燻炎六

 

 
 楊海法師は何時になく眉間に皺を寄せて、佐為の傍らに座していた。
「オレは、おまえとこんな話をしたいとは思っていなかった。
 おまえとこんな話をな。
 だが、どうにも不安を感じる・・・、感じるんだ。
 オレは幾年かぶりに、この国に戻ってきた。無事に辿り着いた大宰府で、おまえのあの検非違使殿に巡り逢った。運命だと思った。得体の知れない縁を感じたんだ。
 あの子からいろいろ聞いたよ。帝に関してもな。
 今上帝が、その昔、おまえが童子の頃に仕えていた帝と同じだと知った。譲位せずに、高御座(たかみくら)に座り続けていた。おまえに対する想いも変わってはいなかった。そうだろう?」
     はい」
 佐為は、間を置いたものの、楊海法師に対し、はっきりした口調で返事をした。
「こんなことは、口に出したくなかったのさ。おまえも今はいい大人だからな。だが、そうは出来なくなったんだ。
 オレなりに、帝のことはあちらこちらで耳にしたが、今こそ、他でもない、おまえの口から聞きたいものだ。あの人はどうおまえに接している? オレには知る(すべ)が無い」
「帝は、大抵のことに関して、私には寛容に振る舞われます」
「おまえには? それはどういう意味だ。 
 真実はそうではない、つまり寛容なのが帝の本質ではないということか?」
「・・・本質ではない・・・? いえ、そういう意味ではありません。ご本質はおそらく、寛容で慈悲深い方なのです」
「は・・・、おまえには寛容で、本質も寛容・・・? ではおまえに対してと特定する必要はないじゃないか」
「いえ、私に関しては・・・おそらく、本来のご性質を失われることもある・・・ということです。ただ、私の前ではいつも寛容に振る舞われる」
「それでは、おまえに気に入られる為に、寛容なふりをしている、とでも言っているように受け取れるぞ」
「ふり・・・・・・分かりません。確かに、ご本心でないと感じられるお言葉を口にされることもある。だが、私には全てがそうだとは思えない。帝は本来寛大で慈しみ深い方です」
 そう言いながら、佐為の脳裏にふと浮かんだものがあった。それは己が頬に当たり、床に落ちた扇だった。この身の痛みはとっくに忘れてしまったというのに。
 言葉とは裏腹に舌が渇き、瞼の奥に痛みが走った。 
 辛い事であれば、少なからず過去に経験したはずである。だがそれは、それまでには類の無い心地の悪さだったのだ。夜の帳が落ちても眠れず、安堵という言葉を忘れてしまったかのような日が続いた。晴れた日であっても、空は常に暗く墨を滲ませて感じられ、肩にはその空の重みがずしりとのしかかるのを覚えた。
 しかし、その暗い懊悩に身を沈ませていた頃、法師は都を離れていた。
 法師は言った。
「確かにそうなのだろう。あの人はおまえを慈しんでいるのだろう。だが、同時に見えるんだ。あの人の燃え上がるような情念が。おまえを、そうだ、他の誰一人にだって触れさせたくはないのだろう。そういう情念だよ。おまえを独占し、支配したいと猛烈に望んでいるように見えるね。
 オレがこんなに用意周到に立ち回ったのはその為だ。オレがあの人にとって邪魔ではないような状況を作り上げた。
 だが、あの子はどうだ。おまえはあの子を自分の屋敷に住まわせ、傍目にも歴然と仲睦まじく暮らしている。いや、あるいは・・・、おまえがあの子とどういう関係だろうと、あの人にはもしかしたら関係ないのかもしれないが・・・いや、そんな風にさえ思えるね。だが、それにしたって、おまえにとってあの子が特別なのは傍目にも歴然としている。理由はそれだけで充分だ。今あの人にとって、あの子ほど疎ましい存在は居ないということだよ」

 そこまで言うと、法師はふと思い当たったような顔をした。
「そうだ、だから、あの子は大宰府に行ったのではないのか? ・・・あ、いや、帝は一番寛大な振る舞いをしたと言っていたな。では偶然か? 偶然にしろ、あの人には都合が良かったろう。おまえが愛する者が都から追い出されたんだ。天下に広く下った恩赦のお陰であの子が赦されて都に帰ってきたというが、あの人にとっては、随分寛大な・・・いや寛大で、徳の高い帝の成すことだったな・・・だが、あの人は苦しんでいるのではないか、おまえとあの子に施した慈悲の赦しが他でもない、自分の首を絞めているに違いないのだからな」
「・・・・・・光を憎んでおられると・・・?」
「そうだな、おまえが関心を向けるすべてのもの・・・たとえそれが庭先の草花であろうと、あの人だったら、恨みを抱きそうな気がするんでね。殊に、それが恋の相手だったりでもしたら、嫉妬のあまり呪い殺しかねないような眼をしているぞ」

「あなたまでそのようなことを・・・! 帝は、そのようにお心のすさんだ方ではない」
 佐為は声を荒げ、法師を睨みつけた。だが、法師は負けずに言い返した。
「本気で言っているのか? 昨日、あの陰陽師がおまえに何を言ったか、見当はついているんだ。
 内裏で、呪詛が行われているという噂があるんだろう。オレは都周辺の寺々や有名な僧侶のことなら、大体は知っている。オレに隠したって無駄さ。
 おまえだって、あの人の恐ろしい部分に気付いていないとは言わせないぞ。オレは実に色々耳にしたぞ。おまえの周りに人を近付けないとまで言われているそうじゃないか。
 先ほどのおまえの言葉の裏返しだ。現に、そう感じているから、おまえ自身が、おまえの前での慈悲深い振る舞いが、全てあの人の真実の姿とは思えぬのだろう。そうではないのか」
「・・・・楊海殿、非の打ち所の無い人間などこの世には居ますまい。
 あなたには、心の迷いが無いのか?
 ただの一度も過ちを犯したことが無いと言い切れるのか?」
「心の迷い・・・? 決まっているだろう、そんなものは大有りさ。
 そうだ、誰にだってある。オレにもおまえにも、そしてあの人にも。生きている限り、常に弱い自分との戦いだ、身分など関係ない。たとえ、帝王の位にあったとしても、いや、その位故に、人よりもより多くの迷いを抱えるだろう。
 オレなんざ、煩悩のかたまりのようなもんさ。だが、少なくとも、オレにはかなりの自制心がある。その自信はある。 あの人はどうだ、佐為? 自らを律する力を持っているのか」
「・・・あなたのように・・・持戒と修練の営みを送ってきた方とは、違う。単純に比べることなど出来ません。天子の位にある者の苦しみは、其処に在る者にしか分からぬでしょう」
「随分と肩を持つのだな。オレは、少々愕然としている。いやいやの宮仕えとまでは思えなかったが、おまえがそこまで、あの人を好いているとも思わなかったんでね」

 法師は皮肉のこもった言葉を強い語調で言い放った。佐為は拳を握り締めながらも、努めて落ち着いた声で答えた。
「好きとか、嫌いで、ものを言っているのではありません。
 ただ、楊海殿。幼き頃には見えなかったものが今は見えるのです。
 童子の頃には、私は帝のことがまるで分からなかった。分かろうともしなかった。いえ、関心が無かったと言った方がいい。あのころはあまりに、碁のことしか考えていなかったから、自分の周りに居る人のことなど、目に入らなかったのかもしれない」
「いや、入れないようにしてたのさ、無意識に。子どもの本能だ。
 おまえを取り巻く大人達はおまえを苦しめていただろう」
「あるいはそうだったのかもしれません。
 だが、今は多少なりとも、人の心の痛みや・・・哀しみや・・・優しさに・・・気付ける自分が居ると思いたい。
 楊海殿、あなたなら、人の噂は実にいい加減で無責任であることをよく知っているはずです。帝が人に呪詛するようなことをなさるとは、私にはどうしても思えないのです」
「確かに! あの人の全てを否定はしない。賢帝だとの評判もまた真実だろう。だが、天下を遍く思ってのことと、一身上のことでは違う。佐為、あの男だったらやるぞ!」
「楊海殿!」
 佐為は叫んだ。
「絶対とは言い切れない。だが、おまえはあの人の、憎しみに満ちた眼を見たことがないから、分からないんだ。
 おまえが言う通り、おまえにはさぞ優しい顔を向けることだろう。
 そうさ、おまえは気付かなかったはずだ。去年のあの御前対局で、おまえと再会した折のことだ。おまえは居る場所もわきまえず、懐かしさのあまり、オレを抱きしめた。
 あの時、あの人がオレをどんな恐ろしい眼で睨んだか、知らないだろう。
 さすがのオレも、腰が引けたぞ。
 これは直感だ。あの人はじき狂う。おかしくなる。いや、既に狂っているかもしれん。あの人の真の姿は鬼だ。おまえを得る為に、他の誰かを打ちのめしている内はいい、まだいいとさえ思う。だが、それではあの子を失ってしまうぞ!? あの人は、おまえを完全に自分一人のものにしたいのさ。あの男、おまえの全てを手に入れる為だったら、どんな恐ろしいことだってやってのけるに違いない! 優しい顔に騙されるな、佐為!」
「・・・・・なんということを・・・! あなたはそれでも僧侶か!?」
 佐為は立ち上がって楊海法師を見下ろしていた。硬く握った手の指先は小刻みに震えている。 
 法師はだが、奥歯を噛み、床の木目を見つめたまま続けた。
「・・・・・自分のことを棚に上げて、人を愚弄するのはけしからん。慈悲の無い言葉と思うかもしれん。だが、哀しいかな、オレは凡庸だ。すまんがオレにも贔屓目があるんだよ。
 おまえが可愛い、・・・・・・弟のように思ってきたんだ。
 おまえの為なら、酷い言葉も口にする」
「・・・・・・・」
 佐為は言葉に詰まった。
 ・・・おまえが可愛い・・・弟のように・・・?
 どこをどう押せば、そんな甘ったるい言葉がこの法師の口から飛び出すのか。そんな感傷的な表現がこの法師の何処に存在していたのか。
 思わず顔を背けると、(しとみ)の方へ近寄った。外の冷たい空気にあたりたかった。
 そのまま、佐為は黙っていた。楊海法師も、先ほどの、自分でも信じ難い言葉を口に出してから後は黙った。いつもの合理的で論理的な思考が頭の中から抜け落ちてしまったかのように、思わず口を突いて出た感情的な言葉だけが、ただぐるぐると体中を巡っていた。そして彼は苦虫を噛み潰したような顔をして、腕を組み、床に視線を落としたままで居るより他なかったのである。
 佐為はしばらく考え込んだ後、やっと兄弟子の方に向き直り、口を開いた。
「分かりました。楊海殿。光との関係を変えましょう」
「・・・・どういうことだ」

 法師は顔を上げた。
「私とて、光を縛るつもりはありません。光は良い若者になった。
 しかるべき娘と結婚し、子を成すべきだということです。ずっと考えていました。
 いずれはそうなるのだろうと。
 それでどうです? あの子は生気を取り戻しましょうか」
「・・・随分、話が急展開したもんだな。そうあっさり望んでいた答えが返されると拍子抜けだ」
「呪詛の話を信じた訳ではありません。言ったでしょう。ずっと考えていたことです。
 ただ、今しばし、先のことにしておきたかったのです。この通り私は寂しい人間ですからね。だが、それであなたの気が済むならいい。
 少し早まっただけのことだ」
「いいのか・・・?」
 何かをかみ殺したような顔をしたのは、今度は佐為の方だった。
「私と光の根本的な関係が変わるわけではありません」
 法師はしばらく黙っていたが、あっという顔をすると、尋ねた。
「・・・おまえ、やはり何処かで分かっていたのだろう? 違うか、帝があの子を憎むだろうということを」
「・・・・・分かっていました、分かっていましたとも。憎まぬ訳がない、楊海殿。
 だが、他に方途が無かった。そうしなければ、あの子は大宰府へ行ったままで、私の許へ帰ってはこなかった。あの子を都に戻さねばならなかったのです、どうしても。その為に、私は取引をした、あの方と」
「・・・・なるほど、そういうことか。やはり・・・・どうりでな。今も”表面上は”その取引が続いているという訳か」
 佐為はその問いには答えずに続けた。
「確かに、あなたの言うとおり、帝は恐ろしい方だ。
 私への執着は、尋常ではない。私の周りから遠ざけられた人が居るのも知っています。
 だが・・・、楊海殿。私にはそれでも見えるのです。あの方の奥底にはきらきらと美しく輝くものがある。とても美しいのです。
 私は、しかし、その純粋な輝きを、取引に利用し、愚弄した。己が望みの為に踏みにじった。もしそうしたことへの責め苦を受けるなら、逃げはしません」
「・・・そうか。おまえがそんな心境で居たとはな。あの子は知っているんだろうか・・・」
「楊海殿、さっそく明日、明殿の勧めに従い、光の療養の場をここから何処かへ移しましょう。
 宮中へも、帝の耳にも届くように致しましょう。
 それでよいでしょう。それであなたの気が済みましょうか?」
「・・・ああ、それでいい。それで」
 法師は、胸をなでおろしながらも、何処か酷く陰鬱な気持ちだった。
「だが・・・あの子は納得するかな。あの子は若い。おまえに対する気持ちは、おまえより遥かに熱病的だ」
「・・・いや、光は案外、ものを分かっている。
 それが証拠に、ここを自分の考えで出て行った・・・光がそのつもりなら、私だけが引き止めても致し方の無いこと。分かりました、ここは潔く石を捨てることにしましょう」
 光はものを分かっていると言いながら、佐為は酷く哀しげな瞳をした。行き着く答えを知っていたのに、気付くことを回避していたような気がした。
「そうだな。あの子は利口だ」
 法師もそう言って、薄く笑った。が、心は酷く沈んでいることに気付いていた。
 そして一言、どうしても問いたかった。
「憐れみか?」
「何がです?」
「あの人に対するおまえの気持ちだ」
「憐れみ・・・? 私がですか。何故です。憐れみなどと考えたことはありません」
「では何だ? ただ取引を交わしただけの相手か?」
「いえ・・・、そのようなことはありません」
「では何だ」

「楊海殿、師はかつて私におっしゃいました。
 此の朝 此の世界、汝が天地たり と。
 この日本国こそが私の天地だと。この国において天命をまっとうせよと。そうであるならば、帝は日本国の天子。私がお仕えすべきお方です」

「・・・・・・・・・・・」
 楊海法師は頭を抱えた。そして唸るように呟いた。
「師の御下命か・・・・・。佐為、だが、『此の朝』とは、日本の国だけを指したものだろうか?」
「は・・・・・・!?」
「いや、今はその話はいい。それより、それだけではないだろう。おまえのごく私的な感情だ。他にもあるのではないか」
 佐為は、自分の胸中にかつてあったものを知っていたが、法師にはこう答えた。
「どう呼べば良いか分かりません」
「おまえはあの子に関することは、明瞭に答えるのに対して、あの人に対しては、酷く曖昧だな」
「おっしゃる通りです、自分でもわからぬのです」
「そうか」
 その後も尋問を続けることは出来た。いや、続けたかった。佐為は、とりあえず逃げずに返答をしていた。だが、隣にある美しい顔に目をやると、その湖水の煌めきのような瞳は、酷く深い哀しみに耐えているように見えた。それで法師はそれ以上は問わず、上げた蔀戸の隙間に何時の間にか姿を現した月を、黙って見上げたのだった。

−燻炎 終−

 つづく

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