燻炎五
「彼があなたの屋敷を離れたのは正しかったかもしれない」
明はそう言った。
法師は、その言葉に振り向いた。それまでは倒れている少年に気を取られていたせいか、明が入ってきたことに気付かなかった。が、この時何かに瞠目するように、明の顔をしげしげと眺めた。
光を抱いていた佐為も驚きの眼差しで明を見やった。
「明殿!? 一体どうしてあなたが?」
「先ほど勤めからの帰りに、宮城門のところで、近衛の同僚という者に呼び止められました。彼が言うには、一昨日から近衛は無断で出仕を休んでいると。何かあったか知らないかと訊ねられたのです。折から、内裏には気になることもあり、嫌な予感がしました。あなたの屋敷に行ったが、あなたは留守で、近衛はもう何日も前から自分の家に帰っていると告げられたのです」
法師は言った。
「で、ここに駆けつけたって訳か。その話はじっくりと聞きたいところだが、とにかく今は彼をなんとかしよう。奥へ連れていって、少なくとも今出来うる限り良い状況を整えて寝かせてやらなければなるまい」
男たちによって光が母屋へと運ばれると、明は言った。
「この家には誰も居ないのですね? 我々で彼をなんとかしなければ…」
明がそう言った時、佐為は既に狩衣の袖の括り紐を結んでいた。狩衣には袖に括り紐が通してあり、紐を引いて括ると、大きな袖に邪魔されること無く、腕の自由が利くようになっている。
本来そうして狩をする時に着た衣である。法師がそれを見て言った。
「おまえのそんな姿は初めて見るな」
「狩衣を着ていて助かりました。楊海殿、私にだって人の看病は出来ますよ、山に居た頃はしていたではありませんか」
佐為は答えた。
「そうだな、雑役ならオレはもちろん慣れているが、・・・薬草さえあれば、簡単な煎じ薬くらい作れるぞ」
「薬師を呼びにやりましょう。それから三津殿も呼んだ方が良いでしょう。女手が必要です」
明が言った。
彼らは光の為に動いた。成すべきことは、明が言った通りに色々とあった。人を呼ぶこと、煩雑な用事をすること。
しかし、直接光の身の世話をするのは佐為だった。それは暗黙のうちというより、必然といった風だった。そして、近寄り難い、というより、とても割って入れぬ、といった感じだった。明は、このことをもうとっくに良く知っているつもりだった。だが、これまでに感じたどんな時よりも強いその感覚が明を圧倒した。
熱で火の玉のようになった光の細い体から、佐為は汚れた衣を全て剥がしてやった。光自身の体の汚れも丁寧にぬぐってやった。普通なら排泄物の処理を任される女童でさえ、ためらうような仕事だったが、彼は無論躊躇することなどなかった。そして、意識の失われたまま激しい呼吸音だけが聞こえてくる少年の体に、新しい衣を着せてやると、設えた褥に寝かせてやった。顔の汗を拭いてやり、額を濡れた布で冷やしてやった。だが光の顔は相変わらず苦しげにゆがみ、唇は乾ききっていた。水分を出し切った体には水が必要だった。乾いた口に水を含ませようとしたが、気絶したままの光には上手く行かなかった。
鬼・・・。明の脳裏にうっすらとそんなイメージが浮かんだ。
子を食らう鬼の母。何故だかそんなイメージが浮かび上がった。慌てて、彼はその像を打ち消した。しかし、また別の像が明の脳裏を掠めた。
それは、子を襲われた獣の親が全身の毛を逆立てて、敵を威嚇し返して、我が子を誰にも渡すまいとしている姿だった。
深夜に及ぶ勤めの疲労。そして、この光の緊急事態。自分はとるものもとりあえずに駆けつけた。何故・・・? それが光の危機なら、救わねばならなかったからだ。
だが、どうだ? こうして瀕死の光を目の前にしながら、手も足も出ない。自由なはずなのに手枷足枷を嵌められているようだ。明は息苦しさに胸がつぶれるような思いがした。
以前にも明はこんな経験をしたことがあった。だが、これほどまでは苦しくなかった。
光が腕に怪我を負った時のことだ。自由にならない腕が治るまで、そう、こんな風に佐為は何から何まで光の世話をしてやっていた。あの時と似た光景だった。
当時はさすがに明の考えもそこまで及ばなかったが、既にあの時から佐為にとって、光の下の世話をすることなど、何の抵抗もない、ごく当然のことだったのかもしれない。明は、目の前の光景を見て、そう思わされた。
全く常軌を逸している・・・・明はこれまでにもそう感じていた。
愛弟子に対する一般的な情愛、そんなものは遥かに越えている。この強いこだわり・・・。目の前の人物はそれを隠そうとしたことなど無い。
その光が今は見るも苦しげな様子で意識を失っている。普段の健康的ではつらつとした様子からは、掛け離れた無残な姿なのだ。
佐為は、先ほどから一向に水を飲めない光を、心配げに見つめていた。堪りかねた様子で、今度は再び胸に少年を抱き起こした。すると彼は片腕で光を支えたまま、もう片方の手で水の入った杯を取り、自らの口に含んだ。そして口移しで光に水を飲ませた。水は幾筋か光の口元から零れ落ちた。それでも、微かにごくりという音が光の喉から聞こえた。意識を失った少年の乾いた喉にようやく水が滑り落ちていったようだった。
明は、この光景をただ呆然と眺めていた。しかし、光の喉元に零れた水の雫がきらりと光ったのに気付くと、急に全身の血が逆流するような感覚を覚えた。頬が熱くなり、心の臓がドクドクと音を立てて鳴った。驚愕とも動揺ともつかなかった。
確かに、以前明が見た光景と似ているのだが、また違う。
あの時、佐為には明を意識しうるだけの余裕があった。そう、あの時、彼は故意に自分に見せつけようとしていたのだ。意地の悪い振る舞いだと思った。しかし、今は違う。今の彼は意地が悪いのではない。自分など目に入っていないのだ。明は自分の存在が、今佐為にとって空気か霞のようなものでしかないと悟った。ただただ、光を助けること、それしか今の彼にはないのだ。
まるで、見えない透明の帳が彼らを取り巻いているようだった。それは何ものも寄せ付けないかのように思えた。そう、あの時以上に、明の入る余地はまるで無かった。明は知らぬ間に、拳を強く握り締めていた。
明がしばし圧倒され、呆然として居る間、法師はそんな様子をちらりと、柱の間に垣間見ていた。しかし、そんな様子を見ても、彼はふんと鼻を軽く鳴らしただけだった。
しばらくして、光の容態は少し落ち着いた様だった。
相変わらずの高熱だったが、呼吸は落ち着き、表情も穏やかさを取り戻してきた。
夜は白み始めていた。一番鶏の鳴き声も聞こえた。
「ここまで落ち着けば、今直ぐどうこうということは無いだろう。我々が来るのが遅すぎなくて良かった。目が覚めたら、滋養を取らせてやった方がいい」
法師が腕組みしながら言った。
「ここに光を一人置いておくわけにはいきません、三津殿は一体どうしたのでしょう?」
佐為が言った。
「三津殿の家に遣いをやりましたが留守でした。今は三由殿と共に、容態の悪いあかりの君の子の世話をしに行っているそうで、その合間にここには来ていたそうですが…、
近衛のことは、当然未だ知らないのでしょう。あかりの君の実家へも知らせてくださるとのことでしたが・・・」
明が答えた。
「ともかく、ここには光を世話する者が居ない。三津殿とて、いつも光の傍に居る訳にも行かぬでしょう。私の屋敷に連れて帰ります」
「待ってください! 最初にも言いましたが、ボクにはそれがいいとは思えないのです。近衛だって、考えがあって、あなたの屋敷を離れたのではありませんか」
「光が何を考えたのかは、分かりませんが・・・、今、このような状況で、いいも悪いもありません。光を連れて帰ります」
「他にも場所はあるはずです。三津殿が来られぬなら、彼女のところへ預ける方法だってある。それに、ボクの屋敷だって、彼を療養させるくらいできます」
佐為は、一瞬瞳をこわばらせた。だが、直ぐに穏やかな顔に戻ると言った。
「私の屋敷は方角でも悪いのでしょうか」
「いえ、そうではありません」
「では、何が理由です?」
「・・・いいでしょう。ボクにも確信がある訳ではありません。あなたがそうおっしゃるなら、近衛をあなたの屋敷に連れて帰ることです。そして、彼がどうなるか、ボクは見たい」
「・・・・・・ええ、光を連れて帰ります。是非もないことです。とにかく、ここに一人で置いておくことなど出来ない。私には光を護る義務がある。これは他の誰でもない、後見である私の役目です」
最後の言葉には特に力が込められていた。そしてこう続けた。
「一体、あなたは何を案じているのです?」
佐為の鋭い眼差しが明に突き刺さった。
だが、こうして二人が光をどうするかというやり取りをしている間も、法師は腕組みしたまま黙り、何処か斜に空を眺めていた。
すると明は法師の方をちらりと見ながら、言った。
「・・・軽はずみなことは言いますまい」
法師はその一瞥に気付くと口元に軽い笑みを浮かべた。そして何食わぬ顔で言った。
「ふ・・・オレが聞いちゃまずいか。ではそろそろ退散するとしよう。
だが、佐為。二、三日中におまえのところに様子を見にいくからな」
そう言い残すが早いが、法師は居なくなってしまった。
法師が居なくなると、明は言った。
「佐為殿、あなたは熱にうなされる彼を見て、何かを思い出しませんか?」
「思い出す・・・、 何を・・・?」
「少し前の出来事です。未だ記憶に新しいはずだ。先ほども話に出たではありませんか」
「・・・もしや、あかりの君の子のこと・・・ですか?」
「そうです、あの赤子が原因不明の熱にうなされていた姿に、彼はそっくりです」
「まさか・・・あなたは光が・・・あの赤子と同じような目に遭っていると・・・そう言いたいのですか?」
「確証はありません、先ほどもそう言いました」
「それでは、話にならない。 ・・・明殿、もし仮に光がそのような目に遭って苦しんでいるのだとしたら、あの時のように、あなたが光を救ってくれるのですか?」
「いえ、それは出来ません」
「何故です!?」
「禁廷に向かって呪詛返しなど、到底出来ません」
「・・・・・・・・・・明殿! あなたは何を言うのです!?」
「佐為殿・・・、今内裏には宇治の高僧が呼ばれています。名目は学問の講義のためです。だが、その僧には霊験あらたかな力がある。どうか、少しお考え下さい」
「何が言いたい・・・? あなたは・・・」
「いまさら、遠まわしに言っても始まりません。
帝があなたに酷くご執心であられるのは、誰もが知っていることです。これだけ言えばお分かりでしょう、佐為殿」
佐為はこの言葉を聞くと、途端に鋭い眼差しで明を見据え、烈火のごとく言い放った。
「黙りなさい! 明殿。
言葉を慎まれよ。言っていいことと悪いことがある。
仮にも帝に対して、そのような・・・そのような穿さくを、あなたがしようとは!」
「・・・・・・・・・・・。分かりました。ならば、あなたの気の済むようになさるがよろしいでしょう。ボクは断定した訳ではありません。・・・ただ、手遅れにならぬことを祈っています」
結局,佐為は光を連れて、屋敷に帰った。
明くる日、光の容態は落ち着いてはいたが、やはり悪いままだった。
そして、楊海法師は予告よりも早く、その日の夜遅くに佐為の屋敷を訪れた。
佐為は疲労の為に眠ってしまっていた。しかし、家の者は言った。主人は夕刻から休んでいる、もうしばらく経ったら、起こすように言われていると。そこで、法師は屋敷に上がりこんで勝手にくつろぎ、主人が起きてくるのを待っていた。
深い闇にあたりは包まれていた。空には月も星もなかった。時折、梟の鳴く声がする。静けさの中に、身を委ね、家の者が出した酒を少しあおった。いつものように、足を投げ出して柱にもたれた。しかし、これだけは何時に無く、物思いに沈んだ。
佐為が起きて姿を現すと、法師は柱にもたれて、目を瞑っていた。どうやら意識を失っているようだ。こくりと上体を崩した。その反動で一瞬目が覚めたようだったが、再び首をうな垂れてしまった。
その時だった。法師は肩に衣の掛けられるのを感じた。同時に、ふわりと芳香が漂った。それで、急激に意識が冴え、今度はきっちりと目を覚ました。
「どうだ・・・?」
法師は佐為に尋ねた。
「すみません、起こしてしまいましたね。あなたまで巻き込んで申し訳ない。どうか少しお休みになってください」
「ふん・・・相変わらずの言い様だな」
「・・・・・は?」
佐為は怪訝な顔をした。
「オレは、寝る為にここに来た訳じゃない」
「まぁ、それはそうでしょうが」
「あの子は今は落ち着いているのだろう。いいから、おまえもここに座れ」
佐為は無言で横に腰を下ろした。楊海法師は光の容態について、尋ねた。そしてしばらくはその後の光の様子を佐為が説明するといった具合だった。
一通り話し終えると、佐為もまた脇息にもたれ、瞼を閉じた。しかし、法師は、静寂を破って、今度はまったく違うことを尋ねた。
「・・・おい」
「はい」
「単刀直入に訊くが」
「・・・なんでしょう?」
「おまえ・・・・・・・あの子と寝てるのか?」
佐為は瞳を見開いた。だが、見開かれた瞳が兄弟子を見返すことはなかった。彼は手にしていた杯を床に置いた。それで、そのまましばらく時が過ぎた。
果たしてそこに流れたのは沈黙だけだった。
法師は足を組みなおし、佐為によって掛けられた衣を羽織ったまま、しばらく腕組みして俯いていた。だが、どうやらこの件に関して、佐為から何か言葉が紡がれるような気配は無いらしい。法師は口を開いた。
「・・・・・・別に答えなくっていい。どうしようとおまえの勝手だからな。干渉する気などオレにはさらさらない」
ここまではいつもの通りの話し振りだった。しかし、次に続く言葉ははっきりと違った。彼はしばらく間を置くと、塞き止められた濁流がどっと流れ出すように、こう言った。
「だが、だがな・・・。あの子が大事なら・・・失いたくないなら、いいか、行動を・・・慎め!」
法師の口調は重かった。押し殺したような渋い声音だった。
佐為は、記憶を辿る限り、ほんの数度しかこうした兄弟子の重く低い声を、聞いたことがなかった。
いつも飄々として、人を食ったような話し振りの彼が、こんなにも地の底に着きそうな声で言葉を口にするということは、つまり、彼の尋常ではない心持ちを示しているのだろう。
「どういう・・・ことですか・・・?」
佐為は半ば気圧され気味に訊ねた。
「佐為・・・振る舞いに少しは気をつけろ。あの子を失いたくないなら、今の暮らしは考えた方がいい。オレには分からない。どういうことだ。いいか、今日は真剣に尋ねるぞ。おまえは、確かに、昔から楽天的で、あまり周りのことに頓着しない性格だった。それでオレがどんなに苦労したか! ああいい、今はそんな話じゃない。しかし、度が過ぎる。それにとんだ読みの甘さだ。何を考えている? それともおまえはそれほど、愚かだったか? 場合によっては、余程あの子の方が利口だ。さぁ、答えろ!」
「あなたも、その話・・・でしたか」
「その話でしたか?・・・おまえ、分かっているのか!?」
「楊海殿・・・、私は元より愚かです」
「愚か? そうだ、オレもおまえも、皆愚かだ。それはいい、いいから、一つ一つ答えろ。今欲しいのは総論じゃなくて極論だ。
オレは、今日まで黙ってきた。何も言わなかった。
おまえは昔と違って既に充分に大人だし、オレが何か言えることではない。
だが、ここに来て余計な口を挟む必要性を感じずにいられない。何故だか分かるか?オレにとってもあの子は大事なんだ。
おまえ達は仲睦まじ過ぎる。そうだ、睦まじ過ぎるんだ、オレのこの手の語彙の狭さは知っているだろう。これ以外に適した言葉が見つからない。おまえ達は仲睦まじ過ぎる。何が言いたいかは分かるな!」
「・・・楊海殿・・・・・・待ってください・・・」
「いや、待てないね。誰のことをオレが危惧して言ってるかもちろん解っているだろう・・・? あの人だよ。そうだ、帝だ。帝は一体おまえにどう接している? どう接しているか知らんが、あの人が、おまえとあの子の仲をどう思うか、考えてみれば分かるだろう?」
「・・・楊海殿・・・・・・分かりました。あなたとなら、話さねばなりますまい。分かりましたから、落ち着いて話しましょう」
つづく
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