青雲七
屋敷は静まりかえっていた。釣り燈篭に灯りも無い。光は暗い渡殿を歩いていった。昼の暑さとは対照的に、肌寒いくらいに涼しい。足の裏に冷やりとした古い木の感触が伝わる。懐かしい感触だ。この床を何度踏み鳴らして歩いたことだろう。だが慣れ親しんだ場所にも拘わらず、寝殿に近づくにつれ、心の臓は己が意志とは離れ、勝手に大きな音を立てて光を圧倒する。光は身を強張らせていた。臓腑の中のものが喉へと上がってきそうだった。光がここに自ら足を踏み入れるのは実に九か月ぶりのことであろうか。佐為の住む屋敷は、不気味な静寂を持って今、かつての住人だった光を出迎えていた。
ところで光は門から入ったのではない。築地の少し崩れたところから塀を乗り越えたのだ。中に入りさえすれば、勝手知ったる屋敷である。
家人の目をすり抜け、寝殿に近づくなど造作無い。
時は、夜半を回っていた。とうに子の刻を過ぎている。明が光を訪ねて来て衝撃の事実を語ったかと思うと、お互いに呆然としながら別れてから、
子の刻を過ぎるまで、光はずっと考えていた。一人碁盤の前に端座して、考え続けた。あかりが不安げに話し掛けても、心ここに在らずといった風にうつろな返事しか返さない。
それが延々二刻半ほども続いた。他の者はとっくに眠りに就いていたが、あかりだけは寝付けなかった。誰が光の許に訪ねて来たかは侍女から聞いて分かっていた。
彼女が密かに光の後を窺い、話の内容こそ聞き取ることは出来ないにしても、かの侍棋の君が彼らの話の中心にあることだけは確かだと知るに至ったことを、
光は全く気付いていなかった。こうした状況にある女の勘は、さらに悪い方向へと繋がりそうな事柄に関して、ますます鋭くなるものである。館に戻ってきた時の光の様子を見れば、これから何が起きるのか大体察しがついた。結局その通りになったとあかりは思った。あかりの予想通り、遂に光は碁盤の前から立ち上がったのである。彼はむろん、寝る為に臥所へ向かったのではなく、家を出て行ったのだった。出で行く時に、あかりはそれでも何か言わずにはいられなかった。
しかし、光はまったくその言葉が耳に入らなかった。この家で夜更けに光がお勤め以外のことで外出するなど、宮中のあかりの局に行く以外には、今まで無かったことである。
間の悪いことに、この様子に気付いた侍女があかりの母親にこっそりと告げ口した。あかりの母親は、寝耳に水のこの光の行動について、あからさまに憤慨し、
不満を漏らした。
「どういうことでしょう。昼間はあんなに睦まじく過ごしていたのに。あかりが里さがりしてきて間もないというのに。
いくら身重だからといって、今はまだまだ心細いあの子を置いて、何も今夜他所へ行かなくてもいいではありませんか。
いえ、もしかしたら、昼のあの常丸への優しい態度は、今夜のことがあるからだったのかもしれないわ。誰のお蔭で出世が叶ったと思っているのかしら!」
しかし、あかりの父親はこうなだめすかした。
「まぁまぁ、そういちいち目くじらを立てるものではない。光殿は若いのだから、むしろ今までの一途さが不憫なくらいだ。
あの実直さではあかりをないがしろにすることはあるまい」
そんなやり取りが為されているとは露知らず、光はたった一人、この屋敷へと徒歩でやってきた。寝殿の妻戸は開いていた。蔀戸も上げられたままだ。光は蔀戸の下から差し込む月明かりだけを頼りに、奥へと入っていった。
かつて自分と彼の暮らしがあった場所が光の目の前に広がった。東の対に自分が居ない今、彼はここ寝殿に居るはずである。
二人はここで碁を打ち、ここで食事をし、ここでたわいも無い会話を交わしていたのだ。
母屋と廂の間には御簾がある。御簾越しに見る母屋の奥はやはり真っ暗だった。しかし、几帳の影に確かに人の気配を感じ、
光は立ち止まった。立ち止まると同時に、胸は破れんばかりに一層大きな音を立て始めた。だが、それ以上に強い意志が彼を動かした。光は臆する心を振り切って御簾を潜った。
「誰です!」
佐為の声だった。彼は直ぐさま侵入者に気付いたらしい。御簾を上げて入ってきた者の方へ向き直り、暗闇の中にすっくと立ち上がった。そして傍にあった杯を取ったかと思うと、侵入者に向かって、思い切り投げつけた。
「何をしている!! 誰も来ないようにと言ったはずです!!」
掠れた怒声が暗闇を貫いた。まるで矢を射るかのように攻撃的でいて、かつ狂乱ぎみな声だった。佐為が投げた杯は侵入者の斜め後方の柱に当って落ち、床に一、二回跳ね、その後はカラカラという音を立てて転がっていった。光は彼が杯を投げた瞬間、反射的に身構えた。が、その外れ方から、元々的は柱だったのだろうかとも、いや彼の事である、やはり単に自分を外れただけなのだろうかとも、うっすら頭をよぎった。しかしそれよりも、床に転がった杯と、狂ったようなその声に、彼の尋常ならざる心中を垣間見る想いの方がはるかに強かった。今悩乱を露わにするほどの憤懣を彼は抱えているのだ。かつて彼がこんな風に高圧的かつ暴力的に、人に向かって何かを投げつけたことがあっただろうか。これほどに耳に煩い声を出したことがあっただろうか。既にこれだけでも、驚きに値した。が、光はさらに驚かねばならなかった。転がる杯の向こう、広がる床一面に、何かが散乱している。程なく、それが碁石であることを知った。信じられないものを見る気がした。あれほど碁を愛する彼が、大事な碁石をかくも無惨に扱ったというのだろうか? このように投げ散らしたというのだろうか。あれほど愛してきたものに憎しみをぶつけたとでもいうのだろうか。では、今まで愛してきたものに初めて憎しみを覚える瞬間とはどのようなものであろうか。いわんや・・・今まで信じ、いや崇拝してきた者に、裏切られる想いとはいかなるものであろうか。碁石は・・・・・おそらく、今彼にとって、長年に渡る敬愛に対しては失望を、信頼に対しては裏切りを返し、もはや問い糾すことの叶わぬ黄泉路へと一人旅立ってしまった、かの人の象徴に違いない・・・そう思われた。たった一瞬のうちに、光の脳裏には次から次へと様々な想いが去来した。たまらなく胸が苦しくなった。目の奥が火のように熱くなっていき、視界が霞んでいく。光は涙を堪える為に唇を切れんばかりに強く噛み締めた。
この時、夜空にある十三夜ほどの月に掛かっていた雲が晴れた。その為か、差し込む月明かりが強くなり、陶器のように白く整った佐為の顔を照らし出す。その頬には掻き乱されたままの幾筋もの髪が掛かっている。青白い額に垂れた髪の間から、長い睫が覗いた。その直ぐ上にある形の良い眉は歪み、眉間には皺が寄っている。そしていつも涼しげなはずの目元は見たこともないような憤怒の色に縁取られ、口角のきゅっと上がった唇はがたがたと震えていた。
彼は光から十歩ほどはあろうかという場所に仁王立ちしている。そして月明かりの逆光で顔の見えない侵入者を睨みつけていた。何故なら、彼は仕える者全てにここに近寄ることを固く禁じていたからである。
一方、光はそこに立ちすくんでいた。来るなり屋敷の主の勘気に触れたからではない。自分の目の前に姿を露わにした彼自身と、そして彼の取った振る舞いとが、予想を越えていたからである。幾度も彼の憤った顔、悲しみに震える顔、困惑する顔を見てきた。見る度に、彼の心の中の新しい領域を知ったように感じてきた。しかし、今日のこの彼の顔に、姿に、声に、自分は一体彼の何を知っていたのだろうかと、思わざるを得なくなった。
彼はもともと孤独だったはずである。血縁の中で宙に浮いたような居場所の無さを嫌というほど味わってきたことは知っていた。だが明の話から想像するに、そこには一縷の足掛かりがあったのだと、光は思った。泥沼の中に一輪だけ咲く蓮の花に乗るかのような足掛かりだったに違いない。今、それをも彼は失ったのである。そう考えると、光はどうしようもなく胸が痛んだ。明が強くこだわっていた「真実」については、もう問題ではない気がしていた。真実がどうあれ、死の間際、その足掛かりとも蓮の花とも思ってきた行洋その人自身に、拒絶され、否定されたことこそが、何より佐為に想像を絶する痛手を与えたに違いない。生き地獄というのは、これをこそ呼ぶに相応しいのではないだろうか、今までのことなど未だこの域には達していないではないか。光は、計り知れない彼の心中の一端を見た気がして、恐れおののいたのである。
光は胸を必死に抑えた。すくみ上がっている場合ではない。まず一言。ここへ来たからには、先ず一言何か言わねば、と思う。光は声を絞り出した。今こそ、彼に対し抱く尽きせぬ想いのたけを込めて呼び掛ける時ではないのか。
「佐為、オレでもか・・・? オレでも、ここへ来てはいけないか?」
その声を聞いた佐為は驚きに瞳を見開いた。今度は彼が立ちすくむ番だった。
信じられないものを見るような目で、彼は光を見た。最初は逆光によく姿が見えなかったのだが、しかしその顔も徐々にはっきりしてくる。大きな瞳、痩せて小柄な体。しかし凛とした姿勢。真っ直ぐな眼差し。奉公人の誰かではなかった。其処に居るのは信じ難いことに光だったのだ。
佐為は、やっとのことで驚愕と困惑に満ちた声を絞り出した。
「・・・・・・何故だ・・・? どう・・・・・して・・・どうして、ここへ来ました・・・・光・・・?、一体何故・・・!?」
先程杯を投げつけた時の怒りの形相は波が引くように彼から消えていった。しかし同時に、今度は堪らぬ困惑と苦悶の入り混じったような複雑な表情が彼の顔に広がった。
光は母屋の入り口に直立したまま答えた。
「どうして・・・、どうしてここに来たかだって?」
ここで息を飲んだ。そして真っ直ぐに彼を見つめ直した。困惑に変わった彼の顔にはそれでも先程と同じように、掻き乱された黒髪が幾筋にも掛かっている。乱れた髪と長い睫の作る陰影が、白い顔を余計に白く見せる。光は続けた。
「どうしてオレがここへ来たかだって・・・・・佐為、それはな・・・・」
光はもう一度、息を飲んだ。そして言った。
「・・・いや、それを答える前に、オレは・・・ここへ来て良かった、まずそう言おう」
「・・・・・・・・良か・・・った・・・?」
「オレは、ここへ来るのを迷った。散々迷った。迷って迷って迷ったあげくにやって来た。だが、やはり来て良かった・・・オレは間違っていなかった」
「・・・どういう・・・ことです?」
「そうだな、どう言ったらいい・・・?」
光は途方に暮れた。明の話を聴いてから、この数刻の間に自分を廻った葛藤を説明するのは難しかった。しかし、光が思案していると、佐為は酷く表情を落としていった。ここへ来た最初が怒り、そして次が困惑。今は暗さだった。輝くように美しいはずの彼を、光は今初めて、美しいとは感じられないことに衝撃を受けた。すると、言葉が一人でに出てきた。
「佐為・・・・、上手く行かないことを、なんとか上手く行かせようとして、オレ達が採ったのは何だった? 何かを犠牲にして、また何かを利用して、その替わりに何かを得ようとした。確かにそれも一つの選択だったんだろうなぁ・・・。オレはおまえという師だけは失いたくなかった。いや、そう思ったのは、おまえが何を犠牲にしてもオレという弟子だけは失いたくないと思っていることを悟ったからだ・・・。だから、オレもそのおまえの望みに精一杯応えようと思った。おまえという師に恥じない器になりたいと、必死に学んだ。必死に感情を殺した。だけど、偽りと策略では何かが欠けてしまうんだ。いや、初めから分かっていたことか。そうだな。でも、本当にそれでよかったんだろうか? なぁ、佐為。おまえとオレは、師弟の絆だけを残して、いや、それだけは護ろうとして、その替わりにそれ以外は全てを放棄した、そうだろう? だけど、それが本当に正しかったんだろうか? 究極の選択というやつだったな。オレは生きるか、死ぬか。それはすなわち、おまえがオレを失うか否かだ。だが、もしオレがこうして、おまえに逢いに来たことによって死ぬというのなら、佐為。やっぱりオレは死んでもいい。死など恐れない。今確かにそう思ったからここに来たんだよ、おまえの許に」
「光・・・何を・・・言っている・・・!?」
死んだように押し黙っていた佐為が震える声で言った。
「分かっている! だが、おまえはそれでは困るのだろう。オレだって、今までの努力が無意味だとは思っていない。この半年の間、オレにとって、おまえと逢う時間は至福の時間だった。私的な感情は、湧き上がっても湧き上がっても、ひたすら押し殺した。そしておまえの弟子としておまえの導く通りに自分を練磨することだけに心を砕き、努力し、精進してきた。この半年は、何にも替え難い宝だ。これは、あの瞬間を・・・黄金色に輝くあの瞬間を共有していたおまえなら、同じ気持ちになっていたと、オレは信じている。
だから、オレがここへ来たりしたら、おまえに逢いに来たりしたら、この半年の努力を壊すかもしれない、おまえを失望させるかもしれない、そうも思った。だって、おまえはやはり凄い。おまえはオレの誇りだ。おまえに指南を受けたあの貴重な瞬間瞬間が、それほど素晴らしかったということだ。辛い苦しい代償を払っても尚得たい至宝だったからだ。だから、ここへ来るのをとてつもなく迷った。だからこれはオレのエゴだ。賀茂の言う通りだ、理屈なんかじゃ解けない。正答なんてありはしないのじゃなか、佐為?」
「光は・・・何が言いたい? 分かりま・・・せん」
佐為は僅かに首を横に振った。
「何が言いたいかだって? 前置きが長かったけど、極簡単なことさ。・・・離れていて、顔の見えないところに居て、この都に居るというのに、あの遠く離れた太宰府に居る訳ではないのに、オレはおまえから離れていた。至福の半年でありながら、この半年はまたオレにとって地獄の半年でもあったんだ」
「・・・分かって・・・います・・・」
「だから、心は・・・、だからオレの心だけは、少しも変わらない、おまえに捧げたいつかの言葉の通りだ。いつもおまえの許にある。これまでも、今も、そしてこれからもだ。未来永劫オレはそのつもりだ。決してこれは変わらない、何があっても」
「それも・・・知っています・・・いや・・・信じている・・・」
「だけどな、佐為。時には直ぐに駆けつけて、顔を見て、言葉を交わさなければ、出来ないことも確かにある。傍に居なければ・・・・顔を見なければ・・・、伝わらないこともある。そうではないのか・・・佐為? オレはここへ来なければ、おまえの今夜の苦しみがどれだけのものか全く分からなかった。いや、ここへ来たからといって全て分かったなどと、奢った気でいる訳ではない。だけど、来ないでいるよりは、いくらかでも確かに分かったはずだ。ここに来なければ、おまえの苦しみをオレの苦しみにすることなど、到底出来ない。今それを確信した。ここへ来るまで、迷いは続いていた。闇の中を歩きながらも俺は迷い続けていた。だが、おまえの顔を見て、迷いは綺麗に消えたよ。分からないだらけのこの混沌とした中に、一つだけ選ぶなら、オレはこれを選ぶということだ。オレはおまえと苦しみを同じくしたい。おまえが一年前にオレに言った言葉だ。忘れてはいまい?」
「・・・・忘れてなど・・・いない・・・・光」
「すまない、オレの選択がおまえにとってそのまま良いことなのか分からない。でもオレはこうすることを選んだ。こうせずにはいられなかった。オレを愚かと叱るか?」
佐為はかぶりを振った。
「・・・・もしおまえが」
光は、一歩・・・そして二歩、佐為へ近付いた。
「もしおまえが、今・・・・独りで何かに耐えているなら・・・・もしおまえが・・・・今何かに苦しんでいるなら・・・そして、もしおまえが・・・今、大きな怒りと憎しみを留めることがどうしても出来ないなら・・・、それならオレは、今おまえの傍に居たい。ただそれだけだ。それだけなんだ」
「・・・・光」
「だが、ただそれだけのことを、もし何かを恐れて、出来ないのだとしたら、それはやはりおかしい。そんな生き方は出来ない。これが禁じられたことだというなら、オレは罰せられてもいい。喜んでこの命だって差し出すよ。もうこの命を惜しむのは止めたんだ」
佐為は悲壮な顔をして必死に首を横に振った。が、光は再び一呼吸おくと続けた。
「おまえは一年前に言った。苦しみを同じくしようと。ちょうど両親を亡くした頃だった。おまえはあの時、オレの傍に居た。オレの肩を抱いてくれた」
「・・・・あなたと・・私では・・・」
「違うと言いたいのだろう。確かにおまえの苦しみは複雑でオレには量り難い。でも同じだ」
「・・・同じ?」
「もし、逆にオレが今、何かに失望し、怒りと憎しみに支配され、苦しんでいたら、おまえはどうする?」
「・・・・・・・それは」
「答えろ、おまえはどうする? オレの許に駆けつけて、オレを抱きしめようとはしないのか、佐為。おまえはそうはしないのか? そういうことだ。オレ達は、どちらかが辛い時、苦しい時、傍に居るべきではないのか? 思ったのはただただそれだけだ、それだけだよ。そんな簡単なことが何かを恐れて出来ないのだとしたら、オレは人間として死んだ方がましだ。そんなのは忍耐ではなくて、ただの策略だ。策略に満ちた生き方などもううんざりだ。だからここに来たんだ。おまえがオレを帰そうとしても絶対に帰らない。これはオレの役目だ!」
言い終わらないうちに、光は抱きしめられていた。動けない程強く、強く。佐為は泣いた。佐為の流す涙が、光の髪を、光の頬を、光の肩を濡らした。光の瞳からも堰を切ったように涙が溢れた。無言で二人は抱きしめあった。
梟が鳴き、風に枝が騒いだ。深まる夜の闇がいつかの夜のように抱き合う二人を飲み込んでいくのだった。
つづく
back next
|