青雲八 

 

 寝殿には薄い月明かりが蔀戸の下から微かに差し込んでいる。光はここで夜を明かしたのだった。帳の下で、佐為は痩せた背中に口付けながら言った。
「済まない」
 光はその声を聞いてぞくっとした。佐為の暖かい吐息と優しい声が、背中をくすぐる。しかし、謝罪の言葉を彼から聞くのは不本意だった。
「オレが誘ったんだ」
 佐為の腕の中から、光は苛立たしげに言ってみせた。
 すると佐為が言った。
「それでも・・・、光に甘えてしまった」
 この答えも不本意だった。光は堪らなくやるせない気持ちになって身をよじった。しかし佐為は、抵抗しようとする光をますます強く抱きしめて、身動きを封じてしまうのだった。
「甘えればいい!」
 光は今度こそ本気で抵抗してそう言い、佐為の方へ向き直った。
「いくらでも甘えればいい!」
 眉間に皺を寄せ、佐為をきっとにらみつけるが、相変わらず彼からは大した反応は返ってこない。それよりも無言のまま、また光を抱きしめるのだった。そして今度は、吐息とも嘆息ともつかない息遣いが光に伝わってくる。未だ言葉にならない深い深い迷いに沈む彼を、全身で感じてならない。こんなにも彼を苦しめる全てのものを憎らしいと光は思った。怒りが沸々と湧き上がってくるが、しかし同時に、堪らぬ悔恨の情も頭をもたげてくる。湧き上がってくるものの一つは、意に反して自分に対する憤りなのである。
「佐為、オレはおまえをさらに苦しめてしまっただろうか」
 光は言った。佐為はその言葉を聞くと、ふっと薄く笑って見せた。腹の底から笑ったという笑顔では無いが、瞳は優しい。だが光には、その微笑の意味がよく分からなかった。
「何故笑う?」
 光は訊ねた。
「だって・・・先ほどの気概はどうしました? 先ほどの光は、そんな迷いは抱えていなかった。私を圧倒し、反論をねじ伏せ、強引に私を自論に服せしめたではありませんか」
 佐為は答えたが、もう笑ってはいなかった。
 確かに佐為の言う通りだった。あんなにも強引に振る舞った自分を、今度は後悔している自分が居る。恥ずかしくも情けなくもあった。気がつけば、今はやはり立場が逆転し、自分の上座に佐為が戻っているのだ。
 眉間を歪める光に口付けて、佐為は言った。
「光は頼もしい。光は強い。・・・そして光は恐ろしい」
「恐ろしい・・・オレが?」
 光は全く腑に落ちないといった様子で、訝しげに佐為を見つめた。 
「光は・・・私にも計り知れない・・・。本当に先ほどはそう思いました。光は得体の知れない何かを持っている。いつか私を本当に服せしめる時が来るかもしれない」
 彼はそう言うと、瞳を閉じた。
 佐為と胸を合わせて抱き合っているのに、光はふと、堪らなく心細く、そして不思議な感覚に襲われた。広い荒野の真中に一人立っているような気がしたのだ。空には星一つ無く、真っ暗闇が辺りを包む。そこには誰も居なかった。この寂しさは何だろう。何故こんなにも世界は暗いのだろう。何故、こんなにも世界には音が無いのだろう。こんな孤独には耐えられない。光の心に悲鳴のような叫びがこだました。
     そうだ、自分は知らない。常に彼の下位に控えていて、彼を見上げることしか知らない。星一つない荒野には必ず道標があったはずだ。彼の許に繋がる道標が。暗い海原には自分にだけは見える羅針盤があったはずなのだ。
 なのに、何故彼の言葉は、広い荒野に置き去りにされた自分の幻影を見せるのだろう。彼を碁で負かしたいと思ったことはあった。しかし、それは彼が言う「服せしめる」ことでは無いような気がした。むしろ、これほどまでに崇拝してならない彼を、心情の上で服せしめたいなどと夢にも思ったことなど無いのに。そう思うと、ますます光の心は寂しさで溢れてくるのだった。そして寂しさはますます恋しさを呼び起こした。光は感情に任せてこう言った。
「それなら・・、オレが恐ろしいなんて、そんなこと本当におまえが思うっていうのなら、それなら、オレにもっと甘えればいい、佐為」
「・・・甘えたい」
 佐為は以外にもあっさりそう言うと、光の胸に顔を埋めた。光は少しびっくりして、彼の素直な仕草にどぎまぎしたが、努めて強気を装うのだった。
「甘えろよ。そうだ、オレに甘えろよ。オレはずっとそうなりたかった。・・いや違う、本当はオレが居なければ、おまえはダメなはずなんだ。そうだったじゃないか」
 光はほとんど泣きそうな顔になりながら、遠い楽しかった記憶を辿り、そう訴えた。
 佐為は自分を愛してはくれるが、自分を頼ろうとはしない。庇護するが庇護されようとはしない。自分とは常にそうした存在であったのだ。しかし、今の光にはこれが我慢ならなかった。男として庇護されるだけの不甲斐ない存在ではいたくない。自分は彼に生涯を捧げて仕えるのだ。これこそ己が悲願なのである。これまでひたすら封印してきた彼への強い強い想いが今激流となって溢れ出るのを、光は抑えることが出来なかった。
「なぁ、佐為。おまえの為なら、何も惜しくはない。おまえが幸せで居るためになら、どんなことでもするよ。どうしたら、おまえの為になるのかと、そればかり考えて暮らしている。おまえのことを想わない日なんてない、本当に一日も無い。だけどオレには力が無い。力が、力があったら・・・! もっとオレに力があったら、こんな想いはしないのに」
 光は腹の底から悔しげな声を出した。
「こんなオレでは頼りにならないのも分かっている。だからいつもいつも口惜しくてならない。だけど、オレはおまえの為に塵ほどでも何かできればしたいんだ、したいんだよ! だから、だからオレは・・・」
 光の想いは言葉にならなくなると、嗚咽に変わった。
 佐為は光を抱きしめた。そして、これまであまり考えないようにしていた、自分と別れてからの、とりわけ結婚してからの光の日常に、想いを馳せた。どんな気持ちで日々努力していたことか・・・どんな想いで、日々自分に鞭打っていたか・・・。どんな想いで逢わない時間をも、勤勉と精進で自分を鍛えていたか。それも全て佐為のためにだと言って嗚咽する光を目の当たりにすると、彼は胸に錐を立てられるような気がした。それなのに、自分は苛立ち、嫉妬し、独占できるのは今や光のほんの僅かな部分だと嘆いていた。身勝手な上に了見が狭く、随分と矮小だったではないか。離れてはいても、あまりに一途な光の献身を悟り、佐為は心の底から自分を恥じた。
「光・・・、私は愚かだった。すまなかった、光。すまなかった」
 そう繰り返し、光を抱きしめた。
「・・・佐為は愚かなんかじゃない。 何故謝る? 謝る必要なんか無いのに」
「いや、私は愚かだ、光。愚かなのはずっと昔からです」
 だが、光には佐為が何故自分を愚かだというのか理解できなかった。黄金色に輝いたあの師弟の交わりの時間に見た輝かしい師の姿こそが、この半年の間、光が見てきた佐為だったからである。そこに師弟の絆以外に余計なものは何も無かったのだ。私情を殺していたのは光ばかりでなかったことを光は知らなかった。佐為は光以上に完璧に私情を排除していたと言える。その点でやはり師は弟子を上回っていた。
 光はそれをほぼ無意識の内に推し測ると、ある言葉を思い出した。
「昔、楊海殿が言っていた。知らないことを知っていることが幸せだと。おまえは賢いから、己のうちにあるほんの僅かな欠点でも知っていて、自分を愚かだと大げさに言うんだな」
 大真面目にそう言う光を、やや驚きながら眺めると、佐為は思わず顔を崩して「光はまた、私をそうやって掻き口説く・・・」と笑った。
 しかし、これには光は怒って真顔で抗議した。
「口説くだって! オレは心に思っていることを、そのまま言葉に出しているだけだ。おまえを口説こうとした虚飾の言葉などとは違う。これはオレの本心だ。頼むから・・・、どうかはぐらかさずに聴いて欲しい」
 言っても言っても言い足りない気がした。佐為が戯れ半分に、あるいは気恥ずかしさから言った言葉だと知りながら、抗議せずには居られないほどに、彼に自分の想いの真実を伝えたかった。いやそもそも、これほどまでに切実な想いを、いつもの戯れで流されるのもご免だった。
 すると佐為はとても悪かったという顔をして、光の額に口付けた。
「ごめん、光・・・、私の光が今日ここに、私の傍に来てくれて、嬉しいですよ。どんな言葉を持ってしても表現できないほどにね。光は今、私を助けてくれている。光は今、私に力を貸してくれている」
 佐為はそう言って、光を抱きしめ、髪をなでた。
「・・・本当に?」
「本当です」
 どうして、これほどまでに愛することができる人間がこの世に居るのだろう。光はそう思った。彼への愛が、もはや己が意志さえも超えて、どうしようもなく胸の奥底から泉のように溢れ出て止まないのを、光は感じるのだった。
「光・・・、確かにあなたの言う通り、今私は新たなる迷いに襲われている。そして、これまでの苦しみとて無くなった訳ではない。だけど、今はあなたがまさにこうして私の傍に居てくれることが、本当に嬉しいのです」
 二人は暗い帳の中で暁まで抱き合った。鶏の音を聞きながら、光に帰り支度を施したのは佐為だった。光に衣を着せ、髪を整え、自ら光の顔を剃った。光は昔のように彼のなすがままになった。支度が済むと、佐為はこうぽつりと言った。
「どうしたらいい・・・」
 彼は深く深く頭を抱え込んだ。彼が何故そう言ったのか、むろん光には容易に察せられた。彼を襲った出生にまつわる落胆と絶望を知って、自分はとても黙して遠くに居ることが出来なった。だから此処へ、禁を破って彼の許へやって来たのである。ところが、この邂逅が意味のあるものであればあるほど、それは新たな岐路を意味しているのだ。つまり、これまでの方針を考え直さざるを得ないのである。光は元よりそれが分かっていてとった行動であった。光の側にはある程度の覚悟が出来ていたが、佐為にはそれが無い。彼が頭を抱え込むのは至極当然のことだと光にも思えた。そして、その事実を眼の当たりにして、彼を新たに苦しめてしまったという現実的な後悔が光にも生まれたのである。だが後には引けなかった。
 光は頭を抱え込む彼の手を取り、その手を両の手で大切に包み込んで口付け、そして言った。
「佐為、オレ達また逢おう。逢うべきなんだ。もう自分の心は偽らない。オレはおまえから教えを受けたい。だけど、望むのはそれだけじゃない。もしおまえの魂が血を流すことがあれば、オレはおまえと同じ傷を被りたいんだ。それもオレの望みだ。おまえにこの命捧げたんだ、佐為。世界でおまえが一番大事なんだ。オレはおまえの為なら死んでもいい」
 しかし、佐為は堪りかねて光を叱責した。
「死ぬなどという言葉を、もう二度と口にしてはいけない。これ以上馬鹿なことを言うと怒りますよ!」
 何故か佐為の叱咤に光は不思議と安堵し、素直にこくりと頷いたのだった。

 光が帰宅したのは空が白み始めた頃だった。
 夫が戻ってきたことに気づくと、あかりは褥の中で寝返りを打った。この頃は大きくなったお腹が重たく、褥に横たわっていても腰が痛む。夜更けに出て行った光がなんとなくもう戻ってこないのではないかとさえ思われ、彼女は夜通し密かに泣いていた。しかし、まるで巣に戻ってくるように、家に帰ってきた光に一時は安堵するものの、隣に敷いてある褥に横たわった夫から、言うに言われぬよい香りがしてくる。その香りには覚えがはっきりとあった。左大臣邸でかの麗人と出会った時のものと同じなのである。その香りが芳しければ芳しいほど、胸はどうしようもなく、めらめらと燃え立つのをあかりは抑えられなかった。が、彼女はじっと我慢して、帰ってきて直ぐに横になった夫には何も言わなかった。
 前夫と結婚して間もない頃のことである。亡き常陸守は二日と空けずに自分の許へ通ってきたものだった。しかし、常陸守には北の方が居て、どんなに自分に夢中でも、夜明け前には決まって帰宅してしまう。常陸国に同行してからはそんな寂しさは無くなった。だが、逆に今度は夫が他所へ行くのを、自分が惨めにも送り出さなければならなかった。今になってみれば、皮肉なことに常丸に呪詛した常陸守の北の方の気持ちが、どんなに苦々しかったか分かる。しかし相手が相手であるだけに、分かると言っても、それは随分と複雑な感情も混じっていて、運命の皮肉に半ば呆れた感覚をも含んでいた。
 あの美しい侍棋がこんな形で自分の人生に絡んでくるとは思いもしなかったからである。彼の存在を知った最初の頃、他の多くの宮廷女官達と同じく、漠然とした好感と憧れを持ったに過ぎなかった。それはむろん、光と縁する人間だということも大きく貢献していたに違いない。それが今度は無二の主であり、不遜にも腹心の友とも心に思う、夕星姫の精神的拠り所でもあることから、好感や憧れといった段階は通りこしていた。いまや彼はあかりの中で、夕星に並ぶ尊い存在となっていた。しかし、そうは捉えても、相変わらず彼は自分からは遠い存在であり、ある意味絵に描いた物語の登場人物のようでもあったのだ。
 しかし今、早朝に帰宅した夫の体からは、かの侍棋の君の存在の確たる証である、あの何とも言えぬ芳香が漂ってくる。絵巻の中の貴公子は突如実体を持ったかのように、あかりの五感を刺激した。
 それは皆が起き出し、光も同じように身支度を始めた頃に再度確認されることになる。
 今朝は皆いつもの朝と同じように振る舞っていながら、その実好奇心は光に集中していた。昨夜の光の行動は、あかりの母親が立腹したことまで含めて既に家全体に広まっていた。光が行った先が一体何処だったのか、女達の関心の的はそこに集中していた。そしてその好奇の目が、昨夜の秘事の印を見つけるのは容易かった。
 肌につけていたものを脱いだ光の背中と首筋に、赤みがかった痣が不規則にいくつかあるのが露わになったのだった。そのいかにも艶なる痕跡に、光の着替えを手伝っていた侍女は顔を真っ赤にした。あかりは一目見て、居たたまれなくなり、座を立った。ここに三津が居れば、悪気なくたちまち光の行った先を問い詰めたところだろうが、光にとっては都合のいいことに、彼女は今日この家には居なかった。
 しかし当の光は何も頓着せず、というより皆の好奇心にも、あかりの顔が暗いことにも、全く気付かずにいた。頭の中は別のことで一杯だったからである。
 これからどうしていこう。そのことで頭は一杯だった。昨夜の出来事は、これまでの光の方針を一変させる力を持っていた。ところがそうは言っても、だからといって今日から綺麗さっぱり違った生き方が出来る訳ではない。光は自分一人で生きている訳ではないことをよく解っていた。結婚した今では以前よりも多くの者が自分に関わっている。しかも今や自分が仕える先には東宮家があった。自分を取り立てた東宮妃への恩。その橋渡しをしたあかりへの感謝。そして東宮のその先にはさらに、あの帝がましますのだ。

 今日から綺麗さっぱり違う生き方が出来る訳ではないのは、佐為も同じだった。口に出すことこそしなかったが、それは重々二人が理解していることであった。ただこれまでと違ったのはお互いの心に大きな一石が投じられたことである。
 佐為は光を早朝に家に帰した後、疲労し、混乱した頭でうつらうつらと考えた。光は自分で言ったように、このままでは己の本心への偽りから生まれる膿みの膨らみに耐えられぬに違いない。今度のようなことがお互いの身に起これば、やはり自分達はこうしてその度に、絆を確認し合い、お互いにしか出来ぬ労りと愛情を掛け合うのだろう。それはいかにも光の言葉どおり、極自然な心の発露なのである。
 改めてそれを否定しようとした自分を省みた。全ての我慢と譲歩はかの上への配慮と、そして光の身の安泰を期してのことからである。かの上・・・帝と自分はでは一体、どうしたらいいのか。帝が今更光の存在を許容できるはずなど無いことは痛いほどよく分かっている。他の一切をも自分から遠ざけたくらいなのだ。それなのに、かようなまでに自分を偏愛する帝を何ゆえに自分は憎めないのだろうと、これまた今更ながら考えた。今まで幾度となく帝の自分に対する偏執をけむたくは思っても、心の底から憎らしいと感じたことは無かった。いや、あの光への恩赦嘆願の際に、別離とも受け取れる冷たい仕打ちを蒙った時には、ぞっとするほどの絶望と憂鬱と悲嘆を味わったのである。
 今にしてはっきりと認めなければならないことがある。事実上光の都召還を条件に、帝を誘うような文を差し上げた目的は、光の召還ばかりではなかった。同時に帝をも自分は取り戻したかったのだ。一月以上にも渡る憂鬱は
帝に見捨てられたのではないかという不安から発するものだった。

君が顔をえ見奉らざらん、あたかもこよなう永き冬の夜を経るも、また春の曙の来たるこそなからめと告げられたるがごとし』(御かんばせを拝せぬことがこれほど悲しいことだということを私は知りませんでした。まるで長い冬の夜を過ごし、もう二度と夜明けが来ぬと告げられたように、辛く、重苦しく、私の身と心を苛むのです)

 明けることの無い夜   それは佐為が感じた真実だった。文に綴った言葉は帝にとっては挑発となったが、佐為にとってはむしろ偽りのない素朴な言葉だったのかもしれない。自分の中にある、父なるもの、母なるものへの飽くなき羨望を、改めて彼は愕然と悟った。帝が自分へ下される慈しみや心優しさ、それらを失うかもしれない状況に立たされた時、何故ああも苦しんだのか。今、佐為には謎が解けたのだった。偏狭なまでの自分への執着も、一通りでないからこそ、けむたい反面そこに一種の安堵を見出している自分が居る、そうでは無かったか。
 今こそ、佐為は行洋の死に際し、それを認めざるを得なかった。
 自分が愛し、求めて止まなかった存在である行洋は、なんとも無残な仕打ちで自分を打ちのめしたかと思うと、あっさりと自分の前から去ってしまった。果たして、行洋の言う通り、関白は自分を実子と思って愛していたことが一時でもあったというのだろうか。もしそれが真ならば・・・そう思うと、誰にぶつけてよいか分からぬ怒りが胸の内に沸々と湧き上がる。
 では行洋の中にあったものは、本当に自分に対する懺悔と滅罪の気持ちだけだったのだろうか。いずれにしても、拭うことのできぬ落胆と悲しみと混乱は未だ自分を支配している。光は確かにその悲哀を慰めてくれ、力を貸してくれるが、完全に自分の欠落部分を補完してくれる存在では無い。そのことも佐為にはよく解っていた。
 昨夜の突然の光の訪問により、佐為は光から蘇生への助けを得た。光は悲嘆の底に手を差し伸べたのだ。光の手を掴んで、混沌のふちにまでは引き上げられた。そして、彼はそのふちに立ち、今まで自分が沈んでいた混沌の深淵を眺めたのである。しかし、そこはまだ天上の光からは遠い谷の中腹であった。

 
 さて、その帝はどうしていたか。
 隠密の遣いを佐為や、行洋の屋敷に差し向け、佐為が尋常でない程落胆の淵に沈んでしまったこと、そして行洋が既に身罷ったこと、身罷る前に面会に成功はしたものの、望むような結果が得られなかったであろうことを、昨夜遅くに寝所に身を横たえながら、酷い疲労から重く頭痛のする頭で耳にしていた。
 面会が上手く行かずに佐為が気を落としてしまったことを知って、帝もまた酷く落胆せずには居られなかった。ほとんど佐為と心を同じくして共に願ってきたことが叶わなかったのである。
 彼を襲ったのはまずは酷い気落ちであったが、次に彼は考えた。自分以上に落胆しているであろう佐為をどうしたら慰めることが出来るであろう。どうしたら彼の魂を救えるであろう。どうしたら彼を行洋への強い拘りから解き放てるであろうかと。
 なんと声を掛けたら良いだろう。どんな言葉を与えたら良いであろう。彼を慰めたい、彼を苦しみから救いたい。考えるのはそのことばかりで、夜も昼も彼の魂の飛翔を祈った。
 ただ体が言うことをきかず、疲労に苛まれ、明くる日も起き上がることが出来なかった。しかし、程なくして、彼は恐ろしい事実を知ることになるのである。

 光も佐為も、己に課した禁を破り、左大臣邸以外の場所、中でも最もあってはならない佐為の屋敷において、逢ってしまったことが、完全なる秘密裏の内に済むとは思っていなかった。思っていなかったが、それはあまりにも早く、帝の耳に入ってしまった。佐為の様子を頻繁に窺わせる遣いを出していたのである。帝が聞くべきではないことを聞いてしまうのは容易なことであった。
 桜内侍にもそれは防ぐことが出来なかった。根回しは間に合わなかった。容態の悪い帝に私事を挟まず仕えていた彼女が疲労に耐えかね、僅かに局に下がった隙のことであった。顕忠が先んじたのだ。彼女はこのときの自分の失態を生涯後悔し続けることになる。
 内侍が再び帝の御前に戻ると、彼女はただ事ではない彼の様子に、全身が凍りつくと同時に震え上がるのを覚えた。帝はこれまでも憤怒の情を露にすることがあったが、今目にしている様子とは明らかに違っていた。帝は不気味なくらい無表情であった。だが、内侍にとっては今まで拝した彼のどの顔よりも恐ろしかった。何故なら、天子は物静かで抑制された所作の中にも、これまでは感情を表情の端に表すことが豊かであることをよく知っていたからだ。内侍は、今までの帝の苦悩とは違う何かを感じざるを得なかった。無表情の下にあるものが、不思議と内侍には透けるようにはっきりと見えた。つい先ほどまでは、深い慈しみに溢れた表情をしていただけに、今はまったくその感情が覗けない静かな佇まいの下に、それは見えてしまった。其処に居るのは、憤りという感情だけが全身を埋め、憎しみだけが其処から発するただ一つの魂の迸りとなった男の姿だった。内侍は、恐ろしくてとても傍に近寄ることは出来なかった。翌朝侍医が明かした。帝の掌に痣と傷があることを。袖の下に隠れて見えぬその手だけに、本心を滲ませていたのだろうかと、彼女は思うと改めて背筋が凍るのだった。
 

−青雲 終−

 
つづく

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