燻炎三

 

 
 ある日、顕忠は侍読として帝に奏上した。
「宇治に、高名な僧が居ります。
かの山とは双璧を成すもう一つの山で修行を積み、学問においては並ぶ者なし、当代随一と聞き及びます。一度講義を聴かれる価値はおありになろうかと思われます。如何でございましょう」
 帝は答えた。
「その僧の名は知っている」
 そこで顕忠は思った。
 桜内侍はどうやら、僧のことだけは伝えたらしい。
「ご興味をお持ちでございましょうか?」
「一度逢ってみたい」
「お顔の色が優れません。何かお心に気がかりなことでも?」
「別に何もない」
「私のとり越し苦労でございましたならば、安心でございます。と申しますのも、かの僧が積んだ修行は学問ばかりではありません、それはご存知でございましょうか? もしも、何かお心を悩ますような忌々しきことがあれば、お役に立とうかとも思った次第でございました」
「怨霊や物の怪の調伏のことか?」
「これは…ご存知でございましたか。
 かなりの荒行を積んだとの話を聞いております。驚きますことに調伏の力にかけても並ぶ者なしと」
 この時、帝は僅かに端正な顔を歪めた。
 顕忠が言わんとすることを静かな瞳の奥で探ったからだった。
 程なく顕忠に対し、こう言った。 
「もしも・・・、余が体調を崩すようなことがあったとしても、悪鬼や物の怪の所為ではないであろう」
 顕忠は少し慌てて言上した。
「もちろんでございます。・・・・・そう、そのようなはずがございません、大君は、天下の平安の為、広く恩赦をお出しになりました。慈悲深き帝におかれまして、天の加護なきようなことある訳がございません」
 顕忠のこの言葉に対し、帝は自嘲気味に浅く口元だけで笑ったのだった。


 さて、その夜のことである。
 もう()の刻も回った頃だった。
 帝の住まう清涼殿に近い飛香舎(ひぎょうしゃ)の女房達が数人、灯台の明りの下に集まっている。何時尽きるとも知れない噂話に花が咲いているからである。表で言えぬ話をこっそり裏でするのはどの殿舎の女房も同じであった。
 一人の女房が言った。
「また今日も中宮様のご機嫌が悪くて、大変でした」
「し、声をもっと落として」
「すみません、つい。でも堪りません、こう中宮様のご機嫌がお悪いと・・・私たちが大変でございます」
「そう、御髪を梳けば、痛いとお咎めになり、一度お召しになった衣の色を急に気に入らぬとおっしゃったり、丹念に焚き染めた香の匂いがいつもと違うと言ってお怒りになったり・・・・もう何をしても、お気に召さぬご様子で・・・」
「ああ、それもこれも全ては・・・」
 一人の女房が言いかけたが、口をつぐんでしまった。
「それもこれも・・・? さて何だとおっしゃるのです?」
 先ほどから、少し酒を口に含んでいた女房が続きを促した。
「すみません、何でもありませんわ」
「はっきりおっしゃいな」
「まぁまぁ、言わずとも皆了解していることではありませんか」
 そう言った女房は扇の下でにやっと笑った。
 すると、他の女も言った。
「そうです、もういいじゃありませんか。皆周知の事実なら」
「そう、皆知っていることですもの、中宮様のご機嫌が悪い理由など」
「今更、知らぬふりをしても始まりません」
「そうそう、中宮様がやっと里邸より内裏にお戻りになったのはいいけれど、帝は、まだ一度も中宮様をお召しにならない。だから、中宮様はご機嫌が悪くてらっしゃる」
「いえいえ、それだけではありません、まだお顔さえ見にもいらっしゃらない。お可哀想な中宮様!」
「本当にお可哀想な中宮様。では、どうしたら、帝が中宮様の許にお越しになるでしょう。良い案はありませんの?」
「多くの女御様がおられても、これまで群を抜いてお気に入りという程の方もいらっしゃらなかったのに、何故かしら」
「そうそう、中宮様との仲だってお悪くはなかったのに」
「中宮様はあのように誇り高い方だから、言葉にはお出しにならないけれど、何よりも帝のお心を気にしてらっしゃるはず。これ以上、帝にすげなくされては、ますますご機嫌を悪くなさいますわ。痛々しくて差し上げる言葉もありません」
「聞くところによると、中宮様が里邸に居らした間も、これまでと変わらず、特別に強いご寵愛を頂いていた方はいらっしゃらなかったとか」
「いいえ、それどころではありません。帝は、ここ一年ほどの間、どの殿舎の女御様もお召しではないし、またどちらへも足を運ばれてらっしゃらないと私は聞きましたわ」
「まぁ、それは本当に?」
「そんなことかつて無かったことではありませんか」
「帝が何方もお召しにならないなんて」
「・・・・・ご体調でも優れぬのでしょうか?」
「いえ・・・もう帝も・・・・・ご年齢が・・・・・」
「ま、そんなこと言ってはいけませんわ!」
「あらあら皆様、それなら簡単です。また帝にお気に入りの若い蔵人の方か、殿上童でもいらっしゃるのではありませんか?」
「私もそう思ったのだけど」
「ところがそうでもないらしいのです」
「ではどうして?」
「帝は本当に何方もお召しになっていないご様子なのです。ここ一年ほど、本当に何方も」
「帝は・・・・・・今までに取り立てて強いご寵愛を注ぐ程のお妃をお持ちでなかったのは確かだけれど、恋多き方ではいらっしゃったはず。一年もの間、何方もお傍に寄せないなどあり得なかったのに」
「ええ、ええ、帝は・・・・・まるで、そう、理想の方を探し求められるように、数多くの方と逢瀬をもたれて来たけれど、ついに何方にも強くお心を傾けるようなことはありませんでした」
「そう、たとえ、ご寵愛になる若い蔵人の方がいらしたとしてもです。後宮に関心をお示しにならないことなど無かったのに」
「何方にも、公平に・・・・・。だからこそ、中宮様はその中で一段高いところにいらっしゃったのだわ」
「でも、お傍に侍らしている女の方なら、今でも一人いらっしゃるじゃありませんか」
「誰が?」
「桜内侍様です」
「まぁ、どなたの事かと思ったら、あの方のことですか。確かにそのように噂されたこともありました。でも桜内侍様は、どうやらそういうお相手ではないそうですわ」
「そう、違います、それなら私も知っています」
「でも中宮様は桜内侍様を酷く嫌っておいでですわ」
「それは、あのように昼夜を嫌わずお傍に侍らせていらっしゃるのですもの・・・中宮様も面白くしてなどいられないでしょう」
「では・・・帝のお気持ちが後宮に向かわれないのは、一体どうしてなのでしょう・・・・・」
「・・・・・・・」
 皆黙ってしまった。
 これで噂話も煮詰まったかのようであった。
 しかしここに来て、今まで黙していた古参の女房が、せきばらいするとしたり顔で言った。
「中宮様が嫌っておいでの方といえば、もっと他にもいらっしゃるではありませんか。中宮様がいかに桜内侍様を疎まれているにしても、あの方を憎まれるお気持ちに比べたら、その比ではありません」
「それは何方ですの」
 新参の若い女房が訊ねた。
「うふふ、やっと本題に入りましたわね」
 また別の古参の女房が言った。
「まぁ、確かに帝のご本命は、あの方ではないかという話もありましたけれど・・・」
 またまた別の女房が遅れをとるまいと口を挟んだ。
「あの方って・・・?」
 若い新参の女房はさっぱり話が掴めなかった。
「ほら、あのお方に決まっていますとも」
「あの美しい君ですね、私は好きです。ああ憧れます、あの素敵な君!」
 夢見るような瞳で、若い女房が言った。
「でもあの君とそんな風になれば、たちまち噂が広まるはずではありませんか。後宮の女房達の最大の関心事の一つですもの」
「確かに、あの君は他の官人の殿方のように内裏に宿直なさることもないし、今までのお相手の方がたのようには行きませんね」
 新参の若い女房は堪りかね、再び訊ねた。
「先ほどからお話に出てくる『あの君』とは、一体どなたのことでございましょう?」
 ところが、哀れな若い娘に誰も答えるではなく、話は続いていった。しかもそれは、次第に遠慮のない、率直な言葉になっていった。
「他のこれまでの男色のお相手のように気軽にはいきますまい」
「どうして?」
「だって中宮様の弟君でらっしゃるのですもの」
「中宮様の弟君ですって!」
「あら、逆に言えば、そのご血縁があるからこそなのですよ、帝が中宮様にお優しいのは。ご存知ありませんの?」
「まぁ、そこまで言っては、中宮様のお立場が・・・」
「そういえば、前々から思っていたのですけれど・・・」
「何をです?」
「いえ、中宮様の弟君でありながら、あの君は少しも中宮様と似てらっしゃらないのはどうしてなのでしょう?」
「母君が違いますもの、不思議ではありませんわ」
「それもそうですが・・・なんと申しましょうか」
「何をおっしゃりたいか分かってますわよ」
「くっくっくっく」
「ふっふっふ」
「くっく・・・そう、よりにもよって弟君の方がお美しいだなんて、うふふふふ」
「まっ、私はそのようなこと、思ってなどおりませんわ!」
「ちょっと、皆様!」
 一人の女房が堪りかね、強い調子で言った。
「先ほどから聞いていればまったく。
『あの君の姉君だから帝が中宮様にお優しい』のだとか、『中宮様より弟君の方が美しい』だとか・・・。・・・・・そんなことが中宮様のお耳にはいたっら、どんなことになるとお思いです!?・・・中宮様が、弟君のお美しさを羨んでおいでなのは、里邸では有名な話なのですよ」
「有名・・・? 中宮様が弟君を妬んでおられると・・・そうおっしゃるのですか?」
 ここで、声を落として女房は答えた。
「それがそうなのです、もともと、中宮様のお母君が・・・ああ、関白様の北の方のことです。その母君が幼い頃、同じお屋敷に居らした妾腹のあの君のことを嫌っていらして、中宮様もきっと母君の想いを継がれておいでなのです。
 それが因果なもので、中宮様が入内されたばかりの頃、時を同じくして、弟君が帝に請われて殿上童に上がったのですよ。帝自ら請われたくらいですから、傍目にもはっきりと、ご執心のご様子がうかがわれて・・・中宮様はお立場が無かったものでした。
 幼い頃からの複雑なご関係も相まったのでございましょう。ちょうど折り良くあのころ、殿上童の弟君には物の怪が憑いている、帝の傍に寄せてはいけない、などという噂が広まり・・・、宮廷を下がってしまわれたのですが・・・」
「まさか・・・!」
「そう、もしかしたら、噂の大元は中宮様・・・、いえその母君である関白様の北の方だったのかもしれません・・・そんな風にも聞き及んでいます」
「まぁ、恐ろしい!」
「ですから、再び、そのような禍々しきことの二の舞になってはいけません。絶対に中宮様の前で弟君のことを褒めてはいけませんよ、分かりましたね」
「そうですよ、ここは中宮様の住まう飛香舎なのですから!」
 皆、ここまで好き勝手に言いながら、最後の一線だけは護っていた。しかし、誰かが遂に言ってしまったのだった。次なる言葉を・・・。
「それにしても、佐為の君というお方は・・・なんて罪な方なのかしら・・・」
 瞬間、座は静まり返った。
 しかし、数秒過ぎると、皆顔を見合わせ、笑いを堪えた。
 堪りかね古参の女房が、くすくすと押し殺して笑う女房達をたしなめるかのように言った。
「しっ! それは飛香舎では禁句です。だから皆さんお名前を伏せてらしたのに。中宮様がひときわ忌み嫌ってらっしゃる弟君のお名前です。皆さん、気をつけなさい」
 皆、直ぐに神妙な顔になり、押し黙るより他なかった。
 やっと話の内容が飲み込めて、満足気な顔をしていたのは、若い新参の女房だけだった。



 そして同じ夜、佐為は屋敷に一人だった。脇息の横には杯が置かれていた。随分と久しぶりに一人のような気がした。
 酒を飲むのも久しぶりだった。なぜなら、いつも一緒に居る少年が飲まないからだった。
 遠慮していたのではない。自分は飲まずとも少年は進んで酌をしてくれたものだったのだ。
 ただ、酌をさせるよりも、しらふで碁盤を囲み、相対する座に座らせることの方が多かった。どんな美酒にも敵わぬ妙味だった。
 さて、杯の向こうには、先ほどまで目を通していた棋譜の山があった。兄弟子が海の向こうからもたらしたものであった。佐為にとっては宝玉と等しきものである。
 その宝の山に今まで耽溺していた。幾度も見返しては、自分の手に置き換え、頭の中で、あるいは碁盤の上に再現して、更なる道を探った。尽きせぬ道であった。
 唐土の碁は、日本に渡来し帰化したそれと微妙に考え方にズレが生じている。しかし、帰結するところは一緒だ。昔、師から譲り受けた棋法で既に親しんでいたが、その後の長い間に、自らの体に流れる母国の血潮に溶け、混じり合い、熟していっていた。
 兄弟子と共に、それらの棋法や理論をまとめ、編纂していく作業の過程に於いても、彼は進化を続けていた。そして、何より同じ師の門弟と共にこの歓喜を分かち合うのは至福といって良かった。
こうして、彼は常に新たなる一手の探求に心血を注いでいたのである。
 そう、そうした作業に溺れている間は良かった。
 しかし、今、棋譜と碁盤を杯の向こうに置いたとき、ふと思い出さずにいられない面影があった。

 どうして、あの子は、急に自分の家に帰ってしまったのだろう。
 「長い間留守にしている、たまには帰って様子を見ないとまずい」という言い分ももっともである。
 しかし、もう今日で四日は経とうか。
 長い・・・・・・・。四日を長いと感じている自分に気付き、佐為は自らを呆れた風に笑った。
 明日には迎えをやろう。また明るい笑顔で自分の傍らに戻ってくるに違いない。そう思い、杯を飲み干したのだった。



 そしてさらに、同じ頃。
 清涼殿の内庭には人影があった。
 男は月明かりに照らしだされた濃い光沢のある緑の葉を見つめていた。
 橘である。
 この若い小木は冬も尚、緑の葉を落とすことなく、爽やかな香りと共に強い生命力を感じさせるのである。
 男は蒼い光を受け、薄闇の中にただ黙ってこの小木の前に立っていた。
 以前にもこんなことがあった。しかし、今はその時と違っていた。違うのは、夜の闇の中であり、周りには誰も居ず、手に刀剣を携えていることだった。
 男は手に持った長い刀剣を鞘から抜くと、目の前の青々とした橘の若木を伐った。
 狂ったように、一振り二振り・・・十を越したろうか、枝を削ぎ落とした。
 息は上がり、肩は上下した。
 そして男は刀剣を今度は地面に突き刺すと、(つか)に両手を掛け、さらに額を乗せた。汗の雫が光る額には乱れた黒髪がはらりと落ちた。その黒髪には白髪も混じっていた。

         養子! 
 ああ、そんな言葉は聞かぬ方が良かった。
 あのしたり顔の、陰険で無骨な男め、地獄に落ちるがいい!
 いや、地獄に落ちるのは余だ。
 宇治の法師には調伏の力があるのではない。
 違う、調伏の力を持つ者は等しく、またその反対の力も自在なのだ。誰を呪えと!?
 誰を呪えと、そなたは言いたい!? 言いたいのだ!

 ああ、かくも愚かな我を笑うがいい。
 一時の幸福を手に入れる為に、無限の苦悩の淵に沈んだ我を嘲笑するがいい。

 欲しいのは・・・・・ああ、この手に欲しいのは・・・、あの清らな泉だけだというのに・・・


 つづく

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