涼風六

 

「ここでこの大石を取られては・・・駄目だ、負けだ」
「確かに今の手は良くありませんでした。今の一手で、ここは全て死んでしまいました。でもまだ挽回の余地はあります」
「・・・・・・ううむ」
「右辺です。よくご覧下さい」
「・・・そうだな」
 二人の人物が碁盤を囲んでいた。
 一人はまだ若かった。若者は明らかに強く、相手の者を教え導いていた。
 教え導かれている者は、若者の従兄弟に当たった。当年、正三位の大納言である。
 二人の立場は、碁の腕前とはまったく逆であった。大納言は若者より年齢も上だったし、官職、位階共に高く、若者が今置かれた酷く頼り無い状況に比べれば、遥か雲の上の人物といって良かった。
 しかし、大納言は生来の気性ゆえか、高位にある人間にしては人柄が温厚謙虚であった。身分は無いに等しいが、この碁の強い若者と碁盤を囲んではますます謙虚となり、若者の言葉に素直に従っていた。
 ここは、二町もあろうかと思われる豪奢な邸宅である。二人が碁を打っているのは広い南面の庭の池に突き出た釣殿だった。寝殿の簀子からは、嫌がおうにも彼等が碁を打つ姿は目だち、人目を引いた。
 碁を打っている二人の青年は共に端正であったが、とりわけ上手の若者の佇まいは、遠くから眺めてもその美しさが際立っていたからだ。屋敷の女達は皆、若者に見惚れていた。寝殿の簀子を歩いていた一人の男もまた彼らの様子に気付いた。眼を擦るように、釣殿を見た。
 見覚えがある・・・ああそうだ、きっとあの者に違いない、男はそう思った。
 そして引き寄せられるように、釣殿へと向かっていった。

「そなた、還俗したのか?」
 その声は突然、碁を打つ若者の上に落ちてきた。
 十九路の宇宙の調和を破る声だった。
 石を持つ手を止めた若者は上を見上げた。
「・・・兄上!」
 調和を破った声の主は若者の異母兄だった。
 あいまみえるのは一体何年ぶりのことであろう? 若者は急に畏まり、兄の前に頭を下げた。
「兄上、お久しぶりでございます」
「そなた、どうしてここに居る?」
「師の命により、還俗し山を降りました」
「師の命? そなたは破門されたのか?」
「いえ、そうではありません。師は唐土へお帰りになるのです。私にはこの国に残るようにと、強くお命じになりました」
 その声には幾分不本意に違いないという悔しさが秘められていた。と同時に若者は顔を上げた。
 若者を見下ろしていた男は、一瞬瞳を見開いた。記憶に残るのはまだ幼き日の姿でしかない。その顔立ちがあまりに整っているので、まるで人形のようだと思ったことがある。男のくせに絵に描いた女のようだ、変わった者よ、と。
 そうした訳でこの奇妙な異母弟のことは記憶に残っていた。
 しかし、数年の空白を越え、すっかり大人の姿となって現れた弟は、さらに美しくなっていた。白皙の美青年とはこのことをいうのであろう。
 普段は「若殿、若殿」と、自分をもてはやしている女達が今日は、どうりでこちらに目もくれない訳だ。屋敷の女達の視線が他所に行った理由を悟ると、若者を見下ろしたまま、やっと口を開いた。
「ああ、そうであったな。そういえばそなたの師は唐土の僧と聞いていた」
 不思議と自らの言葉と共に何処かへ行っていた記憶も鮮明に甦った。この弟のことを母上も父上も疎んじていた。特に母上の憎しみには凄まじいものがあった。幼い日には、あまり顔を合わせることもなかったが・・・。この美しい外観を見れば、母の憎しみの訳も自ずと知れた。
 そういえば、この憐れな弟と遊んだことがあったであろうか? この者はどう暮らしていたのか? 実際、兄弟とも思っていなかった気さえする。酷く邪魔者扱いされていたのだ。そうしたことをつらつらと思い起こした。
 弟が仏門に入り、この屋敷を去ってからは、すっかり忘れ去っていたのだ。元服の折、叙位・除目の折、そして結婚の折に、他の兄弟を意識し、比べることはあっても、この者だけは思い出すこともなかった。
 そして、心の中で若者の異母兄は密かに思った。
 哀れよ、また行き場を無くしたか・・・と。
 そして、もう一言二言、気のないありきたりの挨拶を交わすと、男は釣殿を去っていった。
 無関心・・・今、この男の心を表現するならば、これが最適であった。
 この男こそ、後の中納言である。

 男が去ると、碁の相手を務める大納言は言った。
「さぁ、佐為殿、続きを打とうではないか。私などでは相手は務まらぬが、教えて頂くのにこちらは申し分ない。ニの姫が碁が好きなのだ。帰って姫の相手をしなければならぬ」
「そうでしたか」
 還俗したばかりの佐為は嬉しそうに笑った。
「姫君はおいくつですか?」
「いやいや、まだほんの子ども。しかしうちは娘ばかりなのだ。男子が生まれぬ」
「めでたき姫というではありませんか。男君も必ず授かりましょう」
「そうだといいのだが、ふふ。そうだ、男子が生まれたら、そなたに碁を教えて貰うとしよう、碁は男子にとっては大事な教養であるからな」
「幼い子は好きです。私でよろしければ、なんなりと」
「では頼むぞ」
 こう笑って言った大納言は、後に左大臣となる運命だった。

 この日の夕刻、佐為は屋敷の主である関白に呼ばれた。父である。
 すると不思議なことが起きた。
 挨拶もろくに交わさぬうちから、父の関白が怒り出したのである。
 言葉よりも先に、あるものが関白の目に入ったからだった。
 それは佐為が耳に着けていた小さな赤い石であった。
「どうして、そなたがそれを持っている!?」
 父は憤怒に満ちた表情をしていた。石は母のものだという。ずっと探していたのだと。
 佐為は酷く驚いたが、必死に説明した。耳に着けた石が母のものだと言われても、覚えがない。これは師から授かり受けたものだと。
 しかし、異常なまでに怒りを露わにした父はこの夜、取り付く島もなかった。
 佐為は思った。やはり、この家に自分の居場所は無い。今一度、出家の許しを師に請いたい。
 翌日気を取り直したのか、関白は佐為を呼び、告げた。
 還俗した今、某かの官職に就くようにと。しかし、佐為は拒んだ。自分はひたすら、碁を打ち、棋法を修めたい。再び出家の許しを請いたいと。
 だが、父はこう言った。
「よかろう、碁を打ちたいというのなら、そなたの自由にするが良い。だが出家する必要はない。そなたには家と荘園がある」
 佐為は驚いて答えた。
「頂戴する訳には参りません」
「そなたに与えるのではない。かつてそなたの母に与えたものだ。母の遺産は、そなたのものである」
 関白の立場なら、妾妻の子と云えども還俗したばかりの佐為がしかるべき位階に叙されるように仕向けることは容易かった。官職に就かずとも、公卿の子であれば、位は叙されるのである。だが、任官する意思の無い佐為のことを、関白は公に知らしめることをしなかった。その為に長い間、帝は佐為の還俗を知ることがなかったのである。

 ところでこの財産分与は、婉曲な決別を意味していた。
 その後、父が子に言葉を掛けることは無かった。
 無視と無関心は、時に身体的暴力に匹敵する痛みをもたらす。師や兄弟子と別れた佐為を再び待っていたのは、計り知れない孤独であった。
 彼はひたすら棋法の研究に明け暮れることになる。



 そして、季節は巡った。
 何年もの後。
 佐為が譲り受けた屋敷には一人の少年が居た。
 天真爛漫な少年だった。
 しかし、この少年は初めのうち、ごくごく愚かであった。
 少年は自らの愚かしい行動から、都を追放になり、大宰府に送られた。
 ところが佐為は、この愚かな少年の為に命を削った。
 手痛い代償を払って少年を都に連れ戻した。
 さて、何故彼はそうしたのか。
 答えや如何     



「ある時のことです。碁が強いという東山に住む僧都に、求めて対局したことがありました」
 佐為は光に語った。
「で?」
「最初の対局は負けました。僧都は強かったのです。しかし、後に再び、その東山の僧都に二子多く置いて対局し、勝ちました」
「二子で? その後は置石の差なしにしなかったのか?」
「二回程、対局しました。僧都は、また私に二子多く置くように言いましたが、請うて二子は無しの先番で」
「じゃ、ずっと佐為は先番?」
「僧都には誇りがあったのでしょう。私に後番を譲りませんでした」
「で?」
「その二回とも私が勝ちました」
「その僧都はそれからどうしたの?」
「僧都は、会ってくださらなくなりました。」
「どうして!?」
「文を差し上げると、ご病気というお返事が返されました」
「おまえは信じていないのだな?」
「そういうことは自然と伝わるものです。もうお亡くなりになったと聞き及んでいます。結局、後番を許しては頂けないままでした」
「ふーん・・・」
「ですが、今度は右大臣家に召されていた律師と碁を打つ機会がありました。
 実は、右大臣殿といえば、その昔、私が出家する前に対局をして、負かしてしまったことがあったのです。まさかとは思いましたが、どうも右大臣殿はそのことを未だ根に持たれていたようで・・・」
「出家前って、おまえ、子どもだろ?」
「十一の時でした。人前で童子に負かされ、恥をかかされたと、そのように思われたのです」
「で、右大臣家の律師とは?」
「その因縁なのか、右大臣家に召されていた律師は、勝負がつく前に決まって打ち掛けになさるのです。しかも私が打った後にです。打ち掛けは一度ならず続き、長い対局の最後には結局、私は負けました」
「なんだって!?」
「これがどういうことだか分かりますか? 光」
「戦いに応じないのは臆病だし、打ち掛けにするのは卑怯だ」
 少年は迷わず言い放った。
「ふふふ、手厳しいですね」
「だってそうだろ。いつも相手の番で打ち掛けにされたら、圧倒的に不利じゃないか」
「確かにその通りです。あのようにいつもいつも打ち掛けにされなければ、私は勝てた。自分の手番で終わるのだから、次に私と打つまでの時間がそのまま相手には与えられるが、私には皆無です。そして、強いとされた者がその強さを保つのに、簡単な方法があります」
「簡単な方法?」
「追う者とは戦わぬことです。自らの上位を保つ唯一の方法があるとしたら、それは打たないことです。分かりますか?」
「ああ、分かるよ。だから臆病だし、卑怯と言ったんだ。おまえに後番を許さなかった僧都は、先番で打っても負けることを怖れたのだろう。そして、右大臣家の律師の態度は傲慢で勝手だ。顕忠殿もそうだ。おまえと打たない」
「顕忠殿は、東山の僧都から碁の教えを受けたと聞いています。弟子が師に似るのは世のならいです」
「どうして、碁を打つものが・・・しかも強い者がそんな風に臆病になるのだろう?」
「人の心は移ろいやすい。碁盤を前にした瞬間は清らかであっても、碁盤の前を離れ、自らの足許をすくわれるかもしれないような危機に出逢うと、そのような行動をとる者は意外と多いものです。右大臣家の後ろ盾とは大きなものでした。何の地位も力も持たない私に発言権は無いに等しかったのです」
「では、今のおまえは、その頃のおまえとは随分違うのだな・・・おまえは今、侍棋だ。誰もおまえに逆らえない」
「囲碁に於いては、ね。
 確かに、対局の決まりを一方的に決められるような屈辱はもうありません。行洋殿に後ろ盾が必要だと説かれました。対等に相対するには、高位に就かねばならぬと。そして、長らく空席にあった侍棋に就くようにと提案されたのです」
「でも、おまえはそれは嫌だったのだろう?」
「力のある地位に就けば、人は利害で動くようになる。実際、その通りでした。侍棋となった後は、人は私に優しい言葉を掛けるようになった。だが人は私に優しいのではなく、帝の傍近くに伺候する私を好むだけなのです」
「確かにそうかもしれないが、それだけじゃないだろう。おまえは人に好かれるんだ」
「そう言って貰えて嬉しいですよ、光」
 佐為は光に微笑んだ。そして続けた。
「短かったかもしれないが、宮廷の官人たちの欺瞞から遠く離れ、師と共にただ、碁の為に碁を打つことが出来ました。師なき後もまたそのように、生きて行きたいと強く望みました。しかし、時は至ったと、行洋殿がおっしゃいました。今こそ、しかるべき地位を得、後ろ盾を作るべき時だと」
「それで、おまえは宮廷に戻ったという訳か。殿上童だったのだろう?」
「ええ・・・楊海殿に聞いたのでしたね」
「楊海殿が棋待詔になったのも同じような理由だろう? 楊海殿は自分の理想を実現する為に皇帝の力が必要だったんだ」
「そうです。光、碁の理論を追及し、高め、後の世に伝えることは、今の私に出来る最善の行動の一つかもしれぬと思います」
「だけどおまえは言ってた。人知の及ばぬ未来を憂うよりも、今最善を尽くしたいと」
「確かにそうだが・・・光。常に世の中は変わる。自分の周りも変わる。その時々に最善策を探し、尽くさねば・・・」
 光は思い起こした。
 佐為に今、相対する等しい技量を持った碁士が居ないのではないかという疑問を。
 そして、自ずと今佐為が置かれた状況に思いが至った。都に帰ってきてから、いや、それ以前から少しづつ育っていた考えがあった。それを認めるのは光にとって苦々しいことに他ならなかった。自分の過ちを深く見つめることでもあったからだ。だが、それは自らの中で既に疑う余地の無いものになっていた。
 ひとりでに確信は言葉となって口から滑り出していった。
「オレは思うよ、佐為。おまえが侍棋に就いたのは正しかった、おまえには・・・帝の力が必要だった・・・そうだろう?」
「・・・そうです」
 佐為は答えた。そして庭のもみじに目を遣った。深秋の空気がもう肌に染みる。紅く色づいた椛の葉がはらりと舞い落ち、いつしか庭に紅い毛氈を敷いていた。
 光は言った。
「佐為、オレはなんて愚かで小さい人間だったんだろう」
「光?」
「オレは大宰府に行ってからも暫くは、こんな気持ちにはなれなかった。ひたすら悔しくて、頭に来て、悔いるなどということとは無縁だった。だけど今、本当の意味で後悔している。すまなかった、佐為。オレは愚かだった。なのにおまえはこんなオレをよくも大事にしてくれるな」
「何度も言っている、光。あなたが内大臣殿に言った言葉に、私は心で泣いたのだと」
「分かっているだろう? 後悔しているのは、そのことではないよ」
「ええ・・・分かっています」
 佐為の声は優しかった。
 だが、光は黙って俯いていた。そして拳を握り締めていた。握り締めた拳は少し震えていた。
「おまえは何かを探しているのか?」
「ええ、ずっと探していた・・」
「それは見つからないのだろう?」
「見つからなかった。探して探して・・・ずっと探し続けている。ずっと求め続けている。楊海殿がもたらした幾つもの対局の記録を貪るように見ました。
 だが、いまだ見つからない」
「これから先、見つかるだろうか?」
「それは分からない、私にも。未だあいまみえた事の無い者の方がこの世界には多いのです」
「楊海殿が言っていた。この世界は広すぎる。人間の一生は短かすぎる、って」
「まったくその通りかもしれません」
「何か、この世界をもっと狭くし・・・あ、狭くするとは凝縮する、という意味だと。そして、人間の一生をもっと長くはできないものかと。そうも言っていた」
「面白い人だ。大真面目にいつも、そうしたことを考えている」
「おまえはどう思う?」
「私は、光。楊海殿ほど、遠くばかりを見ることが出来ません。ただ、師の言葉を信じます。何故なら、この世の中は分からないことだらけだから」
「オレもだ。オレにも分からないことだらけだ。おまえが分からないことをオレが分かる訳がない。
老師様の言葉をもっとオレも知りたい」
「では、あなたに今、伝えるべき師の言葉がある」
「それは何だ?」
「あなたにかつて言いましたね。師の言葉を」
「ああ、聞いた。覚えている。こうだ。
『此の朝 此の世界、汝が天地たり
願はくは国内にて善く其の命を全うせよ
定めて、汝の修ぜむ生業は、
千秋の程を経、千重の波を分け、四海に及ぶべし』
 この言葉は胸に刻んだんだ」
「その言葉には続きがあると言ったはずです」
「覚えている。では教えてくれるのか? どんな言葉なんだ?」
「こうです、光。
『汝が天地にて 強き者無くんば、何ぞ強き者を作らざることか之れあらん』と」
 光は雷に打たれたような気がした。しかし、それは静かなる雷鳴だった。光は落ち着いた、低い声で佐為が告げた言葉を復唱した。
「強き者無くんば・・・・何ぞ・・・強き者を作らざることか・・・之れあらん・・・」
「碁打ちは何も、自分を強くすることだけを願うものではありません。碁は一人では打てません。だから、強い相手が要るのです。強い碁打ちが居なければ、強い碁打ちを育てるのです。あなたなら、いえ、あなただからこそ、よく分かるはずです。そして、私はいつか見出だす、私の求める強き者を」
 光は、佐為の瞳を真っ直ぐに見つめた。
 親が死に、大海に投げ出された。しかし、迷いはない。
 小船には世にも屈強で信じるに足る羅針盤があった。
 この師を護り、そして応えねばならない。
 光は今、改めてそう思ったのだった。

−涼風 終−


 つづく

 

*作中の老師の言葉は幽べるさんに古語訳して頂きました。ありがとうございました。

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