燻炎二

 

 
 顕忠は考えを巡らしていた。
 佐為と関係があったり、噂になった女が何時の間にか遠ざけられる。
 その裏には帝の意志が潜んでいる。
 女だけではない。だが、これを知る者は未だあまり居ない。
 佐為が自分の屋敷に住まわせて、片時も離さないでいた少年。身辺警護の為の検非違使もそうだった。
 そもそも、帝があの少年に対して取った明らかに不快な様子から、帝が佐為に対して特別な想いを掛けているということを、顕忠は知ったのだ。
 事実、あの少年を遠ざけるのに体裁の良い提案をした時に、全ては首尾よく受け入れられた。帝にとって、神泉苑での出来事は、なんとも好都合だったはずである。観桜の宴で顕忠らの謀りごとのお陰で、まんまと邪魔な少年を追い払えたのだから。
 佐為本人を陥れることこそ出来なかったが、顕忠は思わぬ拾い物をした。帝は、顕忠に感謝せざるを得なかったからだ。

 実際その後、「寵を注ぐ」というのには遠いにしろ、顕忠を軽んじるということを帝はしなかった。
 佐為への肩入れは相変わらずだったが、それにしても一方で、顕忠にも気を配ることを忘れなかったのだ。

 そして時は巡り、やがて侍読に就くようにとの話がやってきた。
 人一倍、地位や名誉といったものへのこだわりが強い顕忠にとって、これは天にも上るような話だった。侍棋の話が決まった時よりもさらに強い歓喜が襲った。
 囲碁という一つの限られた遊戯についてだけの教授ではない。より帝王学の要を成す学問の本質に迫る指南をする立場に就けとの仰せなのだ。
 顕忠は、自分の学問には強い自負と誇りを持っていた。これで名実共に、国の学問の第一人者となったのだ。

 そして、顕忠は素直にこれを喜んだのである。それだけ惹かれる地位だった。何か裏があるとは、懐疑心の強い顕忠でさえも思わなかった。なぜなら、帝もまた深い教養の持ち主。同じレベルで漢籍を語れる相手は自分を置いては他に居ないのだ。そう確信していた。公に詩作をする機会はこれまでよりも増え、祭事に当たっては、顕忠は必要不可欠な漢詩人であった。
 むろん帝が、佐為を好むのと同じようには、自分を好んでいない事は明白だった。が、それにしても、漢籍に関する会話を交わす時だけは帝の声が晴れやかになることを感じた。
 帝にも、自分の比類のない学問の高さが評価されたのだ。顕忠はそう思った。碁一辺倒のあの男など、とても自分の学問には敵うまいと。

 しかし・・・。
 すぐにこの恍惚を奪う出来事があった。
 佐為に棋書を献納せよとの勅命が下されたのだ。
 顕忠は再び扇を床に投げつけた。今度は、扇の柄は折れて壊れた。

 棋書? いまだそんな話は聞いたことが無い。唐土には数あれど、この国にはそのような書は存在しなかった。しかも、今唐土に伝わるものを凌ぐもっと優れた書を作るだと?
 あの唐土から来た僧侶。あの法師が現れなければ、こんな話は無かったはずだ。なんだ、あの者は!?
 顕忠は憤った。

 そしてはなはだ不可解であった。
 不可解なのは棋書よりも以前に、あの検非違使の少年である!
 恩赦の詔が出された時には、顕忠にはまるで解せなかった。何故、帝はあの者にまで恩赦を下し、都に召還したのか?

 思考は行きつ戻りつした。しかし、これには思い当たる節が無いこともなかった。顕忠は相変わらず、佐為を観察していた。稀にではあったが、深夜奇妙な場所に赴くことがある。寺院であった。女の家ではないので、あまり気に留めなかった。それに、疫れいや天災が流行っていた。人々の不安が掻き立てられる昨今、深夜の百日参りなどをする者も居る。別段、不審に思うことでもなかったのだ。
 しかし、初めにそれに気付いた時、逆に毎夜続けてではなく、一夜かぎりの出来事であったのが、不可解といえば不可解であった。
 後から考えをめぐらすうちに、顕忠は思い当たった。そして、随分間が空いてから、再び佐為が、以前訪れたのと同じ寺院に深夜赴いたのを知ると、確信は持てぬものの、或はもしかしたら・・・と憶測した。
 ところで、そもそも顕忠は、男女の仲にも疎いのである。いわんや、衆道の趣味などまったく持たなかった。故に、帝が佐為へ向ける想いも、理解し難いと感じていた。顕忠は、こうして帝と佐為の間のことを憶測しながらも、身の毛がよだつのを覚えていた。

 帝があれほど厭わしい視線で眺めていた検非違使の少年。あの検非違使が今では再び、佐為の傍に居る。そしてあの唐土の法師。あの法師は、あの馬鹿な検非違使と違って頭が切れると見える。親しいようではあるが、必要以上に佐為の身辺に纏わりついてはいない。もっとも、検非違使の少年も、都に帰ってからは、以前のように佐為の随従警護をすることもなく、佐為の屋敷に住み込むこともしていないようだった。
 しかし、それにしても、帝はあの検非違使を酷く嫌っていたはずである。せっかく遠国に送ることが出来たのに、再び佐為の近くに戻すこと自体、以前にはない寛大さだった。他のことに鑑みれば、異例とさえ言える。
 帝が佐為の身辺について、いや、あの検非違使についてだけは、こうも以前と違い、寛容で居ることに、何かしら佐為の奇妙な行動が関係しているのではないかと考えたのである。

 顕忠は結論した。
 佐為が最もしそうに無いことをしたのだと。
 もっとも関心の無いふりをしていたことに、手を染めたのだと。
 そうだ、あの男は取引をしたのだ。・・・帝と!
 そうに違いないと顕忠は思った。
 ついに帝におもねったのだと。


 顕忠は、こう仮定的な結論を出した時、同時に二つの感情が沸き起こった。二つはどちらも不快な感情だった。
 一つは猛烈な嫌悪感だった。佐為がとらないであろうと思っていた行動をとったかもしれないという事実によるものだった。このことによって自分の中にあった佐為という人物の像が一部壊されてしまったのだ。
 では佐為とはどんな人物か?
 顕忠の中にある佐為という人物は清廉潔白でなければならなかった。
 無欲でなければならなかった。
 何かを得る為に何かを売ったりするような狡猾な人物であってはならなかった。
 そして何かを得ようとして、他の何かを傷つけてしまう利己的な人物であってもならなかった。
 自分の中の佐為の偶像が予想外の構成要素からも成っていたかもしれないということに対する、嫌悪の感情だった。突然現れた異質な物質をそれまでの佐為という像に融合させることに強い抵抗を感じるのである。それが嫌悪感の正体である。

 そしてもう一つは激しい嫉みだった。
 これは顕忠が佐為に対して常に抱く主要な感情であった。
 いつも抱いている感情がさらに大きくなっただけである。こちらは単純にして明快であった。佐為に向けられた帝の寵がさらにその強さの度合いを増したであろうことに対する嫉妬である。


 しかし、顕忠は考えた。
 いかに帝と佐為が契約を交わしたかは知らないが、あの帝がどこまで寛大でいられるかは、甚だ疑問であると。
 機会さえあれば、探すはずである。以前のように。
 検非違使の少年を大宰府に送ったときと同じように、佐為に憎まれずに、あの少年を遠ざける方法を。必ずや帝は求めるはずである!
 結局、どう事情が変わろうと、帝はそれを願わないはずはないのだ。それには、少しだけ、帝の、あの少年に対する嫉妬心を刺激してやれば良い。それだけのことだ。
 顕忠は何度考えてもこの結論に達するのだった。


 かくして事は上手い具合に運んだのである。
 流行り病で両親を亡くした検非違使の少年は、再び佐為の屋敷に住み始めた。これだけでも充分といえたが、さらに好都合な情報を偶然の出会いから得た。口の軽い愚かな、しかし善良な下女のお陰である。

 顕忠は桜内侍に文をしたためた。
しかし、桜内侍は七条の市で出逢った下層階級の女よりは遥かに賢かった。彼女は何時の間にか、変わっていたのである。
 つまり、帝に仕えるうちに、帝を真の主とするようになっていたのだ。
 桜内侍は顕忠の思惑を上手くすりかわし、やり過ごした。

 何時まで経っても帝が何かをする気配は無い。
 顕忠は不審に思った。

 さて、桜内侍はどうして、顕忠を無視したのか?
 それは、彼女なりの深い懊悩があってのことだった。
 だが顕忠は知る由もない。

 この頃、桜内侍は密かに典薬頭(てんやくのかみ)を幾度も呼びつけていた。
 顕忠の文になど拘わっていられないほど、真の主君の為に心を悩ませていたのである。

 内侍は再び、典薬頭に問うた。もっといい薬はないかと。
「帝は昨夜もお眠りにはなれなかったご様子。一体どうしたら、帝の不眠はお治りになるのでございましょう?」
 こう呼び出されるのは、もう今月に入って五度目であった。それ以前から数えると、もう数十回になる。いい加減策は尽きていた。
 しかし典薬頭としては、ここはなんとか自らの力で帝の不眠を治したいところだった。それだけに典薬頭もまた、真剣に頭を悩ませていた。今再び薬草についての漢籍を読み漁り、古今東西の伝承を調べ、知恵の限りをつくした。しかし、匙を投げざるを得なかった。
 ついに、典薬頭は降参した。
 今まで、敢えて黙して語らなかったことを言上した。
「桜内侍殿、力の限りを尽くしました。もはや私に出来るのはこれまで。自然の気が乱れておいでなのは確か。薬で治せる病には限りがございます。悪鬼、物の怪、ありとあらゆる穢れをお払いになることです」

 桜内侍はがっくりと肩を落とすと言った。
「では、薬では治せぬと申すのですか?」
「高名な陰陽師あるいは、高僧をお呼びになることです」
「帝はご体調がよくないことを公になさりたくないのです。なんとかならぬのでしょうか?」
「では、密かに高僧を探すのです」
 こう言われては、内侍はもう何も言えなかった。
 そこに、顕忠からの文である。
 内侍の態度に業を煮やした顕忠は密かに内侍を訪ねた。
「そなたは賢い。ならば、世の趨勢は見えるはず」
 顕忠は内侍にそう言った。
 しかし、内侍は答えた。
「むろん、見えます。見えたとて、それが何になりましょう。私は帝の御世の為にあるのです。世の行く末の中に生きるつもりはありません。私は今上の帝のお傍に生きるのです」
「帝と共に死ぬと申すか?」
「それでも構いませぬ」 
 内侍はきっぱりと答えた。
 顕忠は脅したのである。しかし、内侍は脅しに負けなかった。か弱い母が我が子のためには百万の敵に立ち向かうように。
 しかし、顕忠はせせら笑った。
「そなた、楽しんでいたではないか。私は知っているぞ。そなたはその賢すぎる頭で、言葉を自在に操り、帝のお心を懐柔し、後宮では一目置かれる存在になった。何故、心を変えた? 何故茶番を楽しもうとしなくなった?」
「変えた・・・ああ、確かにそうかもしれませぬ。人の心は変わるもの。それは文章博士様、いえ、侍読の君こそが、最もよくご存知のことではありませんか?」
「そうだ、そなたの心は冷めていた。いつも高みで見物していた。それがどうだ? 何故、そのように心を熱くしている? まさかあの     
 顕忠は続く言葉はさすがに飲み込んだ。
 しかし、内侍は鋭く切り返した。
「あの   ? その後はなんと続いたのでございましょう。 口に出しておっしゃれない言葉だったのでしょうか?」
「そなた・・・よくも」
「もしも私の心が様変わりしたというのなら、顕忠殿こそ。貴方様ほど見事に主をお換えになった方も居りますまい。私の心が熱いとおっしゃるなら、顕忠殿こそ、お心を何にそのように熱くされておいでです?」
 こう言い放ち、内侍は胸のうちに思った。
 顕忠殿・・・・・最近は内大臣様を離れ、中納言様に近寄っていると聞く。高齢な上に病がちな内大臣様を離れ・・・。
 世は確実に関白様のものになりつつある。そのご嫡男である中納言様は言わば次世の主(あるじ)。他家である内大臣様は明らかに落日の下にある。
 顕忠殿・・・今までの恩を忘れたのか?
 いや、違う・・・顕忠殿は義理堅い方だった。内大臣様への恩義に勝る何かが、顕忠殿を動かしている・・・私には分かる。ああきっとそうだ。
 しかし・・・今、顕忠殿、そなたのその狂気じみた策謀に・・・いや脅しに靡くことはもはや私には出来ない。出来ないのだ。帝のお心をこれ以上痛めつけることなど私には出来ない。
 しかし、顕忠殿は帝の侍読。帝はあのようなお方。佐為の君の為に、決してお好きではない顕忠殿を侍読になさった。顕忠殿が直接帝に逢う機会がある以上は私が言わずとも、いつかは帝の耳に入るのだろう・・・私はその時、どうしたらいい・・?
 内侍は自問するより他なかった。

 内侍は、清涼殿の萩戸の間に戻ると、脇息にもたれる帝を拝した。辛そうに眉間に皺を寄せている。御簾の向こうからは、よく冴えた月明かりが差し込んでいる。その明かりのせいで、帝が辛そうに端正な顔を歪めているのがよく見えた。
 内侍はこれ以上ないほど優しい眼差しと優しい声で静かに言上した。
「宇治に、高名な僧が居るそうです、一度お呼びになってみては如何でございましょう?」




 そして同じ夜、ここにも一人。
 月明かりに誘われてか、それとも寝殿から聞こえる賑やかな声に誘われてか。
 師走の宵だというのに、光は外へ出て夜風に当たりたかった。
 肩を震わせながら簀子に一人座す。
 すると、少年の脳裏には、昨夜から起こったことが巡り始めた。
 だが、体の方は疲れていた。一昨日の夜から一睡もしていないのである。
 夕餉は先ほど済んだばかり。ようやく陰陽師の明がこの屋敷を辞していった。
 今夜、屋敷には方違えしている赤子と乳母の三由が滞在している。だが、光の居場所からは遠いので問題はない。
 これでやっと一人だ、と光は思った。そして、心の中で呟いた。

 予想通りだ。
 やはり佐為は、赤子の来訪がよほど気に入ったと見える。
 だから、今夜オレは一人だ。
 ちょうどいい、本当に頭を冷やしたかった。
 数日来、頭を悩ませていることがある。
 数日来・・・? いや、本当はもっとずっと前からだ。
 だが・・・ずっと沈黙してきた。
 しかし、もう・・・感じる。
 何処かから足音が聞こえる。
 そうだ、終局の時は迫った。
 最後の勝負を仕掛けろと。
 ・・・そんな声が聞こえる。

 ああ・・・オレは・・・。ああそうだ。
 あれから・・・あの日以来、ずっとずっと気分が悪い。
 耐えがたい不快さだ、吐き気がする。
 別に、察しはついていた・・・あの童子から聞くまでもなく。いや、むしろ、当然の成り行きだとさえ思っていた・・・。
 だけど、だけど・・・ずっと考えないようにしてきた。いや、無意識に蓋をして覆っていた。見ないように。そうしていたことに気付いたんだ。
 だが、いざ直視すると、辛い。 
 どうしたらいい、どうしたら・・・
 
 良かった、今日のこの騒ぎはオレには都合がいい。
 少し、一人で居なければ。

 すると何時の間にか、光の耳に笛の音が聞こえてきた。
 珍しいことではない。佐為は夕刻になるとよく竜笛を吹くのだ。
 彼の笛の音を聴くと、いつも不思議と心が落ち着く。しかし今夜はそうは行かなかった。いろいろありすぎたせいか、光の頭はいよいよ迷走した。
 『人の心は難しい』先ほどまで、陰陽師の言葉を反芻しているはずだった。だが、笛の音色に混じり、何時かの法師の声も頭の中に響いた。
 『人の想いというものは人の世の常として、実に測りがたいものがある・・・
心はそんなに単純でもなければ、他から封じ込めるものでもない。』あの法師も筑紫でそう言っていた。

 だが、次第に混乱していく光の脳裏には霞が掛かっていった。

 ああ…もう…駄目だ…臥所に行かなければ…

 そう思った時には遅かった。疲れきっていた光は簀子の柱にもたれたまま意識を失ってしまった。

 ・・・寒い・・・。寒い・・・寒い・・・。

 体が震えるのを鈍く感じる。剥き出しになった足のつま先をすり合わせる。
 しかし、上体を動かすことが出来ない。師走の寒さに震える体に反して、意識は深い眠りへと落ちていった。

 が、その時だった。
 光は肩を強く揺さぶられて、目が覚めた。
 そして思わず、寒さにびくんと体をすくめた。
「こんなところで寝てはダメですよ。今度はあなたが熱を出してしまう。さぁ、奥へ行きましょう」
 簀子で眠り掛けた光を起こしたのは佐為だった。
 彼は光の脇を支えて、立ち上がらせた。そして、自らの腕を光の肩に回すと、抱きかかえるように妻戸の奥へと入っていった。

 とりあえず火桶の傍に光を降ろすと、消えかけていた火をおこした。
 すると、体にずしりと重みを感じた。見れば、光が瞼を閉じたまま、自分に寄りかかってきていた。一瞬唖然としたが、少しの間、少年の伏せた瞼と、小刻みに振動する睫を見ていた。
「疲れたのですね、ずっと寝ないで走り回っていたのだから、当然です」
 そして佐為は、先ほどまで抱いていた赤子に向けていたよりも、もっともっと柔和な眼差しを、少年に向けた。残念ながら、目を閉じていた光はこの顔を見ることが出来なかった。 見たら何と言っただろう。自分が「見たこともない」と思ったその彼の顔よりも、さらに優しいこの顔を。
 佐為は、自分に体重を預けて寝ている少年に言った。 
「光、暖まったら、ちゃんと閨に行って寝ましょう。ほら、どうして、あんな寒いところで転寝など?」
 しかし、少年はそれには答えなかった。答えずに、ただ黙って腕を佐為の首に廻すと、愛しい人を抱きしめた。佐為はどうしたことかと面食らいながらも、応えるように光の背を抱き、いつものように、日の匂いのする髪に口付け、指を滑らした。
「佐為・・・」
「どうしました?」
 光は佐為の黒髪に接吻し、そして耳元で囁いた。
「オレ・・・少し、自分の家に戻るよ」
 その声には今までにない深い大人の声の響きが混じっていることに、佐為は悲しい気持ちで気がついたのだった。

  
 つづく

註>史実上は、平安時代前期、寛蓮の著した「碁式」という棋書(現存はしていません)がありました。

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