春のしじま三
あかりが里下がりから淑景舎に戻って間もなくのことである。
検非違使の三谷基頼は、一月ぶりに勤務に復帰した光と顔を合わせると妙なことを頼まれた。
「おまえ、今夜別当殿の供をして、内裏に行くんだろう?」
「ああ、そうだが」
「オレはもうこれで今日は終わりだ。オレと替われば、おまえもう帰れるぞ。だから替わってくれないか?」
「なんでだよ?」
「ちょっと用があるんだ」
「まぁ、オレはいいけど・・・。何企んでんだか知らないけど、おまえ、もう無茶すんなよ」
「無茶なんかしてないさ。今回の病は不可抗力だ。オレのせいじゃない」
「そうか? にしてはあの陰陽師殿、おまえの病のことを、えらく血相変えて気にしてたぞ」
「賀茂が・・・? あいつ、なんでだか、オレが一大事の時、必ず現れるんだよな・・・。今回もまた迷惑かけちまったらしい」
そう言うが早いか、光は別当を迎える検非違使庁の庁舎の方へと消えていってしまった。
しかし、次に基頼が光を見たのは、翌早朝だった。検非違使庁へ向かう小路を、光は逆に下ってきたところだった。二人は、朝靄の中、至近距離になってから、お互いに気付いた。
「おまえ、今帰りか?」
「ああ・・・まぁな」
「別当殿は宿直だったのか?」
「ん、ああ・・・」
光は何処か曖昧な返事を、眠そうな顔をして返した。
「昨夜は替わってくれてありがとう。わりぃ、眠いんだ、行くよ」
そう言って、光は朝靄の中に消えていった。
しかし、基頼はその数日後、光が再び、小路を下ってくるのに、まだ暗い早朝に出逢った。訝しく思ったので、何をしているのか?と尋ねたが、やはり曖昧な返事しか返さなかった。
それまでに無い光の行動は直ぐに同僚の噂になった。
光があかりの家に帰宅すると、客が来ていると告げられた。思わず、光は顔を輝かせ、急ぎ足で奥へ向かった。
しかし、待っていた客が、心待ちにしていた相手ではないことを知った。そのとたんに顔色を変えるほど、以前のようにもう子どもではない光だった。だが、瞳に僅かに走った落胆の色を抑えることができなかった。
明がそれに気付かないはずは無かった。彼は眉間に皺を寄せると、光の顔をまじまじと見つめた。
「ボクで悪かったね」
光は申し訳無さそうに、頭を掻きながら、腰を下ろした。
「・・・、賀茂。おまえに礼を言わなきゃいけなかったんだ。ごめん、おまえの方から来させるなんて、すまなかった」
「いや、キミ、どうも忙しそうだからね。別に礼なんていい。 それより、・・・・もう体はいいの?」
「ああ、この通りぴんぴんしてるよ」
「今日は暖かいし、じゃぁ、少し外を歩かないか?」
光と明は、連れ立って外へ出た。まだ明るかった。明についていくと、堀川の流れる小路に出た。二人は川沿いにゆっくりと歩いた。時折、冷たい風が二人の頬を撫でる。
「それにしても良かった。キミがこんなに元気になるなんて」
明は瞳を細めて、感慨のこもった声でそう言った。
「心配かけて悪かったな・・・」
「いや、キミが元気になって・・・本当に嬉しいよ」
「・・・・・・・・・・なんか、気味悪いな」
「・・・なんだって、ボクは!」
「あ、そうそう! そう来ないとな、はは」
光は楽しげに笑った。
明はまだ目を吊り上げていたが、光の破顔一笑した顔を見ると、自然に顔が緩んだ。
「ところで、キミに訊きたいんだが・・・」
「なんだよ?」
「・・・いや、佐為殿とは逢ったのか?」
明は喉元まで出かかっていた言葉を別の言葉にすり替えた。
光は、少し顔を曇らせ、俯いた。
「・・・逢ってない・・・」
「ずっと? いつから? キミのところに来ていないのか?」
「・・・・・・ずっとだよ。なんだよ、矢継ぎ早に。相変わらずだな。あかりの家に来てから、あいつとは逢ってないんだ・・・・どうしてそんなことを聞く?」
光はいらいらしながら答えた。
「・・・そうなのか。何も話し合っていないのか?」
「だから、何だよ!?」
「いや、なら別にいいよ」
明は口元を手で押さえ、視線を泳がせながら言った。
質問攻めに遭わせたくせに、今度は軽く流すような明の言い回しに、光は腹が立った。
「なんだよ! 話をふっておいて、今度は『なら別にいいよ』は無いだろう! 気になるじゃないか! おまえ、何を考えてるんだ!」
「あ・・・ああ、ごめん、つい」
明は、しまったというような顔をした。
しかし、今度は、その顔が堪らなく可笑しくなった。光は思わず噴き出した。そして明るい声でこう言った。
「おまえって、可笑しいな」
「なんだ、そんなのんきな顔で笑うな! ボクは真剣なんだぞ。だいたい・・・! 死にかけたくせに、キミときたら、まるで自覚がない! 周りがどんなに心配したと思っているんだ」
「死にかけた・・・? ああ、そうだったな・・・確かに死ぬかと思った・・・あの時。心配をかけたのは本当に悪かったと思ってる。ダメだな、喉元過ぎればってやつだよ。この通り、元気になったとたんに、苦しかったときのことは忘れてしまう」
「喉元過ぎれば、忘れてしまう・・・だって? 違う、そんな簡単なことじゃない。単なる病なんかじゃなかったんだ。キミはそもそも、分かっちゃいない。ああ、そうだろうな、佐為殿がキミに話すはずなんてないんだ。あの人は、ボクの言うことを聞かなかったんだから!」
「・・・なんだ、何のことだ?」
「キミをあかりの君の家へ預けた理由だよ。いや、佐為殿が話してないにしろ、キミだって、病に倒れる前に、だいたいどうして、佐為殿の屋敷を出たんだ? その理由を聞かせてもらいたい」
「聞かせてもらいたいとはなんだよ! 高飛車だな、そんなの・・・だいたい、おまえに話すことじゃない・・・!」
「・・・・・! ボクに話すことじゃない・・・だって。ボクがどんな気持ちでキミの回復を待っていたと思っているんだ! 佐為殿が、もしキミを離さないで、あのままずっと愚かにもキミを屋敷に置いていたら、キミはきっと死んでいた! ボクは、あの人の気がしれない。どういう心境の変化だか知らないけど、キミを手放す気になって本当に良かったよ。ボクの屋敷に、と申し出たけど、どうもそれはお気に召さなかったらしい。それでキミはあそこへ預けられることになった。だけど、もしかしたら、今ごろは後悔しているかもしれないね」
「愚か・・・? 後悔・・・? 佐為が愚かだって・・・? 賀茂・・・、おまえでも・・・佐為をそんな風に言うのは許さない・・・・・一体どういう意味だ!?」
「どういう意味・・・、こういう意味だよ! いいか、ボクは以前キミに忠告をした。覚えているか」
「忠告・・・?」
「キミに人目につくようなところで、佐為殿と親しくするなと言った。もう随分前のことだ」
「・・・ああ、それなら覚えてるよ」
「だが、キミはボクの忠告を聞いたことがあったか?」
「・・・それは・・・・・・・・・・無かったかもしれない。
だけど! オレは一年間、大宰府に行っていたし、大宰府から帰った後だって、佐為とはほとんど逢ってなかった。父上や母上が亡くなってからだ、あいつのところに居たのは。秋から師走の始めにかけての間だけだ! ほんの三ヶ月くらいのことだ! オレは・・・筑紫に居る間も、都に帰ってからも、ずっと佐為に逢いたかった。けれど、思うように逢えなかった。逢えないことに耐えていた。やっと、・・・やっと、一緒に居られるようになった。そう思ったら、どういう訳か、今はまた離れている! 遠い大宰府じゃない、オレはこの通り都に居るっていうのに! そう、都に。しかも歩いて少しのところに居るっていうのにな! あの数ヶ月は、オレにはあっという間だった。まるで黄金のように貴重な日々だった。オレはずっと佐為を求めてきたんだ。おまえの忠告を思い出しているひまなんて無かったよ!」
光は堰を切ったように、想いを吐き出した。明は少し気圧されたが、言葉を選びながら答えた。
「キミには・・・・確かに短かったかもしれない。だけど・・・その僅か数ヶ月の・・・キミ達の睦まじい暮らしぶりを、心の底から妬む人が居る。そのことを思い出して欲しかったんだ」
「帝のことなら! ・・・あの人のことなら、忘れたことなんて一時もない。いつも、いつも、いつもオレの背後に居るんだ。いや、オレの背後というより、佐為の後ろに居るんだ。・・・佐為の後ろで、オレを見てる。オレを睨んでいる。あの時みたいに。ずっと、ずっと、ずっと!」
「では、キミはやはり帝の影を恐れて、佐為殿の屋敷を出たのか?」
「恐れているのは、帝じゃない! 帝なんて初めから恐れちゃいない! あんな・・・・・!」
光は続く言葉をぐっと飲み込むと、奥歯を噛んだ。
「では、何を危惧して屋敷を離れた?」
「・・・・。
それは、オレにもはっきり言えない。何かきちんと考えがまとまったから屋敷を出た訳じゃないんだ。だがおまえの言う通り、確かにこのままではいけないと思った。
帝を恐れていないと言ったけど、自分のやったことの恐ろしさは今では分かっている。そして心から悔いてもいる。オレは目の前しか見えない愚かで浅はかで、大馬鹿野郎だった。
オレが恐れているのは、ただ佐為を失うこと、また佐為と離れてしまうこと、それだけだ・・・。
あのままでは、確かに帝は面白くないだろう。オレだってそれは考えた。どうしたら、佐為と共に生きることが出来るのか・・・、どうしたら、オレも楊海殿のように遠く石を置けるのか、どうしたら、遠くに石を置いて遂には相手に勝てるのか・・・、それを一人で考えたかったんだ」
「では、キミは・・・・やはり正しかった。だが、少しタイミングが遅かったんだ。もう少し早くそうしていれば・・」
「早くそうしていれば・・・? どういうことだ?」
「内裏に居た、宇治の僧都が帰ったよ」
「は、何のことだ」
「霊験あらたかな僧都が帰ったとたんにキミは良くなった」
ここまで言うと、光も明が何を言いたいか察した。
「まさか・・・!」
「そのまさか、だとボクは思う。こういうやり方なら、あるかもしれないとボクは思っていた・・・。
ボクは、佐為殿に最初から勧めたんだ、キミを屋敷には戻さず、どこか他の場所に預けるようにとね。だが佐為殿は初め頑として聞き入れなかった。キミを連れて帰ったよ、倒れていたキミを発見してから直ぐにね。だが、二日後には考え直して、ボクに連絡を寄越した」
「そういう・・・ことだったのか」
「キミを預かっているあの家の人達は、キミの病を平癒する為の場所変えとしか、思っていないはずだ。だから、キミが佐為殿の真意を知らなかったのは仕方ないことだが・・・」
「真意・・・? それが佐為の・・・」
「ああ、彼は考え直したと、・・・つまり、キミの病は宇治の僧の神通力によるものと、彼は納得した。・・・と、ボクはそう思っているが」
佐為の真意・・・。光は心の中で問うた。
それが佐為の真意だろうか? 帝がオレに何かを為したと考えて、それを止ませる為にオレを遠ざけた・・・? 佐為が・・・。
だけど、オレはここで病の床から目覚めた時に直感した。オレ達は今一緒に居てはいけない、その想いが彼に伝わったんだと。だから、佐為はオレをここに寄越した。だが、賀茂の言うことが本当なら、少し違う。帝がもしオレへ怨讐を抱いているなら、それを払拭する為だったということになる。ならば、理解できる。多かれ少なかれ、そうした意図があるのだろう。
でも・・・・どうも腑に落ちない部分がある。
そう、佐為は帝を疑うだろうか。
光はこの問いに煩悶した。考えたが、答えは否だった。
あいつは疑わない、きっと。帝のことを疑わない。オレには分かる。
光の中でどうしようもない確信が広がった。佐為のことを全部理解しているとはやはり言い難かった。だが、それでも自分だからこそ分かる部分がある、見える部分がある。大宰府から帰ってきたばかりの頃とは違う。今は・・・それが帝のことに関してであるならば・・・より一層、鮮明になったのだ。
こんなにも遠い存在であるのに、佐為を通して、誰よりも近くにその憎悪のこもった息を感じ取ることが出来る。
その時、光の脳裏に、幾重もの帳と簾の向こうに、はっきりと天子の姿が浮かび上がった。天子の姿はまるで夜の闇のように黒かった。全身に怒りの黒い鎧を纏っていた。
だが、佐為の瞳には、穢れ無き白い衣を纏って映るに違いない。光にとって、それはどうしようもない確信だった。
佐為がオレを遠ざけたのは・・・・・少し違う理由からだ。こんな風に周りから、オレの病の起こった所以を憶測されたんだ・・・。そして、そのことがあいつを動かしたのかもしれない。帝の心情を考慮した行動を喚起させたんだ。そういうことではないのか・・・?
二人は、ずっと川沿いに歩いていたが、光がしばらく黙ってしまったので、明が言った。
「こんなことを訊くのは酷かもしれないけど、キミはこれからどうするつもりだ?」
「・・・考えていることはあるにはあるんだ。でもその前に一度佐為に逢わなければ・・・。逢って話をしなければ」
「ボクもそう思う・・・キミ達は話し合うべきだ。どうするにせよ・・・」
「賀茂、だけど、オレ・・・これはもう決めたよ」
「何を?」
光の意外な強い語調に、明はその顔を覗き込むように尋ねた。
二人が並んで立つと、今でもやはり明の方が高かった。それにしてももう二人とも立派な青年で、清々しい立ち姿は、夕映えの小路に一層際立っていた。
ところで、この堀川沿いの小路の、二人から離れたところに、一台の牛車が停まっていた。車の中から眺めても、二人の若者の姿はなかなか見栄えが良かった。
二人は話し込んでいたので、気付かなかったが、車は随分前から、そこに停まっていた。道行く人や他の車にひっそりと紛れていた。
この車の中に居た人物は、先ほどからずっと二人を見ていたが、遂に声を漏らした。
「・・・ああ・・・」
感慨とも、嘆息ともつかぬ声だった。
その声を合図と思ったのか、牛飼い童が外から声を掛けた。
「そろそろ遣りますだか?」
だが、中からこんな答えが返された。
「もう少し待ってください」
「はぁ、またか・・・」
牛飼い童は独りごちた。
「旦那様はこの前も、そのまた前もこうだった。最初は、偶然だったんだ。だが、その次は、意識してここらをお通りになった。目当ては例のあの若者だ。それで、車を停めてはあの若者の姿が消えるまで見ていなさる。今日はまた、あのお若い衆に連れが居て話しこんでるで、旦那様も動かねぇとくる。知り合いなのか、何なのか? どうして声を掛けなさらんのか。おら、今年になって、お屋敷に雇われたで、まるでよくわからん。女みていにおきれいだが、変なお方だよ・・・まったく」
そう漏らすと、人のいい無骨な顔の牛飼い童はあくびを一つした。
一方、「旦那様」と呼ばれた車の中の人物は、相変わらずじっと堀川のほとりの、ある一点を見つめていた。 その眼差しはただ、一人の若者だけに注がれていた。そして彼は、掠れた声でそっと呟いた。
「・・・背筋を伸ばし・・・両の足で立っている・・・。それになんて血色のいい頬だ・・・・・、以前のままだ。以前のように・・・元気な姿だ。・・・ああ、感謝します」
さて、辺りは大分暮れて暗くなってきた。暗くなってきたことも手伝い、川沿いに居る二人は車のことには全く気付かないままだった。
明は、先ほどの光の言葉を問い返した。
「決めた・・・って、何をだ? 近衛」
光は真っ直ぐに明を見詰め、答えた。
「もう、佐為の屋敷には帰らない」
一瞬、明はたじろいだ。だが、声を落とすと、念を押すように言った。
「帰らない・・・本気なのか・・・、本気でそう決めたのか?」
「帰らないっていうのは、もう一緒には暮らさないって、そういう意味だ。それ以上の意味でも、それ以下の意味でもない。なぁ、賀茂。オレが再び佐為のすぐ傍に戻って、一緒に暮らしたりしたら、今度は本当にオレは死ぬんだろうか?」
「ああ・・・キミは殺される、きっと。ボクはそう思っている。だから、キミの考えにボクは賛成だ。キミに死んで欲しくない」
「なら、安心しろよ。屋敷には戻らない。オレだって死にたくない。まだやってないことがたくさんあるんだ。死ぬわけにはいかない。死んだら、本当の意味で佐為と離れてしまう。そんな訳には行かない、絶対に。だから、もう佐為とは暮らさない」
光は、黙って川の水面を見つめた。その横顔に金褐色の夕日が当たるのを、明は黙って見つめていた。決意を込めた瞳も凛々しく、一人で立っている光の姿に、僅かな落胆を覚えながら・・・・
そして、離れたところに停まっていた車が動き出したことに、やはり二人は気付かないままだった。
つづく
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