青雲二

 
 ある日、左大臣家の子息・天童丸は、邸の簀子で碁を打っていた。相手は光だった。光の横には佐為が居た。童子は以前から、佐為の屋敷で光と碁を打つことがあった。光は佐為の代わりに指導碁を打っていたのだ。童子は遊び好きだったが、光のめりはりのある打ち方に魅了され、今では大分その腕も上達していた。どうも二人は相性が良かったようだ。
 傍で見ていた法師は言った。
「随分と豪華な囲碁指南だな」
「はは」
 光が笑った。
「ああ、帝の侍棋と、東宮様の侍棋、二人に教えて貰っているんだ、ボク。凄いよね!」
 天童丸も得意げに笑みを浮かべた。
「とんでもない、オレは「侍棋」なんかじゃないよ、それにまだ、東宮様にも教えていない」
「じき、教えるんだから、「侍棋」も同じじゃないか! ねぇ、光のことは姉上もうんと褒めていたよ」
「あくまで学士殿の補佐役だよ。『侍棋』は佐為の称号だ。オレにはまだ程遠い」
 光の謙遜は本物だった。そして微塵も卑下はなかった。それは厳しく自己を見据えた末に目指すものの高みを知るが故の謙遜だった。光の視線はしっかりと前を向いていたのだ。
 その前を向いた光の横顔を見つめる静かな視線があった。いつもなら終わりまで口を挟まない佐為が先ほどから、天童丸に対する光の指導碁に時折、言葉を挟んでいた。光もまた、その言葉に真摯に耳を傾ける。そんな光は、法師の目にもいかにも好青年に映った。
「時間が無い」佐為はそう言った。そこそこの棋力の者に対してなら、光にも囲碁指南は立派にできる。今では光にはそれだけの力量がある。佐為はそう断言した。
「東宮様と対局したことが一度だけあります。光が指南差し上げるのは棋力だけで言うのなら充分過ぎるほどです。だが、相手は東宮様。未来の帝です。光に今ひとつ足りないものをこの短時間に補わなければ」
 そう佐為は言った。短時間・・・棋書編纂の為に光が左大臣邸にやってくる月に一、二回の自分との面会の時間のことを指していた。
 黄金の時間・・・・楊海法師は密かにこの時間をそう呼んだ。
 以前のような馴れ合いの過ぎた間柄には見えなかった。二人の間に尽きることなく繰り返された軽口も左大臣邸ではついぞきかれなかった。この時間、二人はここに集うと、世間話もしなければ、お互いの近況でさえほとんど話さなかった。避けている・・・というよりは、もっと必要なことがあるから触れる暇など無い。そういった印象の方が強かった。彼らは、そう、まるで僅かに許された時間を惜しむように、お互いの心血を注いで教え、教えられていたのだ。
 その証拠に、光は佐為に礼をすると、矢継ぎ早に質問を浴びせることがあった。実質、棋書編纂は光が参加する日にはほとんど進行しなかった。何故なら、このように光への薫陶に佐為がほとんどの時間を費やすからだ。光が現れれば、全ては彼中心にことが進む。法師はその自然に出来た流れをむろん邪魔したりはしなかった。むしろ、喜んで手助けした。
「オレは佐為と違って宮廷での作法を教えたりすることは出来ないがな」
 法師は言った。
「楊海殿、宮廷での作法はむしろ私より、あかりの君が光に教えてくれています。何しろ東宮妃に仕える方ですからね」
 意外にも佐為がさらりとそう言ったので、法師はいつも喉元まで出かかっては引っ込めていた言葉を口にした。
「そういえば、年の暮れには子どもが生まれるそうだね、無事に生まれることを祈ってるよ」
「・・・・ありがとう、楊海殿」
 光は短く答えた。
「キミは若いのにしっかりしているな。初めは奥方の連れ子に加え、新たな子を持つには、少々若すぎるのではとも思ったが」
「・・・・・あかりの子なら、義父上(ちちうえ)義母上(ははうえ)が養育している・・・。オレは実質名ばかりの父親だよ」
「キミに懐いていないのか?」
「いや、そうだな・・・子どもは嫌いじゃない。面倒だって見たくない訳じゃない。でもあまり触れ合う機会が無いんだ。オレ病に罹っていたから、初めからあの家ではあの子とは距離を置かれていたしね」
 光が話題を逸らさずにきちんと答えるので、法師は知りたいという欲求のままに質問を続けた。佐為は黙っていた。
「では、キミの子が生まれたらどうする? 我が子と同じく扱える自信はあるか?」
「・・・・・・・分からない。まだ・・・そういうことは考えていない」
 光は徐々に心が苛立つのを感じていた。法師の質問がかつてこれほど、下らなく感じられたことは無かった。
「奥方のところには逢いに行っているのか? ああ・・・宮廷の作法を教わっているといっていたな。ではさほど寂しくはないということかな」
「楊海殿・・・・!」
 ここで光は堪りかねて声を荒げた。
「悪いけど・・・いい加減にしてくれないか。あなたには分からないかもしれないけど、オレにとってこの時間は、そういう話に費やしたくは無いんだ。頼むからもう止めてくれ!」
 光は眉間に皺を寄せ、唇を一文字に結んでいた。
 法師は、むろん光が徐々に不快げな表情を露呈していくのを感じない訳ではなかったが、彼はあからさまに拒絶されるまで、質問を続ける癖があった。知りたい      この欲望に答えを見出すことは法師の第一義であったのだ。しかし彼はさすがに光の憮然とした表情を見て、謝罪の為に口を開こうとした。だが、先に佐為が口を挟んだ。
「・・・光!」
 その目は幾分厳しかった。窘めるときの眼差しだった。そして光は佐為の方を見やると、すぐさま態度を改めた。法師の方に向き直り、頭を下げ、こう言った。
「生意気な・・・ことを言い、悪かった、楊海殿。・・・許してください」
 法師は目を丸くして、光を見つめた。
「いや、オレが悪かったのさ。悪い癖だ。嫌がられているのを分かりながら、つい尋ねてしまう。・・・言い訳のようだが、キミの存在は、実にオレの知的好奇心をそそるんでね」
 知的好奇心・・・・? とんでもない! 単なる興味本位ではないのか! 光にはそのようにしか感じられなかった。だが努めて穏やかに言った。
「・・・あなたは、いつもオレに色々なことを教えてくれる。いつも深い話を。なのに・・・今日は、その辺の誰もがオレに浴びせるのと同じようなことばかり言うから、つい・・・。すまなかった」
「はは、そうだったか? なんだ、キミにはそんなにオレは真面目なことばかり言う高尚な人間だと思われていたのか。心証を悪くして実に残念だよ。だがこれもオレさ。いつも下世話な話をして、佐為に嫌がられているのをキミは知らなかったか」
「私は嫌がってなど・・・」
「ああ、もう止そう。下らない話は終わりだ。悪かった、心からキミに詫びるよ。さぁ、宇宙の深遠を共に探ろうじゃないか」
「いえ、お待ちください。今ひとつ・・・付け加えたい」
 佐為はそう言った。
「以前よりは大分良くなりましたが、だが・・・やはり光には、まだ堪え性が足りないようです。東宮様に、尋ねられたくないことを尋ねられたときに、今の光では顔色に表れるでしょう。光は今一歩、心を大きく持たなければいけない」
 光は真っ直ぐに佐為を見つめ、答えた。
「分かった。悪かった。確かにおまえの言う通りだ。気を付けるよ」
 その態度には心底反省し、自己を戒めようとしているような姿勢が見て取れた。法師はいつものように、腕組みして斜に光を見てはいたが、心の中で感嘆と驚愕の声を上げた。
 全幅の信頼・・・そして絶対服従・・・。興味本位の俗な話に嫌悪し、・・・いや、彼の場合、もっと複雑な理由から・・ああ以前の佐為との関係から、家庭の話はしたくないのだろうが・・・。そしてより高みを目指す・・・か。法師は全く感嘆せざるを得なかった。
 かつて、自分が見たものは幻だったのかとも思った。師と弟子という絆の他に、この二人を覆っていた、あの分厚い感情の層は何処へ行った・・・? 何処へ取り払った?
 今二人は無駄なものを一切削ぎ落とし、ごく簡素で、しかし強烈な師弟の絆だけで結ばれているように思えた。
 しかし、この話題が収まり、また盤上の宇宙を見つめようとしたその時だった。佐為がふと独り言のように呟いた。
「光の子なら・・・さぞ可愛かろう」
 誰に言ったのでもなかった。心の声が漏れた。そんな感じだった。だが、法師は見逃さなかった。その言葉に一瞬光が酷く辛そうに顔を歪めたのを。そして法師は一つ嘆息を漏らしたのだった。





 初夏のある日、長らく病に臥せっていた行洋が大きな発作を起こし、明はその日以来、行洋邸に缶詰めになった。発作の後、高熱が続いた。行洋は朦朧とした意識の中、明だけは傍から放さなかった。比較的病状が落ち着き、意識がはっきりしてくると、行洋は明に話し掛けた。控える家人が気が付けば、行洋が病の床で何か明に話し掛けている。それは暫く続いた光景だった。しかし、今度の高熱ばかりは明にもどうしようもなかった。むしろ今まで持ちこたえてきたことの方が奇跡だ、明殿の力のおかげだと、行洋邸の者には思われていた。
 明はその忙しさのせいで、光とは堀川沿いを歩いたきり、一度も逢っていなかった。今日はその光が東宮の御在所である昭陽舎に上がる日だった。実際に東宮に目通りするのはまだ先のことだったが、光には様々な準備が必要だった。
 明は東宮御所の中に与えられた光の控えの間に、彼を訪問していた。宮中でお互いに束帯姿をして逢うのは随分と久しぶりだった。光が佐為の護衛を任されて参内を許されていた頃以来である。あの頃は武官装束に身を包んでいた光も、この度は文官のする束帯姿をしていた。
「おまえは、さして驚かないんだな」
 光が言った。
「いや、初めは驚いたよ」
「そんな風には見えないな」
「驚かない方がどうかしている。キミが結婚して・・・結婚したのは三月だけど、年の暮れにはもう子どもが生まれる。これだけでも驚いたけど、その上妻になった人が仕える東宮妃の推挙で東宮学士の補佐役に任じられた。驚きを通り越しているよ。キミが考えていたことってこれか?」
「おまえだって、去年結婚したろう」
 明は行洋の亡くなった北の方の血筋に当たる姫君と縁組していた。
「まだ子どもはいない」
「・・・・・もういいよ、そんな話は」
 光は辟易としながら答えた。
「近衛、ボクには普通は見えないものまで時に見えてしまうんだ。知ってるだろう。それが見えてからは、合点がいった」
「意味深だな、何が言いたい?」
「だから、今はキミの選んだ状況を冷静に捉えているけれど、佐為殿にはどうだったんだろうかと思ってね」
「・・・・・・・・・・・」
「佐為殿には逢っているのか?」
「逢ってるよ、左大臣邸での棋書編纂の手伝いをしているから。月に二度・・・いや、この東宮様への囲碁指南の務めを賜ってからは、月に一度・・・かな、でも逢ってるよ。今回のこの大役に当たっても佐為から、最後に逢った時にいろいろと示唆を受けた。この束帯の準備も何もかも、恥ずかしくないようにと、あいつが整えてくれたものだしな」
 普通、妻の家が整えるものなのに・・・そう明は心の中で思った。
「最後に逢ったのは何時だ?」
「・・・・最後って・・・なんだよ。またおまえの得意な尋問の始まりか、はは」
 光は薄く笑った。明には光が無理に場を明るくしようとしているようなその大人びた笑い方が癇に障った。だが、気を取り直して続けた。
「行洋殿が大きな発作を起こして高熱を出されたのは知っているだろう? 半月前のことだ」
「ああ」
「半月以内に彼に逢ったかい?」
「・・・逢ってない、どうしてそんな聞き方をする? 何か佐為にあったのか?」
 光の顔に不安の色が走った。
「いや・・・佐為殿は何度か、行洋殿の邸にお見舞いに訪れているんだが、今は・・・ご子息の・・・・行洋殿のご子息は次々に亡くなられている、知っているだろう、だがお一人残った、やはり病がちの権大納言殿にしかお会いにならない。病状が病状でね、佐為殿は来るたびに面会を断られている・・・」
「どうして・・・!? 佐為の後見をしていた方だろう? じゃぁ、なんでおまえは逢えるんだ?」
「・・・・・・・」
 昔に比べて、思慮深く教養も身についたといっても、光は今でもやはり、関心の無いことについては察しが悪かった。光は何も悟ってはいない。明はそれを思い知らされて、半ば呆れながらもこう答えた。
「ボクは行洋殿付きの陰陽師だからね」
「あ・・・ああ、そうだった。ごめん。だけど、何故・・・佐為に、逢われない?」
「そう・・・・なんだ。近衛・・・・もう行洋殿はいよいよ最期だと思うんだが・・・」
「賀茂! そうなのか? ではなおさら・・・!」
「だが、行洋殿はお逢いにならない。発作の直後は意識はしっかりしてらした。だが、徐々に朦朧となさって、最近ではもうほとんど、権大納言殿のお顔も、ボクの顔も混同されて、誰かもよくお解りにならないんだ」
「そんな・・・」
「だから、今逢っても、もう佐為殿と解るかどうか・・・」
「なら、意識がしっかりなさってるうちに、逢わせてやればよかったのに!」
「いや、意識をしっかりお持ちだった時にも、佐為殿は来られた。だが、行洋殿が頑としてお逢いになることを拒否なさったんだ」
「何故・・・・!?」
「・・・近衛、・・・いやキミにこんなことを言っても仕方ないことだったかな。でも・・・・キミが知っておいてもいいことだと思ってね」
「・・・・・・そうか」
 そう言った光の眉間には皺が寄っていた。
 そして、大きな袖に隠れて見えない拳はぎゅっと握られていた。目には見えずとも、明にはそれが分かった。
「・・・悪かったね。大事なお役目の前に、もしキミを動揺させてしまったのなら、許して欲しい。だが・・・」
「いや、いいんだ。知らせてくれた方がいいに決まっているさ。後で知るよりずっと。ありがとう、賀茂」
 光はそう礼を言った。
 明が帰った後も、その話は光の気にかかり、頭から離れなかった。
 行洋殿・・・といえば、病に倒れる前は佐為の後見役となっていた人物だ。佐為が親類縁者の中で唯一といっていいほど、心を許し、慕っていた人物だった。・・・慕った・・・。そう慕っていた、佐為は・・・。光の脳裏に様々な場面が想い起こされた。供をして、見舞いに行ったこともある。そして、明に逢えば、必ずといっていいほど、そう挨拶のように、その容態を訊ねていた。
 『代わりに・・・・・慕った方もいましたが、その方の愛も常に近くにあるものではなく、そして充分に享受することは叶いませんでした』
 そう言っていた・・・。ああ、あれはきっと行洋殿のことだ。光は思った。では、もしそうであるなら、佐為は、行洋に最期のお別れをなんとしてもしたいに違いない。なんとかその望みを叶えてやりたい・・・光の胸はじんと熱くなった。
 だが、一体自分に何ができるだろう? 意識の混濁した行洋に、自分が働きかけるなど、不可能な話だった。ではせめても賀茂に頼るしかない。いや・・・・一人居る。そうだ・・・一人、たとえ意識の混濁した病人であっても、佐為に会うことを命ずることの出来る人物が・・・・。光はそのことに思い当たると、部屋の中に一人端座し、瞼を閉じたのだった。

   
 

「そなたの悲しむ顔は見たくない。笑ってはくれぬか」
 帝は美しい人の黒髪に口付けながら言った。
 果たして幾度目の夜か、秘密の逢瀬を重ねた寺院の宸殿に今宵は霞のような薄雲に透けて月明かりが差している。折しも何処かで梟が鳴き、薄闇に物悲しく響いた。
 佐為は褥の上に半身を起こし、立てた方膝に覆い被さるように項垂れていた。艶やかな髪が紗織りの布のように白い肌の上に薄く掛かる様は今宵の朧月のように美しい。天子は陶器のような背中に手を滑らせ、愛撫の恍惚に酔っていた。髪の間から覗く白い肩に口付けると、佐為は声を漏らした。
 再び佐為と逢瀬を重ねるようになったのは春になってからのことだった。半年程の間、特に体調が悪かった。天子は何度か、自らの吐いた血で衣を染めることがあった。最初は桜内侍だけの知るところであったが、秘密は隠し切れなくなった。ごく近くに仕える女官と蔵人の幾人かの知るところとなっていた。それでも、公卿や后妃たちにはいまだ隠されていたし、佐為にもその秘密は保たれていた。
 そして冬の間に小康を得た帝は桜の花が咲く頃、再び佐為を誘った。
 最初のうちは、直ぐに色よい返事をしなかった佐為もこの頃には、何一つ抵抗しなくなっていた。侍棋として昇殿し、御前に上がる以外に、全く別の習慣の一つとして彼は帝と深夜に忍び逢った。
「もはや、人の区別もつかぬ・・・・と」
 佐為は、帝の胸にもたれ、深く項垂れながら言った。
「文を書き送ろう・・・余の促しには背けぬはず」
 天子は囁いた。
 愛している・・・! ああ、何もかも、そなたの望みを叶えてやろう。余には出来る。棋書の編纂を命じ、献納させることも。余にかつて不敬したあの者を慈悲深くも東宮学士の補佐にすることも。瀕死の病人に命じて、そなたの望み通りに面会させることも。こんなにも尽くしている。こんなにも・・・・! なんと慈悲深い天子・・・! 
 ならば、・・・・ならばそなたは今度こそ余に、この献身に値する愛を返さねばならぬ。そうであろう・・・・佐為!

 つづく

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