燻炎一
平安の御世に、窮乏官吏の家に生まれた一人の男が居た。
菅原顕忠。
彼は胸の内を、明るい日の下に分かち合う者が居ないという意味で、孤独だった。
ある時よりこのかた、常にその胸の内側は熱し、真黒な煙を上げていた。
そこにあるのは、じっくりと確かに身を焼きゆく焔だった。
種火が付いたのは、何時頃だったか。
随分と昔だった気がする。
さて、彼は学問の家柄の傍流に生まれたが、苦学した。
氏の私学ではなく、大学寮に入った。その大学寮に入るのも父君の位階が低い為に試験を通らねばならなかった。
しかし、彼には学問で身を立てるより他に方途は無かった。こと学問においては類稀なる才気を発していた為でもあろう。修学により身をおこすことは、より強い顕忠の信念となっていた。
そんな愚直な男が任官を目指し、及第点を取る為に、必死に紀伝道(文学科)を学んでいた頃。
一人の美しい童子が内裏に殿上童として上がった。
文学科の学寮生の間でたまたまこの話題が上った。
「まことに、蔭位(上流貴族の子には一定の位階が授けられるという特権制度)の故か、名家の御子弟は優雅なものよ」
「容姿端麗にして、碁が得意とか」
「特にその殿上童を、帝がお気に召していると聞く」
「碁なら、我らが文章生の首席殿も得意であろう」
「今上の帝は芸術に通じておられる。見目麗しいものを万事にお好みだ。いくら公卿の子弟であっても、蔵人は美しくないとなれないと聞いている」
「くく、それなら、首席殿では歯が立たぬ」
「確かに・・そうであるな」
そんな囁きを、顕忠は耳にした。
彼は聞こえぬふりをしたが、実際は、猛烈に耳をそばだてていた。
そういう男だった。この男は愚直で学問の虫であったため、あまり遊興に感心を示さなかった。その硬さを敬遠する者も多く、友と呼べる者は少なかった。しかし、稀に友人を得ることがあった。この男の学識の深さと、文人としての才能に、目を見張る者である。よって、友はいつも類なるものであった。同じ類の友は、男の作る漢詩文に感嘆し、汲めども尽きぬ、漢籍の知識に唸るのである。
教養高き今上の帝が、一方で好むという雅こそ欠如していたが、男にも確かに美徳があったのである。
顕忠はやがて、その学識の深さを買われた。後に従五位に叙され、文章博士となった。さらに高位である大学頭も兼任した。評議の場で内大臣の強い推挙があったことも大きかったが、男自身に相当する学問の力が無ければ到底無理な話である。
そして、さらに機会は巡ってきた。
長らく空席であった侍棋の任に就けるというのだ。
侍棋・・・帝の傍近くに伺候し、碁を打つ役目。名誉な肩書きであり、役目である。
待ちに待った帝の御前。
まだいくらか桜の花びらの残る季節。
愚直に地道に、官位を上げてきた菅原顕忠は、侍棋として昇殿した。
帝に囲碁を指南したり、帝の御前で囲碁を打つ役目である「侍棋」。この役目はしばらく空席であったことでも分かるように、正式な官ではなく、臨時の「お役目」のようなものである。したがって当代の帝や東宮の、碁への造詣の如何に大きく左右されるものだった。
その為、任命の儀も除目のように正式で硬いものではない。しかし、にもかかわらず、帝自らご臨席、公卿が居並ぶ、という威容。蔵人頭が、御簾の奥の帝の代わりに宣旨を読み上げる。
顕忠は帝の傍近くに伺候し、帝に教授する立場になる日が来ようとは思ってもみなかった。
心躍る栄誉である。
しかし・・・。
そのやっと巡ってきた栄達への陶酔を、いくらか、いやかなり削ぎ落とす、あるものがこの場を穢していた。
「ああ、隣にこの男さえ居なければ」顕忠はそう思わずにいられなかった。
『まことに蔭位の故か、名家の御子弟は優雅なものよ』
遠い日に耳をそばだてて聴いた、大学寮の学生たちの声が頭をよぎった。
苦労して得た、従五位の上。この隣の男は、今まで官位が無かったにも拘わらず、侍棋に任命されるをもって、今の自分と同じ位階を得たのである。今までどんな風に生きてきたにせよ、正一位の父を持つからである。
それだけではない。横に並ぶには甚だ癇に障るものがあった。それは隣の男の容姿の故である。まさしく『見目麗しい』男だった。
顕忠は、この男の容姿が女の心を掴むのをよく知っていた。男としての自分の顔を潰された、数年前の不幸な出来事以来、この男の容貌が気に食わなかった。
さてここまでならば、まだしも、であったのだ。
侍棋が顕忠だけでなく、二人となってしまい、思惑の狂った内大臣は、居並ぶ公卿や、帝の御前でこのように言った。
「長年の間、適任者の居なかった『侍棋』の役目にあたう知恵者の出現、まことに喜ばしきことにございます。まずは一番目に侍棋と定まりました菅原顕忠大学頭。そして、それだけではなく、二番目にその役を担う者が居ようとは・・・・・・」
内大臣の話は長くはなかったが、長くはないその話の中に、二番目という言葉が三回程登場した。内大臣が話し終えると、普段は寡黙な太政大臣が何かを言いかけた。
しかし、その時だった。
御簾の向こう、帝の御座から、声が響いた。
「内大臣よ」
「はい」
「二番目ではない」
「・・・・・は?」
「『二番目』ではない、と言ったのだ」
「・・・・・いえ、しかし事の経緯は・・・」
「『二人目』である」
それで、内大臣は顔を真っ赤にして黙ってしまった。
太政大臣は口を挟む必要が無くなってしまった。
顕忠は、黙っていた。隣の男も黙っていた。
しかし、二人の男の胸の内は大きく違ったに違いない。
顕忠はこの日、自邸に帰ると「くそっ!」と叫ぶや、扇を床に叩きつけた。
もう一人の侍棋・佐為はというと、さてどうであったか。・・・・・内大臣の言い方をすれば「二番目の」、帝の言い方に倣うなら「二人目の」侍棋である。
彼は屋敷に帰りつくと、ずっと同行していた少年にこう言った。
「光、今日は慣れないことをして肩が凝りました。何とかしてください」
少年は答えた。
「また肩揉めってか? ま、いいけどさ。それにしてもおまえ、昇殿することが多くなるから、そういうきちんとした格好にも慣れねーとな。さっきみたいに転ぶなよ」
すると侍棋の青年は怖い顔をして言った。
「光、わざと私の裾(束帯姿の時に後ろにひきずる部分)を踏んだくせに! 分かってるんですよ!」
「はは、ばれてたんだ」
「あったり前です。光、今日という今日は許しません! また私にあざを作ってくれましたね」
「だって佐為、おもしれーようにひっかかるんだもん。可笑しくってやめられねーよ」
「光っ」
佐為は先ほどよりもっと怖い顔をして光を睨んだ。
「わ、わかった、わかった。ごめんごめん。悪かったよ。で、今日はどうだった?」
「今日・・・ですか?」
「そうだよ、だから今日どうだった?って。帝に何か言葉を掛けられたりとかしたか?」
「いえ、特に私にという訳では・・・」
「なんだよ、じゃぁ、他には? どんなだったんだよ?」
「そうですねぇ・・・光に話して面白いようなことは何もありませんでしたよ」
「ふーん、つまんねぇな」
「それにしても、たまりませんね」
「何が?」
「針のむしろのようでした。公卿方の目がぎらぎらと・・・私はやはりあのような場は慣れません。不慣れな為に、粗相をしないようにと、そればかりに気をとられていました。おまけに内大臣殿の話は、ちっとも興味を惹かれるような内容ではありませんでしたし・・・実はよく覚えていないのです」
「覚えてない? おまえ、まさか居眠りでもしてたんじゃ?」
「そ、そんなことはしてません。・・・いえ、でもその・・・」
佐為はいつもやるように、扇で口元を隠してごまかし笑いをした。
「『でも・・・その』なんだよ?」
「うーん、実はちょっと途中眠くなってしまったのは事実です・・・だって、今日は碁を打つ訳でもなく、退屈な儀式だけでしたから・・・はは」
「はは、じゃねーよ! おまえ、何やってるんだよ! まさか帝の前で船漕いじゃったりしてないよな?」
「あ、それは多分大丈夫です。内大臣殿の声で、眠りに誘われたのですが・・・内大臣殿に帝が何か一言二言声を掛けられたようで・・・、さすがに帝の声で、目が覚めました」
「ほんとに大丈夫かよ、おまえ!? やっぱりおまえ一人じゃ駄目だ!」
光は本気で蒼白になりながら叫んだ。
「誰も何も言ってなかったから大丈夫ですよ、光」
佐為はなだめるような口調で言った。
「それならいいけど・・・少しは緊張しろよ」
「緊張・・・しましたよ。慣れない場です。おまけに公卿方に囲まれて・・・粗相をするまいと、行洋殿の顔に泥を塗るまいと、心していたのですから」
「それも、それならいいけど・・・でも眠くなっちゃって大臣や帝が何言ってたか、覚えてないんだろ? おまえって大物だよな」
「光、なんです。さっきから聞いていれば、偉そうに! あなたは何様です?」
「もちろん、オレは佐為の警護役。・・・兼、保護者・・・かな」
「光が!? 何言ってるんです、光の保護者が私です。反対ですよ、反対!」
佐為は光を羽交い締めにした。光は逃げようともがいた。
屋敷にはしばらく怒った声やら、笑い転げる声やら、にぎやかな声が響いたのだった。
ところが、二月も経たない頃である。
佐為は屋敷に帰る牛車の中で、光に言った。
「光、もう裾を踏ませませんよ」
「まだ根に持ってんのかぁ。それに今日は裾引いてないじゃん」
「今度はもっと、楽ななりでいいのです」
「はぁ?」
「今度からは直衣で参内します」
「ええ!」
「帝から直衣にての参内のお許しを頂いたのです。素直に喜んでいいのか、少々複雑ではありますが、どうも束帯や衣冠は好まないので、とりあえず私にはありがたいです」
「喜んでいいのか複雑って、喜んでいいに決まってんだろ。おまえ何言ってるんだよ。直衣で参内していいなんて、公卿の方々くらいだろ!」
「うん、そうなんですよね・・・。しかも帝も何かとても軽く言われていたし、本当にいいのか不安になります」
「ま、オレもおまえに悪戯できなくなるのはつまんねーな。おまえ転ばすの楽しかったからなぁ・・・」
光は腕を頭に回して、あっけらかんと言ってのけた。
佐為はまた怒ったが、光は気にせず、続けた。
「ま、確かに毎回同じ色、同じ格好より、直衣だったら、少しは自由なものを着られるということだろ。その方が楽しいか」
「帝もそうおっしゃるのです」
「帝が?」
「『そなたは若い。紅の強い二藍が合うであろう』と」
「なんだ、それ」
「私がご真意を量りかね、答えに窮していると、こうおっしゃいました。『そなたには直衣での参内を許す』と」
「へぇ・・・ で、どうするんだ、おまえ?」
「それは、帝直々に賜ったお言葉をないがしろにする訳にはいかぬでしょう。それに碁が打てることに変わりはないですから、何を着るかなどどうでもいいですよ、私は」
「ふーん」
この時、ただ「そんなものか」と光はきょとんとした顔をしただけだった。
そして、そのさらに半月後のことである。
顕忠は参内した折に、直衣姿の佐為を見かけた。一瞬、我が目を疑った。しかし、どんなに目を瞬いても、事実は変わらなかった。
宮中で身に付けているはずのない色! 二藍・・・・・夏に着る直衣の色である。
参内の折は、自分と同じ色の袍を身に付けていたはずである。いや、そうでなくてはならない。
何故、たかだか従五位で自由に直衣を着ることが許されるのか!?
頭の中を激しく埋め尽くしたのはこの問いのみだった。
顕忠はこの日、参内を終えると、大学寮に赴いた。教官として文章生に教鞭をとる為である。
文章生達はこの日の顕忠のただ事ではない形相に恐れおののいた。
彼が、その日の教材である「漢書」を一人の文章生に読ませたときのことである。文章生は運悪く、平素はつかえないところで、つかえてしまった。
そもそも普段よりあまり笑うことの無い顕忠が、いつにも増して憮然とした表情で学生を睨みつけている。そうした様子でいる彼が、猛り狂う私憤を、抗うことの出来ない文章生にぶつけることはよく知られていた。
読みをつかえてしまったこの文章生も、この日の顕忠の尋常でない眼光に、読み損じてはならないという緊張が先立ってしまったのである。
案の定、顕忠は鋭い眼差しを文章生にぶつけた。文章生の失敗が、合図となったようだった。顕忠は堰を切ったように、怒号を浴びせ始めた。
「このように簡単な漢文が読めぬのか! そなたは一体何を学んできた? そのような体たらくで及第が望めると思うか! なんだ、その顔は? それともそなた、私の教え方が悪いとでも言いたいのか? 及第したくば、努力せよ! 努力せずして報われると思うな、よいか!」
読みをつかえてしまった文章生は、ただひたすら頭を下げて詫びるより他無かった。
他の文章生達はみな、顕忠と視線が合わぬよう、俯いていた。
顕忠が講義を終え、大学寮から去ってしまうと、残された文章生達は口々に噂した。
「一体、師はどうされたのか? 気難しいお方というのはよく知っているが、この頃はとみにだ」
「まったく。二月半ほど前に、帝の侍棋になられて、それは喜んでおいでの様子であったのに」
「いや、だけど丁度ここ、二月半くらいずっと師は機嫌が悪いんだぞ、どういう訳だ?」
「そうだ、めずらしくご機嫌がよろしかったのは、ちょうど侍棋の任命をお受けになる直前の頃の話だ。それがどういう訳か、任命を受けられてから、ずっと、ぴりぴりしておいでだ。奇妙だ、一体どうされたのだ?」
「それとも、慣れぬ帝のお傍近くへの伺候とあって、疲れておいでなのではないか」
文章生達は、こんな風に顕忠の少々常軌を逸した振る舞いの理由を穿さくしあった。
そして後に顕忠は悟ることになるのである。
自分の怒りと憎しみを駆り立てる者のはっきりした正体を。
秋になって、内大臣が言ったのだ。
昔、帝がたいそうお気に召した見目麗しい殿上童が居たと。それが佐為であったと。
ああ、そうか、そうだ、おまえだったのか。
大学寮に苦学した日々に、優雅に殿上童に上がっていた童子というのは。
その容姿の故に、労せずして帝の寵を得る男。
その氏姓の故に、労せずして位階を得る男。
そして、その才故に・・・、才? 才とは何だ? 生まれながらに備わった才能などありえない。天才など居るはずがない。才とは後発的な努力で培われるものだ!
だが、おまえは天才の名に浴している。
許さない!
おまえの持つものすべてを破壊してやる!
努力せずして報われる者など決して許さぬ!
顕忠の数少ない友が、もし彼の胸の内を知ったならば、このような言葉は彼に意味を成さないと知りつつも、それでも、彼の中の学問への尊敬から、敢えて言う者もきっと居なくはなかったであろう。
「確かに、あの者よりはそなたは恵まれた条件に生まれなかったかもしれぬ。しかし、そなたにはあの者とて持たぬ才があろうに」と。
しかし、顕忠は誰にも胸の内の真実を明かすことはなかった。
出世と官位を欲しいままにする権門が憎いのではない。そんなことは今やどうでもよかった。
ただ一人、藤原佐為という男だけに、身を真黒に焦がす燻炎のごとき妬ましさを覚えるのである。
これが顕忠のただ一つの真実であった。
それから二年半以上が過ぎていた。
この間にいろいろなことがあった。
顕忠は佐為を執念深く観察していた。
屋敷に雇われている者、訪ねる先、交友のある人物等々。
そして、秘密を手に入れると、掌中のコマの如くに使い分けた。
光が大宰府に送られた直後に、実験を試みた。
訪ねる先に女の家があったので、それとなく、桜内侍を通して帝に伝えさせた。
すると、まもなくその女は、北の方を亡くしたばかりのとある官人の後妻に迎えられた。
顕忠はこの結果を知って、ほくそえんだ。
そして、偶然、中納言と佐為が宮中で言い争っているのを目にした。こういう場面に出くわすのはむろん、意識して付け回しているからである。
これは盛大に噂に尾ひれをつけて流せばよかった。
すると、中納言が夢中になっていたという左大臣家の姫君の入内が決まった。
顕忠は、薄ら笑いを浮かべた。
使える・・・
帝は使える・・・! その確信は不動のものになった。
何処が賢帝だ!?
なんと愚かな天子よ。愚王よ。
あの男のどこがいい?
そんなに入れ込んで、あんな男に肩入れをして・・・
くっくっく、ますます夢中になるがいい。あの男に心を狂わすがいい。
それで万事は思い通りだ!
つづく
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