終章三 明



 ボクは懐かしい風景の中に身を置いていた。薫る潮風。穏やかな陽光。そしていくつもの島影。
 ここを訪れたのはもう何年前のことになるのだろう。あの頃はまだ若く、十代で、今思い出すと恥ずかしくなるほど血気盛んなところがボクにはあった。
 だからボクは性格の違う彼とよく言い合いをしたものだった。そう、言い合いばかり・・・。だが大宰府で過ごした数ヶ月の日々と、都へ帰る数十日の旅はボクにとって至福の時間だった。いつも「あの人のもの」だった彼を、独り占めできた唯一の時間だったから。

「そうして、ここにこの碁盤もあるという訳ですね、天童丸殿。あ、失礼しました。またご幼少の頃の名でお呼びしてしまいました」
 ボクは慌てて若き備後守に謝った。備後守(びんごのかみ)は丸い頬を残した愛くるしい顔の青年で、育ちの良さを感じさせる品とともに、好奇心旺盛なきらきらした眼差しも併せ持っていた。
「いや、いいんですよ、明殿。明殿はずっと天童丸とお呼びください」
 国守は笑って答えた。
「こんなに立派な青年になられたあなたを幼名でお呼びするなど・・・」
「いえ、本当にいいんです。私は幼い日の思い出が好きなんです。天童丸と呼ばれるとあの頃を懐かしく思い出します。でも決して今の状況を嘆いている訳ではありません。私は子どもの頃、検非違使の光に言ったものでした。『ボクは大臣になんてならないよ、つまらなそうだもの』って。本当にそうなった訳です。負け惜しみのように聞こえるかもしれませんが、私はこれでいいと思っています。都に在って、自分の地位を守る為に、人を陥れたり、恨んだり、呪ったり、裏切ったり。そんな暮らしはうんざりです。私は知っています。父が最後まで佐為を裏切り、見捨てたことを後悔していたことを」
 国守はのっけからドキッとすることを言ってくる。いきなり本題に入ると思わなかったボクは面食らった。国守は続けた。
「親しい友を裏切ってでも高位高官を守るくらいなら、むしろこんな田舎で、正直な暮らしをする方が生きている気がする。そうは思いませんか? そして見てください。ここの景色を。美しいでしょう。遠くに霞む島々。あの微かな薄紫に霞むなだらかな稜線は、伊予の国の山々なんですよ。海の向こうの山が見えるんです。こんな景色見たことありますか?」
 国守は目を輝かせて言った。
 彼が指差した方角を見ると、確かにすばらしい景色が広がっている。高台にある館からは、遥かに遠く広がる穏やかな瀬戸内の景色が遠くまでよく見渡せる。見事だ。船から眺める風景とはまた違って、幾重にも重なる島々の濃淡と空の青さのコントラストが美しい。実に悠然としたものを感じる。

「ボクは一度大宰府に赴いたことがあるのですよ」
 そう言うと、国守は目を丸くした。
「では瀬戸内は初めてではいらっしゃらないのですね」
「はい、あの時は素通りしただけでしたが」
 ボクは憶えている。都に帰ってくる船の上で彼がぽつりと言ったのを。
『この景色を、佐為に見せてやりたい』
 ボクの横でそう言った彼の、佐為殿をここへ連れてくるという夢は、結局叶わなかった。それどころか、彼は再び自分だけがまたこの景色の中に戻り、そしてこの瀬戸内の海の波間に短い生涯を終えてしまったのだった。
 どうしている、近衛?
 ボクは再び、瀬戸内に来た。キミが命を落としたこの地に来たよ。
 何しに来たかって? キミを弔いにだよ。・・・・そんな必要はない? いや、ボクの目的はキミを弔うためだけじゃない。それだけじゃないんだ。
 ボクはね、近衛。悔しいんだ。佐為殿が死の直前に献納した棋書。あれはね、原本がどこかに失われて、写本も見つからない。先帝が亡くなって久しく、誰も口にする者とて居ない。内容を誰も見ていないんだから、そうかもしれない。ボクだって見ていないんだ。正式に刊行されてから、ゆっくり拝見しようと思っていた。ところが、あの忌まわしい御前対局の後、帝が譲位し、佐為殿、顕忠殿が続けて亡くなった。そして一年後には帝も崩御。新しい帝と新しい関白殿の御世となった。
 亡くなった帝は死の穢れに触れたという醜聞で大騒ぎになり、上皇になられてから院を訪れる人も少なく、完全に新しい政の舞台からは遮断されておしまいになったんだ。そして佐為殿といえば帝の醜聞の因になった者として、位階も侍棋というお役目も記録に残っているものは全て抹消されてしまった。だから、棋書ももう闇の中だ。
 日本では消されても、唐土がある・・・? そうだね、楊海殿が居た。ああ、キミは彼が唐土で棋書を発刊したと思っているんだね。だが、そうはいかなかったんだよ。ボクだけが知っている・・・。彼は唐土に帰れなかった。やはり彼もキミと同じように、海に沈んでしまったんだ。
 公の文書から消されてしまった佐為殿・・・。だけど、彼は居た。居たんだ。ボクがキミをこうしてよく憶えているようにね。彼は確かに居たはずなんだ。ボクはなんとかして、キミと佐為殿が居た証を残したい。そのために、事の真相を追究している。こうして、ここを訪ねたのはね、ここにもう一人同じように思っている人物が居るからなんだよ。
 えにしとは不思議だ。あの幼かった天童丸殿が今、備後国守となって、この地に赴任している。亡き先帝と佐為殿が宮中で愛用した碁盤を携えて。キミの願いは少しは届いたよ。こうして佐為殿のゆかりの碁盤が、キミの愛でた瀬戸内の、穏やかで美しいこの地に来たからね。キミは少しは満足しただろうか?
 
「不思議なものですね、明殿。もう何年も経つのに、特にここに赴任してきてからは、いっそう強く佐為のことを思い出すのですよ。私はこの碁盤を、実は佐為の分身のように思っているんです。本当は亡き先帝の御形見なのですが、この碁盤には佐為の面影を感じてならないのです」
「では、この碁盤も喜んでいるのでしょう。近衛は佐為殿をこの地に招きたいと思っていましたからね」
「それにしても、未だにやるせなくなることがあります。佐為の死から少しして、菅原顕忠殿も佐為の後を追うように亡くなってしまって・・・」
「顕忠殿の遺体は賀茂川で見つかったのでしたね。彼は後ろ手に手首を縛っていた・・・おそらく自分の意志で」
「彼は、何がしたかったのでしょうね? 一応は御前対局に勝った・・・あの佐為に勝ったというのに」
「当時、顕忠殿の屋敷に仕えていた者に話を聞きだすことができました。顕忠殿はあの御前対局の日以降、亡くなるまでの数日、様子がおかしかったそうです。特に佐為殿の訃報が入ってきた時は最たるもので、尋常な様子ではなく、数日後姿を消し、そして賀茂川で発見された・・・。ご存知の通り、その最後は獣に食い荒らされて見るも無残な、真っ黒な屍をさらしていたといいます。そして真相は闇の中です。『侍棋を一人
に、とは彼の進言だったにもかかわらず」
「もっともあの御前対局の翌日に上皇様は譲位の宣命を出され、異例の早さで剣璽渡御の儀も済まされてしまった。どちらにしても今上帝付きの侍棋は居なくなる・・・という訳でしたね。一体何の為の御前対局だったのでしょう。上皇様は譲位なさることを当然決めておられたでしょう。それなのに、侍棋を一人選ぶための御前対局などはなはだ無意味・・・・」
「備後守殿、これは苦労して新しく分かった話です。お聞きください。あの対局の前に座間殿が帝にお目通りして、顕忠殿のことをご忠告差し上げたそうです。先帝に仕えていた桜内侍殿からやっと聞き出すことができたのですよ」
「おお、それはご苦労されたことでしょう。桜内侍殿はそれは先帝に忠実なお方でしたからね。そのことは姉からよく聴き知っていました。先帝に関する悪いことは決して口にしない方だと。今はどうされているのですか?」
「彼女はあの御前対局の後、とくにかくいろいろなことがあって心身共にお疲れになったのでしょう。上皇になられた後の院には仕えることがなかったそうですね。あの桜内侍殿が院の御最期を見届けなかったというのは実に驚きです。どんなにか最後まで上皇様にお仕えしたかったことでしょう」
「では明殿は、彼女が意に反して上皇様の許を下がったと?」
「もちろん、そうです。おそらく、それが叶わないほどに彼女は倦み疲れてしまったのだと思います」
「では、彼女はその後?」
「ひっそりと出家されて今に至るまで帝の菩提を弔っておいでです」
 いろいろな愛の形がある・・・ボクはそう思った。
 桜内侍ほど、帝を愛された方も居なかったかもしれない。実は彼女に逢って、ボクは同類を見る気がしたのだ。彼女はボクと同じだ。結局胸に秘めた想いを遂に相手に告げることも無く淡々と生き残り、その生涯をただ一人の人に捧げているようなものだから。
「先帝のことに関して口が堅くてあられるというのはまったくその通り。桜内侍殿にお心を開いて頂くのに時間がかかりました」
「さすが陰陽師の明殿。それで、座間殿といえばかつて内大臣であられた方ですね」
「そうです」
「座間殿は何故、顕忠殿のことを帝に?」
「かつては顕忠殿は座間殿とねんごろな仲でした。しかし、座間殿の権勢が下り坂なのを見ると、座間殿を離れ、今の関白殿・・・佐為殿の兄君ですが・・・その傘下に入ったのです」
「座間殿は顕忠殿を快く思っていなかったという訳ですか?」
「その通りです。座間殿には当然顕忠殿への復讐心もあったでしょうが、顕忠殿の策略を密告することで、帝に近寄りたいというお気持ちもあったかと思います」
「なるほど・・・。ああ、つまり上皇様は知っておられた・・・。顕忠殿の策略を。それなのに、佐為を助けなかったという訳ですね」
「そういうことです。当然、佐為殿を助け、顕忠殿を罰すると思っていた座間殿はさぞや肩透かしを食らったでしょうね。座間殿としては、描いていた展開と全く逆だった訳です。そして桜内侍殿も御前対局での事の顛末にはそれは驚いたそうです」
「まさか、上皇様が佐為を助けない訳がないと皆思っていた。それは皆唖然としたことでしょう。私はあの頃、ほんの子どもで誰も真相を教えてくれる者は居ませんでした。だが、私は信じていた、佐為が碁で不正をするなどありえませんから。ああ、だけど何故だろう。私が殿上童としてお仕えしていた頃、上皇様は一度だけ佐為の話をされたことがあります。この碁盤をくださるとおっしゃった時のことですよ。あの時、上皇様はとても穏やかなお顔をされていました。佐為のことを憎んでおられるようにはどうしても見えなくて、私は酷く驚いたものでした」
「そうでしたか」
 ボクにとってもその話は酷く意外で興味深いものだった。国守の言う上皇様とはつまり佐為殿が仕えていた帝のこと。帝は、佐為殿を憎んだから彼を助けなかったはず。しかし、佐為殿の死後、何か帝のお心を変えたものがあったのだろうか。もし、佐為殿への想いが再び、憎しみから愛情へ転化していたとしたら、きっとその過程で酷くお苦しみになったに違いない。帝は佐為殿の死後一年間を一体どんなお気持ちで過ごされたのだろう。ボクの瞑想は尽きそうにない。
 そしてボクは国守に言った。
「実はボクも佐為殿が使っていた碁盤、持っているのですよ」
「明殿も?」
「ええ、天童丸殿のものは亡き先帝のものですが、ボクのものは佐為殿が所有していたものです。佐為殿は簡単な遺書を屋敷に残していました。それにはこう書いてあったのです。
『家屋敷荘園は父上に返上のこと。一切の衣装家財道具金品等は召使い達で分けること。いくつかある碁盤と碁石に関しては、欲しいという者があれば、譲り渡すこと』
 それでボクは、佐為殿が最も良く使っていたという碁盤と碁石を譲り受けました」
「そうでしたか。佐為はそんな遺書を」
「本来、近衛が生きていたら、すべて彼に遺していたところでしょうが・・・」
「検非違使の光のことですね・・・。彼のことも懐かしい。そう、彼は佐為にとってそんな存在でしたね。弟子であり、子どもであり、・・・おかしな話ですが、どこか伴侶のようでもあり・・・・佐為にとって、光以上に心を掛けた存在は居なかったのではないでしょうか。子ども心にもよく分かりましたからね。彼がどんなに光を愛していたか」
 ボクは国守の鋭い言葉に内心で頷いていた。そう、そういう存在だった。だからこそ、帝は最後の最後まで近衛を許せなかったし、佐為殿を憎んだのだ。あの二人の間に割って入ることなど出来ない、そのことを帝は最後まで認めることが出来なかった。いや、認めたが故に、最後にはご自分の想いが破綻し、佐為殿を憎んだのか? 近衛に向けた以上の愛を、帝に返すことの無かった佐為殿を・・・。・・・分からない。人の心は分からない。
 そして佐為殿・・・。あなたはボクにとって何だったのだろう。味方だったのか、(かたき)だったのか、・・・それともそんな一辺倒な感情では済まされない・・・ああ何か深いえにしが・・・。 今でも、ええ信じていますよ、佐為殿。証明なんて無くていい。ボクの胸の中にこの想いはあるから・・・。

「私は光が亡くなったことを知らなかったんです。まさか、佐為よりも一年も早くに亡くなっていたなんて・・・。知った時には愕然としました。一度に大好きだった二人を失ったようなものでしたからね」
 備後国守はしみじみとそう言った。
「正直安堵しました。まだこうして彼らのことをしっかりと記憶に留めておられる方が居る・・・。ボクは大内裏中を歩き回って、各省の知人に頼み込み、文書を調べて回りました。驚くべきことに、佐為殿の名が差し替えられ、あるいは消され、何処にも見あたらないのです」
「ああ・・・それは本当だったのですね。亡き父がそんなことを漏らしていたのを憶えています。父が携わった棋書も一体何処に行ってしまったのかと・・・」
「でも、まだこうして人の記憶には残っている。彼らは確かに居たと」
「ええ、居ましたとも。実在した人物の痕跡を完全に消すなんて無理な話です。誰かが日記に書き残しているかもしれない。交わした文だってあるでしょう。私が彼のことを書くことだって可能なんです。・・・ああ、あるいは佐為はもう生まれ変わって何処かで碁を打っているかもしれない。彼はしつこかったですからね」
 そう言うと、備後国守は笑った。
「きっと、きっと、いつか巡り逢える・・・。信じています、信じていますよ。ええ、本当にきっとね」
 国守が空へ向けた明るい眼差しに、ボクは不思議と明るい気持ちになった。
 本当にいつか、キミにまた巡り逢えるかもしれない。全く根拠のない望みなのに、ボクにも天童丸殿の明るさが伝染したのか。ともかく、この瀬戸内の明るく穏やかな海と空は、何か未来へ向かう力をボクに与えてくれる。

 また逢える。
 きっと逢えるよ。
 千年なんてほんの一瞬さ。
 嘆くことはないよ。
 さぁ、前を向いて今を歩いていってご覧。
 そうしたらまたきっと逢えるよ。今、こうしてえにしを結んだのだから・・・・・。

 どこかで近衛がそう囁いている気がした。いや・・・・、ただの波音だったのかもしれない。 
 
    

 終章四へつづく

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