終章二 天童丸



 ボクが童殿上してしばらく仕えたのは、まだ年若い天子様だった。
 だけど、どういう理由でだか、ボクはお若い天子様のいらっしゃる内裏を下がり、先帝の院に仕えることになった。
 今考えると、ボクの排斥はあの頃から始まっていたのだ。ボクの排斥というより、左大臣家の排斥だった。関白家が権力を独占する為に。
 左大臣家の子息であるボクは、あの忌まわしい「死の穢れに触れた天子」としてその名をはせた上皇様の許へ体よく追いやられ、宮中からも、今上の帝の許からも離されたのだった。
 だけど上皇様は世間で言われているように、気狂いの病に罹っているのではなかった。少なくともボクはそう思った。上皇様はとても知性的だったし、いつもボクに優しかった。後で聞いた話だが、実はボクが上皇様の院へ童殿上したのには、一つには上皇様がボクを望んだということもあったらしい。
 ボクは憶えている。上皇様が我が家である左大臣邸にお忍びで御幸された日のことを。あの日初めてボクは上皇様にお目通りしたのだ。いや、やんちゃだったボクが、勝手に御前へ乱入する形だったのだが、上皇様はボクや父を叱るどころか、とてもにこやかにボクの相手をしてくださったのだった。そう忘れもしない。だってあの日は初めて上皇様にお目通りした日だったと共に、佐為と初めて出逢った日でもあったのだから。
 佐為・・・、亡くなってしまってからもう随分経つ。ボクは彼が大好きだった。亡くなったと聞かされた時は、ショックで幾日も泣き通したことを憶えている。彼が亡くなったというだけで悲しかったのに、その死の理由を知ったときには、さらにショックで、ボクは胸が張り裂けそうになった。
 ボクは信じなかった。彼ほどの人が負けたことにも驚いたが、囲碁を愛していた彼が、そんな穢れた真似をするはずが無かったからだ。誰がどう言おうとこれは絶対の確信だった。幼いながらにこう思った。佐為は濡れ衣を着せられ、汚名の付いたまま葬られることになってしまったのだと。
 悔しい想いはそれだけではない、ボクの都にある屋敷で、あんなにも佐為達が精魂を込めて編纂した棋書はそのまま人の目に触れることなく、原本は何処かにか紛失してしまったのだった。
 棋書の名だけはボクも憶えている。その名は「忘憂清楽集」。囲碁とは「憂いを忘れる清い楽しみ」だそうだ。宋の楊海法師と佐為が考えたものだ。ある時、二人はいかにも楽しそうにボクにその名の由来を語ったことがあった。だから憶えている。しかし肝心の中身は何処にも無い。
 陰陽師の明はこう言っていた。棋書編纂の宣旨を賜った佐為を嫉妬した菅原顕忠殿の差し金だという見方もある。しかし、顕忠殿は佐為の死後まもなく、自身もまた後を追うように亡くなっている。おそらく根本は関白殿の別のご子息、当時内大臣だった、佐為殿の兄君が謀って気狂いの病に罹った天子の「狂気の沙汰」を封印する為に、佐為に関する一切の記録を公の文書から、消してしまったのだと。だからその手になる棋書も葬られたのだと。先帝の宣旨さえも封じ込める驕り。権門の当主にとっては棋書などとるに足らぬものだったのだろう。
 佐為が消されていく・・・。 ボクは時々我慢ならなくなる。
 佐為は居た。佐為は居たのに・・・!
 幼い頃は、このことについて父に何度か訊ねた。しかし訊ねる度に、父は酷くつらそうに口をつぐんでしまうので、もうそれ以上子どもだったボクには真偽を問いただすことも叶わなかった。そして年齢を重ねるうちに、望む答えは得られないことを知るようになり、政権抗争で心労を募らせていた父をそれ以上苦しめてもいけないと思うようになった。

 大好きだった佐為が居なくなってしまったことは本当に悲しかった。
 今でも思い出す。優しい笑顔。優しい声。ひざに座ったときのいい匂い。
 よく抱っこもしてもらった。彼は背が高かったから、彼に抱き上げられると、父よりも視線が高くなる。それが楽しくて、よく抱っこをねだったものだった。
 そして彼の美しかった顔。彼は美しかった。出逢った頃、子ども心にも彼は際立って整った綺麗な顔をしていると感心したものだった。最初こそ彼の美しさを不思議にも思ったが、そのうちに慣れてしまった。しかし、今思い返しても彼の美しさは尋常じゃなかったのだ。人を虜にする美しさだった。だから今はもう分かる。上皇様が何故佐為の亡骸を抱きしめたのか。
 だが、国を治める天子が死の穢れに触れるなどもってのほかだ。直前に譲位の宣命を出され、異例の早さで剣璽渡御の儀もなさり、次の帝が践祚なさってはいたけれど。
 考えてみれば、上皇様があっという間に譲位されたのは、御自分がその後にとられる行動を意識なさったが故の、皇位を汚さぬ為のせめてもの対処であられたように感じる。
 しかし、皇位を退いたからといって責めが免れる訳ではなかった。
 上皇様が佐為の亡骸を抱きしめたという話は、どこからともなく漏れ伝わった。さらに悪い条件が重なったことに、あまりに急に譲位なさったのと、譲位後体調を崩されて寝込まれたのとで、上皇様は院の御所へお移りになるのが遅れ、譲位後もしばらくは内裏に居られた。つまり上皇様は死の穢れを内裏に持ち帰られたということだった。
 上皇様は国に穢れを招いた「気狂いの天子」として、暗黙のうちに政の表舞台から追い払われ、院に住まわれてからは参じる者も稀になってしまったのだ。あんなに長く在位にあり、賢帝と崇められていた方なのにもかかわらず・・・。すべては関白家の意向のままという訳だった。
 短い間ではあったけれど、ボクは静かな上皇様の院に伺候すると上皇様の碁の相手をした。以前、これは佐為の役目だったのだ。上皇様に愛された侍棋の佐為の・・・。棋力こそ遠く及ばなかったけれど、ボクはまるで亡くなった佐為の代わりのようだった。
 佐為の代わり・・・? 佐為の代わりはボクだったろうか?
 いやボクではなく、佐為の代わりというなら、上皇様こそが、佐為の身代わりのように感じることがあった。
 というのも上皇様はボクにいつも指導碁のように優しい碁を打ってくださったのだ。
 あの佐為に教えを受けていたから良く分かった。上皇様の打ち方はとても上手で、ボクは上皇様に打っていただいて、かなり上達したくらいなのだ。
 上皇様と打っていると、佐為に碁を教えて貰っていた時のことをしばしば思い出した。堪らなく懐かしくなった。
 ところがボクは父からきつく言われていた。上皇様の御前で決して佐為のことを話してはいけないと。だから、硬く口をつぐんで決して懐かしいその名を口には出さずに耐えていた。どうして父が口止めをするかはやっとのことで理解した。
 佐為を死に追いやったのは他の誰でもない上皇様だと、世間の誰もが考えていて、しかもその佐為の遺体に触れたという醜聞のせいで、上皇様が今の院にひっそりと住まわれるお寂しい暮らしに追いやられているのだ。
 上皇様と佐為は、そんな風に切っても切れない皮肉なえにしで結ばれている間柄。「佐為の名を出したら、上皇様のお心を傷つけ乱すであろう」という父の言葉にボクはなんとか納得させられたのだった。
 しかし、ある時のことである。
 ご体調の優れない上皇様は何日か寝込み、そしてようやく御寝所から起き上がられて、ボクをお召しになった。久々にまた碁の相手をして差し上げていた時、突然上皇様はこう言われたのだ。
「余はもう長くはない。そなたにこの碁盤を譲ろう」
 ボクは突然のことに驚いて、そして次には悲しくなった。ボクが何もいわずにこぶしを膝の上で握り締め、ぽろぽろと涙をこぼすと、上皇様らしくもなく、少しあわてたようにおっしゃった。
「すまぬ、そなたを泣かせようなどとは思わなかった」
 ボクもあわてて思わず泣いてしまったことをお詫びした。すると上皇様は落ち着いた態度を取り戻して静かに仰せられた。
「もしそなたが余との別れを惜しんで泣いたのならば、嬉しく思う。しかし人の死は必ず巡って来るもの。あまり多く嘆いてはいけない。この碁盤は侍棋の佐為と宮中でよく打っていたもの。そなたも佐為に碁の手ほどきを受けていたと聞いている。そなたがこれを譲り受ければ、佐為も喜ぶであろう」
 ボクはこの言葉に酷く驚いた。あんなにきつくその名を出すことを禁じられていた佐為のことを、上皇様自らが口にされたのだ。そして上皇様はボクの言葉を引き出したいかのように、いくつかご下問された。
「そなたも懐かしいであろう」 
「はい」
 ボクは答えた。
「再び逢いたいとは思わぬか」
「はい、とても」
 ボクは強く頷いた。
「そなたに逢わせてやりたい。だが、どうにもならぬ」
 こう仰せになった時の上皇様のお顔は忘れることができない。そこに何かとても深い深い悔恨のようなもの・・・? いやあるいは・・・。とにかく酷く重いものを感じ取ったからだった。
 ボクは堪らなくなって、上皇様に申し上げた。
「いつも、上皇様に碁を打っていただくと、佐為のことを思い出すのです。まるで佐為と打っているようだと。いえ、ここに佐為が一緒に居るような気配さえ感じます。佐為にまた逢いたくて逢いたくて逢いたくて堪りません。上皇様が佐為と打っておられた思い出の碁盤をお譲り頂けるのなら、これ以上の幸せはありません」
 ボクはさめざめと泣いた。涙を止めることが出来なかった。どうして泣いているのかも分からなかった。佐為のことを想って悲しかったことももちろんあったのだろうけれど、それだけではなく、上皇様の得体の知れない、重い重い心情の波を真正面からほんの子どものボクが受けたからかもしれなかった。
 結果的に父に申し渡された禁を破って、ボクは佐為の話を上皇様の御前でしてしまったのだ。だが、上皇様は次にはもう表情を変えられて、穏やかに目を細め、御前に居るボクではない他の誰かを見るようなしぐさをなさった。そしてこう仰せられた。
「泣かなくて良い、天童丸。余が身罷ったら、この碁盤がそなたの許に届くようにしよう。そして覚えておくがよい。佐為はその碁盤と共にそなたの傍らに居るであろう」
 
 それからまもなく上皇様は崩御あそばされた。くしくも佐為が亡くなった日と同じ日だった。
 しばらくすると約束通り、あの碁盤はボクの許に届けられた。ボクは上皇様の喪に服し、しばしば佐為と上皇様を偲びながら、碁を打った。
 数年が過ぎ、ボクは元服したが、正二位左大臣の子息にしては、最初に叙された位階は六位と低く、さらに数年が過ぎて左大臣であった父が亡くなると、ボクは従五位の上に叙せられ、西国にある上国の国守に任ぜられた。
 正二位、左大臣の子息が地方の国守とは、左遷も同じだった。これはボクの代での我が家の没落を意味していた。手放したものも多かったが、上皇様遺贈の碁盤を手放すことは決してしなかった。
 上皇様から頂いた由緒ある品という理由以上に、大きなものがあった。上皇様から譲り受けた碁盤は、消えてしまった佐為の棋書よりも、何かもっともっと重要で大切なもののような気がしたからだった。
 ボクはすっかり大人になった今思う。
 やはり、あの天才は存在したのだと。ボクがいつか死んでも、この碁盤は次の世代へと大切に護り遺すつもりだ。
 願わくは、宮廷でその名を馳せた侍棋の佐為が居たせめてもの証として、時の流れに刻まれんことを期すのである。

 終章三へつづく

 back next