物病み

 

 それは寒さが増した師走の夜のことだった。
 光は朱雀大路に近い八条にある物寂しい小路に居た。この近辺で最近、物盗りが横行している。
「今夜は無事そうだな」
 基頼が言った。
「油断は禁物だぞ」
 光は言い返した。
「大丈夫、何も起こらんさ」
「いや、そんなことはなさそうだ、おいっ」
 光は基頼の腕を掴み、小路の端にある土塀と土塀の間に隠れた。
「なんだよ?」
「ほら、見てみろ」
「あ! 誰か、逃げてくる!?」
 すると闇をつんざくような女の悲鳴が夜の小路に轟いた。
「おいっ! まずい!」
 光と基頼は、土塀の陰から小路に飛び出した。すると、目の前を女が走り抜けて行く。しかし、必死に走ってきた女はつまずき転んでしまった。後からは数人の追手。
 光は、倒れた女を庇うように追手の前に立ちはだかった。
「おまえ達、何者だ!? 物盗りか!?」
 光は剣を抜いた。追手の男たちは多勢だった。男達は光と基頼に襲い掛かったが、若くても二人の武官は意外に強かった。
「ふん、童子のような顔をした検非違使め!」
 そう言うと、怪しい男達は小路を引き返していった。
「おい、追おう!」
 基頼は光に言った。しかし、この時、光は背後の意外な気配に気付いた。
「待て、この人たちを放っては行けないだろう?」
「この人たち? 女一人じゃないか」
「いや・・・」
 すると今度は基頼にも聞こえた。聞こえたのは赤子の泣く声だった。驚いたことに、逃げてきた女は赤子を抱いていた。光は女と赤子に歩み寄り、跪いて話し掛けた。
「大丈夫か? なんでこんな夜更けに外を出歩いているんだ? しかも乳飲み子を抱いて・・・? ここは羅城門も、朱雀大路も近い。しかも真夜中だ。こんな物騒なところに、女子どもが近づくなんて信じられない! 何を考えているんだ。この近辺が物騒なのは知っているだろう?」
 光は知らずに声を荒げていた。怒気に満ちた言葉を浴びせられて、女はすっかり萎縮してしまったようだ。震えて何も答えない。
「まぁまぁ、怪我はないか? この人たちを送ってやろうじゃないか、近衛」
 星も見えない暗い夜だ。まして女は目深に被衣かつぎを被っていて顔が見えない。自分は倒れて転んだというのに、尚も大事そうに女が抱いているのはまだ小さな赤ん坊だ。顔を真っ赤にして泣いている。
 女はやっと弱々しい声で答えた。
「あ・・・・・あの、お役人様・・・有り難うございます・・本当に助かりました。下男が一人一緒に居たのですが・・・。何処へ行ったやら。さっきの恐ろしい男達に追われてはぐれてしまいました」
「はぐれた男が居るのか? にしても下男が一人じゃ心もとないに決まっている。どうして、こんな夜中に!? 命が惜しかったら、羅城門や、朱雀通りには近づくな」
 しかし、女はしくしくと泣き始めて、光の問いには答えようとしなかった。
「おい、そう責めるなよ。何か訳があるんだろう。とにかく、この人たちを家に送ろう。話はそれからだ」
 しかし、光は何かおかしな感じがしていた。どうもこの女をどこかで見たことがあるような気がしていた。気になるが、この場は諦め、光は家まで送ることに同意した。
「そうだな、じゃぁそうしよう」
 光と基頼は、乳飲み子を抱いた女の案内する先へと付いていった。
 女はあまり事情を話したがらない様子だったが、先ほどの夜盗には怯えきったのか、検非違使たちの護送は拒まなかった。
 女が向かった家はそう遠くはなかった。案内する家に着くと、光は再度尋ねた。
「おい、どうしてこんな夜更けにあんな場所をうろついていたんだ!? 今日のようなことになったら、その赤子の命だって無かったかもしれないんだぞ」
「そうだな、確かに女があんなところをうろつくもんじゃない。あんた、やられた上にみぐるみ剥がされてたぜ、その赤子は売り飛ばされたかもな」
 基頼の言葉に、女はますます萎縮してしまった。
「基頼! おまえの方がよっぽど言い方きついじゃねーか!? さっきあんな風に言ったくせに」
「だが、本当のことだ・・・オレは亡骸になったこの人と赤ん坊をを賀茂川に運ぶより、この家に送れて本当にほっとしているんだ」 
 基頼の言うことは本当だ。辻で、家を持たない乞食女が襲われることなど日常茶飯事。光は嫌な光景を何度も見た。佐為の屋敷の内側は平穏で居心地がいいが、都の外れにはそんな荒れた出来事は珍しくはない。光にもそれは充分に分かっていた。
 しかし女はまた泣き出し、なかなか理由を話そうとはしなかった。
 それにしてもどうも、気になる、この女・・・と、光は思った。 
「もういいじゃないか。無事だったし、さぁ、行こう」
 基頼は光に言った。
 しかしこの時、奥から聞き覚えのある声がした。
「若、若じゃありませんか!?」
 光は面食らった。
「・・・・・・三津! どうして!?」
 奥から出てきたのは乳母の三津だったのだ。
「じゃ、じゃぁ・・・!? もしかしておまえ」
 この時、光は先ほどから感じていたどうもおかしい感じの正体が分かった。
 そうかそういうことだったのか・・・。泣いていた女は被衣を脱いで顔を上げた。
 ああ、やはり。女は光の乳母子めのとごだ。どうりで見覚えがあるはずである。
 ここは、乳母の三津が都に帰ってきてから住んでいる家だった。昔の家とは違う。だから、光にも分からなかった。

 
そして光に偶然出逢った乳母子の三由みゆ。光は幼い頃と違い、すっかり背も伸び、立派な若者になっていた。三由も気付かなかったのである。
 懐かしい再会を終えると、今宵なぜ三由が奇妙な夜歩きをしていたのか、光は改めて尋ねた。そして訳を聞かされた。話を聞き終えると、光はため息をついた。
「そうか、そんなことが・・・」
 光は自分とは縁の無い話にうな垂れた。が、少し間を置くと、何か名案が浮かんだというように、顔を上げ、手をぽんと叩いた。
「もっと早くオレに言ってくれれば良かったのに!」
 どういう訳か、光は胸を張ってそう言ったのだった。



 そして、次の日のことである。
 佐為の屋敷の寝殿には、ついぞ聞かれたことのない、初々しい赤子の泣き声が響いた。赤子の泣き声、それはこの屋敷の主が赤子だった時以来、久しく屋敷に絶えて無かったものである。久方ぶりにもたらされた新しい命のほとばしりだった。
「可愛いですよ、ほら、光も抱いてご覧」
 屋敷の主はこれ以上ないほど柔和な笑みを浮かべていた。腕には赤子を抱いている。
「いいよ、オレは! どう持っていいか分からない。泣かれたらやだから、おまえが抱いてろ」
「ふふ、光はつれないですね。赤子は柔らかくて、温かくて、笑っても泣いても、こんなにも愛らしいものだというのに」
「そうかぁ?」
 光は気のない返事をした。
「それにしても、今朝、光がここに赤子を連れてきたときには驚きましたよ。しかも、この子は顔を火のように真っ赤にして酷い高熱にうなされていた。五十日も百日もせっかく無事に過ぎた命、今になって失われることがあっては母君も堪らないでしょう。本当に良かった、本当に。見違えるように、元気になって・・・安心しました。・・・次は三歳を迎えるまで健やかでいるといい」
 最後は独り言にように囁き、そしてまた彼は微笑んだ。光は思わず瞳を細めた。

 
ああ知っている、彼の言葉は全て本心なのだ。「慈しみ」という言葉は、この微笑みにこそ相応しいに違いない。
 
そして光は、彼の優しい瞳にしばし捕まった。瞬くことさえ忘れてしまったかのように。視線を逸らすことが出来ずにいた。どう表現したらいいだろう。こんな顔は見たことがない、そう思ったのだ。
 光は、新たに彼の美しさを発見したような気がした。何ともいえない恍惚に包まれた。しかし同時に、得体の知れない感情が沸き起こった。光は無意識に奥歯を噛んだ。
 そしてふいに、座を立った。いつもは立てないような音を立てて。
 それでも佐為は気に留める様子もなく、赤子を抱いて笑っていた。光はそんな彼をよそ目に、東の対へ向かって歩いていった。

 何に心乱されているというのだろう?
 今更、・・・あんな赤子にまで? 違う・・・・・そんなことは小さいことなんだ。

 
ああ・・・ただ・・・・・・
 渡殿の床を鳴らしながら歩いていた。自分の部屋に行くと、光は腰を下ろし、瞳を閉じた。
 すると、几帳の陰から声がした。
「やぁ、お邪魔しているよ」
「なんだ、賀茂! 来てたのか!? びっくりするじゃないか」
 光は面食らって叫んだ。
「ごめん、ああいう雰囲気は苦手でね。こちらで待たせて貰ったよ。しかし、それにしてもキミはもう少し静かに歩けないのか?」
「いちいちうるさいな、おまえ! それで・・・、そんなことより呪詛返しは上手く行ったんだろうな? おまえの言う通りにしたんだぜ。ただ高熱でうなされてた赤ん坊を見て、佐為のやつ、酷く心配してさ・・・薬師を呼んだんだ。これは予定外だけど、あいつが『薬師を呼んだって、明殿の邪魔になるとは思えない』って。『尽くせる手は尽くすに越したことがない』、そう言うんだ」
「それは別にいいよ。佐為殿には申し訳なかったが・・・。結果的には赤子の容態は良くなったようだし、問題はないだろう」
「じゃぁ、これで良かったんだな?」
「一応はね。首尾よく行ったと思う。今回はこれで治まるはずだ。しかし・・・」
「しかし?」
「一度鬼になった女は怖いからな。これで万事が治まるとは思えないんだ。あくまで今回のことは臨時の策だよ」
「臨時の策!? これが・・・。おまえの言った通りの方角。つまりこの屋敷がちょうど都合よくその方角だった、それでここにあの赤子を方違えさせた。そして、おまえに呪詛返しをしてもらった。そんなこんなでオレは昨日の夜から全く寝てないんだ! いい加減疲れたぜ、大ごとだったんだからな!」
「ああ、キミがあの赤子とキミの乳母子の乳母・・・なんだかややこしいな、つまりあの赤子と乳母の三由殿を連れて、ボクのところに来たときは驚いたよ。しかも、赤子はあかりの君の子だというじゃないか」
 明はふうと息をついた。
 ことの顛末はこうだった。
 そもそもそれは光の幼馴染のあかりが常陸国守と結婚したことに始まる。
 既に光が三津によって知らされた通り、あかりの夫である常陸国守は流行り病で亡くなっていた。あかりが子を産んで間もない頃だという。夫を失ったあかりは子と共に、常陸国から都に帰ってきていた。しかし、独り身となった彼女は、常陸国守が世話になっていた左大臣家の口利きで、東宮妃である夕星女御に仕えるようになっていた。今はご在所である淑景舎に出仕している。まだ乳飲み子である赤子は光の乳母子の三由に預けられていたのだ。その三由はあかりの子の世話をする為に、あかりの里の家に居たのだが・・・。どういう訳か、そのあかりの家から深夜、自分の実家へと移動しようとしていた。それが、昨夜の騒動である。乳飲み子を抱えた上に徒歩で、深夜ぶっそうな朱雀通りに近い小路を行ったのである。物盗りに遭わない方が稀だ、と光は怒った。
 ところが、これには事情があるのだと、三由は必死に弁解を始めた。
「あかり様の御夫君、亡くなった常陸国守様はそれはそれはあかり様を大事にしてらして・・・北の方とは折り合いが悪かったのです。それがこともあろうか、遺言まで遺されて・・・あかり様のお子に都の家屋敷をお譲りになると。すべてではありませんが・・・私財の多くもです」
受領ずりょうの財力は都の貧乏貴族に比べたら、凄いものがあるからね」
 明は口を挟んだ。 
「そうなのです、常陸国守様は、国で蓄えた富を左大臣様に貢いでおいででした。次の除目では、今度こそ都の官職に就けるに違いないと、それは期待してらしたのです」
「ふう・・・ん、そういうものか」
 光はそっけなく言った。しかし同時に大宰府の富を思い出していた。大宰府の富も同じように都にもたらされていたのだ。どこかの大臣の懐に入るべく。
「都の公卿たちが裕福なのは、豊かな地方役人が少しでも都の高位高官の立場を求めて、私財を貢ぐからだよ。佐為殿の父君のところへなど、除目の迫ったこの時期、ひっきりなしに荷を積んだ車が往来している」
「・・・・・・」
 ああ、そうなのだろう。佐為があの父君と相容れないのがよく解る。光は明の言葉を聞きながら思った。
「佐為殿のような人は特別だ。近衛、世の中とはそういうものだよ」
 光の心を読み取ったように、明は冷めた声で言った。
「すべて、取引って訳か?」
「ある意味そうだな。何らかの働きに対してはそれ相応の報酬がある。これは全てに通ずることだ」
「能力以上の見返りを期待して貢ぐのも働きだっていうのか?」
「能力以上・・・? 語弊があるな。それだけじゃない、家柄以上・・・というべきだよ。むしろこの方が大きい。権門にあらざる者が高官に就くにはどうしたらいい?」
「・・・それは・・・分かる。だが、哀しいな、賀茂。この世の中には、無償のものがあっちゃおかしいんだろうか?」
 無償、そうだ、少なくとも、ここにはある! 光は胸の内でそう叫んだ。
「勘違いするな。見返りを望まない・・・そういうものがあったら、おかしいなんてボクは言っていない」
 ・・・キミがそう言えるのは・・・キミがそれを享受しているからだ。自らが知り及ばないことなど、人に言うことは出来ない・・・ キミには分かっているのだろうか。
 だが、明は光ではなく、三由の抱く赤子を指して言った。
「・・・ほら、この子を見るがいい。例えば親が子に向ける愛情は、代償など望まないだろう? あかりの君はきっとこの子の為なら、何でもできるのじゃないかな」
「ああ・・・」
「話が逸れたな。今は三由殿の話だ。それで、常陸国守の遺言が問題だったのですね」
「そうなのです。北の方が大層お怒りになられて・・・あかり様のお子に呪詛をなさっているのです」
「ふーん、なるほどね。よくある話だ」
「おまえ、冷めてるな、本当に」
「いや、ボクはこれが生業だからね。キミみたいにいちいち怒ったり、腹を立てたりはしていられないんだ」
「おまえ、ほんとに癇に障る言い方するな!」
 だが、明は気にせず続けた。
「それで、原因不明の病に掛かった赤子をなんとかしようと、陰陽師に相談したら、昨日の丑の刻に場所違えするようにと言われた。だがあいにく夜盗に襲われたという訳だね?」
「おっしゃる通りです。あかり様の子が毎晩熱を出されて・・・それは心配で・・・一刻も早くなんとかしなければと居ても立ってもいられなかったのです」
「で、もっと頼りになる陰陽師のところへ連れていってやるって、オレが言ったって訳さ」
「それは光栄だな」
 明は努めて無表情に言った。だが、ふと目許が優しく光ったと感じたのは三由だけだった。
 そして、今あかりの子が三由と共に佐為の屋敷に方違えしているのだ。赤子は明の呪詛返しのお陰で、今は熱が引き、元気を取り戻していた。 
 寝殿には三由が残り、赤子の世話をしている。佐為はその傍を離れなかった。東の対に居る光と明は、寝殿の方から聞こえる赤子の笑い声を聞きながら話していた。
「あかり・・・心配しているだろうな」
 光がぽつんと言った。
「あかりの君は、宮中を退出してこないのか? 我が子の一大事だろう?」
「遣いを遣ったとは聞いている」
「そうか」
「それにしても、何も罪のない赤子を苦しめなくてもいいのにな・・・どうしてそんなに人が憎くなってしまうんだろうな、賀茂?」
「キミは・・・やっぱりキミだな」
「はぁ?」
「いや、ボクは別にキミみたいに人の憎しみを奇奇怪怪には思わない・・・そういうことだよ。三由殿の話をちょっと聞けば、直ぐに納得できる話じゃないか。常陸国守殿の北の方の気持ちはむしろ、よく分かると言っていい。そもそも・・・新しい妻に夫の気持ちを奪われた古い妻、というだけで、充分哀れだ。ましてや、その夫は死んだ後まで、新しい妻の肩を持つんだ。恨んで当然だろう。むしろ人情のような気さえするよ」
「・・・そうだ・・・そうだったな・・・佐為の母上も恨まれた。父君の北の方から・・・」
「憎しみや怒りや嫉妬は何処にだってある。呪詛が横行するのも不思議じゃない。直接手を下さずに人を苦しめることが出来る方法だからね。こんなにいい方法もないだろう」
「おまえは、呪詛を肯定するのか?」
「いやそうじゃない、呪詛とはこういうものだと説明しているだけだ。頼りを無くした女が、死んだ夫にさらに苦しめられているんだ。その哀れな女が、他人の目を逃れて、密かに恨みを晴らすとしたら、自分が生霊になるか・・・あるいは人に頼んで呪詛をするか・・・。単純に、北の方を責める気にもなれない・・・そういうことだ」
 そしてこう付け加えた。
「キミが馴染みのあるあかりの君の・・・いや、ましてや佐為殿の母君の肩を持つのはよく分かる。それこそ人情というものだろう」
 光は明の最後の言葉にいくらかばつの悪さを覚えた。そして意識して言い方を変えた。
「・・・呪詛をした人間の痛みも分かる、か。それでもおまえだって、呪詛返しをしてくれたじゃないか?」
「それは、呪詛をそのまま放っておく訳には行かないからだ、だが根本的な解決にはならないだろうな。そこが難しい」
 明の言葉を聞いて光は思った。
 確かに賀茂の言う通りだ。死んだ常陸国守の北の方は哀れだ。そして、佐為や佐為の母君を憎んだ義母君も・・・。
 だがかといって、罪も無い赤子の命を脅かすことが正しいとは思えない。あかりだって幼子を産んだばかりなのに、夫に死なれてさぞや心細いだろう。
 人の心は難しい・・・どうしたら北の方の怨讐はしずまるのだろう?
 どうしたら、人が抱く怨讐は・・・、憎しみは・・・、怒りは・・・消えるのだろう?
 分からないよ、佐為・・・
 なぁ、おまえ、そうやって人の赤子を抱いて、幸せそうに笑ってるけど・・・
 どこかで病んでいる人が必ず居る。
 どうしたら、人の恨みや憎しみや怒りは治まるのだろう・・・なぁ、佐為?


 つづく

 

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