春のしじま六

 

  光の涙を拭った佐為の指先は、まだ光の頬に在った。指先から温もりが伝わる。光は瞼を閉じた。先ほど触れられた時には張り詰めていたはずの自制心も、心につかえていたものを吐き出した後では、あまり残っていなかった。極自然な衝動から、光は佐為の指先に自分の掌を重ねた。そして彼の白い手を握り締めると、唇に押し当てた。 光に握られた佐為の優美な指先も引かれることは無かった。むしろその感触に酔っているようだった。
 先ほどの行き違いは嘘であったか? 今の二人が気持ちを伝えるのには、幾千万の言葉を交わすよりも、よほどこの方が優れているとでもいうのだろうか。胸の奥底にある表現し難い想いが、ここぞとばかりに指先から溢れ出ていく。まるで呼吸するように、何かを飲み下すように、血肉に染み渡っていく。光は再び佐為の手に口付けた。
 佐為もまた、ここが左大臣邸でなければとうに光を抱きしめていたに違いない。掌に伝わる心地よい感触に酔うことだけに甘んじながら、ここを選んで良かったと彼は思った。こうして少しの間、静かな安寧に包まれた。
 しかし、その静寂を破ったのは、二人のうちのどちらかでもなければ、ましてや屋敷のやんちゃな若君でも無かった。なんということはない、鶯が鳴いたのだ。なんとも麗らかな鳴き声だった。庭の紅白梅が鮮やかだ。二人を包んだ重苦しい空気とは裏腹に、外は明るく穏やかである。
 鶯の鳴き声は、この時静かに張り詰めた水面に石を投じるかのように、光の行動力を喚起させたのだった。光は、まるで夢から覚めたように、握っていた佐為の手をぱたりと放した。そして言った。
「今日はこんなことを話す為に来たんじゃない」
 失った温もりを惜しんでいるのは、今度は佐為の方だった。彼は怪訝そうに言った。
「こんな・・・こと・・・?」
「いや、そういう意味ではなくて・・・それよりももっと、今言わねばならないことだ」
「今言わねばならないこととは?」
「過去のことじゃなくて、これからのことだよ」
「そういう意味ですか」
 佐為は気落ちしたように答えた。確かにそうだった。本題はこれからなのだ。あれほど応えたというのに、これから話すことの方が、彼にとってはさらに辛かった。しかし、若い光は佐為とは対照的にすっかり落ち着きを取り戻して、平然と言ってのけた。
「もう、オレを屋敷に置くつもりは無いんだろう?」
 その口調は、これまでの混迷をすっきりと洗い流してしまったようにはっきりしていた。卑下したような響きもなければ、皮肉でもなく、事実を受け入れた決心をうかがわせるような冷静さだった。
 ところが、先ほどとは打って変わっての光の冷静さに、佐為は心の臓に錐を突き立てられるような痛みを覚えながら答えた。
「はい、その通りです」
「わかった。で、オレをどうするつもりだ、佐為?」
「とりあえず今は、あかりの君の家にあなたをお任せしていますが、何処かしかるべき家を、・・・その、つまり・・・」
「オレを何処かへ婿入りさせる、のか?」
「はい・・・今、しかるべき家を探しています、・・・其処に住むと良いでしょう・・・」
「話は聞いてたよ。けど、おまえの口から聞くまではな・・・」
「・・・何か異存はありますか」
 佐為は視線を床に落として言った。
「異存・・・? 異存だって? 異存を唱えれば、おまえは方針を変えるとでもいうのか」
「・・・・・・・・・」
 答えの代わりに、酷く眉間に皺を寄せた顔を光の方に向けた佐為に対して、光はきっぱりと言った。
「安心しろ、おまえの言う通りにするよ」
「光?」
「二月前なら、おまえの言う通りにはしなかった。だけど、今はおまえの言う通りにする。だから、おまえの配剤は絶妙だと言ったんだ」
「・・・光、私は」
 光は佐為の言葉を遮って言った。
「だけど佐為、敢えて訊くよ。どうしてそんなことを言う? 本気で言ってるのか。オレに何処かの女と夫婦になって、家庭を作れなどと・・・。どうしてそんなことを言える?」
「あなたが病に陥った時、一瞬でも私はあなたを失うかもしれないという恐怖を味わいました。光、私は碁を打つしかなく、あなたが必要なのです。あなたを失いたくない。ただそれだけです。だから・・・」
「分かった、それを聞けば、もういい。もう迷いは完全に無くなったよ。ただ、佐為。おまえに許しを請いたいんだ」
「許し、何の?」
「聞いてくれ。オレはおまえではない他の誰かと添うつもりなど無かった。おまえが居るから、おまえと共に生きていくから、他に誰も必要ない。おまえが居ればそれでいい。おまえに従い、おまえと共に生きていくつもりだった。ずっとおまえの直ぐ傍に居るつもりだった。誰か他の伴侶を持つことなど考えたこともなかったんだ」
「光・・・・」
「だから、せめて相手はオレに決めさせてくれないか」
「は・・・?」
 佐為は意外な言葉に驚いた。まさかそのような返答が返ってくるとは思っていなかった。
「おまえの許しが欲しいんだ」
「許し・・・? なんの許しですか」
「妻になってもらうなら、あかりがいい」
「・・・・・?」
 初め、光の言葉を理解できなかった。佐為はまたも怪訝な顔をした。しかし、徐々に言葉の意味を飲み込むと、背筋に氷の欠片を落とされたような震えを覚えた。次に彼を襲ったのは恐ろしい不快感だった。
「あ、あかりの君? それは・・・・・どういう・・・・ことですか?」
「一度都を追放になったオレと縁組みしたがる家なんてそうあるとは思えない、そうだろう? だったら、ちょうどいいじゃないか、このままあの家に住みつづければいい」
 光は何度も練習した文句を機械的に言うように淡々と続けた。対して佐為は、一言一言暗闇の足元を探るように、言葉を紡いだ。
「それはそうだが、彼女は既に結婚暦があり、子どもも居るのですよ」
「だから余計いいんだ。相手にも負い目があるからこそ、オレを受け入れて貰える。あの赤子は養子にするよ、これは考えていたんだ。あかりの子をオレが養子にして、あかりが死んだ夫君に遺言された相続を放棄すれば、前の常陸守の北の方からの恨みも消えるよ。あの子を救うことにもなる」
 佐為は、自分でも唇が震え出すのが分かった。
「養子ですって!?」
 養子、この言葉をいとも簡単に光は口にした。佐為の自制心を繋いでいたものはこれで切れてしまった。光を養子にしたいと、心の底から望み、叶わなかったことを、他ならぬ光はよく知っていたはずである。佐為は、恐ろしく低い声で尋ねた。
「それはあなたが考えたのですか。それとも彼女に請われたのですか」
「そうだな、ほとんどはあかりが提案した・・・かな。オレ達、かなりいろいろ話したんだ。オレもいい案だと思った・・・」
 聞くなり、彼は吐き捨てるように言った。
「なんとあさましい! 前夫が亡くなってから、まだ一年になるかならずというのに! まさかあなたに情けを請うなどとは思わなかった。そのようにあさましい女だったとは! 初めからあなたを篭絡する為だったのか、あなたを預かることを申し出たのは!」
 光はあっけにとられて佐為を見つめた。恐ろしい顔だった。彼の怒った顔は幾度か見ているはずなのに、これほど憤懣やる方ない顔は見たことは無い気がした。
 あかりの為に何か言ってやらなければならない、そう頭の片隅に僅かに浮かんだものの、何も言えなかった。今、この場を包む緊迫した空気に圧倒され、背中にはぞっとするほどの寒気が走った。怒りに震える佐為の顔を見て身が竦んだのも事実だが、ある程度それは覚悟していたものだった。結局のところ、いざとなれば佐為が自分の言葉を、何のためらいも無く受け入れることはおそらく無いだろうと、想像はしていた。予想した通りだった。
 ならば儘よ。光は竦み上がる全身を必死に抑えた。佐為の顔から目をそらさなかった。そうだ、むしろ佐為が次には何と言うのか、その方がずっと知りたい。と、光は思った。その想いが沸々と込み上げ、光を支配した。彼の言葉を全身で待った。どんな言葉が飛び出すのか、身を乗り出すように光は待った。これほど辛い想いをした後では、これしきのことが何だというのだろう? 望みとあらばもう一度自分を打てばいい!
「噂は本当だったのですね、あなたとあかりの君の噂をする者が居るが、元々気心の知れた仲である上に、あなたをあの家に預けた以上、致し方ないものと思っていました。だが・・・! ほとんどが宮仕えで、あの家には居ない彼女に逢いに、わざわざ宮中の局を訪ねていると、しかも頻繁に! そんなことを言う者も居るではないか・・・! では、それも本当だというのですか?」
 佐為はやはり、酷く怒った顔で、光に詰め寄った。光は、背筋に震えが走るのを必死に堪えつつ、佐為の怒った瞳を真っ直ぐに見据えてゆっくりと答えた。
「ああ、本当だよ。おまえへの気持ちとは違うけど、あいつのことは好きだ。おまえと逢えなかった間、オレを支えてくれたのは事実だ」
 佐為はこれを聞くと今度は怒りを通り越し、氷のように蒼白な顔になった。そして凍りついた表情で立ち上がった。
「散々・・・私を・・・責めたのに!」
 彼は光の胸倉を掴んだ。
「私をこんなにも苦しめ、あなたこそ私を裏切った! これは仕返しなのか、光!?」
「・・・し・・・かえ・・・し?」
「まるで生き地獄です、こんな仕打ちは! 耐え難い苦しみです。よくも、・・・よくも!」
 光は自分の襟を掴む佐為の手を抑えた。湧き上がる感情も必死に抑えなければ、再び涙が込み上げてきそうだった。だが、もう泣きたくは無かった。言いたいことはもっとたくさんあったけれど、光は声を殺してこれだけは訴えた。
「生き地獄だって? 生き地獄はオレだ。先に裏切ったのはおまえだ。本当にどこまで勝手なんだ。ましてやオレを放り出して他の誰かの伴侶になれと命じているのは、他ならぬおまえだろう。裏切られたのはオレの方だ!」
 すると、佐為は我に返ったように、光の襟を掴んだ手を緩めた。そして光を放し、その手を拳にして床に叩きつけた。彼のこんな所作も光は初めて見た。彼は光を打つ訳には行かなかったのだ。打たれるべきは自分だと分かっていた。
「ああ・・あ・・・うう」
 目の前で佐為が苦しげに呻いた。これほどまでに哀れな嘆きの声もまた、光は聞いたことが無いと思った。胸に杭を打たれている! 光はまさしくそう感じた。
 まったく皮肉であるけれど、二人は同時に同じ苦しみに身を苛まれていたのだ。  
 光は佐為が取り乱して悲嘆にくれる姿をただ呆然と眺めた。そして心で泣いた。唇は噛み切れそうだったが、もはや身の痛みなど取るに足らないものに思えた。目の前で苦しむ佐為を、手も足も出せずにただ見ることの方が、はるかに辛かった。やがて佐為は観念したように言った。
「・・・いいでしょう。ではそのようにしなさい。このように既に噂になっているのなら是非も無いこと。正式に縁組をしましょう」
 佐為は俯いたままだった。その声があまりに暗かったので、光は谷底に落ちていくような気分がした。

 まったく馬鹿げている。どうかしている。酷い茶番だ。
 こんなに馬鹿げた言い合いをして、こんなに傷つけあって、それでも護りたいものがあるなんて。おまえに出会わなければ、知ることも無かった、・・・・・・佐為。
 光はそう心に思った。日が暮れかけ、室内が暗くなっていた。佐為の表情がよく見えない。目を凝らしている自分に気付いた。しかし、程なく光は佐為から退出を促されたのだった。



 半月後、あかりが里下がりした折のことである。満開の桜の夕べ、正式に若い二人は婚儀を迎えた。あかりが再婚ということもあったが、周囲はもう二人を事実上夫婦の仲と認めていたので、成婚のしるしの餅が用意されただけで、特に何も特別なことは行われなかった。二人が望んだことでもあり、 あまりに前夫のことでは娘が苦労したので、あかりの両親も自然に恋仲になった相手ならば、ましてや気心の知れた光ならばと思った。そしてこの縁組が夫の財という点では前夫からは大きく劣るものの、それでも望ましいと思った。孫が怨恨で死にかけ、今度こそ娘には地位よりも財力よりも、真に望む相手を、と願ったのである。
 結婚三日目に行われる宴が省かれたのは、当事者の二人が望んだことではあったが、佐為にとってもこれは好都合だった。佐為は光の後見としてほとんど直接的な事には関わらず、細かなことは全て遣いに任せた。佐為がどうもあまり積極的にこの婚礼に関わらないことを、あかりの両親は少々不満に感じない訳ではなかったが、 どちらかといえば地位のある彼が光の後見についていることだけでも有難かった。

 さて、楊海法師は、光の婚礼の後、しばらくすると佐為の屋敷を訪れた。佐為は暖かい日差しの差し込む簀子で柱にもたれながら、もう葉桜になってしまった庭の桜を見ていた。彼は法師が来たことに気付かなかった。法師は、しばらくそんな佐為を腕組みしながら眺めていた。しかし、あまりに気付かないので、声を掛けた。
「大人気なく落ち込んでいるかと来てみたが、葉桜に心奪われているのか。意外に元気そうだな」
 佐為は、はっとしたように振り向いた。
「なんですか、会うなりその挨拶は」
「すまんな、オレから気の利いた言葉が出てこないのはよく知っているだろう」
「ふふ、大丈夫ですよ。子どもじゃない。全てはあなたの満足の行くように行ったという訳です」
「それにしても、二重のおめでたとはな。若者はやることが早いな、くっく」
「・・・・・・」
 まったく遠慮の無い法師の言葉に、佐為も取り繕うことなく、あからさまに不愉快だといった顔をした。だが、法師は気にせずに続けた。
「あの子に家庭が出来て、おまえとはこれではっきりと別のところに暮らしの足がかりが出来たな。どうだ、さぞ面白くないだろう?」
「・・・あなたは私に喧嘩を売りに来たのですか。それとも」
「いや、すまん。つい・・・」
「なんですか、一体?」
「おまえがつまらなそうにしてたら、慰めてやろうと思ったのさ」
「冗談は止してください」
「碁を打とうと言ってるんだ」
「ならば、そう言えばよいでしょう!」
 こう言うと、二人は大笑いした。佐為は久しぶりに笑った気がした。
 楊海法師と佐為は碁を打った。あまり本気の碁ではなく、二人は会話を続けた。
「それじゃぁ、宮仕えを直ぐには止めないのか?」
「ええ、そのように聞いています。夕星の女御様が放さないのだとか」
「宮仕えの女房は、未婚の娘か、でなけりゃ寡婦と相場が決まっているだろう」
「それほど、お気に召されているということでしょう」
「ふうん、新婚早々別居か」
「新婚早々は普通一緒に住まないで、夫は妻の許に通うものですよ。だけど、光の場合は、妻の家に住んでいるのに、妻が外に住んでいる。少し変わってますが、別居という点は同じです」
「ああ、そっか。変わった習慣だな、どうも馴染まん」
「あなたは馴染む必要など無いでしょう」
「・・・・ふん」
 法師は少し鼻で笑った。
「それにしても、身重となっては内裏には長く居られますまい。そのうちに退出してくるのではないかと思います」
「あの子が父親にね。なんだかぴんと来ないな」
「私もです」
 そう言いながら、佐為は急所に一石を投じた。
「わっ、待てよ。いきなり本気出すな、佐為」
「だが、これで・・・良かったのです」
 佐為は落ち着いた声でそう言った。
「そうだな、これであの子もおとなしくしていりゃ、直に平穏無事な暮らしが戻るさ。なにより帝の不眠が大分よくなったらしいな?」
「何故、あなたが帝の不眠症をご存知なのですか!?」
「オレの張り巡らした情報網を甘く見るな、はは」
「まったく大したものです」
「憎い敵がおまえから離れ、妻の家に入り、子まで出来たとあれば、さっそく安心して眠れるか。意外と単純・・・いや、純粋・・・なのかもしれんな」
「・・・・・・・」

 確かに、佐為。これで一件落着。おまえからあの子を適度に離すことにオレは成功した。帝も小康を得たという。
 だが・・・・・・。
 オレはまずは、大事であった危険を回避させたに過ぎない。随分むごい働きかけをして、あの子とおまえを引き裂いた。せっかく得た地が無になるのと半減するのと比べたらどっちがましだ? それくらいの目算が出来ずにどうする。しかし、大きな危機を回避してみると、 とたんに小事が目につく。そうだ、おまえはまた独りに戻った。今では分かるような気がする。あの子が居なかった頃だって知っているはずなのに。居た時のことを知ってしまうと、単純に元に戻ったという訳には行かないじゃないか。何より、優先順位の問題でしかない。実際にはこれで全てが解決した訳ではないのだ。
 帝の心情を慮れば、それがまずい事だと知りながら、おまえはあの子を傍に置かずには居られなかった。いや、大きな代償まで払って自分の許に呼び戻したんだ。それもある意味当然の対価だと、おまえは思ったのだろう。それにリスクを背負っても、得たいものだって確かにあることくらい、オレだって知っている。だが、報酬を失ったおまえは、それでもまだあの人を憎んだり恨んだりしないのか、佐為?
 だからこそオレは思う。あの人がおまえの魂を受け止められる人間であれば、と。いっそそうであったなら、どんなにか好ましいか・・・。
「・・・なかなか上手く行かないものだな」
 法師は口に出してそう言っていた。自分で言った後にはっとしたが、局面も上手く行ってはいなかった。
「終局ですね」
 佐為は先ほどと同じように落ち着いた表情で言った。その口元には僅かだが笑みも浮かんでいたのだった。
 
-春のしじま 終-

 つづく

 back next