内して半年経った頃のことだった。宮中で迎える初めての端午の節会が巡ってきた。あの時のショックは忘れない。入内して半年の間抱え続けた懊悩にある答えが見出された時のことだ。その後の忌々しい後宮の歌合わせで、自分が東宮妃となった真の意味を告げられた。
 女房達は、嘘だ、でたらめだと、散々私に言ったけれど、私の確信は揺るがなかった。入内したばかりの頃に起きたあの悪夢を私の侍女たちは知らない。当時力を持っていた桜内侍に何もかも用意周到に根回しされていたのだ。だから、あの悪夢を知るのは私だけ。私だけが誰よりも強く事実を確信したのだ。
 帝は・・・帝とは、あの頃内裏にいらした帝のことだ。その帝は、大層囲碁の道に秀でておいでの美しい君にご執心であられた。それは知っていた。帝のご寵愛が篤いという噂は耳にしていたし、里邸に御幸なされた時のことは今でも鮮やかに思い出す。
 でもそのご寵愛は主君が臣下に対して抱く、ごく自然なものだと思っていたのだ。それまでは。

 歌合わせから、またいくらか過ぎ、菖蒲も終わりに近づくと、今度は淑景舎の内庭に美しい笹百合が咲いた。笹百合は白い花ばかりだった。青や紫の鮮やかな菖蒲の花の後では、白いその涼しげな姿は印象的だった。真っ直ぐに伸びた凛とした茎。緩やかに弧を描き、若竹を思わせる青い葉。そして白く高貴な花弁。美しいけれど、やさしく直向きなその花は、真っ直ぐに碁盤へと視線を落とすあの君の、それは美しい姿を思い起こさせた。
 あの美しい君とはたった一度だけ碁を打った。何よりも碁石を持ったその姿が、碁盤に目を落とすその真剣な眼差しが、それは美しかった。決して忘れない。この花の周りに漂う、控えめだけれど近寄り難い空気と何処か似通っていたから。
 それは、帝の侍棋、佐為の君。左大臣であった父上の従兄弟に当たる方。 
 私は密かに庭に咲いた笹百合を愛でた。

 ところがある日、清涼殿から遣いが来た。
 淑景舎の庭の笹百合の株を分けて欲しいという。
 そもそも笹百合は、野や山に知らぬ間に咲く花。宮中では淑景舎にしか無いのだと。
 聞けば帝がその山に咲くような花をご所望であらせられるという。
 どうした訳かは知らぬが、もとより断る理由などない。
 侍女達が、とりわけ美しい花を選んで、丁寧に掘り起こし、いくつかの株を献上した。
 すると、何日かして清涼殿より、私に見事な唐衣が届けられた。献上した笹百合への礼の品だという。しかし、届いたのは唐衣だけではなかった。
 歌が添えられていた。
 
 笹百合を 摘みしひがごと 忘るまじ 我(うべな)はむ 我諾はむ
 
 (諾ふ:謝罪する)

 侍女達は口々に言った。
「まぁ主上ともあろうお方が、このように素朴で真摯なお歌をお遣わしになるなんて」
「なんてお優しいのでしょう、それも『摘みしひがごと』などと大げさに」
「遊び心のある素敵なお歌だわ」
 そして、帝からのお礼の品である美しい唐衣を誉めそやした。

 だけれども、当の私だけは何も言葉を発することが出来なかった。
 その場にいた女房達は皆、内庭の笹百合を献上させたことを、帝ご自身が摘んでしまったかのように言い、大げさに詫びた、いかにも遊び心のある歌だと解釈した。わざと朴訥に、まるで花を盗んでしまったかのように、その罪を詫びる・・・。一体、帝がどんな罪を詫びるというのか? そもそも帝が犯す罪などあるというのだろうか。 その帝が咎人のように謙ったしゃれた歌だと。
 
 私はその夜、褥に横たわると、誰にも気付かれないようにひっそりと泣いた。

 
 そして、幾日か過ぎた。
 天気の良い夏のある日のこと。とても嬉しい訪問者が淑景舎にやってきた。
 まだ幼い弟だった。
 天童丸の天真爛漫さは長いこと沈んでいた私の胸の内側にいくらか明かりを差し込んでくれた。
「ねぇ、夕星の姉上」
「なぁに?」
「ボクね、碁少し上手くなったよ」
「あら、そうなの?」
 私が少し眉を動かしたのを敏感に気付いたのだろうか? 弟はちょっとしまった、という顔をした。だが、やはりこの子はまだ七歳の子ども。大人の顔色を気にし過ぎる方がよほど、よくない。予想通り、あまり気にしてもいない様子なので安堵した。
 証拠にこう言ってくる。
「ねぇ、姉上、碁を打とうよ。ボク本当に強くなったんだ、姉上、びっくりするに決まっている!」
「まだ、碁を教わっているの?」
 私は尋ねた。いいのだ、本当はあの君のことが知りたい。私は話題に出してくれた弟に感謝していた。
 弟は嬉しそうに瞳を輝かして答えた。
「うん、たまにね。佐為はいつも面白く教えてくれるよ。そうだ、この間ね・・・」
 弟はそれから、よどみなくあの美しい侍棋の君の話をしてくれた。
 あの君のお屋敷に行った折のこと。
 どんな風にあの君と会話したのか、どんな遊びをしたのか、たくさんの楽しい出来事。そして、初めて聞く少年の話。あの君には弟子がいらしたのだと、その時知ったのだ。
 ひとしきり話を終えると、じっとしていられない性分の天童丸は明るい日差しのさす簀の子へと出て行った。
 私は御簾の内側から呼んだ。
「これこれ、まだ行ってしまわないで。どうか、こちらへ戻っておいで。私に楽しい話をしてちょうだい、天童丸や」
 しかし、私の懇願にはお構いなしに、弟は内庭へと飛び出していった。
 すると何かが目に留まったらしい。
「ねぇ、姉上、これはもしかして笹百合?」
「あら、よく分かりますね。あなたが笹百合を知っているなんて思わなかったわ」
 私は御簾の内側から、内庭へ降りた弟に向かって答えた。
「葉が笹の葉みたいだもん。家に咲いていたのはこういうんじゃなかったよ。姉上も覚えておいででしょう?」
「ええ、覚えていますとも。でもどうして、笹百合だと分かったの?」
「だって、この花、こないだ佐為のところで見たんだ」
「佐為の君のお屋敷で?」
「帝から笹百合の花が届いたんだ」
「帝・・・から?」
「うん、帝から。笹百合の花に文が結んであったよ。綺麗だった」
 私は・・・その時、何を思ったか、つい尋ねてしまった。
「文を・・・見せて頂いたりはしていないでしょうね?」
 ああ、何を言ったのだろう? 普段なら、こんなことを口にするなど考えられない。だが、私は訊いてしまったのだ。胸の奥の懊悩の正体を明らかにする為に、今ひとつ・・・今ひとつ、確証が欲しかったのかもしれない。
 すると天童丸は、なんと好都合にも、こう答えた。
「えへへ、実はこっそり見ちゃったんだ、ボク」
「まぁ・・・なんて酷いことを! 無作法にも程があります。そんなことをしてはいけません、佐為の君も呆れます」
 私はそう言いながら、心の臓は音を立てて鳴り出した。
「うん、見つかって佐為に酷く叱られた」
「ほら言ったでしょう」
 胸がドキドキと鳴るのを必死に抑えようとしながら、私は思った。あの君は、弟を叱るのか・・・。叱りつけられる程、親しくあの君との関わりのある弟の存在を、私は嬉しくも思い、また妬ましくも思った。そして、同時に心の奥底から湧き上がる好奇心を抑えられずに居た。周りに侍女は居ない。今訊くしかない!
「・・・天童丸や」
「なぁに?」
「・・・帝のお歌を覚えておいで?」
 相手は七歳の童子。私が尋ねたことなどきっと直ぐに忘れる。
「うん、覚えているよ。でも別に変わったところのない歌だったよ。笹百合が綺麗だって、詠んでるだけに思えたけど」
「・・・そう・・・そうなの・・・でも一体どんなお歌なの? 教えてちょうだい」
「そう、こんなんだった。
 笹百合の・・・ 紐解くにほひ 玉ゆらの 露そふ間だに とどめおかばや 」

 笹百合が花開いていくそのつややかな美しさよ、
 露が置かれたほんの短い間だけでもとどめておけないものだろうか

 ああ、これは・・・この歌は・・・
 歌を聞いてしまうと、私の胸の鼓動は、静まるどころか、より激しいものとなった。

 幼い弟にはこの歌の深意は分かるまい。
 この花を見て、あの方の美しい佇まいに重ね合わせるとは・・・他ならぬ自らのこの胸の想いに重なる。いえ、それだけではない。この胸に湧き上がる想いは何だろう。
 ああ、妬ましいのだ。誰が?
 決まっている。帝がだ。
 主上は、こうしていつでもあの君のことを詠み、お気持ちを運ばれているのか。
 それほど、近しくお傍に召されているのだ。 
 と同時に、私の胸は不思議と痛んだ。
 このお歌に、果たしてあの君はどのようにお応えになるのだろう?
 私には想像するべくもないけれど。
 いくら近しくお傍に召されたとしても、根も葉もない噂をお信じになって、私を憎まれた。ああ、分かる。主上のお心は満たされておいでではないのだ。だから私を憎まれたのだ。
 
 我諾はむ・・・

 あの謝罪の言葉が幾重にもこだました。
 そして、初めて寸分でも解った気がした。何故、帝があのようにお心を狂わされたのか。 
 その笹百合を巡る出来事以来、私はもうあの闇の中を彷徨うような懊悩に囚われることが無くなった。
 苦々しい記憶が消え去った訳ではなかった。それでも霧や薄雲の中にはっきり見えずにわだかまっていた得体の知れない恐ろしい影が、この目にその姿を僅かにでも垣間見ることが出来たような気がしたからかもしれない。
 重苦しい迷いも苦しみも、何者なのかが分かると、気が落ち着くものなのだと、その時に私は知ったのだ。

 季節は巡り、やがて内庭の花も全て枯れ、初冬を迎えた。
 再び、弟が父上に連れられて淑景舎にやってきた。弟もあと二、三年すれば、殿上童に上がるのだろう。その為なのか、父上は天童丸を伴って、時折参内する。

 弟は内庭に目をやり、とっくに姿を消してしまっていた笹百合の咲いていたあたりを指差した。
「夕星の姉上、ねぇ、そういえばこの内庭を見て思い出したよ」
「まぁ、何を?」
「笹百合、咲いてたでしょう?」
「ええ」
「笹百合ってさぁ、別の名前があるんだって」
「別の名前?」
「そう、別の名前! なんていうと思う?」
 弟は大層勿体ぶりながら、訊ねてくる。
「一体、何ていうの、ちっとも見当がつかないわ」
「えっへん、じゃぁ、書いてあげるよ」
 弟がそういうので、侍女に紙と筆を持って来させた。
 弟は得意げに筆を持った。あまり漢籍の勉強には熱心でないと聞いている。その弟が得意げに筆をとるのだ。一体なんと書くのだろうかと、内心わくわくしながら見守った。
 私には、この天真爛漫な幼い弟が愛らしく感じられてならなかったのだ。

 ふと書いたものを見て、息を飲んだ。
 紙に書かれていたのは、「佐韋」という文字だった。
「佐・・・韋? これは・・・さいと読むの?」
「そう、『さい』だよ。佐韋の花。笹百合を昔こう呼んだんだって」
「そう・・・知らなかったわ。あなたは誰に教えてもらったの?」
「あのね、ほら佐為のところによく来る検非違使だよ。・・・あ、今は佐為のところにずっと居るみたいだけど、前は時々居ただけなんだ。今は行くといつも居る」
「侍棋の君が親しく碁を教えてらっしゃるという若い方ね」
「あの検非違使は見かけによらず意外と物知りなんだ」
「あなたが笹百合のことを訊いたの?」
「ううん、佐為のところに行ったら、佐為が留守で。それで検非違使の光が碁を打ってくれたんだ。あ、そうそう光は碁も強いよ。ボクはさっぱり勝てない」
「まぁ生意気に。侍棋の君のお弟子様なら、それは当たり前というものです」
「で、光といろいろ話していたら、帝の歌のことを思い出してさ。教えたんだ。でもそうしたら、光、なんだか知らないけど、しばらく黙っちゃってさ。でもぽつんと言ったんだ」
「なんと・・?」
 私は夢中で尋ねた。笹百合の名の秘密に興味をそそられた。
 天童丸はその時の光との会話を語り始めた。その顛末はこうだった。

 天童丸の相手をしていた光という検非違使の少年は帝の歌のことを聞くと、なぜだか急に蒼ざめ、しばらく黙ってしまったという。天童丸は不安になって、光に話し掛けたのだと。

「ねぇ、どうしたの? 光?」
 光は童子の訝しげな瞳に答えた。
「いや、なんでもない。別に・・・なんでもないよ」
「うっそだ、なんか変だよ、光」
「いや・・・そうだな。そう・・・ちょっとびっくりしただけだよ」
 光はそう言った。
「何が?」
「筑紫に居た話をしたろう?」
「うん」
「筑紫には、オレに学問を教えてくれた人が居たんだ」
「へぇ、それで?」
「その人は万葉集が好きでね」
「万葉集? ふーん、昔の歌集だね。古今集を見た方がいいて、女房が言ってたよ」
「ま、そうだな。今風ではないけど、でも万葉集もいいよ、その人が教えてくれたんだ。笹百合を詠んだ歌もある」
「へぇ、笹百合を?」
「天童丸殿。知ってるか? 笹百合ってさ、昔佐韋(さい)と云ったんだ」
「え?」
「佐為の「佐」に「韋」だよ。音だけなら佐為と同じ名だ。万葉集に出てると、筑紫に居たその人が教えてくれた。
 『山由利草の本の名は佐韋と云ひき』とね」
「へー、そうなんだ。光、やっぱり凄いね! それにしても笹百合が佐韋か、偶然だなぁ、びっくりしたって、こういうことか」
「・・・いや・・・・・そんなことは、別にいい」
「え? ほかにも何かあるの!?」
「・・・いや、いいんだ」
 光という少年は短くそう答えたきり、その後は話題を変えてしまったという。
 天童丸は、このいきさつを語り終えると、ふうと息をついた。
 そして話を聞き終えると、私もまた黙ってしまった。
 そんな私を見て、天童丸はくるんとした瞳をしばたかせると小首をかしげたのだった。




 知らなかった。
 笹百合の花は本当に佐為の君のことだったのだ。
 私は古名の秘密など知らずに、この花の美しい姿にあの君の面影を重ねて愛でていたけれど。
 あのお方なら・・・ああ、帝なら、ご存知だったにちがいない。
 ご存知の上で、笹百合を詠んだ歌を贈られたのだ。
 だとしたら、受け取られたあの君も承知の上に違いない。一体、なんと詠み返したのだろう。

 そして、弟の話に出てくる検非違使の少年が何にショックを受けたのかも、私にはよく分かる。けれど幼い弟にはわかるまい。
 そう、万葉集の歌も学んだというその少年なら感じ取ったことだろう。
 帝が佐為の君に贈った笹百合の歌の奥に漂う、後朝の朝の切なく哀しい情感を。

  笹百合の 紐解(ひもと)くにほひ 玉ゆらの 露そふ間だに とどめおかばや

 ああ、表面をなぞれば、花の美しさを惜しんだ歌だけれど・・・ 

 否・・・本当の意味は違うのだ。
 笹百合・・・佐韋・・・佐為の君。枕を交わしたあなたの美しさを少しでも傍にとどめて置きたい…
 そう伝えているのだ。

 (「紐解く」:花が咲くという意以外に、男女の仲、共寝(ともね)を意味します) 

 そして、月日は巡った。
 もうあの帝も、あの美しい佐為の君も、もうとうに賽の河原を渡られてしまった。
 私だけがこうして永らえている。
 国母になることもなく、時を越えて遺すものをつくることもなく、こうして長い時を生きた。
 いろいろな、本当にいろいろな想いを通り越した。
 だから・・・。今は分かる。赦せる。
 あれほど恐ろしいと思ったあのお方も、今は少しも恐ろしくはない。年老いた今、何故だか、あのお方のことばかり想い起こしてしまう。そしてこの胸に去来するものは、どうしようもない愛惜ばかりだ。
 だから、私はこうして今年も人知れず笹百合の花をあのお方に捧げる。
 そう、帝にこの花を・・・。美しい花、佐韋の花を。

 つづく

<後書き>
*笹百合の古名が「佐韋」ということを教えてくださった猫柳さん、創作のヒントを頂きました。ありがとうございました。
*帝が佐為に宛てた歌「笹百合の紐解くにほひ・・・」は幽べるさんに作って頂きました。ありがとうございました。

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