春のしじま一
柔らかい日差しを感じた。何処かから差し込んでいる。それに暖かい。
光は深淵から浮上してくるような感覚に包まれながら目覚めた。目を覚ますと、天井が見えた。見慣れぬ天井だった。見慣れぬ・・・いやそんなことはない。不思議と知っているような気もする。
しばらくは、ぼうっとしていた。
しかしそのうちに、意識がはっきりしてくるのが分かった。だがどうして、この見たことのありそうでいて、やっぱり見慣れぬ天井の部屋に自分が居るのかよく分からなかった。
声がした。
「若や、目が覚めたんですね! ああ良かった。心配したんですよ」
これは三津の声だ。
三津が居るなら、とりあえずは安心だ。光はそう思い、体を起こそうとした。
「ああ、ダメですよ! 寝てなくちゃ。もう何日昏睡状態だったと思っているんです?」
「昏睡状態? オレが」
光は無理矢理肩を押さえられたので、また褥に横になる形で尋ねた。
「そうですよ、もうずっと高い熱が続いたままで」
・・・・・・ああ、そうだった!
光はその時、何もかも思い出した。苦しみにもがいていたこと。吐き下し続けて、ついに倒れたのだということ。
「オレ、ああ、そうだ。一体今日は何月何日、三津?
気を失ったのか? 倒れたのは覚えてる。でもその後はまるで分からない。オレ、一体どうなったんだ、その後? しまった! ということは、勤めにも出ていないじゃないか。どうしよう、もうヘマは出来ないのに! それにここ何処?」
矢継ぎ早に質問をすると、今度は三津の制止を振り切って、褥の上に起き上がった。
すると、三津はやれやれという顔をして、光の肩に衣を一枚掛けてやった。
「佐為様ですよ。若を心配なさってお訪ねになったら、倒れてたって。その日の明け方に私の家に知らせをくださったようだけれど、私はこちらに来ていたから留守で・・・。心配だったけれど、佐為様がその後、直ぐに若をご自分のお屋敷にお連れになったって、お聞きして・・・、三津は次の日、お屋敷をお訪ねしたのです。でも、佐為様もお疲れでお休みになっていらっしゃいました。
そうしたら、その次の日のことです。
若のご病気が重そうだから、場所を移したいって。なかなかご病気が治らないと、場所を変えるのはよくあることだけど、どうして、こんなに急なのかと思いました。
でも他でもない、若のこと。三津も看病して差し上げたかったし、若のご友人のあの陰陽師様にもいい方角を見てもらったのですって。
いえ、それに何よりね。若の話を聞いたあかり様がね、こちらで看て差し上げてはどうかって。お子様を救って貰った恩に報いたいと、是非、こちらで療養を、と申し出てくださったのですよ。
それで、方角も悪くなかったので、こちらに若がお世話になることになったという訳なのです」
「あかり・・・? ここあかりの家か。どうりで、見覚えがあると思った・・・。そうか、悪かったな。
・・・でも佐為は?」
先ほどから、三津は人の良さそうな顔をほころばせていた。ところが、嬉しそうなその乳母の顔に反して、今の言葉を聞いた光の胸は酷く複雑な思いがこみ上げた。
佐為が自分を助けに来てくれたということに関しては、正直に嬉しかったし、安心もした。そして、とても悪いことをしたとも思った。連絡もせず、何日も佐為の傍を離れていたのだ。何か特別な考えがまとまったからという訳ではなく、とりあえずは、一人になって、冷静にこれからのことを考えたかっただけだった。だが、一向に考えはまとまらなかったのだ。こんなことでは、そのうち、佐為が迎えに来るに違いない。彼のことだから、待ちあぐねていらいらしているだろう。そうも思っていた。そうした矢先に、とんでもないことになってしまった。意識を失った時は酷く苦しく、このまま自分は死んでしまうのではないかとさえ思った。体の苦痛に悲鳴をあげ、どうにも一人では動くことが叶わなくなった。少なくとも、何度も嘔吐していたのは記憶にある。
ああ・・・・!
さぞ迷惑をかけたろう。一体自分はどんな悲惨な状態で佐為に見つけられたのだろうか、そう思うとぞっとした。
だが、それよりも何よりも、その後のことの方が光には大きかった。何を思って佐為は直ぐに自分をここへ移したのか・・・あの佐為が。三津の告げた言葉の前半がもたらした安堵や喜びに反して、後半の部分は圧倒的に光を不安に陥れるものだった。
佐為が自分を救ってくれたことよりも、病気の自分を彼がたった一日で手放したことに対して、不本意にもショックを受けているのだ。
虫のいい話だ。最初に傍を離れ、出て行ったのは自分ではなかったか。
佐為の屋敷に居てはいけないと自分が思ったのだ。今、彼の屋敷に自分が居ないのは不本意どころか本意であるはずだった。だが、やはり言いようの無い寂しさがこみ上げた。
自分の想いが通じたのだろうか・・? そうだ、想いは直ぐに伝わる。隠そうとしたって無駄だ。佐為も自分と何処かしら、同じ想いを持ったから、自分は今、佐為の屋敷に居ないのかもしれない。そんな風に考えが巡った。
同じ想い・・・それは、今一緒に居てはいけない、という地の底から響いてくる震動のようなものだった。光は瞳に不安の色を浮かべ、ため息をついた。
たちまち三津が心配そうな顔で覗き込む。こんなときに、彼女のような明るく快活で、そして少々無神経な女は酷く煩わしく感じる。だが、他にもたくさんの疑問があった。今隣に居る彼女に訊くしかない。
「・・・佐為は?」
「佐為様・・・? って、何をお答えすれば良いのかしら」
「ここには来た?」
「いえ、佐為様は、最初ここに送ってくださったきり、みえてはいません。きっとお忙しいのでしょう。何せ、若がずっと意識を失っている間に年を越してしまったのですから。でも遣いは毎日来ますよ。若のご様子を訊きにね」
「・・・毎日、遣いを。オレ、ここにどのくらい居るの?」
毎日遣いを遣している・・・自分のことを見捨てた訳ではないらしい。その話に僅かな安堵を覚えたが、根本的な不安は解消された訳ではなかった。
「そうですね、もう十日余りでしょうか」
「十日も? オレ、十日も寝込んでいたのか?」
「ええ、本当に心配しましたよ。ただでさえ痩せているのに、ほら、またこんなに細くなってしまって。目が覚めてよかった。でも、まだ熱も下がりきった訳ではないのだから、寝てなきゃダメですよ」
「そんな訳にはいかない。勤めも休んでいるし、第一、新年だっていうのに、こんな病人を抱え込んであかりの家に迷惑だろう」
「心配はいりませんよ。佐為様は色々とご配慮なさって、若のお世話に掛かるものはこちらにたっぷりとお渡ししておいでのようだから」
「・・・・そう・・・か」
光の目の奥に落胆の色が走った。
申し訳ないという気持ちはむろん第一にあったが、それでもやはり、用意周到にここに預けられているという感覚が強まったのも確かだった。
それから数日は、寝たり起きたりで過ぎた。食事もできるようになって、光に少しづつ、体力が戻ってくると、より感じることがあった。昔からの馴染みということもあったが、病気で厄介ものであるはずの自分が、あかりの家では、酷く歓迎されている雰囲気があった。
それは空気で伝わった。光は良い場所に寝かされていたし、何かと至れり尽くせりの歓待を受けていた。
三津のおしゃべりで、その理由が、佐為の地位にあることは容易に見当がついた。自分に掛かる以上のものが、佐為のところからあれこれと届いているのもむろんのこと、今や上級官人の殿上人である佐為から病人の世話を頼まれたとあっては、尽くさないでいる理由は無いのだ。自分が昔馴染みであることは、むしろ小さい理由らしかった。
時折、赤子の泣き声が聞かれたが、光が赤子の姿を見ることは無かった。あかりの子はすっかり元気を取り戻したのだという。いくら歓待されているとはいえ、やはり、病気の自分からは、せっかく健康を取り戻した子どもは遠ざけられているのだろうと、光は思った。
しかし、ついぞ母親のあかりの方の姿はもちろん、声も聞こえてはこなかった。どうやらこの家にはまったく帰ってきて居ないようなのだ。
光はぼんやりと思った。そんなにも宮仕えが忙しいのだろうか?
特にそのことについて訊きもしなかったが、おしゃべりな三津は何やかやと、話していくので、あかりが東宮妃に酷く気に入られていて、宮中をなかなか退出できないのだということを知った。だが、あかりが居ないのは光にとっては気楽だった。いくら光でも、想いを告白された別れの夜のことくらいは覚えていた。
正月も下旬に入った頃のことである。
光はほぼ元通りの体に回復し、そろそろ出仕しないといけないと考えていた。歓迎されているとはいえ、やはり自分の居場所という気はしなかった。さりとて、自分の家に戻っても、今は雇い人も居ず、三津に来てもらうしかなかった。
だが、その前に一度、佐為に逢わなければいけなかった。何しろ、新年に入ってから、一度も佐為に逢っていないのだ。今は毎日でなくなった佐為からの遣いが時折、光の様子を訊きに来るだけで、佐為と直接文を交わすことさえもしていなかった。佐為からも文は無かったし、光は元来書く事が苦手であった。今は遠く離れて居る訳でもない。徒歩でも行ける距離のところに居るのだ。にもかかわらず、光には佐為に救われた夜と次の日の記憶がない為、まる一月以上も、佐為の顔を見ていなかった。
今は一人になりたいと思ったことが嘘のように思えた。
体が健康を取り戻せば取り戻すほど、心も正直に佐為に逢いたがった。ところが逢いたいと望む反面、いつもこだまする声がある。それは楊海法師の声だった。
『上なる者は、其の疎張を遠くし、置きて以って会囲し、因りて道を得るの勝ちを成す・・・・最上の打ち方は遠くまばらに石を置いて囲み、地を得て勝つ』
法師はそう光に説いた。
最上の打ち方は、遠くまばらに石を置くこと。つまり、広く盤面を見渡すこと。目の前の狭い視野に囚われるなということ。
帝の恐ろしさを見抜いて、遠く地を固め、勝ちをものにした法師の手腕に感服したのだった。
では自分は何をなすべきか。再び、思考は一月前に、佐為の屋敷を出た時点に戻った。
佐為、何を考えている?
おまえに問いたい。オレはどうしたらいい? どうしたら、あの男の呪縛に勝てる? そして、どうしたら、おまえはあの男から自由になれるんだ・・・!?
光は、堪らず石を手にした。褥の傍らに碁盤を置いて貰っていたのだ。
冷たいひやりとする石を握ると、盤面に強く打ち据えた。
次に返される一手を想って胸が熱くなった。
そして、その架空の一手に神経を集中するように目を閉じた。次なる一手を待つその姿は崇高で犯し難い空気さえ纏っていた。
事実、その姿を目にして、立ち竦んでしまった者が居た。
その者が几帳の陰に恐れをなして、じっと動けずに居る間、ずっと光はその存在に気付かないまま、目を閉じつづけていた。何かとてつもない恍惚に包まれているようでもあった。
一体どれほどの時が流れたであろう。
やっと光は目を開けた。そして、忽ち世界に色と音が戻ると、几帳の向こうに女が立っているのに気付いた。
そしてそれが誰であるか知ると、想像していた気詰まりなど消え去り、まるで子どもに返ったような高らかな声を上げた。
「あかり!?」
「なんだ、良かった・・・・。やっぱり昔の光ね」
「びっくりした! おまえ、やっと里下がりしてきたのか? 久しぶりだなぁ・・・。ああ、すまねぇな。世話になってるよ」
あかりは、その場に腰を下ろすと、光をまじまじと見つめた。
光は光で、久しぶりに逢った幼馴染の娘の様子に何処か違和感を覚え、怪訝な眼差しで眺めた。だが、違和感の正体ははっきりしないままだった。
「・・・ごめんなさい、ずっとお礼を言いたかったの。光、私の子を救ってくれたのよね」
「ああ、大したことないさ。良かったな、子どもが元気になって。安心したよ」
「早く、お礼が言いたかったのよ。でもなかなか退出できなくて。光がまだずっと寝ていた時に、一度戻ってきているの。でもその後は今日が初めてだから・・・私、とても感謝しているの。光、どうお礼を言っていいか・・・」
「いや、お礼を言うのはこっちだよ。本当に世話になって申し訳ない」
「いいえ、子どもの事を考えれば、光をここで看病するくらい何でもないわ。でも、実際には、両親が佐為様に身に余るほどのご配慮を頂いているの。だから、何も気にする必要はないわ。何か、別にお礼をしたいくらいよ」
「・・・・・何も要らないよ。検非違使として当然の務めを果たしただけだし。礼なら、賀茂に言うべきだ」
「陰陽師の明様のことね。私がちょうど、この前に帰ってきた時にね、光の様子を見にいらしてたわ。その時にお礼を申し上げたの」
「ああ、ここに来たのは知ってる。三津が言っていたから」
「いい方ね。光のこと、凄く心配してた」
「そっか・・」
「ねぇ、ところで、佐為様もおみえになっているのでしょう?」
「・・・・いや、あいつは来てない」
光は、その後に続く質問を予想して、短く答えた。
「お忙しいの? 佐為様は光の後見役でしょう? でも、そのうちおみえになるわよね? 今日もしかしたら、みえてないかしらと思っていたのに、残念だわ」
「残念? なんだよ、それ。おまえがあいつのシンパだったって初めて知ったよ」
光は拍子抜けしながらも、不思議と自分の中に明るさが戻ってくるのを感じていた。
「私が楽しみなんじゃないわ・・・」
だが、そう言った彼女の顔からは、光とは反対に、今までの明るさが急激に陰を潜めてしまった。
光は怪訝に思った。そして、先ほどから感じていた幼馴染に対する違和感を無意識に口にしていた。
「なんだか、おまえ変わったな・・・」
するとあかりはとんでもないという顔をして言い返した。
「変わったのは光の方じゃない。最初、違う人が居るのかと思った。でもよく見たらやっぱり光だった」
逢わなかった二年の間に、互いに変化の激しい十代の両者が変わったのは確かだった。娘は母になっていた。それだけでも変化の理由は十二分に説明が付くのだが、彼女にはさらに人生の鑿が加わったようだった。
対して、少年の方は内面の変化に加え、外面的な変化の方がより激しかった。娘の方は外面的な変化というよりも、内面からにじみ出る雰囲気の違いといったところだろうか。だが、少年は、見た目がまず昔とは異なっていたのだ。
体格は一回り大きくなっていたし、頬は削げ、顎はすっきりと細く、真剣な眼差しからは丸みを帯びた子どもっぽさが抜け落ちていた。
光は佐為が褒めた通り、あらゆる面で見目良く変化していた。特に先ほどのように、何か瞑想に耽る仕草は、少年を酷く男らしく精悍に、美しく見せるのだった。
つづく
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