歌合わせ

 

 佐為は帝の侍棋だ。だから、数日に一度は内裏に赴く。天気が良く、物忌みの日でなければ、そういう日は佐為は朝から湯浴みをし、女房に髪を洗わせる。そして、高欄のある板張りの簀子縁から一段高くなっている、日当たりの良い廂の間に横になって、ゆっくりと髪を乾かす。傍らでは伏せ籠をかけた香炉の上に衣を掛け、佐為の好きなあの栴檀の香を焚き染める。
 自分の腕を枕にうつ伏せ気味に寝そべりながら、佐為は碁盤に手を伸ばす。
 パチ。
「光の番ですよ」
 オレは円座の上にあぐらをかいて、次の手を考える。
 パチ。
 こんな怠惰な格好で、佐為が碁を打つなんて・・・・。最初は意外だった。そのまま眠りに落ちてしまうことさえある。碁石を握りながら・・・。いつもは見上げている佐為の顔を、今日は見下ろす。
 まどろんだ瞳に長く落ちる睫の影。すっと一筆で引いたような真っ直ぐな鼻。紅を差したかのような薄赤い唇。見てると自分の気持ちがどこか知らないところへ行ってしまいそうで・・・ だから。
 だから、静寂を破りたくなる。意地悪心を起こすんだ。さっきは一瞬、寝かしてやろうかとも思ったんだけれど。
 佐為の肩をゆする。びくともしない。今度は耳元で囁く。
「おい、おまえの負けだぞ」
 すると、佐為は眠そうな瞼をうっすら開けて、また碁盤に手を伸ばす。
「そんな訳はありません・・・」
 パチ。
 半ばまどろみながら打った佐為の一手は、普段と何の遜色もなく、鋭い。
 眠りに落ちる前から、既に見えているのだ。次の一手、そしてオレの応える一手。そして、また応手と・・。先の先まで見通している。一つの手筋だけではない。それはオレの返す一手によって縦横無尽に変化する。どんな手を打っても、佐為は次にオレを導く一手を幾万通りも用意している。
 こいつ・・・。ほんとにオレと同じ人間なんだろうか・・・。
 それとも、もしかしたら碁の神に取り憑かれてるんじゃないのだろうか?
「佐為、昨日寝てねーのか?」
「・・・いいえ、・・・そんなことは・・・無い・・で・・す・・」
 佐為の長い睫が小刻みに震える。せっかく覗いた水晶の瞳がまた隠れる。僅かに震える瞼の裏に。少し開かれた唇から漏れる吐息。脱力した指先には艶のある短い爪。
 ダメだ・・・・・・・・また。
 時間を忘れてしまうんだ。気持ちがそわそわして落ち着かなくて。
 だから、だから。起きてよ。佐為。
「佐為っ!」
 光が耳元で怒鳴る声に、佐為はびくリと身体を震わせた。
「光・・・?」
 尚も眠そうである。佐為は少しだけ上体を腕で支えて起こした。
「なー、今日は、いつもより早く内裏に行くんじゃねーのか?時間大丈夫なのか」
「あ、・・・ああ。そ・・うでしたね」
 そう言ってまた佐為は目を閉じ、うつ伏せてしまう。
「佐為ったらー」
 光は佐為の肩を揺すった。
「わ、わかりました。では・・・光、手伝って。私を起こしてください」
 そう言った佐為は目を閉じたまま、光の手を掴んだ。その手を握り返すと、光は思い切り佐為の腕を引っ張り上げた。
「そ・・れっと」
 佐為はやっと立ち上がったが、足元が定かでない。彼は光の肩に抱きつくようになんとか立っていた。
「わーーーっ。重っ!おまえ、体重掛けてくんなっつーの」

 
寄りかかられて倒れそうになった光は、口をついて出る言葉が、最近自分の本心と微妙にズレているのは何故だろうかと思う。

 佐為。
 いくらでもよっかっかっていいんだよ。オレ、頑張って立ってるからさ。
 するととんでもない言葉が聞こえてきた。
「ああ、光、今日は、このまま、仮病でも使ってサボってしまいましょうか」
「な、なに言ってんだよ!、おまえ」
 光は我が耳を疑った。
「どうしたってんだよ、いきなり。帝の囲碁指南、さぼったりしたら、おまえ、今度こそ、出世の道が途絶えるぞ!」
「今日は囲碁指南ではありません」
「え?」
「・・・・歌合わせの催しがあるのです」
「歌?」
 佐為は、やっと自分で立って光の顔を見た。
「そう。歌です。二手に分かれて歌の出来を争う、アレです。ああ、いやだ。行きたくない」
「なんで!?いいじゃん、おまえこないだだって歌詠んでたじゃん」
「歌を・・、詠むのはいいんですが、あの雰囲気がイヤなのです」
「雰囲気?」
「そう。しかも、今日は大君の御前での歌合わせ。皆、大君の目に留まろうとやっきになるはず。何しろ、下積みの者にとっては出世のチャンス。表では情緒豊かに風雅を気取ってはいても、皆裏では虎視眈々と抜きん出ることを考えている。まるで合戦場です。ひとと争って歌を詠むなど、私には・・・」
「でも、そういうの、前は出たことあるんだろ?」
「ええ、まぁ。でも歌を詠む方人に選ばれての、帝の御前での歌合わせは初めてです」
「そっか、今回は今を時めく帝の侍棋が抜擢された、ってわけ?」
「歌は、詠みたいときに詠むのがよろしいのです。かしこまった場所で御題を出されて、刹那に恥ずかしくないものを詠めるでしょうか・・・。正直心もとないです」
「佐為も囲碁以外だと弱気なのな・・・。かといって、オレじゃ歌なんて手伝ってやれねーしなぁ。でも、佐為なら、大丈夫だって!。頑張れよ。どこかさ、自分が一人、違う場所に居るって思ってさ。歌、詠んでみろよ。なっ」
 光にこう励まされた佐為は笑みをこぼすと、ようやく、用意を整え、内裏に向かった。先ほど香を焚き染めた美しい萌黄色を基調にした重ね色目の絹の直衣に身を包んで。
 長身のその姿は何処から見ても、涼風を纏った貴公子だった。光はいつも眺めていて慣れてはいるものの、見惚れずにはいられない。これなら、どんなお偉方が居並ぶ宮廷の歌合わせだって、まずは外見で一歩リードという処だろう。

 さすがは帝の御前での歌合わせ。予想以上の人が清涼殿に集まっていた。
 歌を詠む方人たちには御簾の下がった帝の御座の前に左右に振り分けられた席が用意されている。清涼殿の広間には多くの公達の席も用意されていた。
 これなら、自分も端の方で佐為の様子を窺うことが出来ると、光は安心した。
 佐為は教えられた席次を耳にして、扇の陰で光にそっと耳打ちする。
「光、やはり予想通りです」
「何が?」
「私の相手は菅原顕忠です」
「ってことは同じ侍棋同士で、歌も争えってこと!?」
「そのようです」
「なんだよ、それ。またあの陰険野郎との組み合わせなんて、なんか意図的じゃねぇ?。腹立つな。くそ」
「しっ!。光。めったなことを宮中で言ってはいけません」
「あ、ごめん。佐為」
 今度は光も声を出来る限りひそめて言った。
「でもさぁ、佐為のが絶対いい歌詠めるよ。あんな陰険な野郎にいい歌なんか詠めるもんか!」
「・・だと良いのですが・・。
 いえ、私は歌の勝ち負けなどどうでもいいのです、碁の勝負ならいざ知らず。むしろ文章博士であり、大学頭でもある顕忠殿が勝ってくれた方が面倒が少ないでしょう。文章博士は都一の教養の持ち主ですから」
「そうか。まあ、またあの野郎のおまえへの妬みが積もったらやっかいだな、確かに・・」
「・・・・・」
 佐為は憂鬱そうな顔をした。
「・・佐為」
 光は今朝ほどの佐為の怠惰な様子を思い出してため息が出た。
 あんなに朝、歌合わせに行くのを佐為が嫌がっていたのがこの場に及んで、はっきりと分かった。佐為の鬱な気分が、水面に広がる波紋のように光にも共鳴を起こした。
 かわいそうに、佐為。
 おまえ、碁を打っていたいだけなのに・・・・。
 他に何も欲しくなんてないのに・・・・。
 光は佐為の手を取った。
「佐為、オレここから見てるから。気楽にな。オレよりはずっと上手いけど、でも他のやつよりは下手な歌!楽しみにしてるよ」
 光はいつものようにお日様のような明るい笑顔を作って言った。
 佐為も光の手を両手で握り返して笑った。
「ではね、光」
 佐為は帝の御前に向かって左側に席次が定められていた。
 その真向かいには菅原顕忠である。
 この時、光は佐為の萌黄色の衣の意味が解った。左側に並ぶ方人たちは皆、蒼系の衣を纏い、向かい合う右手の者たちは紅系の衣を纏っていたからである。まるで、京を囲む山々の紅葉を思わせた。
 帝の御前にこのように雅を凝らした装束で居並んだ方人たちの中でも、佐為の姿は引けを取るどころか、むしろ際立って美しく、人目を引かずにおかない。
 招かれた公達たちの後ろから光は佐為を眺めて何か誇らしい気分になった。
 すると背後から聞きなれた声がした。
「近衛」
「加茂! おまえも来てたんだ」
「ああ」
 賀茂明と会うのは、先日彼の屋敷で一局打って以来だった。
「佐為殿のお相手は菅原殿だな」
「そうなんだよ・・」
 光はため息をついた。
「菅原殿は、さすがに漢文の才では並ぶ者が居ないと言われているが、正直歌の腕前はたいしたこと無い。だから、今日は万全の準備をされているよ」
 明は低い小さい声で光に言った。
「万全の準備だって?」
「今日は即題での歌合わせだからね。人気の歌人が先日から菅原殿の屋敷に招かれている。おそらく、どんな御題にも沿うような歌を用意してるんではないのかな」
「それって、自分で考えたんじゃないってことだろ」
「そう、歌人たちに作らせておいた歌を何首も暗記なさってるんだよ。菅原殿は歌合わせではいつもそうだ。覚えた歌を忘れないように、扇子に書いてるって噂もある・・・」
 明は侮蔑の色を浮かべてうっすらと笑ってみせた。
「なんだよ、やっぱり卑怯なやつだな」
「近衛、声を落とせ!」
「ああ、ごめ・・」
「佐為殿の調子は如何だ?」
「・・・今日はあいつすげぇ憂鬱そうで、なんか見てるの辛かったな」
「そうか・・。どっちが勝ってもあまり喜べない戦いだな」
 明の言うとおりだった。
「しっ。佐為殿の番だ」
 方人と呼ばれる詠み人たちが次々と歌を詠んでいき、佐為と菅原顕忠の番になった。
 しかし、ここで、御簾の奥から低音の朗とした声が響いた。
「待て。次なる歌は余が上の二句を詠む故、そなた達は続く句を詠むが良い」
 場はにわかに騒然とした。
 人々は顔を見合わせている。
 菅原顕忠の顔には狼狽の色が走った。
「帝は何をなさる気だ?」
 明は鋭い目を光らせた。
「佐為・・・」
 光は心配そうに、遠くからでもはっきり分かる、美しく冷ややかな顔を見つめた。
 帝のよく通る声が響いた。
「・・・君が背を、幾年待ちなむ・・・・」
「恋歌だ」
 明が即座に囁いた。
 少しの間が開いたが菅原顕忠が詠んだ続きの句が講師に渡った。
「・・・男女川(みなのがわ)恋ぞつもりて 淵となりぬる」
「お見事!」
 観衆から歓声が上った。
 しかし、佐為は氷のように凍て付いた目をして固まっていた。
 光は筆を取ろうとしない佐為をただ凝視して拳を握り締めていた。
 心臓の音が回りの者に聞こえるのではないかというほど高鳴る。
「・・・佐為」
「さて、対する佐為殿はいかに・・・」
 しかし、いくら待てど佐為は続く句を読まない。
 次第に聴衆の間にざわつきが広がっていく。
「どうなされたというのだ。佐為殿は何故詠まぬのだ?」
「あのように押し黙って、気後れでもなさったか」
 明も心配そうに佐為を見つめた。
「佐為殿、一体どうされたのだ・・・?」
 光は居たたまれなかった。
「・・・・・佐為」
 ようやく佐為が筆を取り、詠んだ歌を読師に渡した。読師から渡された歌を講師が詠じた。
「・・・蹴ゑし鞠 つたなきものの 忘れぬるかな」
「・・・はぁ、なんですかな?」
「これはひねった内容ですな」
「何か意味があるのでしょうか?」
「いや、恋歌にしてはちと地味な・・・」
 聴衆は明らかに軍配を菅原顕忠に上げたようだった。
 上の二句「君が背を 幾年待ちなむ」は、愛しいあなたを想って何年も待っています・・・、という意味であろう。誰が聞いても恋歌である。
 続く下の句は、当然激しい恋の激情を詠んだ内容が期待された。
 顕忠が詠んだ下の句、「男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる」はまさに恋情の激しさと深さを詠みこんだものであり、聴衆の期待に充分応えるものであった。
 しかし、佐為が詠んだ句はどうも皆の期待に添う華やかさに欠けている。
 軍配はどう見ても明らかだった。
 顕忠は「してやったり」、と言わんばかりに勝利を確信し、高慢な顔で佐為を見やった。
 だが佐為はさきほどと変わりなく、冷ややかな表情を崩さない。
 光はがっくりと肩を落とした。
「恋歌に・・・蹴鞠?なんだ、あいつ緊張して、オレと蹴鞠したこと詠んじゃったのかな?・・・
 それにしても卑怯だ!どうせ、誰か上手い奴に考えさせておいた恋歌の下の三句だけ言ったんだろう」
「しっ。待て、近衛!」
 明は光を制した。
 判者はまさに、今勝者を告げようとして、菅原顕忠の方に向き直った。
 しかし、そのときである。御簾の奥から、帝の声がした。
「つたなきものの わすれぬるかな・・・・」
 なんとしたことか。こちらが正解である。
 この帝の声を聞いた判者は慌てて、佐為の歌に勝ちを告げた。聴衆は皆、一瞬顔を見合わせた。が、しかし、人の心向きなど、権力の風に煽られれば、簡単にいなされる。
「そう、私はやはり、佐為殿の方だと思うておりました」
「なんといっても、品がありまするな」
「まことに奥ゆかしき歌でございまする」
 しかし、光はあっけに取られていた。どうして佐為の歌が選ばれたのか解らない。
 それもそのはずである。なぜなら、佐為の返した下の句の意味が解ったのはこの場にいる聴衆の中ではただ一人を除いては誰もいなかったからである。その一人とは、他の誰でもない。帝その人、本人であった。
 それは何故か? つまり、こうである。帝が詠んだ上の二句は、まぎれもなく、そう、佐為へ向けられた歌だったからだ。
 だから。
 多くの聴衆の中にあって、帝が続けたかった下の句がはっきり見えたのも、やはり佐為、ただ一人だったのだ。

『蹴鞠をしてやったではないか。そなた覚えてはおらぬのか?』

 佐為の頭の中で、帝の声が幾重にもこだましては反芻した。
 そして数刻の躊躇いの後、自然に心に浮かんだのがさきほどの下の句だった。なんのことはない、単に帝の想いを代弁しただけである。自分へ向けられた歌だと解ったのも佐為だけなら、下の句の意味がわかったのも帝だけだったというわけだ。とんだ茶番であった。
 なんとしたことか。事実は奇なり。
 顕忠にとってこそ、実はこの勝負は公平さを欠いたものだったのだ。佐為にしか答えの解らない問題が二人に出されてしまったのだから。
 事の全容が見えた佐為は、独り凍りついたように硬い表情を崩せなかった訳である。
 勝利を確信していた顕忠は憤りと怒りで顔を真っ青にしてわなわなと震えていた。瞳に深い憎しみの色が灯った。
 それは顕忠が纏っていた衣の色と同じ、この世を怒りで焼き尽くさんばかりの紅蓮の炎だった。
 忌まわしきことに憎悪の化身となった火竜がこの時、顕忠の心に住み着いてしまったのである。

君が背を 幾年待ちなむ 蹴ゑし鞠 つたなきものの 忘れぬるかな


 そなたは忘れてしまったのだろうか?
 しかし余は覚えている・・・。
 鞠を蹴る幼いそなたのつたなきことよ。愛らしきことこの上なく。
 そなたと再びめぐり会うために何年も待っていたのだ。
 また愛しいそなたが応えるまで何年も待っているのだ・・・と。

 愛しきそなたが応えるまで・・・。

 帰りの牛車の中、また佐為は押し黙ってしまった。
 ああ、まただ・・・。こないだもこうだった。
 歌合わせ、勝ったっていうのに・・・。
 いや勝ってしまったことが憂鬱なのだろうか。
 佐為・・・。

 今度は光も無理に佐為に話し掛けることはしなかった。
 ただ、黙って佐為に寄り添い、温もりを分け合っていた。

 つづく

 

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