青雲四
かつて無い程、男の胸の内は高揚していた。今こそ、求め続けてきたものが得られるに違いないからだ。男はそれを得られる為ならば何ものも厭わなかった。病に蝕まれた体に鞭打つなど何でもなかった。
「彼」に書き送る言葉を除いて、今はもう自ら筆を取ることなどめったに無い。それなのに、右筆に筆を任せなかった。自ら言葉を搾り出し、自らの筆跡を記した。そのことがどれだけの威力を発するか、男は知っていた。
天子の親書を無視する者が何処に居ようか。たとえ病床にあり、意識の朦朧とした元公卿にさえも、天子の意向は届くはずである。
男は巧みに言葉を紡いだ。元より彼は教養が高く文才に長けていた。つまり、的を射た名文を容易に繰り出すことが出来た。それが長年求め続けてきたものを得る為の方途とあらば、異様なまでに頭が冴えるのである。瞳孔は開き、眼光は鋭く、いつも冷たいはずの額にはうっすらと熱で赤みが差している。傍で見ていた桜内侍は背筋が震えた。男の様子があまりにも尋常ではなかったからだ。
近頃は、周りに蔵人か女官しか居なければ、男は力なく背を丸め、死んだ魚のような目をし、そして時折、内侍にしか聞き取れない小声で独り言を言った。 「地獄に落ちろ」と。
初めこそ、内侍はこの恐ろしい言葉を聞いて、背筋を震え上がらせた。一体、誰に向けて言っているのか・・・? 考えただけで恐ろしかった。しかし、次第に危惧は違う方向へと変わっていった。その恐ろしい言葉が、もしかしたら容易に考え付くような者ではなく、意外な者へと向けられているのかもしれないと、感じるようになったからだ。
それにしても内侍は、天子が普段の力無い様子とはまるで違うことに畏れおののいていた。とにかく今彼は、内からどくどくと湧き出す力に溢れていたのだ。
さて、ありったけの生気と、才気と、知恵を注ぎ、書き綴ったごく内々の親書を行洋邸へ送り下した後のことである。帝はいつもの寺院の宸殿に佐為を呼び出した。天子は彼に、親書を下したことをひっそりと語った。佐為は天子の前にひれ伏した。何故なら彼にも譲れないものがあったからである。
永遠の別れがいよいよ迫ったその前に、どうしても行洋に逢わねばならなかった。それが叶えられるのであれば、他の選択肢など有りえない。手向けられた救いの手には平身低頭縋ろうというものである。この数日、佐為を満たしていた最も重大事はこの事だった。つい先日の光の妻との一件でもなく、棋書のことでもない。光の妻に偶然逢ったことなど、事実直ぐに忘れてしまった。こちらの方、つまり行洋が自分とは逢わずに死んでしまうかもしれないという事実の方が、今の彼にとっては余程重大事だった。
一方帝であるが、我が意を得たりと佐為へ着せた恩を考えれば、この夜彼をいかようにもできるはずである。佐為も拒みはしないはずだった、いや出来ないはずだった。しかし、そうはしなかった。
天子は褥に起き上がろうとしたが、一瞬眩暈にでも襲われたかのように動きが止まり、肘をついた。佐為は反射的に帝の上体を支えた。
「御体をお預け下さい」
佐為は努めて優しくそう言った。彼は帝の身体の焦燥を感じ取って心が痛んだ。しかし、これはいつものことだった。ゆえにそれが特別なことだとは受け止めなかった。今までも帝が体に不調をきたしていたのは既によく知っていた。とりわけ眠るべき時刻にいかに苦心しても眠ることが出来ずに苦しんでいるのは今や、側近や佐為などのごく身近な者だけでなく、楊海法師までもが知るところなのである。それでも幾度か血を吐いていることだけは、まだ広まってはいなかった。桜内侍の努力によって、これは佐為にもまだ伝わってはいなかったことである。
「感謝申し上げております」
佐為は心からそう言上した。本心だった。帝は答えた。
「そなたの為なら、何を厭おう? そなたの為なら、労苦となろうものがこの世にあろうか? 全ては悦びだ。永い間、そなたを満たしてきた哀しみも苦しみも、そなたが余に打ち明けたあの時から、全て余のものともなったのだ」
これもまた本心だった。佐為は眉根を寄せ、瞳を潤ませて、蓼の葉でも噛んだような顔をした。天子の体を支えていた腕をその背に回し、優しく愛撫した。天子は彼の腕に抱かれる幸福に酔いしれ、そのまま大人しく体を彼の胸に預けるのだった。この夜は、お互いの傷を舐めあうような感傷的な言葉をいくつか交わしながら過ごした。それが天子の望みだった。
彼と忍び逢っても、このように肌を合わる事の無い夜は、実は初めてではない。
時に帝は、労わりの言葉に溢れた優しい語らいのみに耽ったり、ただ佐為の傍で眠ることを望むのだった。そして、佐為はただ天子の望みのままに相手をしていた。
天子は浅い眠りの中に、朦朧とした思いを廻らせていた。
・・・・・ 邪魔者は居なくなった。
しかしそれが完全かというと、そういう訳ではない。だがそれでも良しとしなければならないのである。契約の最低限の保障は護られなければならないからだ。
何も欠く事が無く、傷一つ無い美しい調和などというものに、生まれてより此の方、出会ったためしが無い。時に妥協し、時に諦め、時に満たされぬ甘美な物思いに沈んできたのである。
しかし、天子には一つだけ、この世の中に譲れないものがあった。佐為が今にわかに直面しつつある行洋との別れも、確かに譲れない重大事に他ならない。だが、帝においての譲れないものとは、その佐為の重大事よりもさらにずっと重いものであると言ってよかった。他のどんなものに対しても寛容に、鷹揚に振る舞えるというのに。その一つのものを「完全に」手に入れるという、その望みだけは遂にここに至るまで妥協することが出来ずにいるのであるから。
これはあまり人に知られていないことである。それは天子が初めて彼に逢った頃のこと。帝が一人の殿上童に御執心なのを周りの者はいかにも好色で好奇心に溢れた眼で眺めたものだった。しかし、もし彼が今よりも若く、健康だったその頃に、少年に肉欲を感じるかと問われたら、「否」と答えたであろう。男色は既に知っていたけれども、少年に対する恋は享楽的な遊びとは趣きを異にしていた。もしこの後少年と親密になり、少年が成長したら、漠然とであるがもっと深い関係を結ぶことになるかもしれない、とはうっすらと考えた。だが、その程度だった。彼は女にしろ男にしろ、一応は成人した者に対してしか肉欲の対象を求めなかった。感じる以前に思考が、未だ童子である少年を自らの褥に侍らそうなどという方へ向かなかったのである。皆このことを知らなかった。
つまり少年への恋は、極めて精神的なものだった。天子が孤独な美しい少年に憐れみを覚えたのである。母親を幼い頃に失い、父親からも継母からも冷たくされている。それだけで、既に天子の胸は憐れみで満たされた。何故なら、彼も「孤独」ということにとても近しく、その人生を送ってきたからである。この少年となら、互いの哀しみを埋めることが出来るかもしれない、そう思った。しかも少年は類稀なる美しい見目形をしていた。天子は美しいものを愛する性分だった。心惹かれる二つの要素を少年は持ち合わせていたのだ。
ところが、周りの大半は面白おかしく、天子と少年の関係を噂した。直に愛人にして極傍に仕えさせるおつもりだろう。皆そう囁きあった。
実際、その憶測はそれ程外れてもいなかったのだが、天子の恋の意外な清らかさは、誰にも推し測れなかった。帝自身も果たして自覚していたものだろうか。
しかし、帝が十数年後にすっかり成長して大人になった少年と再会してからは、全てがその時と同じという訳には行かなかった。成人した佐為はあまりに美しかった。香気溢れる青年を前にして、甘美で清らかな憐憫の情のみでいられようか。冬の間凍っていた滝川が一気に溶け出した。憐憫の情に併せて、他の多くの種類の感情が、注ぐべき湖水を見出し、奔流となって溢れ出したのだ。
天子はこの恋を成就させることに、それは美しい理想を描いていた。極自然に彼と信頼関係を育み、心を通わせ、そして彼の全てを得たかった。それは美しいなだらかな曲線を描いて高まっていくべきものであった。
しかし、結局のところ、そうは進まなかった。彼の「全て」を手に入れるのはそう容易なことではなかった。容易どころか、至難の技であったのだ。多くの者たちが自分に簡単に靡いてくるのに対して、彼だけはそうは行かなかった。何故ならまず第一に、世間一般で言う物質的栄華において彼が無欲だったからだ。佐為は天子の威光を我が物とし、自分の益にしようなどとは微塵も思い及ばなかった。
手に入らざるが故に、結局天子は途中で理想を断念せざるをえなかった。周知のように、取引によって彼をようやく我が物にするという、不本意なやり方に甘んじるより他なかったのだ。それも捨てるか得るかのぎりぎりの選択を迫られての結果である。結局、天子は佐為を諦めることが出来なかった。不本意な運び方であるにせよ、彼を手に入れるという悲願はやはりそう易々と捨て去れるような簡単なものではなかったのだ。
しかし、彼と極秘裏に通じてからも、尚も完全に彼を手に入れるということは叶ってはいない。承知の上だったはずである。だが、自分の想いが強ければ強いほど、全てを得られぬ苦しみにもがき続けねばならなかった。
ところがそんな中にも、ある種の恍惚に包まれる瞬間があった。初めて想いを遂げた夜のことである。佐為は他の誰にも打ち明けた事が無いという自らの出生の秘密を帝にだけ語った。そのことは帝にとって、測り難い深い感動をもたらすものだった。「他の誰にも言ったことが無い」彼がそう言ったのである。佐為がそのような言葉を嘯く性質ではないことはよく知っていた。自分だけに言ったのだ・・・! 帝は、何度も何度も佐為の告白の言葉を思い出しては、その恍惚に酔いしれた。憐れにも、記憶の中に刻まれた言葉を懸命に反芻しながら、彼と交換した単衣に接吻し、顔を埋めるのだった。これも内侍だけが知ることだった。
が、それでも帝には飽き足らなかった。自分だけに秘密を吐露されたことは、ある一定のレベルの恍惚をもたらすものではあっても、当然のことながら彼の完全なる愛を提供するものではなかったからだ。
理由は明確だった。
ああ、其処に邪魔者が居る・・・・!
全ては一人の地下の少年の存在に由来している。
それは否定しがたい忌々しい事実だった。
佐為と自分との間に、かの取るに足らぬ身分の少年の影は常に確かな重みをもって存在していた。あの恩赦嘆願の時以来、少年のことが佐為の口に上ることは一切無かったにもかかわらず、である。
そう、全てはかの少年が元凶だった。
眠れぬ苦しみは、かの少年がもたらすものである。
庭の橘を狂ったように伐ったのも、かの少年を憎んでのことである。
天子は眠ることが出来なくなった。少年の都召還と前後した頃からのことである。帝は橘を伐り裂き、血を吐いた。佐為が少年を自邸に招き、養子縁組まで望んでいることを知らされた時のことである。この時、言葉に表し難い激しい嫉妬が天子を襲った。妬ましさと憎しみが胸のうちに怒涛のように押し寄せた。
むろん、それが他の者であれば、怒りに任せ、いかようにもしてくれたはずである。事実今まで、邪魔者は自らの力で制裁を加えてきた。しかしその途上でとんだ過ちも犯してしまった。見当違いな者まで罰してしまったのだ。
ところで罰は、自分から佐為を盗み取る者ならば、必ず下されなければならないものだった。下されて当然だった。佐為のその優美な指の先から、髪の毛の一本一本に至るまで、全て自分のものでなければならないからである。天子の宝物を盗み取る者は、いかにも許しがたい罪人であった。
しかし、その罪の無いものに誤って下してしまった罰に対しては、彼は切々たる後悔の海に沈んだ。そして過ちを贖罪したいという強い願望に囚われなければならなかった。彼は不当に人が苦しむことに不快感を覚えるからである。ましてや、それが自らに因を発するものであるなら、なおさらであった。
こうして必要とあらば自ら制裁を下していた天子だが、かの少年にだけは制裁を加えることが出来なかった。それは佐為と交わしてしまった契約のせいである。つまり佐為の手口は巧妙だった。光の都での存在の保障を考えて、帝に取引を突きつけていたのだ。周りの危惧を他所に、彼が公然と光を自邸に置いたのはこの為である。明も楊海も佐為の行動を愚かだと指摘した。そして両者とも訝しく思ったが、佐為には実はこうしたことを踏まえた確信があってのことだったのである。
だが、代償を払って取り戻した光との暮らしも、佐為にとって何の躊躇いも無い安穏としたものでは決してなかった。いかに、天子の契約の履行を信用しているにしても、天子がその契約の履行に際して、当然ながら苦しんでいるだろうこともよくよく知っていたからである。
天子の苦しみを想うと、佐為の心は二つに引き裂かれた。そこへ楊海法師の詰問である。佐為が、案外あっさりと光を手放したのは、この相容れない心の中の二つの岸辺に引き裂かれる辛さと矛盾に限界が迫っていたせいでもあった。
そして取引のことも契約のことも何も知らない光は光で、佐為の心中を測り難く思い、苦しまねばならなかった。光の暗中模索を知りながら、佐為は最後の部分だけは語らなかった。つまり帝との取引によって、他の何者でもなく、自分自身が光を手元に取り戻したという事実である。それだけは語らなかった。決して・・・口が裂けても言うまいと腹に決めていた。
大宰帥殿が光恩赦の奏上文を書いていたのは実に好都合だった。光自身が自らの恩赦の由来の大きな部分はそこにあると思い込んでいたからだ。
そして、今回の夕星姫による東宮坊への光推挙である。
もう幾度目か分からない試練が帝を襲った。
夕星といえば、取りも直さず罪も無いのに帝が誤って罰してしまった姫君である。彼女に対しては一刻も早く贖罪の義務を果たしてしまいたかった。ところが、彼女の願い出たことといえば、帝が本来誰よりも、罰を下したい者の栄転だった。
帝は苦悶した。
この広き世界で、これ以上無いというほどの憎しみを覚える者を、東宮御所へ上げることを許すのか。そうまでして、贖罪を果たさねばならないのか。本来の胸の内に従うなら、到底そのような栄誉をかの少年に与えることなど出来ない。だが、心を静めて思案した。
もし夕星の願い出通りにしたらどうなろう? 夕星に対して犯した罪は償われ、そしてこの寛容な采配は、佐為を感動させるかもしれない。彼の前に慈悲深く寛容な姿を示せるかもしれない。いや、何より彼が喜ぶかもしれない。彼の喜びは望むところである。喜ぶ・・・? 何故彼は喜ぶのか? あの少年の栄誉になることだからだ。ああ分かる、佐為は喜ぶに違いない! ここで天子の思考は行き詰まった。酷く胸が苦しく、頭が重かった。
だが意を決し、もう一度考えた。『そなたの為なら、何を厭おう? そなたの為なら労苦となろうものがこの世にあろうか?』 彼へと繰り返し告げた言葉がまるで鐘楼に鐘が響くように頭を廻った。一方、あのいかにも愛くるしげな少年の姿も時折ふと脳裏に現れた。荘厳な鐘の音に混じる異教の怪しい祈りのようだった。
内侍は黙って彼が瞑想に耽る姿を見つめていた。しかし堪りかねて言上した。彼は内侍の提案を受け入れ、光は東宮学士の審査を通った。戦いの末、遂に荘厳な鐘の音が勝利したのだ。
佐為の為なら、何を厭おう ?
この頃には光に対して情状酌量の余地が生じていたことも大きかった。光が佐為の屋敷から離れ、夕星姫に仕える侍女の夫となっていたからだ。今はある程度の距離を取り、師弟、そして後見される者と後見役との間柄の域を出ない関わりに留まっているという。邪魔者はかくして分を悟り、自ら去ったのだ。ならば、その分別ある身の処し方に報いるべきではないか。そのように帝は結論付けた。
佐為は光の栄転を受けて、たった一度だけ奏上した。
「この度、我が不肖の弟子に対して、身に余る栄誉を頂きましたこと、深くお礼申し上げます」と。
光について帝の前に言及したのは、実に恩赦嘆願の奏上のとき以来、一年と半年ぶりである。二人の間で、あの時以来、光の話題に触れることは全く無かった。帝も口にしなかったし、佐為も光のことだけは決して、口に出さなかった。しかし、こればかりは黙っている訳にも行かず、言わねばならぬと意を決して礼を述べた。だが、奏上する時に、佐為は掌にも背中にも滴るような汗をかき、抑えようとしても全身が小刻みに震えるのを止められなかった。
帝は佐為の声にも、姿にも、普段とは違うものがあることに気付くと、これ以上無い程不快気に眉間を歪めた。そして佐為も、この状況を憎憎しく感じた。帝が自分の緊張に当然気が付くだろうと思ったからだが、どうしようもなかった。
しかし、気まずい場面はそこまでだった。ほぼ時を同じくして、行洋の死が目前に迫ったのだ。行洋に対して抱く疑惑を唯一共有する存在である帝に、佐為は再び自らの出自に関する苦い心情を吐露した。
「このままでは、そなたの気が済むまい」
帝が言った。
「己が何者なのかを知りたいのであろう?」
「仰せの通りでございます」
佐為はそう答えた。
「そして私は未練がましくも何かを求めているのでございます。何者なのか明らかにしたいだけではありません」
「分かっている。そなたはその上で、夢のような邂逅を望んでいるのであろう」
そうだ、真実の親の愛というものが初めて自分に注がれるべき時が来るはずである。自分をこの世に産み落とし送り出した、慈悲深き大地が、頼れる足掛かりが、自分にもあるはずである。ずっと心のどこかで描いてきたのだ。渇仰してきたのだ。いつの日にか、必ず真実をあの方が明かしてくださるだろう。夢見たその日、自分には感動を込めて口にするであろう言葉がある。心の奥に大事に大事にしまって来たのだ。
しかし、当然訪れるであろう日がどうも来ないまま終わってしまいそうなのである。これには、肩透かしを通り越し、憤り混じりに大いなる謎を佐為は感じない訳にはいかなかった。でなければ、説明がつかないのだ!
「ではなぜ、いつもいつも、ここぞという時にあの方は人生の転機を、私にお与えになったのでしょう!?」
あの方こそが・・・、あの方こそが・・・・! 長年探り続けた自らのルーツを明かしてくれるはずである! いやそうでなければならない。
その胸の混迷を、佐為は帝にだけ語ったし、帝もその想いを静かに深く受け止めた。
後は今までの内で最も穏やかな信頼関係が佐為と帝を結びつけた。
だから、これ以上ないほど、今帝は幸福だったのだ。佐為が苦しめば苦しむ程、天子の胸の内は高揚していく。いよいよ彼を得られる! そう、真の意味で。嫌が上にも期待は高まった。
佐為と自分は今、心の奥底で繋がっている。確かにそう感じた。愛は報われたのだ。献身は報われたのだ。佐為は遂に自分に愛と信頼を寄せるに至った。表では誰にも見せないような彼のくずおれたその姿が、辛く苦しいというその言葉が、何よりもそれを語っている。佐為に愛されている! ではそれ以上の、いや何倍もの愛と献身を返してやりたい。
苦しむそなたの為なら、何を厭おう !
そして、さらにそれに見合うだけの深められた愛と感謝が己に返されるのだ! いまこそ何を惜しもうか!?
佐為の苦悶に沈む言葉の吐露が重なれば重なるほど、天子はそれを愛情の層が増していくように感じ、幸福に酔ったのだった。
それゆえ、重い体に鞭打ち、親書をしたためるなど何でもなかったのである。
帝の献身は予想通り、行洋邸を動かした。死の床にある老人が親書を読むことは出来なかったが、周りの者が成すべきことを代行した。
佐為は、ほどなく行洋の家司より、邸への招きを受けたのだった。
つづく
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