燻炎四

 

 
  桜内侍は清涼殿の内庭にうずくまる人影を認めて、慌てて近寄った。咄嗟のことで、衣の裾を上げることが出来なかったが、それでも構わずに内庭に降り立った。
 うずくまった人影は苦しげに肩を上下させていた。息は続かず、時折掠れた呼吸音が聞こえた。内侍は思わず、その不規則に上下する (くずお)れた背を助け起こそうと、屈んで手を差し伸べた。しかし、うずくまった男は苦しげに口元を押さえていた。
「どうなさいまいした!? お苦しいのですか? このような夜更けに御殿の御帳から抜け出されて・・・一体どうなさったというのです。さぁ、お戻りくださいませ!」
 しかし、その時、内侍はふと、口元を押さえた男の手の隙間から、何か雫のようなものが地面にぽつんと落ちるのを見た。夜の闇にそれが何かは良く分からなかった。目を凝らしていると、果たしてそれはもう一度、ぽつんと地面に落ちた。何か黒い塊だった。
 血・・・!
 彼女は声も出ない程、驚いた。見る見るうちに指先から体温が抜け落ちていくのが分かる。冷たくなった指先は同時に震え出した。震えは喉にも伝わった。何か声を出そうとしたが、あまりの動揺にやはり声にならなかった。
 凍る手で、ようやく男の背をさすった。不遜で大胆な振る舞いとは解っていても、そうせずにはいられない切迫したものを感じた。

 そうしているうちに、事態を、少し落ち着いて眺める余裕を得た。次に男の傍らに奇妙なものを発見した。地面に突き刺さった剣だった。これに目が行かぬほど、内侍は男の尋常ではない様子に気を奪われていたのだ。鞘の方は少し離れたところに落ちていた。鞘のさらに少しむこうに、よく整えられた庭にしては、不自然な・・・そこにだけ何故か木の枝や、木の葉が散乱していた。そして見た。橘の小木が無残な姿をさらしているのを。

 内侍はこの内庭で何が起こっていたか、大体察すると、酷く愕然と俯いた。そして涙が込み上げてくるのを覚えた。
 しかし、それを必死で抑えると、なんとか男を支えて立ち上がらせ、階へといざなった。階を上がり終えると、途切れる声が脇から聞こえた。
「言うな・・・」
「上・・・?」
 瞬時に内侍には判った。橘の枝を伐ったことを言うなと言っているのではない。吐血をしたことを言うなと言っているのだ。
「済まぬ・・・騒がないでくれ・・・」
「しかし、直ぐに薬師を呼ばなければ!」
「いや・・・誰にも言うな・・・絶対に、誰にも・・・言ってはならない・・・」
 やっとそう言った。そして、少しして一言だけ付け加えた。
「・・・許せ」
 内侍は心で泣いた。そうするより他なかった。



 
 数日後、佐為は左大臣邸に居た。棋書の編纂は左大臣邸を本拠地として成されることになったからだった。
夕星(ゆうづつ)姫の入内から一年以上が過ぎた今、何時の間にか、佐為と左大臣家の間にあった硬直は解けていた。むろんこの家の嫡男の童子が酷く佐為に懐いていたせいもあったし、もともと左大臣は佐為に対して、悪い感情は抱いていなかったからだ。
 そして、東宮妃である夕星姫のことを思うと、帝の意志を出来るだけ尊重しなければならないのは、東宮妃の父である左大臣にとっては当然のことであった。つまり、佐為が左大臣邸で棋書の編纂に当たるのは帝の要請によるものだったのだ。
 
 唐土の法師は先ほどから、柱に寄りかかり、片方の足を無遠慮に投げ出していた。背筋を伸ばして文机に向かう佐為とは対照的であった。法師は腕組みをして、弟弟子の姿を観察していた。
 先ほどから佐為はずっと無言だった。無言で居る訳には二つあった。
 一つ目は今朝ほど宮中より届いた文だった。文は桜内侍の筆によるものだった。長い文であった。佐為はその文を読むと、鉛を飲み込んだように胸が重たくなるのを覚えていた。その重い胸を引きずって左大臣邸を訪ねていた。
 そしてもう一つ・・・これはその場に居る唐土の法師にも容易に察しのつく理由だった。案の定、法師にはこちらの理由しか見当がつかずにいた。
 佐為はその後もしばらく無言でいた。しかしある時、墨を滲ませてしまったらしく、突然紙に書いたものを丸めると、彼にしては珍しく、いくらか乱暴な所作で脇に投げつけた。こんなことはめったにあることでは無い。法師は瞳を見開いた。
「何をかりかりしている?」
「別に私は・・・」
「・・・あの子、来ないな」
「・・・・・・・・・」
「どうかしたのか?」
「・・・どうにもこうにも。数日前に家に呼びにやったが、結局帰ってこなかった・・・今日はここに来ることになっていたはずなのに、まだ来ない。一体何をしているのか・・・」
「・・・おかしいな、連絡はないのか?」
「ありません・・・そうだ、何故何も言って遣さない!?」
「・・・師匠を待たせるとは、弟子失格だな」
「そうです・・・・・私を待たせるなんて!」
 佐為は憤った気持ちに任せてそう言ったが、直ぐに付け加えた。
「・・・いえ、でも失格とまでは・・・」
「甘いんだな」
「・・・あの子は何か理由もなしに約束を違えるような子ではありません・・・それを知っているだけです。何かきっと事情があるのでしょう」
「まぁ、いいさ。とにかく進めるとしよう。オレはもう若くはない。あの子のように前途にたくさん時間があるわけじゃない。おまえと棋法を検討する時間はオレにとって限られた貴重な時間なんだ、無駄にはできん」
「分かりました。それは私にとっても同じです。まずは検討する棋譜を選定しましょう」
 佐為はそう言ったが、やはり数日に渡って自分の前に姿を見せない光のことが何処かで気がかりであった。
 しかし、永遠にこの国に居る訳ではない兄弟子との時間は本当に貴重だったのだ。一旦検討が始まると、兄弟子との論議は白熱し、時が過ぎていくのも忘れた。そして、その白熱した論議は深夜遅くまで続いた。結局最後まで左大臣邸に光が現れることはなかった。



 明はこの日、大内裏の陰陽寮に出仕した折、奇妙な話を耳にした。宮中に宇治の高名な法師が参内して連日宿直しているというのだ。
「どういう訳ですか? 宇治のその法師といえば、知る人ぞ知る、我々と同じ力を持つと言われる法師ではありませんか」
「侍読の顕忠様の招聘に依るとか」
「学問の為に招いていると?」
「そのようだが」
「・・・・・・帝にご対面なさっているのでしょうか?」
「さぁ、そうでは・・・・・。我々の間では既に周知のことだが、帝はご体調が良くない。典薬寮も匙を投げたそうだ。だが、案の定、陰陽寮には何も言ってこない。もう知っているんだがな、ご体調の悪いことを公表なさらない為であろう。お足元の我々の代わりに宇治の僧の力を頼ったということではあるまいか」
「なるほど・・・・そうですか・・・」
 明はこの時、頷いた。
 しかし、明は勤めが終わると、家路を急いだ。屋敷に帰って水盤を覗いてみたかったのだ。もう深夜に近かった。
 ところが彼は、宮城門を出たところで、これまた奇妙な人物に呼び止められた。若い武官である。衣の色で下級の検非違使と判る。見覚えはあるような無いような・・・はっきりしなかったが、相手は自分を知っているようだった。
 なぜなら、こう話し掛けられた。
「あんた、近衛を知っているだろう?」
「ああ、知っている」
「少し訊ねたいことがあるんだ」
「・・・・・・分かった、手短に済むなら聞こう」



 さて、こちらも既に深夜であったが、佐為は牛車を、自分の屋敷ではなく、光の家に向かわせていた。法師も一緒であった。いつもなら、単なる馴れ合いでいちいち付いて来るようなことは決してしない楊海法師が、こうするのは珍しかった。彼は自らが重要と判断したことにしか、関心を示さない。無駄な時間を過ごすことを嫌っていた。しかし、彼は合理的ではあっても、冷たくはなかった。むしろその合理性は、情の深さと表裏をなしていたのである。一種独特のこうした彼の行動規範に、佐為は慣れていた。一緒に来るからには、光は楊海にとって、意味のある存在なのだろうと思った。
 佐為は牛車に揺れながら、考えを巡らしていた。
 その主たるものは、光が今日、左大臣邸に現れなかった理由である。しかし、それ以前から、光がなかなか自分の屋敷に戻ってこない訳について、思い当たる節がない訳ではなく、幾度か、光の言動について記憶を辿っていた。
 家に帰ってしまった日の前夜は、光の幼馴染の娘の産んだ乳飲み子と乳母が方違えのために屋敷に泊まっていた。
 赤子が寝入ってから、光の許に赴くと、凍てつく寒さの簀子で光が寝てしまっている。一瞬、見ている佐為の方が、身も凍るかと思うほど驚いた。慌てて光を起こすと、室内に連れて行き、体を温めてやった。
 赤子の可愛らしさに気を取られていた。あの日、光は疲れきっていたのだ。光のことを放っておいたことを済まなく思ったのだった。
 そしてその夜、光は「少し家に戻る」と言い出した。何か以前とは違って、ひとかどに自立した意志が感じられたので、佐為は尊重して、その時は何も言わなかった。
 しかしその後、褥の上で光を抱きしめると、あっさりと大人らしさを捨てて、遠慮せずにこう言っていた。
「光が居ないと、この屋敷は火が消えたように寂しくなる。直ぐに戻ってきてください。あなたが居ないと寂しい、私の傍にずっと居てください」
 光が佐為と出会ってから、何度聞いたかしれない言葉だった。思えば、この褥で交わす睦言のような言葉を、臆面もなく彼は昔から言い続けていた。今はそれが計らずも本当に褥で交わす言葉になっただけだった。
 しかし、褥の上で睦みあった後だというのに、光は意外にも責めるような口調で佐為にこう言ったのだ。
「そうやって、いつでもおまえはオレに『傍に居ろ、寂しい』と甘えた声で懇願するけれど・・・だけど、ただそれだけだ」
「は・・・?」
「・・・一見、オレの前では何も隠さないみたいに振る舞うけど、本当は違う。おまえはオレに見せないでいる部分がある、そうだろう? それを塀で囲んでいる。その塀を決して崩さないんだ。
 おまえはどうしてオレにすべてをさらけ出さない? オレはおまえにオレのすべてをさらけ出しているのに・・・!」
 光はとても悔しげな瞳をして、切々とそう訴えたのだ。
 そんな風に責められると思ってもみなかった。佐為は酷く驚き、そして狼狽した。だが、正直、光に言われて、改めて自分のそうした部分に気が付いたといってよかった。ほぼ無意識にそうしているのだ。
 言い当てられているだけに何も返せず言いよどむしかなかった。しかし、当の光は言い過ぎたと思ったのか、直ぐに済まなそうな顔になった。そして、打って変わって明るい調子でこう言った。
「おまえって面白いな、碁では絶対に負けないのに、そんなに困った顔をするんだ、はは」
 光は笑った。そして尚も明るい調子でこう続けた。
「どうしたんだ、おまえ? いつもみたいに、不遜なことを言うと、オレを叱らないのか?」
 最後の方は、しおらしい顔になってそう言った。
 佐為は、しかし、尚も返す言葉を見つけられなかった。
 そして、改めて光が言ったことを考えた。
 不遜・・・。確かにそうだ。光に全てをさらけ出す必要がそもそもあるのか? そんなことは仮に努力したとしてもきっと不可能だ。光とて、自分に全てをさらけ出していると言うが、それは若さ故の思い込みだ。自らに置き換えてみても、おのれの全てを知っていると、その前に言えるだろうか? まして他人にそれをどう伝えよというのだ。十七になるとはいえ、未だに愛らしい顔をしたこの少年にどう説明したらいい。愛はすなわち、全てを知ることだとは佐為には思えなかった。
 しかし、光の言いたいことは佐為にも分かっていた。光と自分とでは、確かにその比重が違うと。光よりもより多く、自分は光に伝えていないことがある・・・それを言いたいのだろう。
 光の言葉を借りれば、「ずるい」。そういうことだった。
 だが、そんな葛藤を自分にぶつけてくる少年が堪らなく佐為は愛しかった。これだけは間違いなく真実だった。

 佐為が言葉を探しているうちに、光は眠りかけ、佐為自身も眠気に襲われた。
 ただいたわり合うように、互いを優しく抱きしめながら眠りに落ちていった。

 

 佐為がこうして別れる日の前夜のことを思い出しているうちに、車は光の家に着いた。
 明かりは見えず、家屋は真っ暗だった。
 呼んでも返事がない。数日前に使いを遣ったときは、確かに光が居て、応対したと聞いていた。身の回りの世話は三津がしているはずだった。だが、静まり返った家に人の気配はない。佐為は不安に駆られながら、明かりを灯すと奥に入っていった。 
 光の名を呼んだ。だが返事はない。あちらこちら探しているうちに、ふと、床の上に黒い塊があるのが目に入った。初めは、何が置いてあるのだろうと思った。しかし、それがどうも人らしく、体つきから光らしいことに気付くと、佐為は背筋が凍るのを覚えた。光は其処に居た。居たのだ。それも、無残な姿で倒れていた。

 佐為は、咄嗟に明かりを法師に手渡すと、跪き、床に倒れている光を夢中で膝の上に抱き起こした。体温を感じる。息をしている。良かった、生きている・・・! まず佐為はそう思った。そして、名を呼んだ。しかし、返事はなかった。瞳は閉じられ、息は荒かった。そして、先ほどからどうも異臭が鼻をつく。
 法師が明かりを光の顔に近づけると、佐為は思わず美しい顔を歪ませた。
「光! どうしてこんな・・・!」
 法師も光の様子を見ると瞳を見開いて、やはり同じように顔をしかめた。
「吐いているらしいな。うつぶせていたから、喉を詰まらせなかったのだろう。おい、見ろ、傍に柄杓が落ちている。水を飲もうとしたのではないか」
 そう言って、法師は周りを見回した。
「これは酷いな・・・」
 そう言って、また光の方を見た。すると、佐為は光の顔をそっと懐紙で拭いてやっていた。だが衣の汚れまでは拭えなかった。
 しかし光を放すどころか、赤子のように腕に大事そうに抱いていた。
 そして言った。
「楊海殿、光は酷く熱い・・・! まるで火の玉のようです、燃えているようだ・・・!」
「多分、この様子だと、水分を出しきってしまっているのだろう。力を振り絞って、水を飲もうとしたのかもしれないな。だが、力尽きて気絶した・・・のか? とにかく何とかしよう」
 法師はそう言った。
「なんていうことだ! 酷い、こんなことになっているなんて。私が家に帰しさえしなければ!! ああ無理矢理にでも連れて帰っていれば!」
 佐為は取り乱して叫んだ。
 すると、法師ではない、別の人物の声が突然、佐為の背後から響いた。
「いえ、彼があなたの屋敷を離れたのは正しかったかもしれない」
「明殿・・・!?」
 陰陽師の明だった。彼は息を切らし、肩を上下させながら其処に立っていたのだった。


 つづく

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