青雲三

 

 楊海法師が心密かに「黄金の時間」と呼んだ師と弟子の対話の時間。それがまた廻ってきた。光は既に東宮への最初の面会を無事に終えていた。まだ年若い東宮には、東宮学士による学問の教授が行われる。光は学士に付いて東宮に謁見し、囲碁を指南した。光は粗相をすることなく、むしろ立派にその役目を果たした。
 彼は無事に最初のお役目を終えて、しばらくすると、再び左大臣邸にやってきた。成功を収めた光を佐為はいつにも増して暖かく迎えた。前回逢った時から一月近く経っている。
 この決して多いとは言えない師弟の対面の時間がやってくると、いつも光は堰を切ったように、佐為に様々なことを訊ねた。光は東宮と打った一局を並べ、佐為はそれに対して熱心に口を添える。
 光の節度ある・・・いやむしろ、徹底し過ぎる程の佐為への礼節ある態度を、法師は不憫に感じないでもなかった。が、それでも法師は、この師と弟子の邂逅の様子を傍で眺めるのを、これまた心密かに好んでいた。
 それゆえ、もうこの間のように光が嫌がるような話題は振らなかったし、何か訊かれるまでは決して二人のやり取りに口を挟まなかった。何よりも、誰よりも、この師弟の関わりを尊重していたのである。

 碁を打つこと以外にも、佐為は光の振る舞いや生活全般のことに渡ってこまごまとした注意をする。これはずっと以前からの習慣で決して珍しいことではない。だが、光が病から生還し再び佐為に逢うようになってからは、そうした小言に加えて、もっと違う話をよくするようになっていた。それはこの頃の二人にとって特筆すべき点だった。東宮と打った碁の検討が終わると、佐為はこう言った。
「光、『史記』を何処まで読みました? 予譲の話を知っていますか?」
「ああ、知ってる。春秋戦国時代はいろんな話が出てくるけど、人間性のイマイチなってない主君の復讐をする予譲という男の話は面白かった。印象に残っている」
 光は答えた。以前なら、こういった類の話は一方的に佐為が語って聞かせるだけだったはずである。それが今や光と交わす相互のやり取りに変化していた。佐為は続けた。
「復讐・・・・? 確かに復讐には違いない。だけど、何故その人格の今ひとつなってない主君のあだ討ちをしようとした予譲を、他ならぬ仇の趙襄子が許したと思いますか?」
「それは、いかに残酷で無道な主君であっても、予譲はその主君から受けた恩を忘れず、一心にその恩に報いようとしたからだろう」
「その通りです。趙襄子は自分を討とうとした予譲を讃えます」
「そうだな・・・でも、二度目は許さなかった。讃えてはいるけれど。予譲の主君がもう少し立派だったら復讐に燃えるのも分かるよ。だからオレは共感できないんだ。君子だった仇の趙襄子の臣下だったら合点が行くのに」
 光はどうも不満だというように、予譲の主君について、人格の不備を指摘した。
「光の言うことは率直でよく分かります。命を賭してあだ討ちするに値する程の人物であるか疑問に思うのですね。だがここは、恩を知り、恩に報いることの大切さを言っているのです。ならば、むしろ主君の人格がなっていない方が、分かり易い。こんな人物でさえも、施された恩を忘れてはいけない、そういうことなのです。むろん、これは史書だから、恣意的に組み立てた粗筋ではありませんが」
「そうか・・・そうだな、ただ粗筋を追っていては、何を汲み取ればいいのか見失ってしまうということだろうか」
 光は真摯に答えた。師を見つめる瞳は澄んで輝いていた。法師は光のこんな時の表情が特に好きだった。なので、その横顔をただじっと眺めていた。だが不意に言葉を掛けられた。
「楊海殿、先程から黙っていますが、あなたはどう思われますか?」
「あ・・・ああ。そうだな」
 法師は慌てて曲げていた背を伸ばした。
「なんか不意を突かれたって感じだね」
 光が少し可笑しそうに言った。
「はっは。いや、居眠りしてたのがばれたか?」
 法師はむろん居眠りなどしていなかった。二人のやり取りにただ耳を澄ましていたのである。それは意見を求められることが不本意だと感じる程にだった。それほどまでにただ聴くことにだけ神経を集中していた。それでも法師は一応は答えた。
「オレはじゃぁ、たまには僧侶として言おう。動物、つまり畜生でも恩を知っている。ならば、人はそれ以上に恩を知り、恩に報いる。・・・それが人間ってものではないか。恩を忘れた人間はつまり動物以下さ」
 法師の言葉にまた光は目を見張った。そして頷いた。
 佐為も言った。
「我らが師から教わった言葉です。光、恩を忘れることは人間として最も恥ずべきことの一つです」
 この佐為の言葉に、まるで全身が耳と目となったかのように、光は背筋を真っ直ぐに伸ばして聞き入った。
 清々しい。光の、佐為を見つめる目を見て法師が感じるのはこの感慨だった。その眼差しが全てを語っていた。あまりに清々しいので、法師はまぶしげに目を細めた。
 そして、師の方もまた弟子の真摯な求道に、寸分の手抜きもなく真剣に相対していた。一種崇高で恍惚たる時間だった。にもかかわらず、一瞬法師の胸はちくりと痛んだ。このように「黄金の時間」が崇高で恍惚たる時間であればあるほど、光がそれでもごくたまに見せる、やるせない表情に気付いてしまうからだった。


 恩に報いる・・・光はあかりの家の自室に帰って、佐為の言葉を反芻した。
 するとふと思い当たった。佐為にもまた今まさに恩に報いたいと考えている人物が居るはずだった。それはもう死の床にあるという行洋に違いない。そのことはこの間から、何度となく頭を廻っていた。逢いたいのに、逢えない・・・恩に報いたいと考えるのに、叶わない。そのもどかしさを思うと、やはり胸がぎゅっと締め付けられた。昼間左大臣邸で逢った時にはこのことについて何か話したりはする機会はなかった。だが、光は密かに佐為の心中を想っては、胸を痛めていたのである。


 それから数日後、左大臣邸において、佐為は思わぬ人物と出くわすことになる。
 渡殿を向かいからやってくる女房が、佐為を見て一瞬はっとした。それで彼は訝しげにその小柄な女を見た。だが、直ぐに彼は気付いた。
 あかりに違いない    今は光の妻となった娘である。いかにも可憐で愛らしい女だった。最初の夫と死別し、二人目の赤子を身篭っているとは、とても思えぬ程、娘は初々しく見える。彼女は夕星の遣いで左大臣邸を訪れていたのだ。
 実のところ佐為は、光の幼馴染という以外に、この娘のことを何一つ知らなかった。姿さえも良く覚えてはいなかった。まともに会話した覚えさえも無いのだ。
 あかりは渡殿に跪くと佐為に挨拶した。
「お久しぶりでございます、佐為様」
「・・・・これは。どうか楽に。こちらにおられるということは、いまだお勤めを続けられているのですね」
 佐為は自分も腰を落とし、低い姿勢で声を掛けた。
「はい」
「無理をなさってはいけません。身篭っておいでとのこと。お体を大事になさってください」
 こう言うと、彼はすっと立ち上がり、その場を離れようとした。しかし、引き留めるように、あかりが声を掛けた。
「・・・・あの」
 ところがこう言ったきり彼女は口ごもった。かといって娘は立ち去る様子も見せずにその場に座っている。ただ黙っているのも落ち着かないので、佐為は続けた。
「・・・・宮仕えは何時までなさるおつもりですか? お体に障りましょう。早く宮中を退出なさった方がいい」
 すると、あかりは短く答えた。
「はい・・・来月には下がる予定でおります。あの・・・」
尚もあかりは口ごもった。佐為の方では当たり障りの無い言葉を交わして今は早く立ち去りたかった。しかし、彼を引き止めるように何か言いかけては口ごもる、そんなはっきりしない態度をあかりはこの後も繰り返した。彼は訝しく思った。しかし、しばらく待ってもあかりはただはっきりしない様子でいるので、佐為は僅かながら苛立たしげに言った。これを最後と会話を結ぶ為だった。
「・・・光の為にも、御身を大切に」
 だが次の言葉は、言うつもりがあって口にしたのではなかった。間のびしたやり取りを補完する為に反射的に出た言葉に過ぎなかった。佐為はこう付け足したのだった。
「・・・あの子はどうしていますか」
 するとどうしたことか、この問いにあかりは今までとは打って変わってすらすらと答え始めた。
「佐為様、ああ光はどうしてしまったのでしょう! 本当に驚かされます、朝早く起きたかと思うと、朝餉の前から本を読みふけっています。朝餉が済むと、私の父母と碁を打ち、いえ、碁を教えてくれます。最後には私にも手ほどきをしてくれます。その様子がとても落ち着いて堂々としていて、以前のあの、明るくて快活で、そしていくらか子どもじみていた面影がまったくといっていいほどないのです。佐為様、光はいつからああなってしまったのですか? これは出仕の無かった日の話です。その後も一日ずっと本を読んでいました。食事の知らせにも何度も声をかけてやっと気づきます。夜もいつまでも灯りをつけて本を読んでいます。時間があれば碁を打つか、書物を読むか、このどちらかです。体を壊さないかと心配になるほどです」
 佐為は黙ってあかりの言葉を聴いていたが、ここに来て口を開いた。
「私のところに居る頃も書物はよく読んでいました。この間も『史記』の話を光としました。あの子は・・・遅れを取り戻したい一心なのでしょう。もっと学問の手伝いもしたいが、限られたことしか今は教えることができません。もどかしい限りです。ただ・・・体が心配です。私はもう傍で見てあげることが出来ません。体を壊さぬよう、どうかこれからはあなたが光を見てください・・・」
 そう言いながら、佐為は娘を見ずに庭を見ていた。あかりには見えなかったが、庭に向けられた美しい顔の眉間には皺が寄っていた。娘には彼の長身な後姿しか目に映らない。あかりは続けた。
「あの・・・佐為様が、光に学問に精進するようにお話を・・・?」
「・・・・・・・? いえ・・・学問については、私から強いて奨めたことはありません。光が学ぼうとする気持ちを日々肯定してきましたが」
 ・・・・今、知ったことだというのに・・・・・・。佐為はそう思った。
「佐為様、光の体、私も心配なのです。あまり熱心すぎるものですから。自分を痛めつけているかのようで・・・自分に厳し過ぎるということはないでしょうか? 出仕のある日も帰ると勉強をしています。先日、何日か里の家に下がっていた折にはずっと傍について世話をしてあげることができました。酷く疲れていたみたいで・・・。光は東宮様へのお仕えを立派に果たしましたけれど、やはり最初の謁見の後は疲労困憊した様子で・・・家に帰ってくるなり、ぐったりと倒れてしまったんです」
「倒れた・・・? 光が・・・!」
 ここで佐為は娘の方へ振り向いた。
 何も言わなかったのに・・・! 佐為はそう思った。光は佐為に東宮と打ったという一局を並べ、様々な質問を浴びせた。が、そのようなこと・・・つまり東宮への目通りに、大きな身体的疲労も伴ったことなど、光は佐為に何も伝えてはいなかった。あかりは続けた。
「二日程、寝込みました」
「・・・二日も!?」
「そうなのです・・・さすがにその間は、本も見ず、碁盤も引き寄せず・・・でした。ぐったりとして、また病に陥ってしまうのではないかと心配でなりませんでした」
 佐為は再び黙ってあかりの言葉を聴いた。今度は視線を落とし、口元は硬かった。長い睫の作る陰が瞳を隠している。彼は言った。 
「・・・それだけ、心して臨んだのでしょう。光は立派にやった。そしてこれからも立派にやっていくに違いない。あの子の命運もこれで開けた・・・。あなたのお陰です」
 佐為は静かにそう語った。

 しかし、そう言った胸の奥には廻る想いがあった。
 結局のところ、光は夕星姫付きの侍女であるあかりと夫婦になったことで、夕星姫の推挙を得たということなのだ。初めは佐為にとって信じがたいことだったが、光は東宮坊に仕える身となった。光との間に節度ある距離を置いたことで、意図したように帝の勘気もいくらかは確実に光から逸れたはずである。でなければ、光を自分から離した意味が無い。東宮坊への抜擢もそのことをほのめかしていると佐為は解釈していた。これで光の未来も開ける。すべて上手く行った。まさしくこの結婚は成功だった。
 ただいたずらに自分の許に居ては、こうは開けなかったはずである。このような策を講ずることより遥か以前の、・・・綱渡りのようなことしか自分には出来なかったのだから。光に師として碁を教授することを除いては、結果的に光を追い詰めるばかりだった。光を愛していたのに、いや愛したが故に苦しめた。身を砕いてまで取り戻した愛くるしい笑顔も、一途な眼差しも、日々屋敷に響いた明るい声も、放棄した途端に、まるで入れ替わるように光の運命が好転した。
 光が東宮坊へ仕える話が上がって以来、実に佐為を満たしてきたのは、この一種の敗北感だった。
 元来、そう本心の隠せる性質ではない佐為が、光の前ではその悔しさを表さないように苦心していた。もっとも光との対面時間が少なくなったことで、隠し果せたとも言える。
 光の成功と、自分には叶わなかった子を持つという幸福を、光の為に祝福する一方で、こうした相反する苦悶にも実は悩まされていたのである。
 出逢ってから此の方、物理的に離れていた期間でさえも、様々な意味で独占し続けてきたのである     光という存在を。今初めて佐為は、光を他人と共有しなければならなくなった。以前に比べると、自分が手にできるのは、光の何分の一の部分でしかない。光が妻を持ち、子を持ち、新たな家族を持つということは、そういうことだった。そして新たな家族によって得た東宮妃の後ろ盾。これは全くの想定外である。想定外だっただけに、光が新たにその片隅に属した場所の威光は、より大きく感じられた。
 自分に属する光は、今や光の根幹を成す精神性と、その周囲に薄く残った肉片でしかなかった。この砦だけは明け渡すことは出来ない。したがって、最も光の中心に類する部分は、いまだ自分の配下にあった。それでも、それまでは全てが自分のものであると言ってよかったのだ。佐為の光は完全体の光だった。完全体の光から比べると、今や彼の光は随分小さくなってしまったのである。この(のち)、光に子どもが生まれたら、さらに佐為が所有する光は小さくなってしまうだろう。親子の関わりは良きにつけ悪しきにつけ、絶大な意味を持つに違いないからだ。
 そのような事は分かっていたはずである。が、心はどうしようもなかった。自分に与えられた分以外の光、つまり自分から奪われた分の光を想うと、苦く熱い想いが腹の底から込み上げた。拷問のように辛い日々の代償は、光の輝かしい前途という、あまりに確かなものだったのだ。
 しかし、彼はその苦しみを持て余すだけでは無かった。佐為はむろん、そのように甘い覚悟で意を決した訳では無かったからである。
 つまり彼は光を愛していた。そのようにしか言い表せない。
 これまでもそうだったように、自分でも明快な定義付けができる訳ではなかった。だが、光に対して抱く愛情は己の欲も、エゴも、悦楽も、凌駕しうるものだと、無意識のうちにどこかで彼は理解していたのである。
 それが証拠に、楊海法師が呼ぶところの「黄金の時間」によって、彼の光への想いは昇華されつつあった。師弟の交わり、それは何ものにも替え難い。他の全ての煩悩に勝った。これもまた佐為が光と出逢った当初から予測していたことである。他の全ての要素が消えても、師弟の繋がりさえ残れば、光が永遠に自分のものとなることを、彼は知っていたのだ。

 ところが、今目の前に居る女が、その清められ、高められつつある想いを執拗に引き下げてくるのだった。一体、この可憐な娘を光はどんな風に抱いたというのだろう    
 むろんこの娘に咎は無いことを知っていた。この娘によって揺さぶられる己が脆弱な魂と戦っていたのである。
 彼は必死にその葛藤を直衣の下に抑え込もうとしていた。そしてこう言った。
「あなたのお陰です。夕星姫の信望が篤いと聞いています。あなたと夫婦になって、光の道が思わぬところで開けた」
「いいえ、私など・・・。すべては夕星様のお陰です」
「あなたと、そして聡明な夕星姫様に深く感謝します。姫様への奏上文にても既にお礼申し上げたことですが、重ね重ねどうかよろしくお伝えください」
「はい・・・!」
 佐為の心中を知らないあかりは、彼の夕星に対する感謝の言葉に瞳を輝かせた。
「夕星様は光をとても買ってくださったのです。夕星様が光を推挙してくださらなかったら・・・本当に夕星様のお力なのです。夕星様はそれはお美しくお優しくご聡明な方で・・・」
 あかりが夕星をこれでもかと讃えきったのは彼女にしてみれば自然なことだった。彼女が世界一慕う女主人は到底不可能と思われた夢物語を実現させてしまったのだから。そしてあかりだけが知っていた。それを成した夕星の真の心の発露が何処に在ったか。今目の前に居る貴公子を愛すればこそなのである。一人の若い姫君が勇敢にも天子に挑んだのだから。それ故、佐為が抱える密かな苦悶など知る由も無い。佐為もまた、夕星の真意を知らないのと同じである。
 だが、これも廻り合わせの悪さか、佐為は尚も続くあかりの夕星賛美と、自分の知りえない光の日常の話に、うんざりしている自分を鬱々とした気分の中にじわじわと感じとっていた。今あかりの言葉も、そして目の前の彼女そのものも、高く飛翔しようとしている魂に、執拗に毒を吐き、異臭を浴びせ、泥の錘をつるすかのような試練を与えていたのだ。
 抗い難い不快感が募る内、遂に忍耐の糸が切れたように、佐為はこう口にしていた。
「・・・ああ、そうでしょう。あの子は本当に私の許から放してよかった。私ではそのような道を光に用意することは到底無理でしたから」
 それであかりはやっとはっとした。
「あ・・・・あの、そのような意味で申し上げたのでは・・・」
 彼女は慌てて、口をつぐんだ。夕星を佐為の前で褒め讃えたのは、ほんの少しでも佐為がさらに夕星に好意を寄せてくれはしないか、という健気な望みのほとばしりでもあった。しかし、ここにきて、どうも佐為の心に、見落としていたよく分かり難い膜のようなものがあることに気付いた。
 今目の前に居る貴公子が、光や夕星の話を元に心に描いてきた美しい君子のイメージとは何故だか何処か違った人物に思え始めた。その佐為が言葉を続けた。
「だが、残念です」
「・・・残念?」
「あなたが宮中を退出しなくてはいけないことがです。あなたは光の良い先生だった」 
「私が・・・? 何のことでございましょう。碁は光から教わっていますのに」
「あなたが光に宮中の礼儀作法言葉遣いを教えてくれました。あなたは賢い方です」
 佐為はそう言った。そしてふと思い出したことを付け加えた。
「桜の花びらを、歌に添えたのはあなたですか?」
「・・・・え?」
 彼女は最初、意味が飲み込めなかった。佐為は続けた。
「舞い散る花びらが美しかった。風雅で愛らしい趣向に息を呑みました。光に最初に歌を教えたのも、そういえばあなただった・・・そうでしたね。以前、光から聞いたのを今思い出しました。あの子に教えるのは苦労なさったことでしょう。夕星姫様が信頼されるのもなるほど・・・あなたのその可憐な容貌に反するしっかりとしたご器量によるものだと、今深く得心できました」 
 庭を見つめる彼のまなざしも、その声も、荒涼とした冬の荒野に吹く風のようだった。が・・・・実は、それほど深い意味で言ったのではない。光とあかりの間で、かの歌がどのように取り沙汰されているか、彼は全く知らなかったからである。ただ無意識のうちに、光の全てを独占していた頃の記憶が頭をもたげたのだった。
 さて佐為が言い終える頃には、あかりは呆然として言葉を失っていた。目の前の麗人・・・敬愛する夕星姫が愛するただ一人の男性だった。そして、彼は帝の寵愛を受ける身でもあった。
 そして、さらにもう一人、一体誰の切々たる愛が向けられる人物であったのか、今はっきりと悟った。
 しかし、あかりが我に返った時には、既に佐為の姿は無く、その芳香だけが辺りに漂っていた。
 花びらを紙に折り込んだ趣向   それは最初に文を開いた者にしか分からない。開けば散ってしまうからである。つまりあの歌を受け取った人物だけが知る趣向のはずだった・・・ああ!
 そうまさしく、あかりは思いも寄らぬところで遂に見つけたのである。光が歌を贈った相手を。ずっとずっと胸にわだかまっていた、あの・・・、光の心に住み続ける、自分ではない他の誰かの正体を・・・!
 彼女はしばらく動けずにいた。
 だが、最初の衝撃が去ると、先ほどまで何度もためらっては言いかけ、結局口に出来なかったことを思い出し、安堵した。この時言い損なったことを、あかりが胸の奥から再び引き出すことになるのはまだしばらく先のことである。

 娘の前からやっと立ち去ることが出来た佐為はといえば、胸に込み上げた苦い葛藤の熱が冷めると、自らを省みて静かに心を沈めた。楊海法師が訝しく思って訊ねた。

「何かあったのか?」
「いえ、私はよくよく愚かだということです、楊海殿」
 法師はきょとんした顔をしてみせただけだった。

 

 つづく

 

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