青雲六 

 

 その日、光は帰宅すると、いつものように漢籍を紐解いていた。時折風が通るといっても、やはり暑い。書籍を置くと、狩衣を脱いで単衣(ひとえ)指貫(さしぬき)だけになった。
 庭先から蝉の声に混じって、きゃっきゃっという子どもの声がする。よちよち歩きをするようになった、あかりと亡き常陸守の子が庭先で水遊びをしているらしい。
 室内で本を読んでいた光のこめかみに汗が流れた。集中するには少々気温が高すぎる。光は汗を拭うと、子どもの声に誘われるように簀子へと出て行った。
 たらいに水を張り、竹で作った水鉄砲を、小さな子がいじったり、たらいの水を柄杓ですくって、乳母の三由に掛けたりしながら、大騒ぎしている。ケタケタという笑い声、三由の甲高い悲鳴。母親のあかりの笑顔。つわりも無く、先月まで平気で宮仕えをしていたあかりも、身篭って五ヵ月を既に過ぎたので、戌帯を巻いている。その上に単衣と紅い袴だけを緩く着ていた。もうさすがに庭には降りず、簀子に座って、我が子の遊ぶ様子を見守っているだけだ。
 光はその庭先の光景に思わず目を輝かせた。庭に降りていき、おもむろに水鉄砲を取る。すると、幼い子に向かって悪戯っぽい顔で笑いかけ、ぴしゃっと水を浴びせた。ところが、何時に無い光の奇襲に、あかりの子は驚き、大声で泣き出してしまった。三由が慌てて、叫ぶ。
「常君、常君!」
 あかりと亡き常陸守の子は常陸国で生まれたのを取って、常丸(つねまる)という。
 三由が駆けつけるより早く、光がずぶ濡れの常丸を抱き上げた。
「ごめん、ごめん、オレも水遊びに入れて貰おうと思ったんだ。ほら高い高いだ、泣くなよ、なぁ!」
 大泣きの常丸はしかし、慣れない光の腕の中でもがき、三由に助けを求めた。三由が抱き取ろうとしたが、光は放さなかった。今度は大泣きの常丸を肩車し、庭の木の方へと歩いていってしまった。
「光、濡れるわよ」
 あかりが簀子から言った。
「いいよ、暑かったから、丁度いい。常丸を抱っこすると濡れて涼しいさ」
 笑ってそう言った。
 そうしてしばらくすると、光と常丸が簀子の方へ戻ってきた。常丸は先ほどとは打って変わってケタケタと笑い、庭に咲いていた黄色い女郎花を手にしている。それを大喜びであかりへ差し出した。
「まぁ、摘んできたの?」
 光は常丸を降ろすと、今度は指貫まで脱いで下袴になった。下着だけになった光は再び常丸を抱き上げて、庭へ降りていき、水を掛け合って遊んでいる。二人共頭からずぶ濡れになった。
 三由が言った。
「驚きました。もう懐いてしまって・・・。今は誰にでも人見知りするのに。光様はいつも忙しくしていて、こんな風に常君と遊ぶこともなかったし、やっぱりあかり様が家にいらっしゃると違うのかしら」
 あかりはこともなげに答えた。
「あら、光が私に気を遣うなんてことはないわ」
「でもこんなこと無かったのに」
「そうね、常丸が歩けるようになったからかもしれないわ。光、あの子が赤子のうちは怖くて抱けないって言ってたもの。それに今日はとても暑い日だし・・・」
 そう言いながら、あかりは今日が暑い日でよかったと思った。子どもの声がしても、こんな風に暑くなければ、勉強中の光が果たして庭に降りてきただろうか、彼女はそう思った。そして、この暑い日に、ちょうど歩けるようになった常丸。東宮御所への参内の予定がふいに中止になって早くに帰宅した光。今日この日の嬉しい偶然に感謝せずにいられなかった。くったくなく常丸に笑い掛ける光の笑顔がどうにも心地よい。
 ああ、やはり・・・光はこういう人間なのだ。
 あかりは胸がきゅうっと締め付けられた。この光の笑顔をこのまま、放したくない。この心地よい庭先に留めておきたい、そう強く思った。
 三由が微笑みながら言った。
「光様の子が生まれても、これだったらとてもよいご家族になれそうですね」
 あかりはしばらく間を置いて答えた。
「そうね、そうだといいわね」

 この日は、その後も常丸を中心に若い夫婦と乳母の四人は仲睦まじく、和やかに過ごした。光も自分に慣れた常丸を可愛く感じるようになった。だが、光に父親然とした態度は微塵もない。ごく自然に幼い子と接している、といった雰囲気だった。もっとも、光に父親の威厳を求めるのは無理な話だったが。そして、あかりもこの義理の親子・・・というより随分と歳の離れた兄弟のような二人の光景を厭きることなく、見つめていた。
 そうしているうちに笑いの絶えることのない明るい庭にも、いつしか夕闇が迫った。
 疲れてお腹が空いたこともあり、常丸はぐずり出した。さすがにぐずった幼い子は光の手には負えない。光は再び簀子に戻り、常丸の世話を三由と交代した。
 あかりの両親も交え、若い夫婦と常丸は揃って夕食を取った。
 あかりの母親が言った。
「今日は珍しく、光殿はずっと外に出ていたようですね。いつもは碁のお勉強か、本の虫ですのに」
「東宮様への囲碁指南が中止になってしまったんです。それに今日は昼間は暑くて、とてもじっと家の中に居れませんでした。お蔭で常丸と仲良くなれたし、水浴びできて楽しかった」
 光は屈託無く笑った。
 皆も笑った。まるであかりが里に下がったのを機に、何処か孤立していた光がこの家に融和したようだった。食事が終わると、いつものように光はあかりの父親と碁を打った。あかりの家では一番上手だった。それでも光にとっては話にならない程、手ぬるい碁だった。しかし、あかりの父はとても嬉しそうにこう言った。
「光殿に指南を受けるようになってから、同役と打つと勝つようになったのだよ。何せ我が家の婿殿は東宮様の指南役。鼻が高いというものだ」
 実際、最初にこの家に迎えられた時点では、ただ侍棋の佐為から頼まれたということ以外に、光を歓迎する理由はほとんど見当たらなかった。それが今では、格段の出世を果たしたのだ。婿のくらしの世話は娘の親の役目だが、すっかり世話のし甲斐がある婿へと変わっていたと言って良い。
 碁を打ち終えると、光は自分の部屋の簀子に出た。あかりが居た。遠くで常丸と三由がきゃっきゃっと騒ぐ声がする。あかりは自嘲気味に話し掛けた。
「私にはダメだわ。ずっと離れていたから。あの子、三由にばかり行ってしまうんだもの」
「まぁ、仕方ないだろうな。でもおまえも今は毎日家に居るし、そのうち慣れるさ」
「光、子どもをあやすのが上手いわね」
「オレが? そんな事は無いよ」
「たった一日で私より懐いてしまったじゃない」
「いや、子どもをあやすなら、オレよりあいつの方がもっとずっと上手い」
 こう言った光の声にはそれまでより張りがあった。直感とでもいったものだろうか。あかりは、にわかに会話を続けたくない気がした。それで返事をするのに間が空いた。でも何も言わないのも気詰まりだった。
「・・・・あいつ?」
 あかりは訊ねた。
「佐為だよ。佐為は本当に子ども好きなんだ」
 ああ、やはり・・・。あかりは視線を庭先に落とした。しかし、気にせず光は続けた。
「ほら、三由と常丸が方違えで佐為のところに泊まったことがあったろう。あの時、あいつ、全然あの子の傍を離れないでさ。ずっと抱っこしてるんだ。『可愛い、可愛い』って。可笑しいだろう。好きこそものの上手なれって、あいつにあるみたいな言葉だ。そうしたら、本当によく佐為に懐いちゃって、三由よりも佐為のところへ行きたがるんだ。あんなに大きくなって、元気になった常丸を見せてやりたいな。あの時、あいつ常丸のこと凄く心配してたんだ。病が治って、次は三歳の祝いを元気に迎えられるといいって、しみじみ言ってた。また一緒になって遊ぶんだろうな。いや、あいつのことだから、常丸くらい大きくなれば碁を教えるって言い出すかもしれない、はは」
 光は弾けるような笑顔で、心底愉快そうに笑った。
 あかりはその横顔を呆然と見詰めていた。光の笑顔が眩しければ眩しい程、心が萎えていくのを感じる。
「そんなに子どもがお好きなら、ご自分のお子様を儲ければよろしいのに」
 あかりは気が付くとそう言っていた。 しかし、光はこれには答えなかった。あかりは黙ってしまった光に、胸が熱くなっていくのを感じた。
「佐為様のお子様を儲けたがる方はそれはたくさんいらっしゃるでしょうから」
 こう付け加えた。横を向くと、光から今までの屈託無い笑顔は消えてなくなっていた。勉強している時や打ち碁を並べて居る時の顔にすっかり戻っている。あかりはそんな光の表情の変化を追っている自分が苦しかった。そして今日一日を満たしていた、あの幸福な気分はすっかり何処かへと去っていた。
 ああ、何故今まで気付かなかったのだろう。光が目を輝かす時、光が何かを生き生きと語る時、それはいつも彼のことではなかったか。あかりは胎動を感じるお腹をさすりながら、再び視線を庭に落としたのだった。
 
 しばらくして、突然侍女がやって来た。光を訪ねてきた者があるという。
「誰? ここへ通せばいいのに」
 光は言った。しかし、侍女は口篭もった。
「それが門の中にはお入りになれないからと・・・」
 光はあかりを残して、出て行った。
 門の外を見渡してみる。暗闇の中に、星明りを浴びて、そのシルエットだけが浮かび上がった。後姿で充分に分かる。それはよく知る人物だった。彼はいつもこんな風に現れるのだ。
 一体、今度は何を告げに来たのだろう? 光は声を掛ける前に思わず身構えた。一つ呼吸を置いてから、その直立する後姿に呼びかけた。
「賀茂、どうしたんだよ。こんなに暗くなってから?」
 しかし、後姿は振り返らなかった。
 何を勿体ぶっているのだろう、光はそう思った。
「おい、賀茂!」
 もう一度呼びかけた。しかし、まだ振り向かない。 
 これはまたいつもの明の術だろうか? 今度は光はそう思った。本物の明は違うところに居るのだ。光はきょろきょろと辺りを見回した。しかし、何処にもそれらしき人影は無い。
 業を煮やして、光は後姿に叫んだ。三歩という距離である。
「おい、いい加減にしろよ! 何だよ、賀茂!」
 そう言いながら、光はその肩をむんずと掴んだ。するとその瞬間、何かがおかしいと感じた。掴んだ肩が少し震えているのだ。
「・・・賀茂・・・?」
 ゆっくりと彼は振り返った。光は驚きに目を見張った。彼は泣いていたのだ。星明かりに、青白い頬を伝う明の涙が光った。
「どう・・・・したんだよ、おまえ・・・?」
 光は狼狽した。こんなパターンは初めてだ。明の涙など初めて見る。そもそも明が泣くことなどあるのか。光はどうしていいか分からなくなってしまった。どう言葉を続けていいかも思い浮かばない。明の前に手持ち無沙汰で立っているより他無かった。
 明は止め処なく流れ落ちる涙を拭おうともせずに、やっと口を開いた。
「ボクは・・・どうして、此処へ来てしまったんだろう」
「・・・は? 何・・・言ってるんだ、おまえ」
「おかしなことをしてしまった、ボクのしてることは矛盾している」
「・・・何が矛盾してるんだよ!? わかんないよ、いつもみたいに、おまえ、畳み掛けるように理屈をまくし立ててみろよ!」
「理屈・・・? これは理屈なんかじゃ解けないパズルだよ。入り込んだら出られない迷宮だ」
「賀茂・・・?」
 光はしばらくすると気付いた。明は濃い鈍色の衣を着ているということに。だから、門の中に入ってこなかったのだ! そして、この何時にない明の断片的で途切れ途切れの不可解な言葉。いつも冷静な彼にも、常軌を逸する時があるのか? 誰か近親者の死であったなら・・・? 両親を亡くした近い記憶が呼び覚まされた。
「・・・行洋殿が・・・亡くなられたのか?」
 光は訊ねた。明は語り出した。
「近衛・・・。ここまでは何とも無かったんだ。随分前から覚悟していたし、却って、ああやっとこの時が訪れた、やっと終わった、そのようにさえ思った。ボクは今までと変わりなく、いろいろとこなした。やることがこれから一杯だからね。死者の送葬なら、ボクの仕事だ。だけど、雑多な用事から離れて、ここにやって来た。そして、キミを待っている間、星を見上げていたんだ。そしたら、いろんなことが急に思い出されて・・・。寡黙だったけれど、いつも静かに優しい・・・深い眼差しでボクを見つめてくれていた・・・あの眼差しがもう二度と再びボクに向けられることが無いんだと、そう思った。そうしたら、どうしようもなくなって・・・・。ボクは何をしにここへ来たのかも、よく分からなくなってしまった」
「何しに来たか分からない? ああ、でも分かるよ。オレも去年両親を亡くしたから。それ程、おまえにとって大きな存在だったんだな。おまえにはあの時、どれだけ世話になったか・・・。オレに何かできることがあるだろうか」
 そう言いながら、明の混迷を前に、光はどうしようもなく、胸に湧き上がる問いがあった。本当はまず何よりも先にこれを問いたい。光はそう思ってしまう自分を明に悪いと思った。思ったが、やはり問わずには居られなかった。
「・・・佐為は・・・佐為は、このことを知っているのか?」
「佐為殿・・・ああ、そうだった。ボクが何故ここに来たのか、思い出した。でもボクは間違っているのかもしれない」
「間違ってる? 何が。 どうしたんだ、おまえらしくない。佐為がどうかしたのか? なぁ、賀茂。教えてくれ!?」
「ああ、そうだ、キミはいつもそうだった。誰よりもまず彼のことが気がかりなんだ。だから、ボクが何か言えば、キミは・・・じっとしていられるだろうか!? でもボクは半分そうして欲しいと思いながら、ここに来たんだ。ボクでは彼に何もできないからね」
「どういう・・・ことだ!? 賀茂! 意味が分からない!」
 光は蒼白になりながら明に詰め寄った。
「・・・ボクは、感傷でものなど言わない、彼にそう言った。だけど、本当は・・・半分は、いやもしかしたら半分以上感傷なんだ。言ったことを否定する気は無い。あくまでボクの推測が合っていると思っている。だけど・・・くやしいけど、彼の言うことも半分は当たっている。半分は冷静な推測から、そして半分は高ぶる感情からものを言った、今日彼に。彼は今、どんな気持ちで居るだろう?」
「一体・・・・何を言った、賀茂!?」
 光の声は震えていた。
「違う・・・、彼を打ちのめしたのはボクじゃない・・・行洋殿だ」
「・・・・なんだって!」
「彼はとても強い人だから、今日のこのことで、おかしくなってしまう・・・とか、そんな見当違いな・・・彼を見くびったようなことを、考えている訳じゃない。だけど、もし彼が今、とても・・・・とても打ちのめされていて、辛いなら、それなら・・・ほんの少しでも何かできはしないだろうか・・・そう思っただけなんだ。だけど、これはボクのエゴだと気付いた。もし、キミが彼に逢ったりしたら、こんな私的なことで彼に逢ったりしたら・・・、ああ。キミは東宮坊に抜擢され、東宮様に仕える身になった。大事なものと引き換えに、せっかくキミが選んだ確固とした道なのに、それを妨げてしまうかもしれない・・・。キミは今度こそどうなるか分からない。それも困るんだ!」
「困る・・・? どうして!!」
「・・・・わからないのか!?」
「わからないよ!」
「そうだ、キミはいつもそうだ! だって、ボクはキミが好きなんだ!! キミには佐為殿に逢って欲しくないし、キミを失いたくもない。これもボクのエゴだ!」
「・・・・・・・・・え!?」
「だけど・・・・だけど! 佐為殿が今一人で居るのも嫌なんだ! 彼が一人で居ると思うと、あの行き場の無い失望と、どうやって向き合っているんだろうかと思うと、胸が張り裂けそうなんだよ! どうしたらいい、近衛!? ボクは今二つに引き裂かれてる!!」
「おまえ・・・・・何・・・言ってるんだ?」
「何・・・? 何って・・・・ああボクは何を言ってるんだろう。多分、少しおかしいんだ。後で酷く後悔しそうな気がする。だけど・・・・何もしなかったら、あの人の為に何もしなかったら、もっと後悔するかもしれない」
 光は混乱する明を前に、自分も混乱し動揺するばかりだと気付いた。どうしたらいい、どうしたら。全く考えがまとまらない。しかし、ひとまず自分の動揺を静めるように、ゆっくりと明に言った。
「賀茂・・・・ごめん、よく話が分からないけど、おまえが今とても辛い思いをしていることは分かる。おまえがこれまでオレに友情を捧げてくれたように、オレもおまえの為に何かできることがあったらしたい。だから、頼む、落ち着いて話してくれないか」
 光は務めて穏やかに言った。だが、胸のうちはまったく穏やかではなかった。
 一体何が? 何があったのか。この賀茂がこんなにも動揺する程の何かが、佐為と関わる何かがあったのだ。光は、今全神経が目となり、耳となり、あらゆる感覚がただ一事に向かうのを感じていた。
 それから明は、観念したというように、やっと順を追って話し出した。話し始めると、彼は不思議といつもの冷静さを取り戻した。半刻ほどは経ったろうか、明は今日あったことを話し終えた。そして人気の無い星明かりの下に行洋邸へと帰って行った。別れ際にも明は呆然としていた。最後まで「これは間違っているかもしれない」そう言いつづけた。だが此処へ、つまり光の許へ、来てしまった以上、既に来た瞬間から、それが間違いであるなら、間違いなのである。取ってしまった行動を修正することは出来ない。
 光はようやく家の自室に戻った。どうやって戻ったのかもよく分からない。目は見えているようで何も見えてはいなかった。だが、あかりが居た。彼女はひどく沈んだ声で訊ねた。
「何処かへ行くの?」
 光はその声の暗さにも気付かず、そしてあかりの沈んだ顔も目に入らなかった。ただ空中の一点を見据えたまま、深い深い迷いを抱えた声で答えた。
「まだ・・・・・・・分からない」


つづく

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