春のしじま四

 

 
 この日、天童丸は何時にも増して、乳母や侍女達を辟易とさせていた。邸中を、酷い勢いで飛び跳ねて回ったからだった。
 たまりかねて乳母が言った。
「若様、いい加減になさいまし。落ち着きが無さ過ぎます。いくら嬉しいからといって程がございますよ」
 乳母がたしなめるほどに童子が興奮したのには、理由があった。今は東宮妃となっている姉姫が邸に戻ってくることになっていたからだ。夕星姫が体調を崩して内裏を退出してくることは、左大臣邸としては喜ばしいこととは言い難かったが、姉姫を慕う童子にとってみれば、こんなに嬉しいことは無いのである。

 さて、夕星姫が里邸に下がってからは、左大臣邸での棋書の編纂は小休止となった。そればかりではなく、しばらくの間誰もが遠慮したのか、目立った訪問客もなく、夕星一行は静かで穏やかな日々を過ごすことができた。静寂を乱すのはやんちゃな童子くらいだ。しかし、それも夕星にとっては回復の良い材料となった。そうしている内に、程なく彼女の容態は良くなった。東宮からも、しきりに参内を促す文が届くようになった。
 そして、明日には宮中に戻るという日の夜のことである。
 夕星はもうとうに休んでいた。だが、左大臣邸に同行したあかりは、ここで思わぬ客と出くわすことになる。こともあろうか、夕星の休む対屋の簀子(すのこ)に人目を忍んでやって来た男があった。それは驚くべきことに、あかりにも見覚えのある人物だった。
 あかりは見とがめると、こう言った。
「あなた様は・・・!? 何故、このようなところに?」
 男は驚いて振り向いた。
「そなた、私の顔を知っているのか?」
 直衣からは芳香が漂い、夜目にも立ち姿が美しく感じられる男である。
「淑景舎で何度かお見かけしております・・・」
 あかりは当惑しながら答えた。男はあかりの戸惑いを感じ取った。そして心の中で、顔見知りの慣れた女房が居ないことに舌打ちした。そして、その同じ舌の先で今度は柔らかい声音を作ると、切々と語り出した。
「・・・御簾越しで良いのだ。いや、妻戸の外でも構わぬ。内裏では、とてもお声をお掛けすることなど出来ぬ・・・。明日には参内されると聞いた。せめて一言ご挨拶申し上げたい・・・。他にこのような機会も無いと思うと、今宵だけが頼りなのだ。どうか、この心中を察してはくれぬか。一言言葉を交わしたいだけ、疾しい心など微塵もありはせぬ。姫に取り次いで欲しいのだ・・・」
 男はとても真摯な態度で、礼を尽くし、あかりにそう頼んだ。
 普通の女房なら、今をときめく将来有望な貴公子の頼みを、むげに断ることは出来なかっただろう。
 あかりとて、はっきりと夕星の言葉を聞いた訳ではない。だが夕星が、目の前に現れたこの貴公子然とした男を、密かに恐れていることは、以前から肌で感じ取っていた。彼女は取次ぎを丁重に断ろうとしたが、しかし、それは容易なことでは無かった。
 あかりは、己の権力に奢れる者の強引さに、たった一人で立ち向かわねばならなかった。男はあかりに近寄り、力任せに釣り燈篭の下に引き寄せると、その顔を覗き込んだ。そしてこう言った。
「先ほど、暗闇の中で姿を見たときから、そなたの顔を想像していたが、想い描いたよりもずっと美しく可愛らしい人だ。そのように美しくあれば、胸を焦がす恋の苦しみも知っていようというもの。・・・この胸の苦しみを分かってはくれぬか。想う人に逢えぬ悲しみを思いやってはくれぬか?」
 男は目に涙を溜めて、執拗に訴え続けたのだった。
 しかし、あかりは遂に夕星に男を逢わせることはしなかった。そしてやっと男が外で待たせた車に乗り込んだのは丑の刻を大分回った頃であった。



 この密かな事件の後、数日が過ぎた。
 光は、この日朝早く目覚めた。鳥の鳴き声が聞こえる。
 あかりの家の庭には梅が咲いていた。そう、すっかり元気になった今も、まだ光はここで過ごしていた。

 光は寝起きの良い方だったが、それでも寒い朝は褥でしばらく丸くなっている。だが、今日は躊躇することなく起き上がると、早々に身支度を始めた。
 顔を洗うと、鏡台に鏡を載せ、部屋に置いてあったゆするを付け、自分で髪を梳いた。光の肌は少年の名残りを残してまだなめらかだったが、それでも朝起きれば口の周りにはうっすらと髭が見える。光はいつもより丹念に顔を剃った。剃った後は、これまた何時になく、じっと鏡を覗き込んでいた。そして遂には合わせ貝の毛抜きを手に取った。剃り残した髭や、髪の生え際を執念深く整える為だった。その後はゆする同様、家の者が用意しておいてくれた椿油を少し手に取って、ひりりとする肌に擦り込んだ。
 
 三津が起きてきた。彼女は、光がまだ早いうちから鏡を覗き込んでいるのを見て、派手に驚いた。こんな光景は初めて見る。三津の記憶にある限り、光は身支度に時間を掛けるような人間ではなかった。つまり、あまり見てくれに頓着しないタチのはずだった。
 一方、柄にもなく鏡を熱心に覗き込んでいるのを見られて、光は大いにバツが悪かった。と同時に、さも驚いたと言わんばかりに自分を凝視する三津に、無性に腹が立った。三津は喜怒哀楽の表現が激しい女だった。つまりはこんな時程傍に居て欲しくない人物だった。
 光は顔を紅くすると、三津に背を向けて慌てて立ち上がり、今度は着替えに掛かろうとした。三津は予想通りにこう言った。
「まぁ、どういう風の吹き回しでしょう」
「早く目が覚めただけだ」
 光はすげなく答えた。
「昨夜は遅かったじゃありませんか。いつまでも石を打つ音が聞こえましたよ」
「・・・なかなか眠れなかったんだ」
 光は、三津に背を向けたまま、仕方なくそう答えた。しかし三津は、全く自分の調子を崩すことなく、言葉を続けた。
「なのに、朝もこんなに早いなんて・・・あまり寝てないのでしょう? どこか、体の調子でもおかしいんじゃないですか」
「・・・オレだって出来れば早く寝たかったよ」
 とだけ光は言うと心の中で毒づいた。
 ・・・そう、早く寝たかった! だって今日がどんな日だと思っているんだ! ずっと待っていた日なんだ。ああそうだ、だから却って気が高ぶって、結局ほとんど眠れなかった。眠らなければいけないと思うほど眠れなくなる。ありがちなことさ、くそ!  
 
 三津は尚も、いつもの調子で、こう言った。
「身支度なら、三津を呼べば良かったのに」
「いや、自分で出来るからいい」
「じゃぁ、これは着せて差し上げますよ。これは三津が手伝った方が綺麗になりますからね」
「分かった、じゃぁ、頼む」
 光は、もう三津のしたいようにさせることにした。
 そして用意しておいた真新しい花山吹重ねの狩衣に身を包んだ。それは随分前にあかりの家に届けられたものだった。衣には文が添えられていた。綺麗な色が付いた紙からは香が漂った。
 だが文面は至って簡潔だった。

 あなたの病が癒えて、元気になったのをとても嬉しく思っています。
 健康を取り戻したのであれば、そろそろ棋書の編纂に加わりなさい。
 季節もすっかり変わったので、左大臣邸へ出向く際は、その衣を纏うと良いでしょう。
 大臣殿の邸にては、くれぐれも失礼の無いように振る舞うこと。
 以前私が教えたことをよく研鑚して心して臨みなさい。 
 
 とあった。

 文は佐為からのものだった。届けられた時には、光は震える手でこの文を開いた。文には日時も記されていた。光はその日がやって来るのを指折り数えた。しかし、光の心の高まりに釘を刺すかのように、後から日程の延期が告げられた。夕星姫の里下がりの為に左大臣邸には行けなくなってしまったからだった。
 そして、やっと延びていたその日がやって来た。それはまさしく今日であった。

 衣に袖を通すと、栴檀の良い香りが広がった。最初の予定からは幾日も遅くなってしまったので薄れてはしまったが、送られてくる前に焚きしめられたと思われる香がまだ残っていた。光は思わず香の残る袖に鼻先を埋もれさせて、瞼を閉じた。

 三津は身支度の整った光を見ると感嘆した。そして嬉しそうにこう言った。
「なんて素敵なんでしょう。ご立派ですよ。本当に男前になったこと!」
「・・・そうかな」
 光の頬には再び赤味が差した。もう先ほどのイライラした気持ちは消えて、三津の優しい眼差しを、心地よく、そして有り難く感じた。
 しかし、三津は思い出したように、こう付け加えた。
「ああ! それでこの間は髪を洗ってたんですね!」
 光はこの言葉を聞くと、途端に先ほどよりもさらに顔を紅くして、再びぶっきらぼうに言った。
「ずっと病で寝ていたから、さっぱりしたかっただけだ! もう三津はいちいちうるさいな!」
 ところが、やはり三津は一向に意に介さず、仕上げにこう言った。
「あら、でも出かけるまでにまだまだ、時間がたっぷりありますよ。着崩れなきゃいいけれど」



 さて、光はすっかり身支度が整ったまま実に長い半日を過ごすと、いよいよ左大臣邸にやってきた。佐為の供をして公卿の屋敷に行くのならいざ知らず、下級官人でしかない光が一人で出向くには、左大臣邸は大いに場違いな所のような気がした。だが、これから先のことを思うと、光はこれしきの事で怯んでいてはならないと自分に言い聞かせた。
 しかし、そんな光を驚くほど熱烈な歓迎を持って出迎えた人物が居た。天童丸だった。童子は光の腕に絡みつくと、まくし立てた。
「光! よく来たね。もう、夕星の姉君が居なくなってしまったから、つまらなかったったらありゃしない。ほらこっちだよ。来て来て、早く!」
 緊張しながら左大臣邸にやってきた光は、この出迎えで一気に気が緩んだ。
 天童丸は、女房達が制するのも聞かずに、邸内に光を引き回して案内し、やっと最後には、客を通さなければいけなかった間へとやってきた。そこには女房なども控えていないようでしんと静かだった。
 果たして、佐為は既に座していた。そして、彼しか居なかった。光は一瞬息を飲むと、奥へと入っていった。
 
 佐為は、奥へと入ってきた光に目をやると、何も言わずに上から下までただじっと眺めた。
 だが、光の方はなるたけ、その視線に気を取られないように唇をきゅっと結び、ただ真っ直ぐに佐為の方へと進んだ。彼の前まで行くと腰を下ろした。そして次には深々と頭を下げた。これは光が大宰府から帰ってきてからの習慣だった。佐為に教えを受ける時は、必ず彼の前に深く頭を下げた。そして、今日のこの礼はいつもよりやや長かった。
 しばらくして、光は頭を上げた。すると佐為の視線とぶつかった。二人は、互いに言葉がなく、ただ見詰め合う視線だけが相手に投げかけられ、そして受け取られた。
 この様子を、天童丸は瞳を見開いて黙って見ていた。この童子が黙ってただ眺めていることなど有り得ないと言ってよかったが、しかし、いかにも黙って見ていた。童子は、そのうち、くるりと向きを変えて出て行ってしまった。そしてこの日はもうふっつりと、彼らの前に現れなかった。
  
 沈黙を破ってやっと佐為が口を開いた。
「光、一局打ちましょう」
「分かった」
 光は、それがごく当然のことだというように返事を返した。

 二人はこうして久しぶりに碁盤を囲んだ。
 久しぶりにそれに触れる光にとって、佐為の一手一手はやはりどうにも違っていた。長く時を空けた後だからこそ、より鮮明に感じる。優美な指から繰り出される石の威力。閃光を放って、盤上の宇宙に輝く、その煌めき。
 これこそ! そうだ、これを欲していた。そう光は思った。
 枯渇した大地が雨を望むように。乾いた喉が水を求めるように。ああ自分は飢えていたのだ! 光は、ひしひしとそう感じた。

 体が回復してからも、光は折に触れ、誰かしらを捕まえて碁を打っていた。あるいは、誰かに乞われて碁を打つこともあった。光の腕前は今では少し名を馳せるようになっていたし、後見役の佐為に教えを受けている事も、知られるようになっていた。なので、時には検非違使の別当や(すけ)に呼ばれて碁を打つこともあった。が、いずれの場合も、この瞬間に勝る高揚感を得られることはもちろん無かった。
 およそ二月ぶりに、佐為の研ぎ澄まされた刃に触れる恍惚に酔った。様々な懊悩に取り巻かれながら、何もかもがさっと消えていくような不思議な感覚を再び味わった。
 何を悩んでいる! 余事はつまらないことばかりだ。他の事はもうどうでもいい。これだけ在ればそれでいい。この瞬間さえ在れば。佐為と碁を打てれば! それで全ていい! そんな気さえした。
 不可思議な一体感。その場の周りにある全てのものが消え去っていく。其処には几帳も脇息も、灯台も、何も無い。碁を打つ自分たちだけが星々の虚空に浮かび上がる。
 何度目だったろう。こうして佐為と星空に浮遊するのは。この恍惚を味わう為になら、何を犠牲にしてもいい、本気でそう思えた。
 この悦びは、抱きあい肌を触れ合うことで得られる悦びと同じ、いやそれ以上だ! この瞬間、何よりも確かに佐為と繋がっている・・・!
 光は、むろん負けたが、満足だった。 
 打ち終わり、高まった心を落ち付かせている間も、光は満ち足りていた。碁盤を挟んで目の前に居る人に、溢れ出る己が心中の熱き想いを伝えたかった。
 今度は光が口を開いた。
「・・・・やっぱりおまえは強いな」
 口から出たのは、ごくありふれた言葉だった。瞬間、光は何か違うと感じた。
「・・・あ、違う。そうじゃなくて・・・・・・あの」
 その様子を見ると、佐為は初めて笑った。
「どうしました、光?」
 改めて聞く佐為の声に、光は震えた。
 何もかも忘れて、彼と抱き合いたいと思った。思いのたけを込めて彼を抱きしめたかった。しかし、光は拳を握り締めて、俯いた。
 すると暫くの沈黙の後に、佐為が言った。
「・・・光、話があります。今日は他に誰も来ません。二人で話し合いましょう。その為にあなたを呼びました」
 光は顔を上げた。
「・・・そうか。わかった」
 短く答えた。すると先ほどは石を握っていた、あの優美な指先が伸びてきた。そしてその指先は、光の顎にそっと触れた。僅かに体温が伝わった。それだけで、光は心の臓がドクドクと鳴るのを覚えた。
 佐為が言った。
「・・・よく、・・・よく元気になりましたね。・・・・光」
 光の顔に触れている佐為の指先は、軽く顎から頬にかけて数回行きつ戻りつして優しく光の肌を撫でた。撫でたかと思うと、引っ込んでいった。光は落胆した。酷くその指先を惜しんでいる自分に、はっきりと気が付いた。先ほどあんなにも覚えた高揚感はすっかり何処かへ行っていた。
 そして、彼は続けた。
「元気になってよかった。回復してよかった。光、ずっとあなたが良くなるように祈っていました」
 光は答えた。
「佐為、すまない。迷惑を掛けて」
「光の為にすることで、迷惑なことなどありはしません」
 また、沈黙が流れた。二人は今度は互いに視線を落としていた。
 佐為が言った。
「・・・花山吹重ねがとても似合っている。光にはその色が似合うと思っていました。想像以上だ、とてもあなたを引き立てている」
「・・・これもありがとう」
 光は頬を紅くしてはにかみながら答えた。
「三津も似合うと言ってくれたんだ。この色はとてもいい。おまえに見立てて貰ったのも嬉しい。だけど・・・、色ももちろんいいけれど、それよりおまえの匂いがするから好きだ。ずっと着ていたい」
「・・・匂いはいつか消えてしまう。・・・では、いっそ後で香を届けましょう」
 佐為は微笑んだ。微笑むとまた沈黙した。
 光はふと、気詰まりな空気を感じた。佐為が「香を届けよう」と言ったのも哀しかったけれど、それ以前に、既に空気が気詰まりだった。佐為が少ししゃべっては黙ってしまうのも、そのせいだと思った。
 「香を届けよう」などという佐為の言葉さえ除けば、二人は以前佐為の屋敷の廂で交わしていたような会話を交わしているはずなのだ。傍で誰か聞いていれば、いかにも心を通わせた間柄に生まれる戯れや感傷といったものを孕んだ優しい会話だった。だがこれは佐為の屋敷で交わされていたものだった。私邸でありながらも公勤の場である左大臣邸では落ち着きが悪かった。場所が違うにも拘わらず以前通りであること。言い換えれば、今二人の居る場が以前の二人を快く迎えないのが、気詰まりだったのだ。そして二人はこの同じ沈黙の時間に、互いにそれに気付いた。

 今度も佐為が口を開いた。
「光、今日は二人だけで話ができるように、配慮して頂いているのです。話さなければならぬことを話しましょう」
「ああ」
 光は答えた。
「光、あなたにはさぞ私に問いたいことがあるのではありませんか?」
「・・・・・・・・」
 光はなかなか答えなかった。やや俯き、佐為と自分の間にある碁盤を見つめた。先ほど打った石がそのまま置かれていた。
 光はそれでもなかなか答えなかった。佐為はじっと待っていた。
 光はやっと口を開いた。
「佐為・・・、オレをあかりの家にやったことなら、オレはオレなりに考え、そして納得している。
 今は、そのことよりも、問いたいことは別にある・・・。
 オレは思ってきた。オレとおまえは繋がっていると。離れていても繋がっている。そう思ってきた。だが、だからといっておまえの全てまではやっぱり解らない。それはおまえがオレに全てを見せないからだと言った。だが、おまえは答えなかった。オレには答えに躊躇しているように思えた。おまえと最後に話した時のことだ、覚えているか?」
「覚えています。あの翌日、あなたは屋敷から離れ、自分の家に戻った。あれから私も考えました。光がどうして、屋敷に戻ってこないのか。何か考えがあって、出て行ったのではないか。もしそうだとしたら、もう戻ってこないのではないか・・・そんな風に」
「オレがおまえの屋敷を離れたのは、ただ一人で考えたかったからだ。あの時は、永遠に出て行くつもりなど無かった。おまえだって・・・、あの時はオレを何処かへやるなどとは考えてなかったはずだ」
「・・・ええ、考えていませんでした」
「だが今は、すっかりおまえの考えも変わったようだな・・・」
「・・・・・・それについては、話さなければと思っている・・・だが、今は順に話しましょう。光は一人で何を考えたかったのです?」
「・・・楊海殿に言われたんだ。最上の打ち方は遠くまばらに石を置いて囲み、地を得て勝つことだと」
「楊海殿に? それは『新論』にある言葉ですね」
「兵法に通ずる言葉だと・・・そう聞いた。ならば、オレもそのように戦えないものかと、そう思った」
「戦えないものか・・・と・・・?」
「そうだよ・・・オレの敵は手強い。ちょっとやそっとでは勝てない。だから、まずは駒を引き、静かに考えたかった。戦法を組み立てたかった」
 佐為はここで尋ねた。
「あなたの敵とは・・・誰ですか」
「帝だ」
 光は答えた。
 佐為は光の言葉を聞くと、ただ静かに瞳を閉じ、しばしの間沈黙したのだった。 

 つづく

註>
 少し服喪についてです・・・。光は既に出仕して、色物を着ていますが、平安時代、本当は親の死後13ヶ月は服喪するという定めがありました(服喪中は出仕もできませんでした)。でも実際には、この服喪期間をかなり短縮していた例(1ヶ月〜3ヶ月等)が数多く記録されているそうで、光も四十九日の後に出仕してます。服喪と出仕に関しては、あかりも同様です。夫の死の服喪期間(親同様13ヶ月)を出仕に合わせ、短縮して終えたかと思われます。ただ、光は再び出仕を始めた後も佐為の屋敷に居る時は喪衣を着ていたと考えています。

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