春のしじま五

 

 
 佐為はまだ黙っていた。今度も答えに窮しているようだった。返す言葉がどうにもみつからないのだろう。 
 だが光の側には迷いはなかった。ある決心が心の中には固まりつつあったからだ。自分の言葉に佐為がどう答えるのか。最も深い憂慮の元であるが故に、それは畏怖に似た近寄りがたさに包まれていた。おのれの中には未だ混迷と恐れがあった。一つの迷いを越えると、新たに次の迷いが生まれる。いくたりも対話の機会はあったのに、このことに触れなかったのは、その為だと気付いた。彼を責めるのは簡単だったが、核心に触れるには時間も要ったのである。
「佐為、おまえの配剤は絶妙だよ」
 佐為が何も言わないので、光はぽつりと言った。
「は・・・?」
 佐為は少し怪訝そうな顔をした。
「オレにとって、この二月の期間は必要だった。今はそう思える。おまえと離れて過ごした数十日はオレにとって必要だったんだ」
 言葉の背後に感じられる光の葛藤。今こそ、それを無視するわけにはいかない。そう佐為に感じさせるには充分な言葉だった。彼はやっと口を開いた。
「光、あなたは私が私の全てをあなたに見せないと、二月前の最後の晩にそう言いましたね」
「ああ」
「あなたは、私にとってかけがえの無い存在です。それは変わらない、何があろうとも。
 でもだからといって、あなたが私の全てを理解することは難しいし、そして、あなたのことも私は全てを理解できるとは思っていません」
 ところが光は反論した。
「それこそ分からない。分からないなら、分かりあう努力をすればいい。そうじゃないのか? オレはおまえにオレの全てを知って欲しいと思っているし、オレはおまえの全てを知りたい!」
 光が少し声を荒げる。 佐為は、興奮した光をなだめるように答えた。
「・・・いえ、むろん、それでいいと思っています。私達は分かりあった方がいいに決まっている」
「じゃぁ、どうして?」
「でも時には、容易には理解しがたいやっかいなものも、人の心の中には存在してしまうものです。だがそう言う以前に、あなたには詫びねばならないと思っています。あなたにはもっと早く言うべきだったかもしれない。他の誰に言わなくとも」
「ならば、聞きたい。知りたい」
 光はここで一呼吸置いて言った。
「・・・・何なんだ、おまえにとって帝とは? 分からないんだ。
 オレはずっと考え続けていた、でも分からなかった。教えて欲しい、佐為。おまえにとって、帝は何だ」
 真っ直ぐに問い掛ける光の瞳が佐為に突き刺さった。彼は、痛い程自分をとらえる光の視線を、じわじわと苦汁を噛み締めるかのように受け止めた。
「楊海殿に同じことを問われました。だが、私は分からないと答えたのです」
「分からない・・・?」
「確かに、分からない・・・それも事実です。
 だが、私の中にある、帝への想いの一分にあるもの、これは知っているのです・・・。ただ、楊海殿には言いたくはなかった。だから答えなかった。本当はあなたにさえも言いたくはないのです」
「・・・・・・!」
 光は眉間に皺を寄せ、瞳を見開いた。
 自分にさえ言いたくない! 彼は今そう言ったのだ! 光の胸に、にわかに怒りが込み上げた。
「今、他の誰に言わなくとも、オレには言うって、そう言ったじゃないか!」
「待ってください、だからあなたには伝えるのです」
「仕方なしにか・・・! 酷い言い草だな」
「光をこれ以上苦しめたくない。光が私の心を少しでも知って、それで光の苦しみが軽くなるなら、伝えねばならない、そう思うからです」 
 佐為はそう言ったが、それでもまだ何処かしっくりと腑に落ちていかないものを感じた。だが、どちらにしても、彼からやっと真相が聞けるのだ。今まで、訊けもしなかったし、聞くこともなかったことを、今彼が話すというのだ。光は心の臓が再び鳴り出すのを覚えた。 
 そして、佐為は言った。
「かつて・・・帝を父のように感じ、慕いました」
「・・・・かつて? 父の・・・ように・・・慕・・・った!?」
 光は初めて聞く佐為の心中に震えが走った。思いも寄らぬ言葉だった。
「父上のように、帝を慕ったと・・・? そんなことが・・・どうして出来る・・・?」
「光・・・、私には父と呼べる存在が居ないのです」
「・・・・居ない? ・・・・・居ないとはどういう意味だ?・・・・父でありながら、関白様がおまえを愛さない・・・だから、父と呼べるような存在が居ない、そう言っているのか?」
「違うのです、そうではないのですよ」
「違う? どう違うって言うんだ?」
「父上は・・・私の父は、父でありながら私を愛さないのではありません。父ではないから、私を愛せないのです。極自然のことなのでしょう、おそらく」
「・・・は?」
 光は狐につままれたような顔をした。
「そのように驚いた顔をして・・・、光は想像したことはありませんでしたか?」
「想像・・・何を?」
「何故、私が他の兄弟姉妹のように父に愛されないのかをです・・・。その理由を想像したことはありませんでしたか?」
 佐為は淡々と語った。いつもと寸分も変わらない口調だった。
 光はそう言われて初めて気付いた。理由・・・、そう言われてみれば、あまり深く考えたことが無かった。母君の身分の低さ・・・? 北の方からの嫉妬? 佐為は継母からも、異母兄弟からも憎まれる要素が、元々その出生に備わっていた。父君は、佐為の母上が亡くなった後、そんな不憫な子を、物質的なことはさて置き、精神的な繋がりにおいては、あっさり切り捨ててしまえる程、薄情で冷酷な人間なのだと受け止めてきた。
 だが、父君は、愛する女が生んだ不憫な子にこそ、より強い愛を注いでも良かったはずなのだ。何故、佐為を憎んだ? ああ、何故今まで、それを考えてみなかったのか?
 佐為は続けた。
「こう言えば、もう分かりませんか。つまり私は、父上の本当の子ではないのですよ、光」
 光に衝撃が走った。
「そんな・・・ばかな・・・。うそだ、そんなことって・・・・じゃぁ、一体」
 そう言いながらも・・・・、驚愕に震えながらも・・・、一方では、ああそういうことならば全てに納得が行くではないか、と光は今更ながら思うより他なかった。
「光、私は一体何者なのでしょう。未だに漠然とした問いが消えません。自分が不義の子なのではないかという疑いは、随分幼い頃から持つようになっていました。だがある時、疑いがはっきりと自分の中で、確信に変わった瞬間があったのです。その時に感じたのは哀しさではなく、安堵でした」
「・・・安堵?」
 光は、不可解な言葉に、目の前に居るはずの佐為が灰色の帳に覆われたような感覚を覚えた。
「・・・それで、父上が何故私を愛さないのか、私を憎むのか、理解できたように感じたからです。
それで随分楽になりました。光に、私が安堵した気持ちが分かりますか? 私を包んできた孤独と混迷を理解できますか?」
 光は答えられなかった。情けないことに言うべき言葉が見あたらなかった。
 言うべき言葉は見つからないのにも拘わらず、記憶の彼方に行っていたある懐かしい光景が鮮明によみがえってきた。
 二年半前の秋の夕べのことだった。自分が乞うたが故に、佐為は過去に愛した女性のことを語ったことがあった。「光には分からない」あの時もそう言われた。気恥ずかしさの為か、初心な恋心のほろ苦さの為か、今となっては遠くに追いやってしまっていた記憶だった。
 佐為はその後よく繰り返しこう言った。『・・・・光は、私に無いものを持っている。光は愛されて天真爛漫に育った。光はいつもお日様の匂いがする。そしてそんな光に、私は惹かれる』のだと。裏返せば、それは「光には分からない」ということだったのか。光は俯いて肩を落とした。
「光・・・、私は親の愛というものを知りません。代わりに慕った方もいましたが、その方の愛も常に近くにあるものではなく、そして充分に享受することは叶いませんでした。私は、いつも父に愛されたいと思いながら、生きてきた。あの氷のような父上が私を愛してくれたら、どんなにいいだろう。そう思ってきた」
「・・・そんな・・・。おまえがそんな風に思ってきたなんて・・・あの父君に対して?」
 光にはそれはあまりに意外な言葉だった。知らなかった。分からなかった。佐為の中にあるものは幼い日に亡くした母親への憧憬の念だけだと思っていたのだ。
「今は実の父ではないと確信しているのにも拘わらず、それでも私はあの父上に愛されたい、正直にそう思っています。この気持ちがあなたに果たして理解できますか?」
 光は黙って、正直に首を横に振った。ああ、これでは佐為の言う通りになってしまったではないか!と思いながら。佐為の気持ちが理解できないのだ。光は呆然とした。
 佐為は続けた。
「私は少しおかしいのかもしれない。楊海殿は言います。こんな風に育った私が何故か楽観的なのは、囲碁のせいだと。私は碁と出会い、碁を打つことに埋没してきた。くよくよ思い悩むべき時間を、どうしたらもっと良い手が打てるかとひたすら考えることに使って生きてきた。だから、おまえはそれ以上歪まなかったんだと。なるほど、確かにそうかもしれません。私は囲碁を打つ為に生まれてきた。これは私の天命です。私の、不運にえぐれた人生に、まるで寄木がぴたりと合わさるように、碁は存在するのです」
 そこまで言うと佐為は僅かに笑った。
「それでも光、私は元々凡庸な人間です。天命を持って生まれたのはこれ以上ない程幸福なことだと、魂で感じているのも事実ですが、そう感じながらもやっぱり私は凡庸で、父も母も必要だと感じ、そのような存在をいつでも求めていた。無償の愛とはどういうものをいうのでしょう。私は酷い欲望を常に感じていました。愛されたい、そう望む欲が治まりません。私はおそらく飢えた人間、卑しい人間なのです」
 光は首を必死に横に振った。そんな事は無い。佐為が飢えて卑しい人間などということはありえない! だが、佐為は続けた。
「そんな私にとってでさえ、帝の愛は、最初はやっかいで、重たいものでした。燃え上がるような恋情を私に向けられるだけだったから・・・。だが、そのうち気が付いたのです。帝は確かに私に恋着なさっているけれど、同時に、あの方の中には、私に慈父の愛を注いでくださる、慈しみのお心がおありになるのです。誰にも分からないかもしれない、だが・・・私には分かるのです。そういうものに飢えて生きてきた私には」
「・・・・慈父・・・? 慈父だって・・・帝が? おまえは本当にそう思っているのか? いつから? いつからそんな風に思うようになった、佐為? そうか、そうだ、賀茂からも楊海殿からも聞いた。オレが都に居ない間、帝はおまえの後見役のように振る舞っておまえを庇護していたんだったな。いや、今だってそれは変わりないが」
「あなたには、さぞ理解しがたいでしょう、それが分かっていた。だから、今まであなたには言わなかった」
「・・・・・でも、・・・でもそれはないだろう? 『オレには分からない』 確かにそうかもしれない。でも、オレはその程度なのか? オレはそんなに頼りないのか・・・、そんなにおまえの心を理解できない情けない存在でしかないのか。オレは、そんなものなのか、おまえにとって? そうではないと思っていた。魂の伴侶だと・・・、オレのことをそう言ったろう? ならばどうして、少しはオレを頼ってくれないんだ、佐為? オレはおまえを支えられないのか? オレはおまえに庇護されるだけの存在なのか? オレがおまえを助けてはいけないのか?」
「・・・そんなことは・・・ありません」
「これだけは言える、いいか、おまえが言うのも分からなくはないけれど、でも、それは慈悲とは違う、佐為。帝の愛は慈悲なんかじゃない」
 最後には憤りに身を任せて言葉を口にしていた。
「違う?・・・・・・そう、確かにあなたの言う通り、慈父のごとき愛は、陽炎のように消えてしまった。幻だったのかもしれません」
「ならば、どうして!? 
 そうだ、帝がおまえに見返りを望まない愛を注ぐなんて、オレには思えない。
 いつもおまえをぎらぎらする眼で見ていたあの男が!」
「・・・あなたが・・・帝と対面したのはあの神泉苑の宴の折だけだったはず・・・。何故、そのような物言いができる?」
「・・・・いや、あの時だけじゃない! おまえは知らないかもしれないが、そうだ、おまえは何も知らないじゃないか! あいつはオレのことをずっと前から見ていたんだ。そして、オレを呼び出して、宣戦布告をした。あの帝の内侍だよ。あの人を使ったんだ。おまえだって知ってるだろう。頭のいい女の人だ。オレをあの清涼殿の梅の庭に呼び出して、帝の目に曝し、そして、帝はオレを睨みつけたんだ。神泉苑での対面は、初めてなんかじゃない。初めからオレを憎んでいた、あの男は。理由は簡単だ! おまえがオレを愛してるからだよ! あいつは、おまえを捕まえたいんだ。支配したいんだ! そんなの本当の愛なんかじゃない! 目を覚ませよ、佐為。恋に狂った愚王だ、あんなやつ・・・・・早く死ねばいい。そうだ、あいつのせいで、全てがめちゃくちゃだ! 」
 その時、光は何かにはじかれたように、頭の芯が一瞬真っ白になった。次の瞬間、頬に酷いしびれが走った。何が起こったのか、飲み込むまでに数秒掛かった。
 佐為に打たれたのだ。これで二度目だった。
 少しの間、何も考えられなかった。だが、思考が戻ってくると、まず感じたのは痛みだった。
 痛い。正直に左の頬が痛い。しびれが治まらない。哀しくなって、涙が零れた。
 だがもっと哀しいことに、泣いても佐為は謝らなかった。
 そして、彼は淡々と言った。
「・・・、私には、全て幻影だったとは思えない。全てが嘘だったとは思えないのです。たとえ、あのお方の心根が如何にあれ・・・。たとえ、そうだ・・・、楊海殿が言うように、御心の何処かに鬼の棲家を持たれ、修羅の怒りに囚われることがおありになろうと・・・如何に恐ろしい御顔をお見せになろうと。私が抱えるのと同じ孤独を、またあの方もお持ちになっている。人の心の痛みは同じ傷を負わなければ分からない。私は・・・・・・あの方の中にある透明で、清らかな泉を知っているのです・・・・そんな清らかな泉をお持ちになる帝を、私は好きです」
 光は我が耳を疑いたかった。だが疑う余地は無かった。そして佐為の言葉に射られたかのように、全身が凍りつくのを感じていた。
 そんなのはおかしい。変だ。佐為は何かを取り違えているのだ、そうに決まっている。光にはどうにも分からなかった。頬がしびれる。納得の行かぬ理不尽な展開だ。解けないパズルにますます苛立つ自分はどうしたらいい!?
 そして光は渾身の力を込めた。最大の不可解をなんとかして、言葉にし、しぼり出す為に。
「では・・・、ではおまえは、父親と寝るのか? 父親と枕を交わすというのか!?」
 光は言い放った。
 佐為は瞳を見開いた。唇がかすかに震えた。眉を苦しげに歪め、さすがに応えたというように俯いた。
 すると光は、怒りに震えながら佐為の襟に掴み掛かった。
「どうなんだ!? おまえは父と慕う人と寝ることが出来るのか!? 狂ってる! それが愛か、佐為? そんなのオレには理解できない。分からない! 分からないんだ! オレには分からないことばかりするな! 答えろよ、佐為!!」
 光は佐為の襟から手を離すと、床に拳を叩きつけた。だが佐為は動かなかった。いつもはすかさずなだめに掛かる優しい指先も無かった。
「どう・・・して・・・? いや・・・聞かなくても、何処かで分かっていた・・・。ただ寝るだけなら・・・、それだけならまだいい・・・。まだよかったんだ・・・。だけど、おまえはそうじゃない・・・。あいつのことを好きだと言った。どこかで分かっていたんだ・・・心もあるんだっていう事を・・・。オレは、おまえがあの男をきっと愛しているんだと・・・、何処かで分かっていた。だから、辛かったんだ、今分かった。そうだったんだ。おまえはあいつのことを愛している。どうして、・・・・どうして心まで許すんだ?」
 佐為は眉を歪めたまま、哀しげな表情を顔に浮かべながら、静かに語り出した。
「光・・・、私が帝に応じたのは、愛からではありません。むしろ、裏切りだと思っています・・・」
「望むことをしてやったんだろう!? 何処が裏切りなんだ? では、オレへの裏切りではないのか!?」 
「・・・・・・・・・」
 佐為はさらに苦しげに美しい顔を歪めた。
「答えろよ!」
「・・・・・・すまなかった・・・許してください」
「何を!? 今頬を打ったことをか!?」
 光の言ったことが皮肉だと分かっていても、佐為は答えてしまった。
「いいえ、違います」と。
 佐為はそのような人間だった。そして続けた。
「光は以前、私に帝への不敬を反省している、と真摯に語ったはずだ」
「確かにそうだ。あれは事実だ。ああそうだよ! だから余計頭にくるんだ」
 光は真っ赤な顔をして、訴えた。
 その様子を見ると、彼は袖の下で密かに拳を握り締めた。そしてまっすぐに光を見詰めた。
「光とは・・・違うのです・・・、全く・・・。どう言ったらいい? ああ、あなたを苦しめたくないのに、私はあなたを苦しめてしまう・・・」
 佐為はますます困り果てた顔をした。
 光はしばらく俯いたまま、声を殺して泣いた。
 だがようやく嗚咽が治まりそうになると、佐為の指先が再び伸びてきた。それは先ほど頬を打ったのとは打って変わっていつもの優しい指先だった。白く長い指先は光の頬の涙を拭った。濡れた睫の陰から覗く瞳が悲壮であれば尚酷く愛らしく魅力的に、佐為には思えた。光の顔をじっくり覗きこみながら、佐為は改めて、置かれた状況の辛さを味わったのだった。

 つづく

 back next