春のしじま二
淑景舎の直ぐ隣には梨壺と呼ばれる昭陽舎があり、東宮はそこに住まっていた。昭陽舎には北舎があり、そこに東宮の妃も居た。梨壺女御である。だが、東宮は夕星が淑景舎に入ると、足しげく淑景舎に通い、梨壺女御の許からは足が遠のいた。
ところで東宮は、夕星と迎えた最初の後朝に、こう言ったのだった。
「あなたを背負って三途の川を渡ることが出来ぬとは、なんと残念なことであろう。だが、彼岸に旅立つその河原までは、あなたを背負い、共に行きたい。片時も離れることなく、あなたと共にその日まで歩みたい」
女は死ぬと、初めて抱かれた男に背負われて三途の川を渡るという。そんな言い伝えを元にした言葉だった。
東宮は父帝に似て内向的だったが、父のような激しさは持ち合わせてはいなかった。何につけても争いを嫌い、穏やかな生活を好む性格であった。
そういった性質の為か、優しくたおやかな夕星姫を愛した。一方、もう一人の妃である梨壺女御は、関白家の高慢な姫君で、随分年上だった。東宮が梨壺女御よりも、夕星の中にこそ自分の求めていたものを見出したのは、ごく自然の成り行きと言えよう。
それ故東宮は、帝に仕える侍棋と夕星との仲のことが本当であったのだと思い込み、いくらか落胆もした。けれど、もうそれ以上は夕星を責めたり、過去を聞き出すような真似はしなかった。東宮が恐れたのは、過去ではなく、今現在の夕星の心が他所に行ってしまうことだった。
一方夕星は、東宮との成婚を前にして、あまりに酷い仕打ちに遭っていた。
東宮の後朝の言葉に対し、彼女には返す言葉が無かった。夫の父親と契ったなどとは口が裂けても言えなかった。それ以前に、東宮と帝の父子関係に全く不可解なものを覚えてもいた。父である左大臣に愛されて育った己が身には、二人の男の関系を理解することができなかった。
こうした異質で陰鬱な人間関係の中に放り込まれ、望まない契りを結ぶことに対して、彼女は何時の間にか無感覚になっていった。その結果、東宮の前では東宮が望むであろう女を演じることができた。それは難しいことではなかった。東宮は夕星に酷く優しく接したし、彼は夕星の本来持つ気性を愛していたので、そう無理に自分を偽る必要は無かったからだ。少しの努力をすれば、それで万事は上手く行った。
ただ、それと引き換えに、少女の夢の部屋を心の片隅にもうけた。その部屋を持つことで、夕星は時には夢想に耽り、花の中に幸せな一日を終えることが出来た。何故なら、密かな愉しみである秘密の部屋には、叶わなかった恋の相手が住み続けていたからである。つまり、東宮が最も恐れるものを隠し持ったのだった。
だが、その密かな乙女の慰みは、宮中であまりに孤独だった夕星を、時にさらに孤独のどん底に落とし入れた。見返りの無い片恋は、自分がより独りであることを感じさせたし、夕星を巡って起きた様々な出来事は、若い娘が抱え込むには確かに辛いものだった。気丈に振る舞う夕星も、宮中での最初の端午の節会が過ぎたあたりからは、体調を崩すことが多くなっていった。
花が美しく咲くには適度な日の光や水を必要とするように、若い娘には気の合った友が必要だったのである。
「あかりの君、あなたの話を聞かせてください」
夕星は、他の女房が退出した後に、あかりが閨に残ると話をせがんだ。あかりは東宮妃である夕星の身の回りの世話をする女房として仕えることになっていた。特にその役目で重要なのは、夜夕星が寝入るまでの間だった。夜着への着替えや髪の毛の手入れなど、細かな支度を任された。そして、この時間は夕星がたいそう大事にしている時間でもあった。
年の近いあかりが宮仕えに上がると、夕星はその親しみ易く、気さくな性格を好み、よくこう言った。
「あなたと居るとほっとします」
ほどなく、若い東宮妃と若い未亡人の女房は打ち解け合った。
「信じられませんね、あなたは私と同じ年頃だというのに、もう母親で、そして、既に背の君をお亡くしだなんて。あなたは、それだのに、いろいろと辛い経験もしているのに、とても可憐で、まだ幼い少女のようです。本当は背の君を亡くされてさぞお辛いでしょう?」
「夕星様、・・・私にはあまりにあっという間の出来事で、周りがただ、私を通り越して全てを運んでいってしまったかのようなのです。忘れ形見だけが手元に残り、今はただ、呆然としています。夫を失って哀しさを味わう余裕もありませんでした」
同じ年頃のあかりと打ち解けて話すうちに、夕星は直感した。この娘は夫を愛してはいなかったに違いない。なぜなら、夕星の胸の内にも、心地よさも痛みも感じぬ夫への同じような鈍い感覚が存在していたからだ。
「あかりの君。あなたなら分かってくれるに違いありません。
私は東宮様を嫌いではないのです。あの方は私にとてもお優しいのです」
夕星は誰にも言えぬやるせなさをあかりにだけは打ち明けた。あかりの境遇には自分のそれと似通った点をいくつも発見したからである。
あかりの夫の常陸国守もあかりを愛していたし、優しかった。あかりは大事にされていて、恋心は抱けぬにしても、子どもが無事に生まれた時には、夫と共に心底喜んだのだった。しかし、夫が急死すると、事情も急変した。夫の遺言に激怒した北の方から、ことごとく辛く当たられたのだった。
夕星もあかりも、共に一番目の妻ではなく、愛することの出来ない夫から愛され、一番目の妻から妬まれていた。
そして、夫を愛せぬ理由も同じだった。心に想う人がありながら、望まない結婚をした。だが、さりとて、誠実な夫に情を感じない訳ではなかったのだ。二人の若い娘の気持ちはぴたりと合わさったのである。
夕星はあかりが宮仕えに上がってからは、健康を取り戻し、東宮を始めまわりの者は皆、あかりに感謝した。むろん中には妬みや嫉みが全く無い訳ではなかったが…。あかりは夕星女御の情緒の安定と健康の為に欠かせない女房となったのだ。
そんな中のことである。時折、夕星は周りに誰もいないと、いかに打ち解けたとはいえ、あかりをドキリとさせるような妙なことを言うこともあった。
「東宮様はお優しいけれど、内気でおとなしい方なのです。激しくてらっしゃる帝のご気性とは随分と違います・・・」
「帝が・・・激しい? 物静かでらっしゃるとお聞きしておりますが」
「いいえ、そんなことはありません・・・帝は東宮様と違ってとてもご気性が激しく、強いお方です。けれど、おとなしい東宮様もそう、どこか。やはり父君の帝と似てらっしゃる・・・・とても孤独な目をしてらっしゃるのです。あのお寂しそうなお顔を見ると、胸がつかえます。」
「では帝もお寂しい眼をしてらっしゃると・・・?」
「そう、お寂しい眼をしてらっしゃる。あの方は・・・とても・・・。
ああ、東宮様もおかわいそうに、私には分かります。父君を慕ってらっしゃるのです。けれど父君とはとても遠くに心を置いてらっしゃる・・・いえ、置かざるをえなかったのです。求めながら、相容れない、・・・そんな父と子もこの世には存在するものなのですね。でも、私には、あの方たちが心の通わない父と子で、どんなに救われたことでしょう・・・」
思わず、夕星はそんな言葉を漏らしていた。
最初のうち、あかりには意味がよく飲み込めなかった。だが、後に夕星と帝の一件を、夕星自身から、滂沱の涙のうちに明かされる唯一の存在となった。むろん、夕星の心の内にある、佐為への恋心も知ることになったのは言うまでもない。宮中で孤独であればあるほど、その恋心は何処か別の場所にあるであろう桃源郷を投影するかのように、膨らんでいった。そして、夕星の密かな思慕を知った時、あかり自身もまた、今はほのかな思い出となっていた幼馴染の少年のことが思い出された。
お互いの想い人が繋がっていたことを知り、夕星とあかりは不思議なえにしを感じずにはいられなかったのである。
そして、年が明け、幾日かが過ぎた頃のことである。淑景舎の内庭には梅の花が開き始めていた。天気の良い日に、明るい日差しの差し込む廂でのこと。夏に咲いていた笹百合の替わりに咲き始めた白梅の花を眺めながら、夕星はあかりだけにそっとこう言った。
「あかりの君、あれからちょうど一年が過ぎた頃のことです。帝から再びお文がありました」
「何と・・・?」
「笹百合の株を献上したお礼に頂いたお歌のことはお話ししましたね、覚えていますか?」
「はい、
笹百合を 摘みしひがごと 忘るまじ 我諾はむ・・・と」
「そう、帝は諾う・・と。花を摘んだことを咎とおっしゃり・・・諾う・・・詫びる・・・と、そうおっしゃいました。そして、この度は、・・・あれから、あの悪夢のような夜から、ちょうど一年が過ぎた日のことです。こんなお歌を下さったのです・・・
花摘みし おこたり何ぞ否むべき
咲かせぬべきは 君が言の葉
と・・・」
「それは・・・・、花を摘んでしまったお詫びに、夕星様の願いをお聞きすると・・・そのように、帝は仰せになっている・・・そうですね・・・」
「はい・・・そのようです」
「お返事は何と?」
「何もお返ししてはいないのです」
「もう一月以上経っておいででは・・・?」
「帝は既に、私に諾うとおっしゃいました。もう、それだけで、今は他に何も望むものはありません。望むとしたら、この麗らかな早春の日のような静寂を、しじまを、・・・沈黙を、私は望んでいるのです」
「・・・・・夕星様、もしお気持ちを害されるようなことを申し上げたら、申しわけございません」
「私があなたの言葉に気持ちを害することなど多分ありません。言ってごらんなさい」
夕星は微かに微笑んだ。
「・・・あの、天子様ともあろう方が、このように再三、謝罪の意をお伝えになられるということは・・・・余程、後悔しておられるのではないかと・・・そのように感じられるのです・・・」
「ええ・・・きっと、そうでらっしゃるのでしょうね」
夕星はあっさりと答えた。もうずっとそう考えていたかのようだった。
「夕星様・・・」
夕星は黙っていた。
「・・・お辛いのはよくお察し申し上げています。・・・でも、帝のお申し出を無視なさる訳には・・・」
「分かっています。でも・・・どうお返事したらよいのか分からないのです。あかりの君、もう少し待ってください。考えさせてください。今、帝に何をどう願えば良いのでしょう。私が何か願い、帝がそれをお聞き届けになったら、それで、摘まれた花のことは消えてなくなるのでしょうか? 私のこの心の中の鬱々とした塊も消えて無くなるのでしょうか?」
あかりにはそれ以上、何も言葉が見つからなかった。ただ、黙って夕星の哀しみに自分の心を重ねた。
花摘みし
おこたり何ぞ 否むべき 咲かせぬべきは 君が言の葉
花を摘んでしまったお詫びをしたいのです
どうしてそれを拒みましょうか、拒むはずなどないのです
叶えてあげたいのですよ、あなたの言葉を 何でも言ってごらんなさい
何か願いを聞きましょう・・・・罪を償えるというのなら
ああ、私の犯してしまった罪を、これで償えるというのなら
何か言ってはくれませんか お願いです 何か言ってはくれませんか
ああ、私の罪を償えるのなら・・・・
夕星の胸の内に、帝の声がした。それは慟哭のように響いた。こんなにも重苦しく不快な声は聞いたことが無かった。
そんな風に、何処か完全に癒えることのない哀しみを抱えたままの女主人と、あかりは日々哀楽を共にしていった。しかし、夕星には、持って生まれた品格によるものか、恵まれた教養に依るものか、自分と同じ哀しい女の定めに遭いながらも、凛としているところがあった。心で共振しながらも、侍女として一歩引いたところで、あかりはこの聡明で美しい姫の振る舞いに憧れを抱いた。そして敬い、心から慕うようになっていった。
そのうち、あかりには新たに気付くことがあった。夕星には、帝以外にもう一つ心に陰があった。それはある人物に関連していることが分かった。その人物が昭陽舎に東宮を訪ねたり、時には東宮を追って自分の在所である淑景舎に現れる時のことである。そんな時に、注意深く気を配って観察すると、夕星の様子がいつもと微妙に違うことに気付いたのである。
その人物とは、今は大納言となった前の中納言の君であった。
大納言が東宮を訪ねる時は、決まって夕星は、寝殿の奥深くに引きこもり、間違っても袿の裾が、訪問者の目に曝されぬよう気を付けるのだった。
さて、この大納言だが、前例に倣い、東宮の伯父にあたる立場を大いに利用していた。いい気なもので、東宮が夕星の以前の相手を佐為だと思い込んでいるのをいいことに、自らのことはおくびにも出さなかった。
それどころではない。年齢と共に順当に身についたのか、あるいは血筋故か、はたまたあるいは、近頃親密になりつつある文章博士・菅原顕忠の入れ知恵に因るものか…、大納言は狡猾さも手に入れつつあった。そもそも濃い血縁を元に、姉中宮や父関白の影響は大きく、おとなしく温厚な東宮を巧みに煽動するのはそう難しくはなかったのである。
夕星は入内してから否が応にも、東宮と大納言…そして中宮の、強固な結びつきを目の当たりにして、心が沈むのだった。落胆の理由は意外にも己が心の傷の為ではなかった。
忘れることのできぬ、かの人の為だったのである。
処変わって、ここはあかりの実家である。あかりが約二年ぶりに再会した幼馴染、光と話し込んでから、もう一刻以上は過ぎていた。室内はとうに暗くなっていたが、灯火を持ってくる侍女はいなかった。
あかりが幼馴染に語って聞かせたのは、むろん、後宮で知り得た事の全てではない。いかに佐為に関連することにせよ、夕星と帝の一件は決して誰にも明かしてはならなかった。あかりが語ったのは、夕星本人の意志に依るものだけであった。
夕星は後宮に身を置くことによって、左大臣家に居た頃には知らずに済んだことを期せずして知ることになってしまった。井の中の蛙であった。人の良い父の大臣と、仲の良い姉妹と愛らしい弟。振り返れば、揺り篭のような世界であった。なんと外の世界は…、力の集まる宮廷という世界は、恐ろしい所であったのか。
ここに来ては、かの想い人もまるで違って見えた。実邸においては、かの人は善意の賞賛と栄光に包まれていた。しかし、彼の像はこの後宮ではまるで違うものに取り巻かれていたのだ。
帝の寵が注がれる佐為。その佐為に注がれる寵は、これ見よがしに高い位階を与えたり、高い官職を与えたりするような派手なものでは決して無かった。それは主に精神的な傾向の強いものであったのだ。にも拘わらず、いや却って、精神的な側面が強いからこそ、事態は悪かった。何故なら、後宮に集う者達は既に物質的栄華ならある程度は手にしていたからである。
中宮、そしてその妹姫に当たる東宮妃の梨壺女御、また中宮の弟の大納言は、いずれも関白家の本邸の子女達である。宮廷や後宮に身を置く彼らにとって、同じ関白家の子弟ではあってもつまはじき者の佐為が帝から強い寵愛を受ける事は全くもって面白くなかった。帝の心を掴むのは、藤原家の正統な血筋の自分たちであるべきだった。
そしてさらに悪いことに、以前から佐為に対して、対立心の強い菅原顕忠までが最近では大納言と共に、後宮にやってくるようになった。
夕星は密かに心を痛めていた。東宮は血縁の強い彼らや関白を有力な後見としている。完全に彼らの影響下にある。そして帝とは遠いところに心を置いていた。しかし実際は、東宮が帝に対して、常に相反する強い想いを抱いていることも知っていた。そうなのである。東宮の心の中には、佐為に対する密かな嫉妬が存在していた。父帝の心を独占する者に対する嫉妬だった。それは夕星のかつての想い人であったかもしれないという疑いから生まれる嫉妬よりも遥かに根の深いものだった。
日々、夕星は憂いを深めていった。そんな中、あかりの実家に佐為の弟子だという少年が預けられているのを知った。そして、あかりに里下がりを促したのだった。
あかりは夕星の意を受けて、光に逢いに来ていたのである。
「それで、それから・・・!?」
光は話の続きをせがんだ。そしてその表情は夕刻の暗さに紛れてはいても、はっきりと蒼ざめていることが見て取れた。
「夕星様はおっしゃるの。今の帝が譲位なさって、東宮様が帝になられたら、佐為様はきっと没落なさるに違いないって…きっと宮廷を追われるって…そんな風にご心配なさっているの」
「そんな・・・・酷い…それはあんまりだ」
「もともと、佐為様は、関白様や関白家のご子息やご息女の方がたとは相容れない仲でらしたし、関白家は、関白様の血筋である東宮様を早くご即位させたいのですもの。
夕星様はおっしゃったわ、関白家の威光の下にある東宮様には、今の帝のように、外戚と拮抗する強さはお持ちで無いと。お体が頑健とは言いがたいけれど、ご精神の強さをお持ちの帝には、お元気でいらして頂かないと困るって…」
「元気で居て貰わないと…困…る・・・?」
光は、よく飲み込めない難解な言葉を咀嚼し理解しようとするように反芻した。
あかりはこの憂慮を、夕星が一体どんな気持ちで言っているのかを痛い程知っているだけに、光に伝えながら胸がつかえる想いがした。
「そしてね、こんなことをおっしゃったわ。
『左大臣家の私が中宮にはなれなくても、梨壺女御様にはお子がいらっしゃらないし、東宮様の皇子を産めば国母にはなれるかもしれない。帝の母になれる可能性は無い訳ではない。そうしたら、次の帝の御代は違うものになるかもしれない』と」
あかりは泣いていた。
だが光は言葉を失ったまま、愕然としていた。
そして言い様の無い怒りと嫉妬心が、まるで火にかけた湯が吹き零れるように、腹の底からぐつぐつと湧き起こった。怒りは当然、理不尽に佐為を憎む者たちに対するものだった。
しかし、嫉妬は、その怒りの感情とは相反するものであり、光にジレンマを引き起こした。それは到底力の及ばない帝への嫉妬であり、そして、今ひとつはまだ見たことの無い聡明で美しい夕星姫に対するものだったからだ。力の無い自分は蚊帳の外だ。
そして堪らず、こんな言葉を漏らしていた。
「女って凄いな・・・東宮妃になった今も、かつて抱かれた男のことをそこまでして護りたいのか」
あかりは信じられない言葉を聞いた。烈火のごとくに怒りを露わにするのは、今度はあかりの番だった。
「・・・なんて・・・なんてことを言うの!? 光、どうして。あなた、心の中まで変わってしまったの? 私の知ってる光はそんな冷たい言葉を言うような人間じゃなかった!
夕星様はね、確かに佐為様のことを想ってらっしゃる。でもそれは、夕星様のお心の中だけのこと。佐為様とはそのような深いことは一度も無かったって! 酷いわ、光」
「一度も・・・無かった・・・? でもあの子はそう言っていた・・・」
驚愕に打ちのめされながら、光の脳裏には天童丸の無邪気な顔が浮かんだ。
「一体、誰の話を信じてるの、光? 人の噂はいい加減よ! 佐為様のことまで誤解しているじゃない! 夕星様は嘘をおっしゃるような方じゃないわ、絶対に!」
今や、夕星はあかりにとって絶対的な存在だった。
一方、光は怒りの矛先を何処にぶつけてよいか、分からなくなった。そして、うな垂れた。事態は、一月前に佐為の屋敷を出た頃と変わらないどころか、あかりの話を聴いた今、さらに悪くなってしまった。
そして次の瞬間には、何もしないで、いや何も出来ずに病に臥せっていた自分が堪らなく腹立たしく思えた。
こぶしを握り締めて震え、そして、その握り締めたこぶしを床に叩きつけた。うな垂れた光の肩はわなわなと震え、そして、床には一粒の涙がこぼれ落ちた。それは一粒では終わらなかった。二滴三滴、と後に続いた。
「ごめん、あかり・・・」
光は泣き濡れながらやっとそう言った。嗚咽は止まらなかった。
光の涙を見ると、あかりの怒りはたちまち治まり、眼差しは優しさで満ちた。そして今度は慰めるように、あるいは乞うように、こう言うのだった。
「佐為様は光にとっても大事なお方でしょう。ねぇ、光。お願い、あなたには解るでしょう?
夕星様の想いを汲み取って欲しいの。だから、私の言うことを聴いて欲しいの」
そうして、光は意外な言葉を聞くことになるのである。
つづく
*作中の帝の歌「花摘みしおこたり何ぞ・・・」は幽べるさんに作って頂きました。ありがとうございました。
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