恋語り 

 

 

「おい、近衛、こないだの清涼殿での歌合わせ、面白い見世物があったんだってな」
 こう光に話し掛けたのは、同じ検非違使仲間で、光よりも年長の若者、加賀諸純である。光は検非違使庁に来ていたところを加賀に呼び止められたのだ。
「なんだよ。面白い見世物って・・・」
 光はまたか、といった渋い顔をして、肩を落とした。
「おまえ、久しぶりに会った先輩になんだ、その態度はよ。愛想わりぃなぁ」
「おいおい、加賀、絡むなよ。近衛君は皆からそのことを訊かれて、ちょっと参ってるんだよ」
 助け舟を出したのは温和で善良そうな検非違使の青年、筒井公任だった。
「横から口出すな、筒井! でもなんだよ。おまえ、そんなに皆から訊かれてるのか。あ?」
「ふんっ。減るもんでもなし、話してやればいいじゃん」
 この冷めた口調は三谷基頼である。
「だから、皆よせって!少しは近衛君の気持ちを考えろよ」
 筒井公任は一人、光を庇っていた。
「筒井さん、ごめん。ありがと。もういいよ」
「近衛くん」
「加賀、三谷、いくら訊いたって、オレは見たことしか答えられない。佐為は普通に歌詠んだだけだし、オレにはよく聞こえなかったけど、どうも帝が小声で、佐為の歌を口ずさんだらしいんだ。それで、多分、判者は文章博士の菅原殿に決めてたところを佐為に覆して、それで佐為が勝ったんだ。それだけだよ。オレはそれ以外のことは何もしらねーぜ」
「ふーん。でもよ。歌の出来から行けば菅原殿なのに、佐為殿の生彩に欠ける歌が選ばれたのは、帝の明らかなえこひいきだって、噂が持ちきりでよっ。なんか面白いじゃねーか。一波乱ありそうだな。ははは」
「おいっ!加賀、いい加減にしろ!」
 筒井が怒気を含んだ声で言い放った。しかし、この時、筒井の怒りを通り越してはるかに激しい憤怒が光の瞳に炎を灯らせた。
「加賀。今、佐為のことを何て言った」
「何だよ・・・?」
「・・・生彩に欠ける・・・だと。おまえよくも・・・。何も知らないくせに!。菅原殿なんて、どうせ自分で作った歌じゃないんだ!あんな卑怯な奴、負けて当たり前さ!佐為の方が心が綺麗だから、歌にそれが表れたんだ。帝にはきっとそれが解ったんだよ!」
 光の目は怒りに震えていた。
「何だよ?おまえ・・・」
 加賀はあっけにとられた。
「な〜に、熱くなってんだか。変だぜ?近衛」
 と三谷。
「近衛君・・・」
 筒井はおろおろしながら、一触即発の三人をなんとか静めようと彼らを代わる代わる見つめるのだった。
 しかし、不良ッ気はあるものの、加賀は真は曲がったことが嫌いな男である。光の真っ直ぐな目にそれ以上歯向かうような真似はしなかった。
「近衛、おまえ、幸せだな」
「え?」
 光は訳が解らず、きょとんして加賀をただ見つめ返した。
「いや、なんでもない。もうこの話はお終いだ!。それより、楽しい話でもしようぜ! なぁ、おい、近衛。おまえ今日の夜空いてるか?」
「夜? オレ、いつも夜も佐為ん家にいるから・・・」
「なんだよ。一日くらい空けられねーのか?」
「なんで? なんか大切な用なの?」
「いやな、今日はさ、こいつと京の街にしけこもうと思ってよ」
 と三谷を指した。
「加賀!、近衛くんまであんなとこに誘う気か!?」
「なんだよ、真面目野郎はひっこんでな。
 おい、近衛。おまえ、たぶんその面だと女知らねーだろ?」
「えっ!!!なっ?なに?」
 光は慌てて、持っていた剣を落としそうになった。
「その様子だとやっぱり図星だな。おまえ、なんか赤ん坊みてえな可愛い面してるもんな。はっはっは。可愛い奴だぜ。まだお母上の膝の上がいいか、ええ?」
「な、なんだよ! いきなり!」
 光の顔は真っ赤である。
「いいから、オレに付いてきなって。いい遊び女(あそびめ)を紹介してやるぜ。おまえもそろそろいっぱしの男にしてやらなきゃな」
「だから、なんだよ! 何言ってんだよ。加賀!」
 光は加賀の言っていることの意味くらいは解るものの、思ってもみなかった話題にただうろたえてしまっている。
「だからよぉ。遊び女の居るところに連れてってやるってことさ」
「加賀やめろ!」
「あそびめ・・・・って」
「女を買うんだよ。おまえみたいに何にも知らないおぼこはよ、遊行の女にいろいろ教えて貰って一人前の男になった方がいいってわけよ」
「そ、そんな。・・・いいよ。オレは・・・・」
「なんだよ、おまえも筒井みていに潔癖性か? それとも勇気がねえか? ははは」
「おい加賀、近衛君いくつだと思ってるんだ。彼にはまだ早いよ。それ以上からかうのはよせ!」
「あ、解った。それとも何か。おまえいつも、そのへんの女よりずっと綺麗な碁の先生と一緒にいるから、女じゃたたねーか!?え?」
「加賀っ!!!いいかげんにしろよ!」
 筒井はもう臨界点を超えてしまった。いつもは温和な彼だが、今日ばかりは物凄い形相で加賀を睨んでいる。いまにも加賀に掴みかかろうとしていた。
「近衛くん、もういいから、行くといい。佐為殿のお迎えがあるんだろ?」
 筒井は振り向いて光を促した。しかし、当の光は無言で突っ立っていた。
「・・・・・・・・」
 ソノヘンノオンナヨリズットキレイナゴノセンセイト・・・・イッショニイルカラ、オンナジャタタネーカ?・・・・
 加賀と筒井はそれから、光の前でしばらく揉めていた。
 当の光は黙ったまんま突っ立っている。そのうち、だんだん、関係ないことまで引き合いに出てきては、口争いが続いている。そんな様子を冷めた目で眺める三谷。彼は光がただ、ぼうっと突っ立っている様子も無言で斜に眺めていた。
 散々揉めた挙句、最後に加賀が筒井にヘッドロックを決めて、どうやらカタがついたらしかった。この二人の場合、実は口喧嘩も友情の内といったところらしい。
「なんだよ、近衛、まだいたのか?」
「まだいたのか? はないだろ。別に急いでるわけじゃなかったから・・・」
「まあ、さっきは悪かったな。オレも言い過ぎたさ。しかしな、よく考えりゃ近衛、おまえ、佐為殿が居るじゃねえか。オレが世話してやるまでも無かったか。あの美男子にいろいろ教えて貰うんだな」
「何を? 碁なら教わってるよ」
「そーじゃねえよ。傍に天下の色男が居るってことさ。女のことならいくらでも知ってるだろうさ」
「誰が?」
「佐為殿だよ」
「佐為がぁ?」
「おまえ何言ってるんだよ。佐為殿といやあ、あっちの女こっちの女って、もう女にもててもてて・・・有名じゃねえか。あの顔で言い寄られたら、なびかない女なんて居ないだろ。おまえ知らねーのか?」
「佐為が? うそだろ。あいつが?・・・だってあいつ、全然そんな感じじゃないよ」
「おまえなー。それでも都の検非違使か!? おい、あの有名な事件を知らないのか?なぁ、筒井、あれ何年前のことだっけ?」
「加賀っ!、君は僕が今散々言ったこと全然解ってないみたいだな!」
 筒井の顔がまた怒りを含んで赤くなる。
「近衛君は、佐為殿を尊敬しているんだ。余計なことを吹き込むのはよせ!大きなお世話だよ!」
「な、なんだよ。・・・・筒井さんまで・・・。なんか佐為にあるのか? 加賀、事件って・・・?なんだよ、それ」
「佐為殿がらみでな、昔、・・・・朱雀通りに住んでたさる官吏の娘が首つって死んだんだよ」
「え・・・!?し、死んだ!?ど、どういうことだよ?」
「オレはなぁ、あの時検非違使になりたてでよお。夜中に呼び出しがあって、あれこれ調べさせられて大変だったんだ。死んだ女の親父が騒いでさ。娘が自殺したってよっぽど納得し難い事実だったんだろうな。それで、・・・さ。どうもその死んだ女とあの佐為殿が関係があったらしくて、佐為殿が殺したって騒いで・・・よ。オレはその時、佐為殿のこと初めて知ったんだけどな。なんか、娘が殺されたって騒いでた親父より、佐為殿の方が、ずっと女の死を悼んでいたな。それが印象的で、よく覚えてるんだ。それが馬鹿親父の大騒ぎで、凄い噂になってな。佐為殿が節操なく女を弄び過ぎた罰だとかなんとか・・」
「・・・・そんな話・・・聞いたことないよ・・・」
「近衛くん、何も知らなくていいことまで知る必要なんか無いんだ。加賀っ。もうやめろったら」
「いいよ、筒井さん!、加賀、教えてよ!何があったんだよ!佐為に?」
「・・まぁ、だから、ようは痴情のもつれってやつだったらしいんだ。親父は殺人事件にしたがってたけどさ。そりゃ、娘に突然死なれたらショックだろうがよ」
「その女君って・・・佐為の・・・女の人だったの?」
「ま、そりゃ、そういうことだろうな」
「綺麗な・・ひとだった?」
「近衛、ほとけさんなんてさ、それも首吊って死んだ人間なんてよ、見るに耐えねーんだよ。これは生きてる時、どんなに美人でもな。だから、オレにはよくわからん・・・。ただ、そうだな。黒髪は長くて綺麗だったよ。その髪から、すごくいい匂いがした。あれは・・・そうそう。センダン・・とかいう香だったな」
「・・・栴檀・・・!」
 光は手も足も冷たくなっていく気がした。
「・・・もういいや。ありがと、加賀。じゃぁ・・」
 そう言って、光は検非違使庁を後にした。
「なんだ、あいつ、ほんとに可愛い奴だな、筒井。
 佐為殿の話は刺激が強すぎたようだぜ。あんなに肩落として歩いてくぜ。見ろよ、筒井! あんなんじゃやっぱ、女遊びに誘うのは早すぎだったな」
「・・・・・・・加賀!!」
 今度こそ、筒井の激怒した顔を見てさすがの加賀ももうそれ以上は言わなかった。三谷は相変わらず気だるそうに、消沈して去っていく光の後姿を斜に眺めていた。
「ふん。・・・・ずいぶん、重症だな・・・。でもさ、加賀、佐為殿って、若い頃出家してたんだろ。なんで還俗したんだ?」
「そうらしいよな。清貧な生活が向いてなかったんじゃねえか? あの綺麗な面で、確かに頭丸められてもな。そりゃ勿体無いだろ・・」
「勿体無い・・・。馬鹿言うな、加賀」
 三谷が意味ありげににやりと笑う。そんな二人のやり取りにうんざりしながら、筒井は心配そうに光の後姿を見送っていた。




 自分は・・・、何をこんなに動揺しているのだろう? 何を・・・。
 センダン・・だって。
 オレだけが知った佐為の秘密のような気がしてた・・。
 ばかみたいだ。
 香なんて、同じものを他の人間が付けてても、何の不思議でもない。
 ・・佐為だけの香りだと思ってたんだ。
 でも違ってた。
 センダンって、聞かなければ、まだ半信半疑でいられたかもしれない。
 信じないように努力できたかもしれない。
 でも・・・。
 香の名前が佐為に女性の存在があったことを証明してしまった。
 あいつにも女が居たんだ。それもおそらく、その死んだっていう女だけじゃない・・・。
 なんだよ、やっぱりあいつもただのお貴族様だったんだ。あっちの女、こっちの女・・・・。
 浮気な佐為を疎んで死んだんだろうか、その女。

 何を、何を、オレ、いったい・・・。
 どうして、こんな気持ちになるんだ。何が苦しいんだ。

 なんか違う。オレが思ってた佐為と・・・違うから。だから・・。
 なんだよ。どうして・・・視界が曇るんだ。前が滲んでよく見えない。
 やだよ、こんなの・・・。

 あいつは、碁が死ぬほど好きで・・・。だから、ひたすら碁の道に精進していて・・・。
 すごく強くて・・・。ものすごく強くて。いつもそんな顔しか見ていない。
 だって、上流の家の子息のくせに質素な暮らしをしてて、女房からの懸想文に返事も書かないあいつが・・・。すごく不器用なあいつが・・・。

 どんな顔して、女を弄ぶって言うんだよ。
 わからねぇ・・・。オレ。
 そうじゃない・・・。違う。

 オレ、・・・そうだ。

 これは、知ってる。

 知ってる。

 ・・・・嫉妬。

 そうだ。嫉妬っていうんだ。

 なんなんだよ。
 そうだ、自分だけがよく知ってる佐為だと思ってたんだ。

 なのに、ほんとは違う。

 そうだ。いつもそうじゃないか。オレは佐為のことほんとは何も知らない。
 佐為の口から、聞いたことなんてない。
 肝心なことはいつも回りの人間から教えられるんだ。
 何を思い込んでたんだろう。

 佐為にとって自分が特別な存在だなんて。

 ばかな思い込みして。

 佐為・・・・。





「光、どうしたのですか?さっきから黙って。どこか具合が悪いのではないですか?」
 佐為は牛車の中、そして帰宅してからも、ずっと押し黙って、いつもとは明らかに様子の違う光が心配でならなかった。
 光は佐為の屋敷の、今日は屋内に座して、また佐為と対局していた。縁での夕刻からの対局はもう寒くて身が持たなかった。
 それでもしとみ戸の隙間から、冷たい風が忍び込んでくる。佐為は舎人に自分たちが座している畳の周りにぐるりと几帳と屏風を立てさせた。
 帰ってきてから、「打とうよ」と先に言ったのは光だった。そして、いつものように二人は打っている。
 先ほどの佐為の問いにも光は答えない。ただ、黙って盤面を見つめている。
 今日の光の手には、いつもは目立つ緩着な手が少ない。佐為の地を攻め立てようと、勇敢に切り込んでくる。しかし、何でもないという風に、佐為は軽くかわしてしまう。結果、かえって佐為の地が広がるだけだった・・。それでも光の物怖じしない攻め込みを佐為は内心評価していた。
 しかし、それとは別にどうも光の様子がおかしい・・。
「光・・・?」
 佐為はまた呼びかけた。
 やさしい声。そんな声で話し掛けるから、そんな声でオレの名前を呼ぶから・・・。
 だから、オレ思い込んじゃうんだ。佐為。
 その優しい声はオレだけに向けられるものじゃなかったんだ。
 そうだ。そんな声で呼ばれたら、誰だって・・・。
「ねぇ、光?」
 ああ、でもなんて柔らかな声、・・なんだろう。こんな澄んだ穏やかな声で呼ばれたら、誰だって、いい気持ちになる・・・よな? 
 その、死んだ女もこんな気持ち・・だったのかな?
「光・・・」
「光」
「うわっ!何?」
 俯いていた光の額に何か冷っとした感覚がした。佐為の手だった。
「熱は無いようですね・・?」
 次はもう少し硬く暖かいものが額に触った。佐為の額だった。
「うん、やはり熱は無い・・・」
 俯いていた視線を上げれば、佐為の瞳とぶつかった。それも物凄い至近距離だった。
 光は慌てて、佐為を盤の向こう側に押しのけて言った。
「なんだよ!佐為。さっきからうるさいなぁ。何でもないよ!オレなら」
「ああ、良かった、やっと喋った」
 佐為はそう言うと、心底安心したように、にっこりと目じりを下げて、閉じた扇を口元に持っていった。
 佐為・・・・。
 さっき、加賀が言ってた話ってほんとうなのか・・・?
 訊いてみようか。・・訊いてみようか!?
 さっきから幾度も幾度も口元まで出掛かっては、また喉の奥に飲みこんだ言葉がつかえていて胸が苦しい。
「光、何か怒ってるのですか? 私、何かしましたか?」
「・・・・」
「光?」
「・・・・・」
「光、あなたにまで冷たくされるなんて・・・・」
 佐為の声が今度はとても低く、悲しげに響いた。光は胸がきりりといたんだ。
 ちがう・・・!
「佐為! オレがいつおまえに冷たくしたんだよ」
「だって口を利いてくれません」
「・・ごめん。オレなんか考え事ばっかしちゃって・・・」
「そう・・。あなたにもいろいろあるのでしょう。私が聞いてあげられることなら、何でも話なしさい」
「なんだよ!それ。人の気も知らないでっ。佐為こそ!・・・・佐為こそ。オレには何もしゃべんねーじゃないか!」
「光?」
「いつも肝心なことは何もオレに話さねーじゃん。おまえ!。なんで、歌合わせの帰りに落ち込んでたのかも話さないし。それに・・・、それに・・・女のことだって」
 光はここではっとして口をつぐんだ。 が、もう遅かった。
「女・・・?」
 佐為の瞳が曇った。
「・・・おまえ、こないだオレが女のこと訊いても、上手く誤魔化して答えなかったくせに・・」
「光・・・、そんなに私のそういうことが知りたいのですか?」
「・・・別にそうじゃないけど・・・。ただ、周りの奴がいろいろ言うんだ!おまえのこと。でも、オレはおまえのこと何も知らないから、だから、何も言い返せないんだよ!それが悔しいんだ!。どーしておまえ、オレに肝心なこと何も教えてくれないんだよ!オレじゃ頼りにならねーってことか!」
 光は一気に言ってしまった。不思議なことに後悔より、胸につかえたものを吐き出した爽快感があった。
「そう・・ですか。何を聞いたかは知りませんが、光。誤解の無いようにこれだけは言っておきます。私があなたにそういったことを話さないのは、光。あなたのことを見くびっているからではありません。頼りにしてないのでもない。むしろ、私はあなたのことが大好きです。だけど、話せないこともあります。
 いいですか、それはあなたがまだ大人になりきっていないからです」
「え?」
「光はまだ心の中が子どもです。違いますか?」
「・・・」
「大人の話はできません。だってあなた、まだ女も知らぬでしょう?」
「・・・・・」
 まさか加賀と同じことを佐為の口からも聞くとは思ってもみなかった。
「恋もしたことの無い光に私の気持ちが解るでしょうか? 大切な人を失ったことの無い光に私の気持ちが解りますか?両親に慈しまれて育った光に私の寂しさが解るでしょうか? 人に疎まれたことなど無い光に、私の苦しみが・・・・解るでしょうか?
 あなたは愛情に恵まれて、真っ直ぐに育って、明るくて元気で・・・。私にはとても眩しい。そんな光が私はとても好きです。でも、まだ、あなたは人生の辛酸というものを知らない。
 綺麗で純粋なあなたの心の泉に、私が浸ってきた濁水を注ぐにはまだ、時期が早すぎる。あなたがいつかもっと大人になって、いろいろな経験をして、そしたら、私の辿ってきた道の全てを喜んで見せて上げます」
「・・・・・・・」
「光、実を言うとね、話す機会ならいくらでもありました。でもあなたは光源氏のことを笑いましたね。私の話を面白おかしく聞いて笑っていた。だから、私はそれ以上話さなかった。私も・・・・、愛したひとが、そう・・母に似ていた・・・などとはね」
 静かな佐為の言葉を聞き、光は凍りつき、その場を微動だにも動くことが出来なかった。
「・・・あのひとは、私の寂しさを包み込んでくれました。そして・・・よく膝枕をして、髪を梳き、子守唄を綺麗な声で歌ってくれた。きっと、あなたには可笑しいでしょう。・・・そんな話を聞いたら、あの時の光は笑ったんではないでしょうか。違いますか?」
 自分の愚かさに吐き気さえ覚えた。何も解ってなかった、自分は。何も解ってなかった。心で泣いた。佐為の、心の奥底にあった闇にまったく気付かなかった。なんてことだ。
 馬鹿だ、オレ。ほんと馬鹿だ。自分が佐為と一緒に居て楽しくて、それで、自分の気持ちばかり先に来てた・・・。
 溢れ出る涙を抑えることが光には出来なかった。ぼろぼろと泣いた。佐為の見つめる前で。優しい指先が顎に添えれられるのを感じた。
「光。光はやっぱり優しい子ですね」
 何、言ってんだよ?おまえ・・・。
 見上げると、佐為が悲しげな瞳で笑っていた。
「ごめんね、光を泣かせてしまった」
 ほんとに・・・何言ってんだよ、おまえ。泣かせたのはオレの方だろう?
「佐為、オレだって・・・・・・してやるよ」
 知らずに口からついて出た言葉だった。
「は?」
 何を言い出すのだろう・・・。佐為はそう思ったが濡れた光の瞳は真剣だった。
「だから、そのひと。佐為が愛していたひとは、佐為のことを慰めてくれたんだろう?」
 光には不思議と確信があった。「母に似たひと」・・とはきっと死んだ女のことであると。佐為の母親と同じ香をつけていた・・その女人にちがいないと・・。
「・・・・」
「ねぇ。母上を失った佐為は寂しかったんだろう? そのひとはおまえの母上みたいにおまえの寂しさを埋めてくれたんだろう? なら・・・、オレだってやってやるよ」
「・・・・・・・」
「・・・佐為。こっちこいよ。オレが膝枕してやるよ」
「え・・?」
 佐為は、光の言っていることが最初飲み込めなかった。 が、しかし光の瞳が雄弁に語っていた。彼は、光の気迫に押されてしまった。あまりに真剣な眼差しに否と返す気になれなかった。言う通りに彼はこうべを光の膝に預け、子供のように横になった。
 光は、佐為の髪を撫でた。出来る限り優しく。自分が母にしてもらった遠い記憶を辿って。指先に懸命に想いを込めた。何度も何度も指を滑らせた。
 そして歌詞の覚つかない子守唄を途切れ途切れ歌った。どこかあどけなさの残る少年の声で。ちっとも上手い歌ではなかった。
 佐為は泣いた。一筋、二筋、佐為の頬を伝って落ちていく真珠の粒。光はその粒を拾って、胸にしまってしまいたいと思った。
「光、・・・。あのひとはね、私の子を身ごもっていたのに、逝ってしまったんです」
 ・・・身ごもっていた・・・・
 この言葉はまるで雷のように光の心を切り裂いた。こんなに辛い言葉も受け止めるのが大人なのだろうか。聞くのが辛いから、聞かなかった。耳を塞いでいた。子供だったから。
 だから、佐為は言わなかった。オレに受け止められないって解ってた。・・だから。
「生まれていたら、光のように明るく元気な子だったでしょうか」
 光はまた泣いた。次から次へと涙が溢れて止まらなかった。
「私は、正式にあのひとを妻にしたいと申し出ました。しかし、あのひとのお父上が反対しました。官職にもつかずに、出世の見込みもない、ただの碁打ちを婿に取るより・・・、ずっと将来有望な者が居ました。私の他にあのひとに懸想している者が居たのです。・・・・・何の因果か。それは菅原顕忠でした。お父上は、顕忠殿との結婚話を受けたのです。ある日、私の送った後朝の歌が送り返されました。家を訪ねても女房が変わり取次ぎをしてくれません。そして、数日の後、あのひとは独りで逝ってしまった・・・。私への操立てだと、後で彼女の侍女から伝え聞きました・・・・。辛かったろうに・・・・」
 光は泣きながら、自分の膝の上の佐為の横顔にそっと自分の頬を重ねた。重ねながら、髪を梳いた。
 佐為の体温が伝わった。新しく発見した光なりの優しさの表現だった。
 佐為は静かに、光の頭に腕を回すと半身ひねって、光の膝枕のまま仰向けになった。そして、光をそっと引き寄せ、やさしく口付けた。


つづく

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