青雲一
「あかりの君、さぞやお幸せでしょうね」
夕星は穏やかな笑顔であかりに声を掛けた。しかし、あかりは少々決まり悪そうに答えた。
「いえ、いいえ、夕星様。私は・・・」
「ごめんなさい、いいのですよ。遠慮などしないで。幸せなら幸せとおっしゃい」
「はい・・・あの」
尚も決まり悪げにあかりは口篭もった。
「ただ、あなたは近いうちに里下がりしなくてはいけませんね。大事な方の傍にお帰りになりたいでしょう?」
「はい、でも・・・」
「それに、身重とあらば、いずれ退出しなくては・・・ごめんなさい。あなたの幸せと分かっていても、あなたが居なくなってしまったら、と思うと寂しいのです」
夕星姫の哀しげな顔を見ると、あかりはあわてて言った。
「夕星様、私は出来る限り、お傍にお仕えしたいのです。夕星様をお独りにはしません。どうか今しばらくは私が身篭っていること、伏せて頂けないでしょうか」
「まぁ、あかりの君。こんなに嬉しい言葉はありません。あなたのことを思えば、また、宮中のしきたりを考えれば、身重のあなたをいつまでもこの内裏に留めておくことは出来ないのに・・・。でもあなたの言葉をとても嬉しく思います。自分勝手な私を許してくださいね」
「夕星様、違うのです。私、本当に夕星様のお傍を離れたくないのです」
「では、私の我が侭を通してもいいかしら。今暫くは私の傍に居てくださいね」
「はい、喜んで」
あかりは女主人に微笑み返した。
「では・・・せめても、あなたがもっと大事な方に逢えるように、あのお話を進めなくてはいけませんね」
「夕星様・・・、本当に大丈夫なのでしょうか?」
あかりは少し不安気な顔をした。
「大丈夫。たとえ、私の願いが受け入れられなくとも、それはそれまでのこと。何も事態は変わりません」
「でも・・・もし主上がお気を害されたら・・」
「構いません。ですからそれはそれまでのこと。この願い叶えられないのであれば、主上はあのようなお歌を私にくださるはずはありません」
「どんな願いも主上は叶えてくださると?」
「でなければ、あのお歌の意味がありません」
「もしや・・・夕星様」
「なんです?」
「試しておられるのですね」
「・・・試す・・・ふふ・・・・果たしてそのような不遜なことが私に許されましょうか?」
夕星姫は伏し目がちに、微かに微笑みながら言った。
あかりは思った。
夕星様は・・・・、このお方は戦っておられるのだ。ご自分の中にわだかまる黒く重い影を追い払おうとなさっているのだ。その為に試してらっしゃる。大君が下された夕星様への謝罪のお心が真実であるか否かを・・・・!
そしてそれだけではない。賭けていらっしゃる。この事で、誰より愛する方の命運を。
あかりが物思いに耽っていると、夕星が声を掛けた。
「あかりの君・・・、あなたの恋が成就して私はとても嬉しいのです。それだけではありません。何より、彼の君が後見役として、大事にしてらっしゃる若い方と、あなたを通して私は繋がることが出来た・・・。とても嬉しくて仕方ないのですよ。この幸せはあなたのお蔭です。だからどうか、私に気兼ねなどしないで、もっと嬉しそうにしてくださいな」
「夕星様・・・」
あかりは泣きそうになった。夕星の優しさが胸に染みた。そして、この高貴な女主人と自分の友情の強い結びつきを確信して、言いようのない恍惚に包まれた。
今までもそうだったように、差し出された友情に対して心は自然に開いた。あかりは、表向きの幸福とは裏腹に胸の内に巣食うやるせなさを語り始めたのだ。
「夕星様・・・。確かに私は、まさか今になって光の妻になれるなんて、思ってもみませんでした。もうとうに諦めた恋でした。それでも光と再会したら、想いが止められなくなったのです」
「無理もないこと・・・。だってあのお若い君は、弟の話から聞いていたよりもずっと、ご立派ではありませんか」
「そう・・・光は変わっていました。以前よりも思慮深くなり、以前よりもずっと色々なことを知っていました。本当にあんなに立派になるなんて・・・何より・・・その場に居る、その佇まいが昔とは違うのです」
「まぁ、あてられてしまいますね」
夕星は微笑んだ。
「あ、すみません、私ったら・・・」
「いいえ、でもあなたの言うとおりです。以前に都を追放になるような咎をなしたのは事実としても、それは過去のこと。才気在る者は疎まれもします。陥れられることも。あの検非違使の君はとても眩しくて・・・あのように才気ただようお若い君を放っておくのは勿体無いことです。だから、もっと晴れ晴れしたお顔をなさい。あかりの君、そしてあの若い方と思いを通わすあなたはもっと幸せ者ですよ」
「あの・・・・そうではないのです」
「そうではない? 何がそうではないのですか」
「夫は・・・、光には・・・」
「どうしたのです?」
「夕星様、・・・以前にお話しした歌の話、覚えてらっしゃいますでしょうか?」
「歌・・・?」
「私が光に・・・、昔歌を作るのを手伝って欲しいと乞われ、一緒に作った歌のことです」
「ああ、あの・・・桜の花を詠みこんだ美しい歌・・・でしたね・・・都を発ち行く身の、引き裂かれるような想いが込められた、あのお歌のことですか?」
夕星は複雑な顔をしながら答えた。歌の話はあかりから聞いていた。二人で、お互いの叶わなかった恋の話に興じた折のことだ。
「あの歌を捧げた何処かのお方を・・・夫は今だに想っているのです」
「まぁ、それはあなたの取り越し苦労ではありませんか、あかりの君」
「いいえ、私には分かります。それに・・・・」
「それに・・・・?」
「花霞の君・・・・」
遠くを見つめるように、あかりはそう言った。
・・・・花霞 たちて行く身の 遠くとも 心だにこそ 君とありなめ・・・・
どんなに遠くこの身を置こうとも、心だけは、せめてこの心だけは、あなたと共にありたい・・・!
あかりが手伝って完成した光の最初の歌だった。歌を思い出す度に、言の葉の一つ一つに込められた強い想いが苦い初恋の思い出と共に鮮やかに胸に甦ってくるのだった。
「あの歌の通りなのです。夫は今だに心だけは、花霞の君の許にあるのです。いかにその身は私と添い、私の夫となり、その方からは遠くなろうとも、です」
「そんなことはきっとありません、夫君の他の女の方が気になるのはよく分かりますが・・・」
夕星は眉根を寄せながら、なんとか言葉を紡いだ。
「いいえ、夕星様。私と光は幼馴染。私達、こんな風になるずっと以前から親しく話を交わしておりました。夫の口から直接聞いたのです。花霞の君を今も想っていること。そう、私から訊いたのです。その時、夫は多少決まり悪げに答えました。でも否定しませんでした・・・。なんとなく分かるような気がしました。夫には一途なところが昔からありましたから。私はせめて形代になれたら・・・と思いました。・・・・夫はただの幼馴染だった昔よりも、私に優しくしてくれます。でも・・・。婚礼の為に里下がりした夜、わたしは誰かがすすり泣く声に目が覚めました。泣いていたのは夫でした。夫は褥から離れたところに背を向けて座り肩を震わしていました。何かを握り締めて、それに口付けていました。それが文だと分かりました。私は気付かぬ振りをしてそのまま褥から動きませんでした。私はそれから夜が明けるまで一睡もできませんでした。夫は明け方には寝たようでした。夫が寝入ると、私は彼が握り締めていた文を探しました。それは容易く見つかりました。もう古くなった紙には染みがいくつかあり・・・色もいくらか褪せていました。開くと、中には歌がありました。直ぐに分かりました。あの花霞の歌への返歌だということが。何故なら、その歌はこうでした。
光無き 花の色さへ 褪せぬれど 散りて護るは 君がかへり路
歌を見て愕然としました。それまでてっきり夫の強い片思いだろうと思っていたからです。でも・・・あの歌を知って、結局結ばれはしなかったにしても、あの時の夫と花霞の君は、互いに想いあっていたのだろうと思えたからです。事の子細は知りません。夫は以前に比べると無口になり、多くを語りませんので。おそらく夫が大宰府に行っている間に、そのお方は手の届かないところに行ってしまったのではないでしょうか。歌に詠んだように、夫を呼び戻すことも叶わず。そのうち、夫は帝の施された恩赦で都に帰還しました。
それでも夫は叶わなかった恋の相手である花霞の君から贈られた歌を大事にとっていて、そして正式に私の夫となった最初の夜に泣きながらその歌に口付けていたのです。夫の想いは終わっていません。今も続いているのです。続いている、いえよりいっそう強くなっている、そんな風に感じられます」
「ああ・・・あかりの君」
夕星は涙した。
「夕星様・・・お泣きにならないでください。私は平気です。それでも幸せです。何も感じなかった前夫との暮らしより、今の方が生きている実感があるのです」
「あなたがそのように強いのは、きっとお腹に宿した新しい命のせいですね? その子が生まれたら、あなたの夫君もお変わりになるに違いない。子はかすがいと言いますもの。私はなかなか授からないけれど、あなたにその何よりの宝を授かって嬉しいのです。
ただ、それにしても・・・」
「・・・夕星様・・・?」
「いえ、花霞の君からの返歌だというその歌ですが・・・」
「何か?」
「もし私が詠むなら、『散りても待たむ 君が帰りを』 とするでしょう」
「夕星様がお詠みになるなら・・・?」
「散りて護るは・・・とは、随分と力強い詠みぶりですね・・・都を発つ夫君を逆に包み込むような、励ますような・・・そのような言い方をするからには、夫君よりも目上の方なのでしょうか。あるいは余程そのお方・・・つまり花霞の君はどちらかというと男まさりな強い意志をお持ちの方なのではないかと感じられるのです」
「夕星様・・・・・・、言われてみればおっしゃる通りかもしれません。確かに何か違和感を感じておりました。でもそれが何か分からず、夕星様のお言葉で気が付きました」
「あなたは、きっとそのお歌を見ただけでさぞやショックでしたでしょう。そこまで考えるゆとりが無かったに違いありません。ごめんなさいね。要らぬことを言いました。もうその花霞の君のことを考えるのはお止しなさい、あかりの君。過去のことなのですから。これから夫君を支えるのはその方ではなく、あなたなのですよ。夫君も必ずや、あなたに想いを返すようになるに違いありません」
夕星はそう言って、あかりを励ました。あかりも分不相応だと思い入りながらも、夕星の友情に心底感謝したのだった。
それから数日後のこと。
清涼殿はその静かな威風ある佇まいを穏やかな日差しの下に示していた。
「この初夏の日差しのように、上のお心もお晴れになって、こんなに嬉しいことも無い・・・」
桜内侍は一人ごちていた。
「ああこれで、本当に上がお心にもお体にもご健康を取り戻してくだされば・・・」
これは祈るような気持ちだった。
「不思議と物事が上手く納まったこと。何故でしょう? でもこれでいい、これで上のお気を煩わす材料が少なくなれば少なくなるほど、病を癒されるのには好都合。たとえ、それがどんな形であれ、うわべのことであったとしても。まずはご健康を取り戻されることが第一なのですもの。そう、ご健康になられなければ、上は本当の意味で、お心のより良い在り方を見出されることなど有り得ない。だから、まずは、そうまずは、ああ前よりいくらかお眠りになることのできる今の状態が私には、まるで天から、金銀七宝が降ってきたように嬉しいのだわ」
桜内侍の、満面に笑みを浮かべたその様子を、傍に居た女房は不思議な顔で見つめた。
ところが・・・。
その内侍の安堵した気持ちを覆す出来事が起こった。暗雲をもたらしたのは、東宮妃である夕星姫から帝への奏上文だった。帝は内侍を呼んだ。
「これは一体どうしたことか?」
「どういうおつもりなのか、私にも測りかねます」
「何故、このような事を願い出る? 何ゆえだ!?」
これが・・・余への報いか・・・?
・・・・花摘みし おこたり何ぞ 否むべき
咲かせぬべきは 君が言の葉・・・・
・・・・花を摘んでしまったお詫びをしたいのです
どうしてそれを拒みましょうか、叶えてあげたいのですよ、あなたの言葉を
何か願いを聞きましょう、罪を償えるというのなら・・・
何でも願い出よと、確かにそのように、歌に詠みこんだ。しかし、何故このようなことを!? これほど天子が謙ったというのに、それでも不服だと言うのか?
帝の瞳はわなわなと怒りに震えていた。
怒りだけではない。混乱しておられる! そう感じ取った内侍は瞬時になんとかしなければと思った。折角良い兆候を見せていた帝の病が再び、混迷に逆戻りすることはなんとしても避けたかった。内侍は必死に考えた。そうしてこう言った。
「どうか、お心を落ち着けてお考えください。夕星姫様の言葉には余事はございませんでしょう。何故なら、夕星姫様が、上のお心をそこまで知ろうはずがありません。これは偶然でございましょう。奏上文の内容、お聞きしてからは私も、それとなく人を調べにやりました。なるほど、それはもうまるで姉妹のように、分不相応にもその女房は扱われているとのことでございます。忠臣の身内の出世を図るのは、世によくあること。そして、ご存知の通り、あの検非違使の妻となった夕星姫様付きの女房は身重の身。直に内裏からの退出を余儀なくされる身でございます。それを夕星姫様はいかようにも機嫌をとり、自分の傍に留めておくように働きかけているのだとか。つまりはどのような努力も惜しまず、その女を自分の許に留めておきたいのでございます。それで、その女の新しい夫を宮中に招き、少しでも退出を遅らせたいのではないのでしょうか?」
「しかし、あの者に東宮学士の補佐をさせよとは、あまりに無分別。しかも余に不敬を働き、都を追放になったこと、知らぬ訳もあるまい。そのような者に考えられぬような栄転を、わざわざ願い出るとは・・・・いかにも思慮浅き振る舞い! 偶然としても、奇怪過ぎよう」
確かにそうだと、内侍も思った。東宮学士とは、東宮に学問を教授する官吏である。その東宮学士の下に付いて、東宮に囲碁を教授する役目を、自分の侍女であるあかりの夫、光に授けて欲しいというのが、夕星の願いだったのだ。つまり、地下の身分で下級官人でしかない、しかも武官という全く畑違いな光を、言わば東宮の侍棋にせよ、と言っているのと同じであり、あまりにも破格な登用の願い出であった。しかしこれが、帝からの謝罪の言葉に対し、何ヶ月も掛かって夕星がやっと考え出した答えだったのだ。
試練・・・・・・! 帝は混迷の中にこの言葉を見出した。何でも願い出よ、と言葉を掛けたのはいかにも帝自身だった。夕星に対する愚行への猛烈な悔恨の情は、帝を少なからず苦しめ続けていたのだ。帝は頭を抱えた。自らの贖罪の為に下した言葉が、こんな形で返ってこようとは思ってもみなかった。夕星は知ってか知らずか天子に試練を課した! そう直感していた。夕星姫の思惑をはるかに超えて、この願い出が帝に苦悩を与えているのは確かだった。
内侍は、この偶然がいかに天子を混乱に落とし入れているか、痛烈に感じていた。だが今度ばかりは主に同調するわけにはいかなかった。そしてまた思案した結果こう言った。
「上、お考えください。私には悪い話とも思えません。確かに上のおっしゃる通り、佐為の君の教えを受けているということしか分からず、身分も卑しく、力量にも不審があります。では東宮学士様に試験をさせてはいかがでしょう。夕星様にそのようにお返事するのです。学士様がお認めになれば、臨時の補佐役につけると、それではいかがでございましょう。そうすれば、たとえ登用に至らなくても、上の意志ではありません。そして天下にも上の公平さが示せます。夕星様もそうなれば文句は言えぬはず。上は夕星様の願いをきちんとお受け止めになったのですから。
そして、これもお考えください。もしも、東宮学士様の補佐役となり、あの者が宮中に上がるようになれば、左大臣邸にもなかなか行かれぬようになるのではありますまいか?」
最後の言葉に帝は眉をひそめた。
望むのは、そのように浅はかなことではない。帝はそう思った。訳の分からぬ混乱に心が乱れるばかりだった。内侍の言葉を一通り聞くと、帝はこう言った。
「そなたの良いところは、よく知っているつもりだ。だが、余は悪いところも知っている。そなたは策を好む。それは賢さゆえであろう。しかし、時にそれが仇なすこともあるに違いない。そなたの言う通り、東宮学士に試させるがいい。」
そう言うと、帝は人払いし、独りで瞑想に耽った。
・・・・そなたの望みを叶えてやろう。これで余は赦されようか・・・・?
つづく
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