青雲五
この日桜内侍は、鶏の音にもまだ早い暗闇に目覚めた。帝の様子が気になって、安穏と寝ていることが出来ない。昨夜遅くまで帝は厨子に向かって読経していた。内侍は僅かな仮眠をとったに過ぎない。まだ暁のうちに起きた彼女が帝の様子を窺うと、果たして薄明かりに懇々と読経を続ける姿があった。内侍以外に帝が何を祈っているのか知る者は居ない。他の者は皆、信心深い帝のこと、長い時間を読経に費やしたとしても、さして不思議とも思わないのである。
内侍の心配をよそに、帝は青白い光を頬に浴び、厨子に向かいながら、その魂は宙高く飛翔していた。何故なら彼は今まで、これほどまでに我が身のことなどどうでも良いと感じられる瞬間が無かったからだ。
『ああ願わくは、彼の魂を安んじたまえ!』
心の奥底から祈りは沸き起こり、不可思議な感動が全身を包んだ。彼の為になら、この命捧げてもいい! それは我が子にさえも抱いたことの無い未知の感情のうねりだった。
この言い表しがたい感情のほとばしりを、生まれてより此の方手向けられた事の無い、彼の血を分けた息子の方はどうしていたか。今日この日、たまたま若き囲碁の師が東宮の御前に上がることになっていた。光はしかし、参内してから、東宮の体調不良を告げられ、仕方無しに御所を下がり、帰宅したのだった。
帝が寝食を忘れ、深い祈りを捧げている今日この日、佐為は蝉時雨が豪雨のごとく注ぐ中、行洋邸の門をくぐった。日差しはぎらぎらときついが、あまり湿気は無く、程よい風が邸内を通る。
高ぶる胸を抑えると、彼はいよいよ病人の寝ている場所へと案内された。その途中に明の姿があった。帝の親書の力でようやく対面が叶った佐為とは違い、明はこの家の者も同然といった風に彼を出迎えた。佐為は軽く会釈した。明も会釈を返したが、いつにも増して神妙な顔をしていた。
佐為は表情を変えずに明の前を通り過ぎた。強がりからではなく、今は明の存在は彼にとって全く意識の外だったからである。
佐為は案内されるまま、行洋の寝所へと近付き、そこに横たわっている老人の姿を見た。
ああ、確かに此処にまだおられる・・・! いかにしても逢いたかった人物の息を感じられる場所へ参じることが出来た感慨と安堵とに、彼は満たされた。
しかし、行洋の顔はひどく痩せ衰えていた。以前の威厳ある堂々とした風貌からは程遠い。前に見舞った時からは随分経つ。その時も顔色が悪く、白髪が増えたと思ったものだったが、ここまで酷くはなかった。その変わり果てた容貌に、嫌が上にも目の前の老人の死が目前に迫っていることを悟らされた。
ここまで案内してきた家司が言った。
「どうかあまり長いお時間にはなりませぬよう」
「分かりました」
佐為は答えた。しかし、傍にいる家司が自分を見つめるその視線が離れないのが気になった。彼はどうやらここに同席するつもりらしい。佐為は丁重に言った。
「申し訳ありませんが、私だけにしてはいただけますまいか」
家司は答えた。
「このような病状ゆえ、予断を許しません。どうかご容赦ください」
佐為は眉間にしわを寄せた。そして口元をきゅっと結ぶと、さらに丁重に願い出た。
「何とぞ、特別にお計らい頂きたいのです」
「しかし…」
家司が渋っていると、その背後から声がした。
「佐為殿のお見舞いは、帝のご意向があってのこととお忘れですか。帝のご名代として来られる、いわば帝のお見舞いにも等しいと、そう帝のお言葉にありました。そしてそのご名代の佐為殿には格別のご配慮を、との帝のお言葉も賜っています。そうやって、押し問答をしている間にも時は過ぎます。どうか、佐為殿のお望み通りに」
家司は明の言葉に、引かざるを得なかった。佐為は明に頭を下げた。傍に控えていた者達も皆去り、佐為は今行洋の前にただ一人となった。
再び、御帳台に目を向けた。巻き上げられた帳の向こうに、半分屍のような姿の行洋を見た。蔀戸は上げられている。庭からまるで豪雨とも聞き紛う蝉の声が響く。母屋の中は外よりは少し涼しい。夏物の二藍の直衣の袖を広げ、床に座ると、佐為は身を乗り出すようにして行洋の顔を覗き込んだ。むせ返るような香が焚かれている。それでも傍に寄ると病人が発する異臭が鼻を突いた。薄い衾を胸のところまで被った行洋は寝ているのか起きているのか分からないような表情をしている。
瞼を半分閉じ、薄目を開けたように見える行洋に、佐為は呼びかけた。それは用意していた言葉とは全く違う言葉だった。自分でも言った後に驚いた。しかし、筋道を立てた幾千の言葉は行洋を前にした彼から、綺麗に消えてなくなり、この言葉しか残らなかった。そう呼ぶより他無かったのだ。
今彼は万感の想いを込めて、こう呼んだ。
「父上・・・!」
しかし、答えは直ぐには返されなかった。
ほんの数秒の沈黙も今の佐為には永遠に思えた。だが、行洋の瞼がぐるっと動くと、老人は、声のした横の方へと、いくらか顔を向けた。そしてやっとの事といった風に掠れた声を搾り出し、こう言った。
「・・・・明・・・か?」
佐為は一瞬言葉を失った。しかし直ぐに言った。
「いいえ、佐為でございます。私の声をお忘れですか?」
「忘・・・れる? 忘れてなどいない。二人の時には『父』と・・・呼ぶように・・・明には言ってある。父と呼ぶからには明であろう」
佐為はまたも言葉を失ったが、力を込めて再び言った。
「違います、佐為でございます」
「佐・・・為・・・? あ・・・あ、佐為だ・・・と。明、もうその話は終わった・・・終わった・・・では・・・ないか」
「・・・・・・その話!?・・・・終わった?」
佐為は瞳を見開いた。すると、老人は喉を詰まらせたように、ひいひいと乾いた息をし、必死に訴えた。
「・・・苦しい、こちらへ来て手を握っては・・・くれぬか・・・」
行洋は震えが治まることのない痩せ細った腕を、苦心しながらなんとか少し上に上げようとしている。佐為は、何かに縋ろうとする痩せた手を、病人が求めるまま握るより他無かった。皮膚の表面ががさがさになり、触れただけで表皮が砕け落ちる。しかも火のように熱い。その心地よいとは言い難い肌ざわり、骨の感触。それはぬくもりが伝わる・・・などという心地の良い触れあいには程遠かった。だが、行洋は感動を込めて語った。以前の重々しい威厳をいくらか取り戻したように。
「そなたの手は不思議だ・・・そなたに触れられると苦しみが和らぐ・・・不思議な力を身につけた・・・もの・・・よ」
佐為は愕然とした。未だ、自分の存在さえ認識することが出来ない老人に、落胆せざるを得なかった。近親者の見分けも付かないと、話には聞いていた。しかし、自分だけは行洋に分かるに違いない。何処かでそのように思っていたのだ。ところが、現実は自分も例外ではなかった。
だがその時、行洋の目はにわかに大きく開いて、佐為の方をはっきりと見つめた。佐為は希望がよみがえるのを感じた。朽ちかけた木片のような行洋の手を強く握り、もう一度訴えた。
「・・・・・後生です。あなた様がご覧になっているのは私です。佐為です。どうか、私の顔を思い出してください。私は佐為でございます」
「・・・・あ・・・あ、佐・・・為・・・。ああ・・・・。そんな子も・・・居た・・・」
「やっと思い出して頂けましたか!」
「忘れるはずがあろう・・・か。これは・・・、この香りはあの人の香りだ・・・。ずっとあの、・・・哀れな子も焚いていた。同じ香の香り。母を慕って、同じ香りをつけていた。・・・・大人になってもずっと・・・ずっとだ。不憫な子だった。この香を嗅ぐ度、私は哀れでならなかった」
床下から重石を付けられたかのようだった。行洋の言葉は、佐為にそのように響いた。視界に灰色の幕が掛かり、世界は沈んでいく。
・・・・哀れ・・・不憫・・・・。自分は行洋の目にそんなにも悲哀に満ちた存在として映っていたというのだろうか? 自分を形容するのにもっと他の言葉は無いのか・・・!?
佐為は胸の焦燥を抑えられなかった。しかし、やっと会話が成立しそうな兆しがしているのである。彼は望みを繋いでなんとか問うた。
「・・・・あの子とは・・・? あの子とは誰にございます?」
「・・・佐・・・為・・・のことに決まっている・・・。可哀想な子だった」
「何故・・・何故、先ほどからそれほどに、その子を・・・佐為を、哀れと言われるのですか?」
「何故、哀れかだと・・・いかにも哀れだ、私を・・・・私を・・・父だと、思っていたからだ。まったく哀れだ、これが哀れでなくて何とする」
「・・・・・・・・・・・!?」
佐為は今度こそ言葉を失った。この暑い日だというのに、全てのものが温度を失い、凍っていくような気がした。一方行洋は、何かに憑かれたように、話し出した。
「酷いことをした・・・・酷いことを・・・・。明、もう佐為の話を私にするのはやめよ。あの子は私によって碁の道に入ったではないか。私の尽力で侍棋になったではないか。棋書の編纂までも、任されたではないか。もう許されよう・・・」
しかし、佐為は凍りついた視界に一撃を投じずには居られなかった。渾身の力を奮い起こし、彼は行洋に訊ねた。その声は震えていた。
「許される・・・何が許されるのです?」
「話したであろう・・・・あの子の人生を翻弄してしまったことを・・・」
「どう・・・翻弄したと・・・あなたは言われるのですか?」
「あの子は父親には全く似ていなかった。何一つ似たところを受け継がなかった。そう、全くだ。綺麗な赤子だった。あの人の美しい・・・美しいあの人の面影だけを受け継いだ。それほどに美しかった。美しい母親に瓜二つだった。それをいいことに、私は、あの子の父親に・・・・あの子を自分の子ではないかのように思い込ませた」
「・・・・・・・・・・・・・・思い・・・込ませた!?」
佐為は声にならない声を上げた。
「何もかも首尾よく運んだ。一番決定的だったのはあの石だ。佐為が耳に着けている・・・あれを手に入れたのは私の勝利だった。あの石を私からあの子に渡ったように、わざと見せつけた。きり札の一つだった。その石はあの人の象徴。石は私から、あの子に贈られなければならなかった。石は楊海殿に渡した。楊海殿から佐為の師に。あの男は容易に想像が付く筈だった。佐為がその石を身に付けているのを目にし、出所を問いただす。佐為は師から授かったと告げる。だが、あの男は悟る。私から渡ったものだと。そしてますます信じ込む。佐為が私の子だと。あの子は何も知らない。師からの贈り物と思い込んでいた。・・・あの男は簡単に騙された。佐為を・・・あの子を私とあの人の不義の子だと思い込んで、苦しみ抜いた」
「何の・・・・・為に・・・・?」
「何の為?・・・・何の為と? あの男をこれ以上に苦しめる方法が他にあろうか。あの男は私から、様々なものを奪った。娘をたくさん持ったのをいいことに、帝の外祖父を約束された地位も、何もかも。そしてあの人を奪った・・・・美しいあの人を。そしてあの人の子まで利用して帝の寵愛を一人己が子らのものにしようとした! あの男、あの人と、あの人の生んだ子を、愛していた。おそらくあの男が、本気で愛したのはあの人だけに違いない。苦しんだはずだ。忘れ形身が自分の子ではなく、他の男の子だと信じ込み、地獄の苦しみを味わったはずだ」
「あ・・・・・いして・・・いた・・・?」
佐為は蒼白な顔をして、呆然と呟いた。
「そうだ、愛していた。あの男、幼い我が子を愛していた。馬鹿な男だ、愛していたからこそ、裏切られたと思い込み、鬼のようにあの子に冷たくなった」
「・・・・どう・・・して・・・・・・・」
「父親を騙したのだ、むろんあの子も私を父だと思うようになった・・・。気づいていた、あの子は私を慕っていた。本当の父だと思い込んで、私を慕っていた。可哀想に・・・・懺悔の気持ちから、あの子の為に奔走した。後見役を買って出た。・・・だが、あれほどまでに主上に愛されたのは計算外だった。私の落ち度だった。読みの甘さだった。すまなかった・・・ああすまなかった、佐為」
佐為は立ち上がろうとしたが、立ち上がれなかった。しかし、機械的にもう一度試みた。今度は立ち上がれた。彼は指の先まで体温を失い、行洋の枕辺を去った。
外に出ると、明が立っていた。二人は顔を見合わせた。佐為は何も言わず去ろうとした。
「待ってください!」
「あなたと何も話すことなど・・・」
「行洋殿は・・・あの熱で・・・意識が定かでないのです」
「あなたは知らされたのですね」
「あの高熱が出た最初の晩のことです。意識のあるうちに話しておきたいと、ボクを呼びました」
「そして・・・?」
「今、あなたが聞かれたことをボクにお話になりました」
「・・・・さぞ、私を哀れに思ったことでしょう」
「いいえ!・・・佐為殿、哀れなのは行洋殿です」
「何故?」
「あなたはボクをずっと、弟だと思ってくださったのでしょう?」
「思って・・・いた。ああ、思っていました。思うのは誰にでもできること。幸せな夢から覚めないで居る方が時にはましなこともあるものです」
「待ってください、佐為殿。ボクがまだ赤子の時に、あなたはボクをあやして抱いてくださったことがあると聴きました。あなたはおそらく、ボクの兄だ・・・・ボクは行洋殿の話を聴いて、そう確信しました」
「何故? その思い出話は本当にあったこと。あなたには偽りの無い事実を語り、一方で私には真実をねじ曲げた妄想を語られたとでも? あなたは私への同情から、私を兄だと信じたいのでしょう」
「佐為殿! ボクは陰陽師です。感傷に流されてものを言うのは、はばかります! 行洋殿は・・・もうまともではないのです。同じことを何度もお話になるし、時には気が狂ったように叫ばれたり・・・もう・・・普通では・・・今、あなたにされた話も・・・ボクは信じられない。あなたが信じてきたものがおそらく真実なのだろうとボクは思います。行洋殿はもう時間の問題です。もう長くは・・・。死の床にある人を何人か見てきました。どんなに立派な方であっても、死の直前は赤子のように、または気狂いの人のように、まともではなくなることが珍しくない・・・。いえ、あなたは行洋殿を聖人君子と思ってこられたでしょう。でも、ボクは行洋殿のそうではない面も間近に見て知っているのです。あなたほど、今の行洋殿の姿に、驚愕していないのです。だけど何故、あんな風にあなたのことを言われるのか、ボクには分かりません。当の本人がああでは・・・もう憶測するより他にありません。多いとは言えない判断材料からボクは考えます。あなたは行洋殿の子だと。そうであるからこそ、病と老衰の混迷の中にも深い悔恨の情が相まって、あのように言われるのではないでしょうか」
「もう・・・どちらでもいい・・・。どちらでも・・・。分かりました。分かったのは私は誰の子でも無いということです。母が居るだけで・・・私には初めから父など何処にも居なかった。そのことが今、やっと分かりました。なんという愚かさだ・・・!」
「佐為殿!」
明は叫んだが、佐為は振り向かずに去って行った。
そしてその日の夕方、行洋は息を引き取った。佐為の許にも知らせが来た。
しかし、内裏で食事もほとんど取らずに一日中読経していた帝の許にその知らせはまだ届いてはいなかった。 内裏だけではなく、行洋の死は他家へもまだ知らされていない。
嫡子権大納言と、家司による判断だった。今後の諸事について決定するまでは当主の死を伏せたのである。佐為へ知らせが行ったのは明の配慮によるものだった。明は権大納言にも家司にも秘密で、これを実行した。
そして、死の不浄を被った明は、しばらく参内することが出来なくなった。しかし、彼は弔いの準備の多忙の中、この夜僅かに空いた時間を見つけ、ある場所へと急ぎ向かった。
一方、帝はこの日の夕刻、手にしていた数珠の糸が切れた。数珠が切れたと同時に、彼は上体の均衡を崩し、床の上に倒れた。遂に疲労が、強い想いに勝った。帝はそれでも、夜御座に臥しながら、まだ佐為の為に心の中で祈り続けていた。
そして、きっと来るであろう佐為からの言葉を待ちわびた。薬を持ってきた内侍に彼は掠れた声で言った。
「文は来ぬか?」
「いいえ、未だでございます」
「どうしたことであろう」
「・・・・、今はどうかお休みくださいませ。御身のこともどうかお考えください」
帝は昨夜から寝ずにまる一昼夜を、ただひたすら、佐為を想って祈ったのだ。
ああ願わくは、彼の魂の問いに答えを・・・!彼の望みを、願いを叶えたまえ、彼の心の内なる孤独な旅路に馥郁たる故郷を与えたまえ・・・!
そう繰り返し、念じ続けた。念じ続けるうちに、我が身の痛みなど感じなくなった。帝の瞳から涙が伝った。内侍の言葉など聞いてはいないかのように、そしてまたこう言った。
「のう・・・どうしたことであろう」
内侍は何も言えなくなった。酷く胸が苦しくなった。次には彼女も泣いていた。そして、己が心中にもまた、我が身の痛みに替えても持てる力を尽くしたい存在が居ることに気付いた。内侍は震える声で言った。
「では・・・遣いを・・・」
その声を聞くと、天子は今度ばかりは深い疲労に飲み込まれ、意識を失ったのだった。
つづく
back next
|